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部屋を出た瞬間、隣から物凄い破壊音がして雪也はびくりと肩を揺らした。
「ゆ、雪也さん…」
未だ階段の所に立ち尽くしていた那智が同じく怯えたような顔で雪也を見やった。何かを言いたいのに言えない、言って良いものかと躊躇している顔、そして。
心底心配している顔。
「創…」
「やっとさっき静まったと思ったのにね」
ドア付近に立つ雪也の背後から創が苦い笑いを閃かせながら言った。そして隣の部屋へ向けて、石の壁を拳でごつりと叩いた。
「たぶん君が帰ってきた事に気づいたんだよ。今、俺の部屋に2人でいた事もね」
「創…」
「でも会話は聞こえてないと思うから。だから」
だから言わなくちゃ。きちんと思っていることを。
「………」
創に暗にそう諭されて雪也は背中を押されるようにして一歩前へ進んだ。涙の跡を必死に拭い、涼一がいるだろう隣の部屋へと向かう。視界の隅に那智のオドオドした顔が映ったけれど、今はそちらに気を配る余裕はなかった。何も言わずに雪也は2号室の前に立った。
「……っ」
ごくりと唾を飲み込む。創に説得はされたものの、実際にこの部屋の前へ立つとやはり怖かった。お前は今更何だと言われるだろうし、第一自分の言っている事など信じてもらえないかもしれない。いや、それ以前に話など聞いてもらえないかもしれない。

『君のへたくそな嘘をいつまでも信じられるのなんか剣君だけだよ。それも国に帰って冷静になったらすぐに自分がした過ちに気がついて、それで逆に君の事を散々に怒鳴りちらすんだ。そんなのは嫌だろ』

先刻なかなか涙を止められなかった時に創が発した台詞。雪也を促す為の創なりの励まし方だ。雪也にはそれがとても嬉しく、ありがたかった。
拳を作ってドアを叩く。
ノックの音、しただろうか? 雪也は一瞬自らの動作を訝しんで手を宙に浮かしたまま困惑したようにその手を見つめた。
しかしそれを見たか見ないかのうちに、再び部屋で何かが激しく割れる音がした。
「……っ!?」
カップだろうか、花瓶だろうか。いずれにしろガラスの割れたその音は外にいた雪也にも容易に聞こえ、傍に控えていた那智や創もそれに反応したようになってじっと部屋の中の様子を伺っていた。
「……涼一」
雪也はそんな2人を見やった後改めてドアに向き直り、思い切ってそのノブを回した。
「あ!」
しかしドアを開いた瞬間、雪也は声をあげた。
「………」
やはりノックしていたのだ。涼一はそこにいた。
「りょ…」
「………」
声を出しかけて雪也は口をつぐんだ。涼一のあの怒りに満ちた眼は護の家で別れた時よりは幾らか下火になっていたが、それでもこちらを見下ろすそれはあまりに痛いものだった。
「……何見てんだよ」
「え」
「行けよ!」
涼一が叫んだのは雪也にではなかった。心配そうな瞳を向けて固唾を呑んでいる那智、そして冷静に事の次第を見守っている創に向けて発せられたものだったのだ。
それでもその大きな声はビリビリと雪也の耳をつんざいたのだが。
「す、すみません、剣さん!」
涼一の激昂に慌てて階下へ向かって行ったのは那智だ。創は暫くはその場を動かずにいたが、振り返った雪也と視線をあわせるとそのまま何も言わずに自分も階段を下りて行ってしまった。
「くそ…!」
苛立たし気に涼一はそう吐き捨て、それからくるりと背を向けると再び部屋の奥へ消えて行った。雪也に「お前も何処かへ行け」とは言わない。言わなかった。入ってもいいのだろうかと思いながら、雪也は暫し部屋の入口で中の様子を伺った。
「あ…!」
しかしその数秒後、雪也は床に落ちている赤い液体にはっとして顔を上げた。
「りょ、涼一…!?」
反射的に身体が動いて呼びかけながら部屋に入ると、案の定その先にはもっとたくさんの赤い血が床に四散していた。先ほど割れた音がした。ガラスの破片のせいだ。
「りょ…」
見るとベッドのすぐ傍、殆ど自棄の体でカバンに荷物を入れている涼一の右手から、ぼたぼたと鮮やかな色をした血が滴り落ちているのが視界に映った。
「涼一、血が…!」
「あ!?」
「血!」
「知るかよ!!」
怒り心頭で涼一は雪也に向かって怒鳴り散らした。雪也が何を言っているのかも分かっていないようだ。血相を変えて自分に近づく雪也を振り払うように涼一は持っていた服を思い切り振り上げ、そして投げつけた。
「あっ…!」
「近寄るな! このバカが!」
「涼一、でも怪我…」
罵倒されながらもまた一歩近づくと、足元でパキンという音が響いた。コップの破片を踏んでしまったらしい。よく見ると割れているのは一個や二個ではない。部屋全体も本やら服やらが辺りに散らばっていて、創が言っていた「さっきまで暴れていた」という涼一の様子が手に取るように見えた。
酷く辛い思いをさせたのだ。雪也は痛む胸を抑えながら必死に言った。
「ご、ごめん涼一…っ。でも、今、血…!」
「煩いってんだよ! 何なんだお前!」
「血…!」
涼一にバカと言われても仕方がないと思った。確かに今はバカのひとつ覚えのように同じ単語しか口から出てこない。それでも、こうしている今も尚ぽたぽたと指先から流れ落ちている涼一の出血が雪也は気になって仕方がなかった。
「こ、これで押さえ…」
ズボンのポケットを探るとハンカチがあった。すぐに取り出してそれを差し出した。勿論涼一には他に言わなければならない事がたくさんあるのだ。それは分かっていたが、今はもうそれどころではなかったのだ。
涼一の痛みが自分にも届いてくるようで。
「早く涼一…!」
「ふざけんな!!」
「……っ」
言われたと同時に肩を掴まれ、そのまま雪也は涼一によってベッドに押し倒されていた。
「りょ…」
「俺のことは…! お前は護を選んだんだろ!!」
「……っ」
「何でここにいんだよっ。何で俺に話しかけてんだよ! 何で…俺の事なんかどうだっていいんだよ! お前は…っ」
「涼一…」
「呼ぶな!!」
言い聞かせるように涼一はぐっと両肩を掴み、雪也の上に跨るとそのまま体重をかけてきた。それは首を絞められるかのような勢いで、実際鬼気迫る涼一の瞳には殺気が篭っていた。
「………」
何とか視線を横にずらし、そんな涼一の右手を見やる。自分のシャツが赤い血で染まって行く。涼一の出血はまだ止まらない。
雪也はじわりと涙を浮かべた。
「ご…ごめん…」
その手を掴んで雪也は言った。
「あんな事言って…ごめん…。ごめん、涼一…」
「………何謝ってんだ」
「何度でも…っ」
ひくっとしゃくりあげてしまい1度は言葉を消したものの、雪也は零れ落ちそうな涙をぐっと堪えて自分を見下ろす涼一を見返した。
「甘えたくなかった…。涼一に甘えて、迷惑、かけたくなかっ…」
「…………」
雪也の言葉の意味を探るように涼一は沈黙していた。怒りの色はまだ消えない。けれど蔑みの色はない。
あの時汚いものを見るかのような目で雪也を見た視線はもう。
「お願いだから…。まだ、血…止まらないよ…」
「……どうでもいい」
「手当て…してよ。そしたら話す…言いたい事が…」
「どうでもいいんだよ…!」
「あっ」
雪也の言葉を遮るように涼一はそのまま身体を沈めてきた。
「んっ…」
強引にかぶさってきたその口付けを雪也はそのまま受け止めた。
「んっ…ふ…!」
乱暴なそれに思わず眼を閉じたが、涼一に触れられた、それだけで身体が芯から熱くなったような気がした。
「りょうい…」
「…ッ」
興奮したのは涼一も同じようだった。ぎらついた視線を向けながら涼一は雪也の首筋をさらりと撫で、もう一度深い舐るような口付けを与えてきた。
「ん、んっ…」
「……雪」
そうして何度目かの口付けが終わった時、ようやっと涼一が落ち着いたような声を出した。名前を呼ばれた雪也はそれだけでどきりとした。
「雪…何で来た」
「涼一…」
「何で来たんだ…。お前の顔見たら、もう今度こそ…」
雪也の濡れた唇を指先でなぞりながら、涼一は苦しそうに呟いた。
「あいつら、散々好き勝手言いやがった…」
「え…」
問い返しながらも、創やオーナーを指しているのだろう事は雪也にもすぐ分かった。
雪也の上に圧し掛かったまま涼一はくぐもった声で続けた。
「裏切られたのは俺の方だってのに、あいつらお前をあそこに置いてきた俺をボロクソ言いやがったんだ。お前の事何も分かってない、お前がそういう事言うなら絶対に理由があったはずだって。それが分からないのかって…さ。何なんだよ、むかつく…!」
「涼一…」
「そんなの分かるわけないだろうが!? 俺はいつだって…不安だったんだ! いつ護にお前を取られるかって、俺はそればっかり気にしてた…! 俺のものになったって、お前が何か抱えて一人で考え込んでる度に俺は…!」
「………」
涼一の半ば叫びのようなその台詞に雪也は打ちのめされた。
必要な事を言わず思っている事を胸に秘め続けている事がどれだけ涼一を苦しめていたか、雪也はこの時初めて知った。気がついた。
自分の態度がこんな風に相手を傷つけていたなんて、今まで考えた事もなかったのだ。
「……ご、めん」
繰り返すばかりになってしまうけれど、雪也はまたそれだけ言った。そんな台詞が涼一を満足させられるわけはないともう知っているのに、それしか出てこなかった。
好きなのに、好きになれたのに、こんなに相手を傷つけてしまった。
「涼一」
だから雪也は意を決すると言った。
「話す…話したいから、だから…。許して欲しい…。行かないで…」
「ゆ……」
「行かないで欲しいんだ…。俺、俺は涼一のことが―」


涼一のことが好きだから。


囁くように雪也がやっとそれだけを告げると、涼一の動きは完全に止まった。
「………」
ゆっくりと上げられる顔。身体。涼一は自分に向かってそう言った雪也のことをじっと見つめ、そうして一気に表情を崩した。
「元から…」
そして涼一は言った。
「俺がお前を…置いていけるわけがないだろ…」
「……っ」
「置いて行くかよ…!」
搾り出すように発せられた涼一の言葉は、恐怖で張り詰めていた雪也の心をパリンと壊した。



To be continued…


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