―47―



「あ…ッ。涼一、ちょっ…待っ…!」
「何で」
この期に及んで自分の下から逃げようとする雪也に涼一は殊の外不機嫌な声を返した。
「ひっ…や…ん、んん…!」
「目、潤んでる。可愛い」
「りょ…ッ」
涼一は何度も雪也の唇を奪っては、間近でその愛しい顔をじっと見つめた。するともう一時もしないうちにまた堪らなくなって、もう一度とキスをした。
「ふ…んっ…」
「雪…」
「あっ…」
うっとりと呟いた後、涼一は雪也に満足な呼吸もさせずまた唇を塞いだ。
涼一は雪也の顔が好きだった。
初めて出会った時、涼一は雪也の姿を見ても何の感想も抱かなかった。涼一は特別面食いというわけではなかったが、それでもぱっと人目を引くような所謂「美形」には人並程度に反応するし、好きだと思っていた。けれど雪也の第一印象は、正直そう思える程の「好きな顔」ではなかった。本当に普通だ。いや、どちらかといえばウジウジとした、如何にも相手の顔色を伺っているような怯えた目にはイラつきすらした。
それが今はどうだろう。雪也の表情も仕草もどれを取っても好きだし、どこもかしこも綺麗に見えた。
「りょ…いちっ。傷…! 傷の手当て、しなきゃ…!」
「は? ……いいよそんなもん」
「で、でもっ…。話もっ…」
「後で聞く」
もぞもぞと小さい抵抗を繰り返す雪也をもどかしく思いながら、それでも涼一は嬉しかった。
まさかという気持ちと、けれど確信の気持ちで護の家へ行った時。本当にそこに雪也がいた時は、真面目に気が狂うかと思った。しかも雪也は自分とは一緒に行かない、ここに残ると言った。それはほんの数時間前の話だった。
腹の底に眠っていた何か黒いものが身体中を一気に駆け上ったのを感じた。勢い任せて雪也を置いて行った後、色々な物に当り散らしながらも、しかし頭の中で必死に考えていた事は創やオーナー達に叩き付けた言葉とはまるきり逆の事だった。口ではもうこのホテルを出る、こんな国には一秒だっていられない、雪也の事などもう知るかと言っておいて、けれど頭の中は正反対だったのだ。
涼一はどうやって雪也のことを連れ去るか、その事ばかり考えていた。
どんな理由があるにしろあんな事を言った雪也を決して許せない、思い切り殴りつけてやれば良かったと思う一方で、涼一は誰にも見つからずに雪也を攫っていく方法ばかり考えていた。雪也の気持ちなどこの際もうどうでも良かった。拘束して閉じ込めて、二度と逃げられないようにしてしまえばいい。二度と逆らえないようにしてやる。
自分にはそうする権利があるのだからと。
「涼一、涼一…っ。でも、深過ぎるよ、傷…!」
「………」
愛撫に声をあげたいのを堪えながら雪也はまだ言っていた。それで涼一もさすがにちらと傷口を見たら、成る程確かにズキリとした痛みが伝わってきた。
「でも実は…後ろめたさからの痛みだったりしてな…」
「え…?」
「何でもない」
「……っ!」
振りきるようにそう言って、涼一は再び雪也の服の中に手を差し入れた。もう片方の、傷ついた手でジッとズボンのジッパーを引き下ろすと雪也の身体がぴくんとそれに反応した。
それだけで涼一は興奮した。
「涼一…りょ…」
必死に自分のことを呼ぶ雪也の声も好きだ。この白い肌も好きだし、勿論敏感な身体も―。
「……――ッ!」
しかしそうやって雪也の身体に溺れかけた瞬間、涼一は改めて見てしまった。
雪也の首筋についた薄っすらと浮かぶ赤い跡。
「……くそっ」
「え……?」
思わず舌打ちした涼一に雪也が途端不安そうな目を向けた。すぐに何でもないと返すはずだったのに、涼一はその雪也の跡を自らかき消すように、あからさまな様子できつく唇を当てた。
「……っ」
瞬時、雪也も涼一の訴えたい事が分かったようだった。ギクリとしたその態度にまた押さえ込んだと思った胸の疼きを覚えて涼一はつい言ってしまった。
「誰のでもいいけど、とりあえずこれ消したいから」
「………」
「だから手当ても話もその後でいいだろ」
自棄で吐いた言葉だったから、その時涼一は雪也の顔は見ていなかった。涼一が見ていたのは下着ごとズボンを引き抜いて剥き出しになった雪也の白い足だけで―。
「ゆ……」
けれど顔を上げた瞬間、瞬く間に涼一は後悔した。
「ゆ、雪…」
「ごめ…」
「あっ! ち、違う、悪い、俺…!!」
先刻瞳を潤ませていたのとはまた違う意味で泣きそうになっている雪也を前に、涼一は一気に良心が痛んだ。
こんな気持ちは初めてだった。
昔から家のしきたりを守る限りは何でも自分の好い様にさせてもらえていたから、涼一は基本的に我がままで自分勝手な人間だった。どんな事も大抵器用にこなせてしまう為に周りは持ち上げるし、多少の身勝手にも目を瞑ってくれる。楽勝だった。
だからその楽勝な人生の中で、涼一は相手の顔色を伺うなどという面倒な事とは無縁であるはずだったのだ。これから先も、ずっと。
それが自分の一言で傷ついている雪也の顔を見たら。
「ごめんな雪…ごめん…!」
「ちが…悪いの、は…。…っ…」
「ゆ、雪っ、泣くなよっ」
こんな悲しい顔ひとつでオロオロしてしまう自分は、本当にあの時あのまま雪也と別れたとして、本気で強引に攫うなどという真似が出来たのだろうか?
「涙、拭こう…っ?」
らしくもなくあたふたとして、涼一は混乱する思考を必死に元に戻そうと努力しながら手の甲で雪也の頬を伝った涙を乱暴に拭った。ああ、違う。もっと優しく拭ってやればいいのに、何をやっているのだろう。でも早く泣き止んで欲しい。
ぐるぐるぐるぐるとつまらない思いが頭を駆け巡った。
そして。
「わっ…」
その感触に驚いたのだろうか、雪也が小さく声を出して目をつむった。
「やば…っ。血が!」
涼一自身も慌てた。先ほどから出血していた方の手で拭ってしまったせいだ。雪也の頬が見事に血の色に染まった。ぬるりとしたその感触に自身ですら気味の悪いものを感じて涼一は余計に焦った。
「ごめ…! タ、タオル、タオルとかないっけ…?」
ベッドの上でそれでも未だ雪也を拘束したまま、涼一はあたふたと辺りを意味もなく見回した。折角大好きな雪也の顔なのに、自分の血などで汚してしまった。
早く綺麗にしてやらないと。
「……っ」
「ゆ、雪?」
けれどそんな涼一の下から不意に聞こえてきたのは、悲しく切ない泣き声などではなかった。
「は…っ」
「え……」
驚きながら視線を下ろした。するとその先にいた雪也が控え目ながらもクスクスと楽しそうな笑いを零しているのが目に入った。
「雪…?」
訳が分からずに涼一がぽかんとしていると雪也はようやく笑いをおさめてじっと視線を向けてきた。
それだけで涼一がどきりとしてしまう事など知らずに。
その雪也が言った。
「だって…涼一があんまり慌てた顔してるから…」
「……そりゃするよ。だって雪、驚いただろ…」
「うん…」
「………」
「先に手当てさせてよ?」
そして雪也はまだしつこくそんな事を言い、涼一の手をそっと握った。その目は未だ微かにだが笑んでいる。あの優しい顔が本当に楽しそうに笑っているから、涼一は一気に自分の胸の中がすっと静かになるのを感じた。
「雪…。俺のこと、怒ってない…?」
「うん…」
「………」
「怒るわけないよ」
優しい優しい、慈愛に満ちたその表情。ああやっぱり雪也の顔が好きだと涼一は思った。
自分の傷なんてどうでもいい。この儚くも気丈な恋人を守りたい。一体、自分と別れたあのほんの僅かの間に雪也に何が起きたのか、まだ雪也の口からはきけていないが(自分が本能のまま雪也を抱こうとしたのが原因だが)、何があっても雪也のことは自分が守らなければ。…涼一はそんな事を思いながら一体今日何度目なのかの「もう一度」のキスを雪也の唇に降らせた。
「涼一」
「ん……」
「………」
「何だよ」
何かを言おうとして、けれど口を閉じてしまった雪也に涼一は苦笑した。
「涼一…」
けれど雪也の方は涼一のその穏やかな様子に心底ほっとしたようだ、自分も何とか笑い返していた。
そして首を横に振ると言った。
「何でもない。傷の手当てが終わったら話…」
「それ終わったらさ」
「え?」
けれどそんな雪也に涼一は最後まで言わせなかった。雪也の言いたい事が分かっていたからというのもあるが、何よりこれだけは譲れなかった。
何せ少しの間とはいえ自分は雪也に捨てられる思いを味わったのだから。
雪也に悪戯小僧のような笑みを向けて涼一は言った。
「傷の手当てが済んだら、ここで続き…抱いてもいい?」
「……っ」
「いい?」
わざと甘えるような声で言ってやった。こういう態度を取られて雪也が断るはずがないから。殆ど確信犯だ。
案の定雪也は「うん」と恥ずかしそうに俯き、それに了承の態度を示した。けれども余程涼一の傷が気になるのだろう、上体を起こすとすぐに服を整え、雪也は荒れた涼一の部屋を漁る事はせず自室へ救急箱を取りに行くと告げた。
「すぐに戻ってこいよ」
一瞬でも離れたくなかった。恨めしそうに言うと雪也はまた先刻の明るい笑みを見せた。
「うん」
「……雪。大好き」
だから思わず言うと雪也はぱっと目を見開きながらもすぐに自分も頷いた。
「うん、俺も…」
「雪、そしたらさ」
今度こそ、絶対一緒に帰ろうな?
「雪―」
けれど涼一が満たされた思いのままその台詞を吐こうとした、その時だった。

「だから帰れって言ってんのが分かんないの、アンタ!?」

地震と間違う程の地鳴り…いや、声だ。
「オ、オーナー…?」
「何だアイツ…」
階下からビリビリと響くような怒声が涼一たちのいる部屋の中にまで聞こえてきて、2人は一瞬にして会話を止めた。元々地声の大きいオーナー藤堂は、普段こそ「あの性格」だから控え目な口調しか発しないが、怒ると辺りに鳴り響く轟音でもって他を圧倒する。
「あいつ、さっきあんだけ俺を怒鳴っておいて、まだあんなパワーがあるのかよ」
1人でホテルに戻り藤堂と激しい一戦を行った涼一は、その舌戦により正直今も喉がヒリヒリしていた。
本来見た目も中身も「とても男らしい」、そんなオーナー藤堂は淦の住人の1人である雪也を殊の外可愛がっていた。だから彼は雪也に良かれと思う事には積極的に取り組み、逆に害を成すと判断した時は鬼と化す。
そう、たとえば今のような怒声を発して……。
「だから雪也の母親だか何だか知らないが、会わせられないってんだよ! いいから帰んな!!」
「……!!」
「雪…?」
ぼとりと、雪也が涼一に手渡そうとしていたタオルを床に落とした。部屋に行って救急箱を取りに行く間それで血止めをしてもらおうと思って拾った物だ。
「あ…あ……」
しかしそれは涼一の手に渡る事なく、力を抜いてしまった持ち主によって割れたガラスの破片の傍に落ちた。
「ゆ、雪…」
「……っ」
呼んでみたが震える背中は答えなかった。涼一は咄嗟に立ち上がり、もう一度その名を呼んだ。
「雪」
「………ん」
すると雪也が口を開いた。
「え?」
涼一が眉をひそめると雪也は今度ははっきりと言った。
「母さん…」
「……!」
その怯えたような声に涼一は自身も総毛立つのを感じた。



To be continued…


4648