―43― 何も考えられない状態で母たちから逃げてきてしまったけれど。 「護先生…」 温かい護と接した事で、雪也は随分と平静を取り戻す事ができていた。 雪也はベッドから立ち上がるとカップを返し、目の前の護を見やった。 「俺…帰ります」 「淦へ?」 「はい」 「送って行く?」 「………」 黙って首を横に振ると、護は一瞬何事か言いた気な顔を見せたものの、一拍後に「分かった」とだけ答えた。「涼一と一緒には行かない」と言ったきり、その理由を話そうとしない雪也を追及しなかった護。雪也にはそれがとてもありがたかった。 母は21時になったら「淦」へ行くと言っていた。だから雪也はそれまでに母ともう一度会い、涼一にバカな事は言わないでくれと頼まなければならなかった。あの母が自分の言う事を素直に聞いてくれるとは到底思えないが、しかしこれだけは絶対に阻止しなければならないと思った。 悲しんでいる場合ではないのだ。言わなければ。 「俺、帰りますから…」 雪也はもう一度護にそう言った。自分自身に確認する為に口に出したと言ってもいい。 おぼつかない足取りながらも部屋を出て玄関のドアのある方へ向かった。背中に護の心配そうな視線が刺さったのが分かったが、敢えて気づかないフリをした。この人にはこの街へ来た時、十分過ぎる程に助けてもらったのだ。これ以上甘える事はできない。 しかし雪也がもう一度護に礼を言って去ろうとしたその時だった。 バタンッ、と。 「……ッ!?」 突然物凄い勢いで入口のドアが開き、雪也は驚いて反射的に身体を仰け反らせた。 「雪…!」 「えっ…!?」 護の家のドアを呼び鈴を押す事もなく乱暴に押し開いたのは涼一だった。 「りょ…」 「雪っ!!」 あまりに急な事に雪也が声も出せずにいると、涼一はここまで走って来たのだろうか、荒く息を継ぎながら、じっと鋭い眼光を叩きつけてきた。 雪也はその迫力に更に一歩身体を後退させた。 「涼一君。どうしたんだ」 ただならぬ空気にそう言い間に入ったきたのは、雪也同様驚きで暫し声を出せなかった護だった。 雪也を庇うようにさっと前へ出てきた護は、自分をキッとした視線で睨みつけてくる涼一に対し柔和な笑みを向けると、肩を竦め言った。 「よくここが分かったね」 「病院で聞いた」 「それでここまで走って来たのか?」 「悪いか」 「悪くはないよ。けど、いきなり入ってきたら、そりゃ驚くだろ」 「焦るような事してたわけか?」 「何言ってるんだ、俺たちは…」 「雪」 声を出そうとする護を無理に押し退け、涼一はツカツカと家の中へ入ってくると一直線にその場で固まっている雪也に近づいてきた。そうして痛いくらいにその肩口を掴むと、依然としてギラついた視線と共に雪也の事を見据えて言った。 「帰ったらお前が出てったきり戻らないって言うから、絶対ここだと思った」 「りょ…いち」 「つまりはそういう事かよ?」 「何が…?」 涼一の言葉の意味が分からなくて雪也は聞き返した。 涼一はすぐに答えた。 「あんなにホテルから出たがらなかったくせに、俺がいない時になってさっといなくなったと思えば、案の上護のとこだ。結局お前が俺と一緒に行くと決断しきれなかったのは、こういう事かって訊いているんだ」 「何を、俺は…」 涼一の怒っている訳がようやく分かって雪也はさっと青褪めた。 違う。自分がホテルを飛び出たのは護に会いに来たわけではなくて――。 「雪。あの男に会いたくないから外に出たくないってのは口実だったってわけか? 結局、ここから離れたくなかったから何だかんだ言って留まってたのか? そうなのか。答えろ、雪!」 「い…痛…っ!」 よりきつく肩を掴まれて雪也は顔をしかめた。涼一の怒りが雪也にはただ痛く悲しかった。 「ちょっと落ち着けよ涼一君。そんなんじゃない」 見かねて護が口を挟んだが、この時の涼一にそんな声が聞き届けられるわけもなかった。 「何が違うんだ、あんたは黙っててくれ! 俺は雪に聞いてるんだ!」 涼一はガンと激しくそう言い放って、再び雪也の肩をぎりと物凄い力で掴んだ。 「……っ!」 降りかかる怒りの声と肩口にかかる力に雪也は思わず身震いした。何とか誤解を解きたい。涼一にこんな苦しそうな顔をさせたくないのに。 「………」 けれど雪也は、一方でふと思った。 誤解されたままの方がいいのではないだろうか。 「涼一……」 そう思った瞬間、雪也は自分の口から自分のものではないような声を聞いた。 そして言っていた。 「俺…涼一とは…行かない…」 「な……」 涼一の手がぴくりとその言葉に反応した。雪也は思わず俯いたが、声は尚も出した。 「涼一とは一緒に…行かない、から…」 「……何、言ってんだ……」 「俺、ここにいる……」 「雪!?」 これにはさすがに護も声を上げた。けれど雪也は無理にそんな護の声を掻き消すようにして更に声を大にすると言った。 はっきり言わなければ。そうしなければ涼一も信じてくれないだろうから。自分がこんなに饒舌になれるとは、雪也はこの時まで自身で知らなかった。 「行きたくないんだ。涼一とは一緒に。俺はここにいたいから、ここに残るよ。涼一とは…行かない」 「それが…お前の答えか…」 「うん」 涼一の声に雪也はすぐに頷いた。すぐに反応しなければと、殆ど条件反射で首を縦に振っていた。 「くっ…!」 「いっ…!?」 するとそうした途端、今度は激しく身体全体を押されて壁に背中と頭をぶつけられた。 「涼一君っ」 護が抗議の声をあげたが、涼一はまるで聞いた風な様子はなかった。目を瞑る雪也に向かって殺気立った視線を向け、首を締め付けるように肩肘で喉元を押さえつけて壁に身体を擦りつけさせる。 「ひッ…ぅ…」 苦しさで声を漏らす雪也には構わず、涼一は低く抑えたような声で言った。 「言ってくれたな雪也…。お前…よくもそん―!」 しかし涼一は激しく罵倒しかけたその言葉をはっとして飲み込み、やがてひどくショックを受けたような顔で雪也の事をじっと見やった。 不意に掛けられていた力が緩んだ。 「……?」 それを不審に思い雪也がうっすらと目を開くと、黙り込んでいる涼一の視線はこちらには向いておらず、それは自分の首筋にいっているのだと分かった。 「りょ…?」 「信じらんねえ…」 「え……」 「俺のこと好きって言っただろ…」 「涼、一…?」 「なのにやっぱり護がいいからって、護にもうこんな風にキスさせんのかお前…! そんな風にあからさまに痕つけさせて…!」 「え……」 言われた瞬間、さっと血の気が引いた。 思わず見られていた首筋に手をやると、同時に涼一が完全にすっと自分から離れたのが分かった。 「りょ……」 「お前がそんな奴だなんて思わなかった」 「………」 何も言えなかった。 ただ雪也はあの時水嶋によって無理につけられた「刻印」を涼一から隠す為、ただ黙ってそこを抑え続けた。涼一に何を言われても返す言葉がない。けれどこの痕を涼一に見られたのは堪らなかった。今更だけれど、隠したかった。 「……見損なった」 涼一が言った。そして雪也に背中を向ける。 「………」 呼び止めたかったけれど、片手で抑えた場所が唇のようだ。言葉を封じられたように雪也は自分から去っていく涼一に対し声を出せなかった。 「邪魔したな」 涼一はそれだけを言うと護の家を辞して行った。 「雪……」 護が眉間に皺を寄せたまま静かに呼ぶ。雪也は答えられなかった。 涼一に嫌われた。それでいい。これで涼一は自分を避け、間もなくあのホテルを後にするだろう。この街からも出て行って、涼一に似合った元の明るい世界へと戻って行く事だろう。 それでいいのだ。 「雪……」 もう一度護の呼ぶ声が聞こえて雪也は今度は反応して顔を上げた。 「あ…?」 刹那、頬を伝う何かに雪也は気づいた。 「涙…」 ああ涼一に軽蔑されるのはこんなに悲しいことなのかと雪也は思った。 |
To be continued… |
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