―45― 「剣君? 剣君なら、随分と血走った目でカバンに服やら何やらを必死に詰め込んでいるよ」 「は、創…!? 剣さんを説得していたんじゃなかったの!?」 「説得…? 別に。俺は、どうしてまた急にそんな事を言い出したのかと訊きに行っただけ」 「バカ!!」 階段を上ってすぐの所に立っていた創に那智は顔を真っ赤にさせて力の限り叫んだ。後をついて2階に上がった雪也はそんな那智の震える背中に目を見張った。何せ那智が誰かに声を上げる事など、これまで1度として見た事がなかったから。 「姉さん」 しかし創の方は至って冷静な顔をしている。眼鏡の縁を軽く指で上げてから怒り心頭の従姉に淡々とした口調で言った。 「バカは酷いな。出て行くと言っている人間を引き止める権利なんて誰にもないだろ。ましてや、剣君がここを経つ事は数日前から知っていた事なんだし」 「で、でもっ。こんなお別れ本当に急だし…! それに雪也さんは一緒に行かないって」 「……そのようだね」 この時になって創はようやっと那智の背後に立つ雪也の方へ視線を向けた。 「……っ」 階段の手すりに掴まったまま所在ない様子でそこにいた雪也は、創のその静かな瞳に戸惑った。 黙って見返すのが精一杯だ。 「創、驚かないの? 雪也さんが剣さんと…」 すると那智が訊かずにはおれないという風になって口を開いた。こんな風に口数の多い那智もまた初めてだ。 そんな従姉に創はすぐに頷くと言った。 「ああ聞いたよ、剣君から。雪也君は一緒に行かないって。……つまりはそれが原因だろう、彼が怒っているのは」 「え…。ああ…」 創に言われて那智も今更に気づいたようだ。 涼一がいきなり「このホテルを出て行く」と言った理由。わざわざ予約してきた飛行機のチケットは明日のものではないのに、もうその明日自分の国へ帰ると言った理由。 そう、雪也が「涼一とは行かない」と決めたから。 「ほ、本当なのですか、雪也さん…。先ほど仰られていたこと…」 「……うん」 那智に再度問われて、雪也は一瞬は言い淀んだもののはっきりと返答した。 息を吐き出すだけで痛みを感じる。 ましてや、「一緒に行かない」という選択を口にする事は。 「まあ、雪也君がそう決めた事なら」 「創!」 「……と、言いたいところだけど」 素っ気無い台詞を吐きかけた創は、しかし怒鳴りちらそうとした那智を振りきるようにしてかぶりを振った。 そうして那智を脇へ追いやるようにして自分が雪也の前に立つと言った。 「君は俺の例外だから。お節介を焼かせてもらう」 「え……」 「こっちへおいで」 「は、創…?」 言われたと思った瞬間、もう手を引かれて雪也は創の部屋へ連れて行かれてしまった。入れ替わるように中にいたうさぎが飛び出て行ったが、うさぎは雪也をひと睨みした後、何を言うでもなく階下へ駆け下りて行ってしまった。 「あいつも久々に怒っているね。那智姉さんと同じだ」 「………」 部屋の入口に立ったまま、雪也は去って行ったうさぎを追うように視線をドアへやった。背中に創の視線を感じる。またじわりと痛みが広がった。 「……創」 「かけなよ雪也君。少し話そう」 先に部屋の中央に進んだ創は言いながら雪也に椅子を勧め、自分は腕組をして窓際に立った。 「………」 相手が立っているのに座る気もしなくて、雪也は暫くそのまま茫然と立ち尽くしていた。しかし、どうやら創は雪也が座らなければ話をする気がないらしい。黙ったまま腕組をして口を閉じている創に、雪也はとうとう観念した。 おとなしく言われるまま椅子に近づく。 「剣君のことだけど」 案の定、雪也が腰をおろした瞬間、創は話し始めた。 「頭に血が上っていると言っても、少し考えれば分かりそうなものだよな」 「え…?」 問い返すと創は不審な顔をして自分を見ている雪也ににこりと微笑んできた。 窓に差し込む月の光で創の笑顔はよく見えた。 それはとても優しい微笑みだった。 「剣君が言っていたんだ。君が護さんを選んだって。突然自分とは帰らないと言い出したって」 「そ…そう、だよ…」 「だからそれがヘンだと言うんだよ」 雪也の嘘をすっぱりと切り捨てて創は言った。ふいと視線を窓の外へ移してしまう。もしかすると創も怒っているのかもしれなかった。 「俺は剣君がいつここを出て行こうがどうしようが基本的にはどうでもいいよ。でもね…。ああ、彼にはオーナーが随分と怒ったから、俺の言う台詞はなくなっちゃったけど。でも、どう考えても変だろう、君が突然剣君に何も言わずに護さんと一緒にいると決めるなんて」 「へ、変な事はないよ…。俺は涼一とは一緒に行かない…」 「……いつ決めたの。それ」 「ま、前からだよ…。前から…」 「前から、ね」 どもる雪也に創は容赦なかった。窓際に立ったまま、まるで罪人に詰問する刑事のように口を継ぐ。 「前っていつ。剣君を受け入れてからまだそんなに日も経っていないけど、心変わりしたとしたら、とりあえずはその間のどこかでという事になるよね。よく考えたらやっぱり護さんの方が好きだって思った?」 「そ、そうだよ…」 「いざこのホテルを、この国から離れるんだって思ったら、やっぱり護さんが恋しくなった?」 「そうだよ…」 「剣君とは一緒にいたくないって?」 「そうだよ!」 矢継ぎ早に問われて雪也も自然声が荒くなった。苦しいのは嘘をついている自分が悪いのだ。それでも、こんな風に自分を追い詰めるように質問する創こそを、雪也はこの時腹立たしく思ってしまった。 自分の事を心配して言ってくれているからこそと分かっていたが、それでももう耐えられなかった。 相手を騙し、そして自分を誤魔化し続けるのはとても辛い事だった。 「それならそれでもいい」 その時、俯き唇を噛み締めている雪也に創が言った。ふと顔を上げると、いつの間にか創は雪也のすぐ傍でその顔を覗きこむように身体を屈めてきていた。 「創…?」 「君が彼と行かないと決めたのなら、それでもいい。護さんを選んだというのなら、それもいいかもしれないね。でも、それじゃあ、あとひとつだけ訊いてもいいかい」 「………」 「これ…誰にやられた?」 「!」 すっと首筋を撫でられたと思った瞬間、シャツの襟元を指で開かれて雪也は目を見開いた。 創の手はそのまま暗に涼一も気づいたあの「痕」を指し示していた。 「これ…は…」 「それに…これ」 「え…?」 そして創は雪也が答える前に、今度は自らの片手を雪也の口元へもっていった。 「……?」 雪也が何の事か分からずにいると、創はひどく陰の篭った声で静かに言った。 「護さんが君を殴るわけないだろう」 「!!」 「確かに薄いね、殴られた跡の方は。剣君は君が護さんといる所を目撃して頭に血が上っていただろうから、気づかなかったんだろう。そうでなきゃ、あんな風に自棄になって暴れるわけがない。…まったくさっきは見ていられなかったよ」 「は、創…」 雪也の呼びかけを創は無視した。 「誰にやられたんだ」 「……っ」 その厳しい口調は雪也の身体をびくんと震わせたが、勿論そんな創を怖いとは雪也は思わなかった。 むしろ、そう、とても温かいのだ。創はそういう人だから。 「雪也君」 すると、考え込むように再び下を向いた雪也に創が言った。 「……訊くのは意地悪かもしれないね。相手は大体予想がつくから」 「え…」 「でもね」 創の言い聞かせるような声はやはり優しいと雪也は思った。雪也は自分に向かってゆっくりと口を開く創をただじっと見つめた。 「でも、君は言わなくちゃ」 「………」 「雪也君、君は勘違いしてるよ。強くなるっていうのは、1人で何でも解決できるようになる事じゃないよ。君は助けを求めていいんだよ」 「創……」 「本当は剣君に言いたかったんだろ。いいのかい、本当に。彼を行かせても?」 「………」 創の目は真剣だった。 いつもどこかで冷めた眼をしている。何でもよく気がついて、何でもよく知っている創だったけれど、彼は何にも執着せず、何にも関わらないようにしている節があった。どこかで他人を遠ざけていた。 それなのに、今はこうして必死に語りかけてくれている。雪也の胸は一気に熱くなった。 でも。 「でも……俺のせいで、涼一…」 「……雪也君」 「だってっ…。俺のせいで、涼一に、涼一…」 きっと迷惑が。 「――……」 しかしその言葉を口の端にのせようとして、雪也は見事に失敗してしまった。 母の美奈子に涼一にはせいぜい媚を売って助けを求めろと言われた時、心底嫌悪を覚えた。そんな事は絶対にしてはいけない事だと思った。涼一が好きだからこそ、絶対に。 「雪也君」 けれどそんな雪也の意を読み取ったように創が言った。 「彼が本当に好きなら、言うべきだよ。だって君は」 そして創はもう一度、改めて雪也の頬をゆっくりと撫でると言った。 「君は、こんな風に泣いていい人じゃないから」 「……っ」 そう言われた瞬間、泣きたくはないのに雪也は声を殺したまま涙を落としていた。 「…ぅ…ッ」 この部屋の隣には涼一がいる。まだいてくれる。自分に対してもう完全に愛想を尽かせていて、軽蔑していて、失望していて。 「涼一、に……」 それでもこんなに会いたいと思っている自分は、今更何と未練がましい奴なのだろうか。 |
To be continued… |
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