―44―



淦まで送ると何度も言う護を半ば強引に振り切って、雪也は表通りに電話ボックスの姿を見つけると、未だ赤い目を瞬かせながらその中へと滑り込んだ。
狭いガラス張りの箱の中には銀色の電話器が1つ。
軽く息を弾ませながら雪也はそれをじっと見つめた。
自分を置いて行ってしまった涼一を思うと雪也の胸はただじくじくと痛んだ。悲しそうな瞳を向ける護の視線も辛かった。
「………」
けれど雪也はその思いを無理に振り払うと、ボックスの中に置いてあった小汚い電話帳のページを無心で手繰った。持ち合わせなら少しはある。ズボンのポケットから取り出した数枚の硬貨を電話器の上に置き、目的の番号を探し当てた後、雪也は受話器を手に取った。
ホテルの従業員1人を介した後、その男の声はすぐに返ってきた。
『……雪也? 今何処にいるんだ?』
随分と落ち着いた様子に思えた。先刻あれほど激昂していた男のものとは思えない。
それでも雪也にとってはこの男の声を聞くという行為それ自体が拷問に近い。ぐっと目を瞑りながら、雪也は努めて平静な声で受話器向こうの人間に声を発した。
「母さんの…。連絡先、教えて下さい」
『美奈子の? どうして?』
「……教えて下さい」
『……今夜ホテルに行くと言っていただろう。別に、待っていたら会えるじゃないか。何をわざわざ言う事があるんだ?』
「教えて下さい…」
余計な会話は交わしたくない。いいから早く言ってくれ。
そんな思いでじりじりとしながら、雪也は辛抱強く電話向こうでため息をついているらしい水嶋の返答を待った。水嶋は酒を煽っているのだろう、時々喉の鳴る音とグラスを傾ける音がカランと受話器越しに聞こえた。
暫くの間を置いて水嶋は言った。
『なあ雪也…。俺と来いよ?』
雪也の返答などハナから期待していないのだろう、水嶋は続けた。
『あの涼一?って坊やか? さっき美奈子からも聞いたが、確かに金と権力は凄いようだな。剣財閥っていやあ、俺だってよく知っている。でかすぎて商売相手にもなりゃあしないが、最近じゃ、宇宙ロケットの開発にも大金注いでるって? 夢があっていいねえ』
「………」
『しかし、考えてもみろ。その金持ち坊ちゃんの一時の気の迷いに乗じてそいつの懐へ転がりこんだとしてもだぞ? 向こうさんとしちゃ、大事な跡取りに男の恋人、しかもその恋人には困った男好きの母親まで付いているとあっちゃあ、そんなもん連れてこられても迷惑なだけだ。すぐに追い出されるぞ』
「……母さんの…居場所を…」
『その点で言えば、俺は雪也、お前だけでなく、お前さんの大好きなママの事だってよおく知っている。美奈子の性格なら嫌ってほど知り尽くしているんだ。お前が望むなら、あのママの面倒だって見てやれるんだよ、俺は。愛するお前の為だもんな。お前、あの坊ちゃんに金でママを一時的に追い払ってもらっても、後が心配だろう? どうなんだ? その点、俺の所に来れば―』
『ちょっとお』
「!?」
その時、ぺらぺらと喋っていた水嶋のすぐ傍で、そんな甘ったるい声が聞こえた。
雪也ははっとして目を見開いた。
『誰と話しているのよう。あんた、ナニした後すぐに電話って一番女に嫌われるわよ?』
『ああ、悪い悪い』
水嶋はニヤニヤとした笑いを浮かべながら猫なで声の美奈子に自分も優しげな口調で返した。
そうしてわざとだろうか、寄り添ってきたらしい美奈子を胸の位置で抱きしめてやりながら、電話口で固まっている雪也に向かって言った。
『分かっただろう? 俺はな、お前たち母子を愛してやれるんだよ。あの坊ちゃんには無理だろ?』
『…はあ? なーによ、雪也?』
水嶋の言葉でようやく相手を察したのだろう。美奈子の声は途端不機嫌なものになった。
『ちょっと雪也』
そうして美奈子は水嶋から電話を奪うと、キンとした厳しい口調で雪也に冷たい言葉を投げつけた。
『アンタ、何電話なんかしてきてるの? この男は嫌いじゃないの? それとも涼一君にお金の事断られて、こっちにお願い電話?』
「何を…母さん…」
『しっかり説得なさいよ。それが親孝行ってもんよ』
『おいおい、俺との約束はどうなったんだよ?』
美奈子の台詞に今度は横から水嶋が不満めいた声をあげる。どうやら雪也を渡す条件でベッドを共にしていたらしい。美奈子は「いいじゃない、アンタにはアタシがいるんだから」とか何とか言いながら、派手な音のするキスを水嶋に与えてやっていた。
雪也の胸はそれで瞬時に悪くなった。
『あ、それでね。あんたの所に行くのはやっぱり明日の朝にするわ。今夜は忙しいから』
『おい美奈子…。聞いているのか、雪也は俺に…』
『分かった分かったわよ。いい? 聞いてる雪也? アタシは明日の朝アンタの所のホテルに行くから。涼一君からイエスかノーかの答えを貰っておくのよ。駄目だったらアンタは水嶋の物よ?』
「………」
もう何を言っても無駄に思えた。
力なく受話器を落とし、雪也は半ば絶望的な思いで母と水嶋の声を殆ど無意識に断ち切った。
自分が去った直後に、それぞれの欲求の為身体を重ねただろう2人の事が忌まわしかった。
吐き気がする。
何だかんだと、母は付き合ってきた男たちの中では水嶋の事が特別だったのかもしれない。そんな気がした。いや、この際そんな事はどうでもいいが、その母の気持ちを利用して今更母を抱いた水嶋、そしてその事に気づきつつもあの男に寄り添い甘い声を出した母を、雪也は許せないと思った。
自分にはあんなに冷たい声で接してくるくせに。
「………」
よろよろと歩きながら、雪也はぼんやりとあの時の怒りに満ちた涼一の顔を思い浮かべていた。
涼一はもう決して自分を許さない。そしてもうすぐ去っていく。その事が悲し過ぎた。
けれど、ともかくはあの母が今夜ホテルに来ないと言ったのは好都合だと思った。
涼一を母の美奈子に会わせずに済む。これ以上涼一に余計な迷惑を掛けずに済む。
その事だけが今は救いだった。





ホテル「淦」に帰り着いた時はもうすっかり日が暮れていたが、中はバタバタと大変な騒ぎになっていた。
「ああっ。雪也さん、お帰りなさい!!」
カウンターのある店内に入ってすぐ、入口の所でオロオロとしていた那智は帰ってきた雪也を見つけると心底ほっとしたような笑顔を向けた。額にかいている汗を拭いもせず、那智はただ店と二階へ続くホールの間を行ったり来たりしていたようだ。
雪也がただ困惑して沈黙していると那智は迫るような勢いで言った。
「何があったのか分からないのですが、剣さんがとても怒ってらっしゃって、オーナーとまた大喧嘩してしまったのです…っ。それで、今は部屋で創が説得していると思うんですけど、何やら剣さんはもうここにはいたくない、出て行くと言って…!」
「………」
「この街からも明日の朝一番の飛行機で発ってしまうと仰るんですよ? チケットは明日の朝のものじゃないらしいのに…。もう何が何やら…。オーナーは怒鳴り過ぎて疲れたのか今は部屋にこもってるんですけど…。うさぎちゃんも妙に興奮してお部屋の中でばたばたしてるし…私もばたばたしてたんですが…。ああ、それはつまり落ち着かなくて…っ」
「……那智さん」
「だって、明日の朝行ってしまうって事は、雪也さんも明日にはこのホテル…いえ、この街からいなくなってしまうのですよね? いえ、もう今夜中にこのホテルからは出て行ってしまわれるんですよね? まだ私たち、お別れ会もしていないのに…。あ、お別れ会をしようって創たちと話し合っていたんですよ? もうずっと会えないわけじゃないですけど、雪也さんが剣さんの国に行ってしまわれたら、もう当分お会いできないですものね。それで…」
「那智さん」
せかせかと話し続ける那智をもう一度呼んで、雪也は俯きながら何とか声を振り絞った。
この二階に涼一がいる。でも、もうすぐ出て行くんだ。
それを考えるとやっぱり胸が苦しかった。
「那智さん…。俺は、行かないから…」
「え? それはどういう…?」
「行くのは…涼一だけだから…」
雪也のその台詞に那智はきょとんとして何度か眼鏡の奥の目を瞬かせた。
その様子を視界の隅に捉えながら雪也は無理に笑ってみせた。
そしてもう一度言った。自分自身に確認するように。
「俺は涼一とは一緒に行かないから…」
耳が痛い。
自分で発した声が痛いだなんて何て不思議なんだと、雪也は頭の隅でちらと思った。



To be continued…


4345