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「煩いオヤジだね。いいから雪也を出せっていうのよ」
殺気立っているオーナーとは対照的に、美奈子の声は氷のように冷たかった。
毒々しい真っ赤なミニスカートから太い足をこれみよがしに晒しながら、美奈子はソファ席の1つに腰を下ろすと、手にした煙草をすぱすぱと吸った。その隣の席ではうさぎが今にも噛みつかん程の勢いで睨み据えていたのだが、それにも美奈子はそ知らぬ顔だ。
いつでもそうなのだ、この母親は。
「母さん…」
恐る恐る店の入口にまでやってきた雪也は、カウンター席に立ち尽くして鬼の形相をしているオーナー、それにうさぎをちらと視界の隅に捕らえつつも、ただ自分を訪ねてきたという母に向け声を放った。
「母さん」
「何よ雪也。やっぱいたんじゃない」
「雪也。いいから、お前は部屋へ行っていな!」
「………」
「雪也!」
オーナーが怒鳴るように呼んだが、雪也は謝るような視線を一瞬向けただけで、再び美奈子の方へ目をやった。
「ふふん」
母の美奈子の方はそんな雪也の態度を既に予測していたのだろう、勝ち誇ったような顔でにやりと笑った。
「何してたのよ。危くこのオカマオヤジに追い出されそうになったじゃない」
「………」
「おいお前―」
「母さん」
今にも相手に飛び掛っていきそうなオーナーを抑えるように、雪也は押し殺した声ながらも再度母を呼んだ。
「母さん…。今夜はもう来ないんじゃなかったの…?」
「気が変わったのよ」
悪びれもせず放たれる台詞。
「気が、ね」
そうして美奈子は、その唇から白く細い煙草の煙をふっと雪也に向けて吐き出した。互いの距離は結構離れているはずなのに、その煙の匂いは雪也の鼻先をツンと掠めた。
眉をひそめる雪也に美奈子は続けた。
「もう1ラウンドって思ってたから電話ではああ言ったけど? あの男ももう年よね、あっという間にダウンしちゃって。つまんないからここに来たってわけ。時間を余らせるのは人生を無駄に浪費しているのと同じよ。なら、当初の目的通り、ビジネスの話をしなくちゃって思ったわけ」
「何を言ってるんだお前は?」
「だから。お金儲けの話」
怪訝なオーナーの問いに対し、嘲笑するような態度で美奈子は肩を竦めた。それから手にしていた煙草を灰皿に押し付け、ごしごしと頬を撫でつけながら気だるそうに続ける。
「この親不幸者にもう一度だけチャンスをあげようと思って来てあげたのよアタシは。実の母親を捨てて1年以上もの間好き勝手やってきた息子にね。もう一度だけ…」
「だから何を…」
「話はつけたの、雪也」
オーナーの横槍は邪魔だと言わんばかりに、叩きつけるような強い声で美奈子は言った。
「……っ」
その迫力ある声色だけで雪也の背中はゾクリを震えた。昔から何も変わらない。この人にこうやって凄まれるだけで自分は何も出来なくなるし、彼女をまともに見据える事すらできなくなる。
そう、怖いのだ。自分は母が怖い。恐ろしい。絶対に逆らえない。
でも。
「母さん…」
その結論を頭の中で出してしまいながらも、雪也はぐっと唾を飲み込むと、なるべく声が震えないよう努めながら考えていた言葉を外に出した。
「俺…母さんを、捨てたつもりなんか、ない…」
母の反応を探る前に雪也は更に言った。
「母さんに…嫌われたと思ったから、逃げたんだ…。もう、あの町にはいられないと思ったから…!」
「バカじゃないの」
「バ、バカ、でも…」
「あー煩い煩い。バカは黙れ」
「……っ!」
雪也の必死の訴えも母の美奈子にはどうという事もないのだろうか。まるで感じ入った様子も見せず、美奈子はキツイ眼で雪也の事を睨みつけると容赦ない言葉を浴びせた。
「アタシがアンタを嫌ったって? そんな事、当たり前じゃないの。女手1つで苦労して育ててやった恩も忘れて、よりにもよってその母親の恋人と寝てたんだからね、アンタは! それも1度や2度じゃなく、何度も! あの家で!」
「……っ」
「何度も!」
「テメエッ!!」
「オーナー」
「離せ創、何すんだッ!!」
美奈子の台詞と共に今度こそ殴りかかろうと動いたオーナーを止めたのは創だった。がたいは明らかにオーナーの方があるというのに、一体どこにそんな力があったというのか、創はオーナーを羽交い絞めにするとひどく静かな声で一言だけ言った。
「いいから」
「こら離せ! 離しやがれ! 何がいいんだ、ちょっ…創ー!!」
「うさぎちゃん! うさぎちゃんも!!」
そうして創がずるずるとオーナーを店内から引きずり出して奥の部屋へ連れ去って行くのと同時、今度は雪也の横をだっと通り過ぎてうさぎに出るよう促した者がいた。
那智だった。
「う、うさぎちゃんも、隣のお部屋へ行ってましょう!」
「嫌だ」
うさぎはしかし、即座に拒否した。
未だに恨めしい顔をしたまま美奈子を見やり、傍で自分を引っ張り立たせようとする那智には一瞥もくれない。
「……何よこのガキ」
「お前がいなきゃ」
そして、煩わしそうな目を向ける美奈子にうさぎは言った。
「お前がいなきゃ、雪也は生まれなかった」
「………は?」
そしてうさぎは依然として強い光を瞳に宿したまま無機的な声で続けた。
「けど、雪也は好きでお前を母親にしたわけじゃない。お前が勝手に母親になったんだ」
「はっ…。何言ってんの、このガキ?」
「うさぎ…」
雪也が呆然として呼ぶとうさぎはここで初めて声を大にした。
「好きで息子になったんじゃない! 死ね、クソババア!!」
「うさぎちゃん!」
那智は真っ青になり、まさに卒倒寸前だった…が、それよりも自分の使命を重く感じていたのか、何とかその場に留まって再度興奮したうさぎの腕を取ろうとした。
「触るな!」
けれどうさぎは言う事をきかない。今度はオーナーの代わりにうさぎが美奈子に飛び掛って噛み付いてしまいそうな状況だった。
「うさぎ」
しかし。
「止めろ」
それを止めたのは涼一だった。
「りょ…」
雪也が驚いて振り返った先には、怪我した手にぐるぐると適当に布を当てただけの涼一がいた。
雪也だけではない、その場にいる皆が一斉に自分を見る中、涼一は少しだけ笑うとうさぎに言った。
「お前もたまには良いこと言うじゃん」
それはこの場に似つかわしくない、酷く穏やかな声だった。
涼一は言った。
「那智さんとあっち行ってろよ。俺ら、このクソババアと話があんだからよ」
「涼一…」
心細そうに声を出した雪也をちらと優しい眼差しで見た後、涼一は再度うさぎを見て言った。
「行けっての」
「……バカ涼一!!」
するとうさぎは一言涼一を罵倒すると、そのままだっと飛び上がって創たちが行ったであろうオーナー室へと駆け込んで行ってしまった。
「うさぎちゃん!」
那智もその後を相変わらずの血の気のない顔で追って行った。
「………」

そしてその場は雪也と涼一、そして美奈子の3人のみとなった。

「何なの、この騒がしいホテルは」
美奈子の心底呆れたような声は、しんと静まり返った店内でいやに響いた。
「嫌になるねまったく。イラついて仕方ない」
「………っ」
陰に篭った母の声に雪也の胸は凍りついた。先刻の自分を傷つけた言葉を恐らくこの人はもうひとかけらも覚えてはいない。その事もまた雪也の心を苦しめた。
「雪」
「あ…」
けれど、その時。
「…大丈夫だから」
「りょ…」
囁くようにそう言い、雪也の手にそっと触れてきた涼一の表情はとても優しいものだった。
「涼一…」
「大丈夫」
「………」
その声もとても頼もしかった。
だから雪也はそう言ってくれた涼一の横顔を黙ってじっと見つめた。
そうしていれば、この震える気持ちも落ち着くような気がした。



To be continued…


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