―49― 母の美奈子はひどくイラついたような顔でソファ席にふんぞり返っていた。 「全くイライラするわね……」 無言で向かいの椅子に座った涼一と雪也の事は見ていなかった。何度もカバンから煙草の箱を出しては新しい物を取り出し、1度吸っただけですぐに灰皿に押し付け、また違う物を取り出す。 そして「この店の奴らが出してくれなかったから」と、小さなボトルに入った自前のウイスキーを何度か煽っては汚らしくゲップを吐く。 それが嫌がらせでわざとやっている事だとは、雪也にはよく分かっていた。 「勿体無いですよ」 待っていても一向に会話が始まらないと思ったのだろう。涼一が口火を切った。美奈子が一口飲んでは捨てる煙草にちらと視線をやってから、不快な顔を隠さずに続ける。 「それ、むかつくからやめてくれませんか」 「……なぁに」 途端据わった眼をして美奈子は低い声を返した。忙しなく動かしていた手を止め、目の前の涼一を値踏みするようにジロジロと見やる。 「何言ったのアンタ?」 「酔ってんですか、耳遠いんですか」 「はぁ?」 「それをやめてくれって言ってんですよ。酒を仕舞って、ついでにその汚い足を晒すのもやめてくれませんか」 「りょ…」 雪也が慌てて口を開きかけるのを涼一は敢えて片手で遮り、尚も美奈子に向かって言った。 「見せ付けようとしてんのか偉ぶってんのかは分からないですけどね、その座り方。さっきから癇に障るんですよ。ここにはアンタの太い足を見たい奴なんかいない」 「……なるほどねぇ」 暫く黙っていた美奈子はズケズケと物を言う涼一にまずそれだけを返した。そして入ってきた時からやっていた、大きく組んでいた足を解くとそのせいで乱れていたミニスカートの裾を片手でさっと直した。 さらに美奈子は従順な様子で、手にしていたボトルもカバンに仕舞った。 雪也は母のその所作をただ黙って見つめていた。 「これでいいかしら」 そして不敵な顔でそう言う母の声をただ黙って聞いていた。 「断っておきますけどねぇ、涼一さん。アタシは貴方と喧嘩しようと思ってここに来ているわけじゃないのよ。さっきも言ったでしょう。アタシはビジネスの話をしに来ただけ」 「ビジネス?」 単調に問い返す涼一に美奈子は頷いた。 「ええ、そうよ。お金持ちのお坊ちゃんなら、さぞや良い学校で大層な英才教育ってやつを受けてるんでしょうし? 物の道理は分かるわよね。人の物をタダで貰っていいなんてふざけた事、先生に習った?」 「何の話です」 「そこの」 雪也を目だけで指して美奈子は笑った。 「アンタがここにいる間さんざん好い様に可愛がったペットはね。アタシの可愛い息子なのよ。アタシの大事なモノなの」 それは冷えた声だった。抑揚の取れた声。そして感情の見えない顔。 「母さん…」 目を逸らしたいのに逸らせない。雪也は力なく自分を物扱いする母を呼んだが、それに答える声はなかった。 美奈子は続けた。 「単刀直入に言うけど、アンタは幾ら払えるの? この男好きのこの子の為にさ、幾ら貢げる? ああ、もう知っていると思うけど、この子は既にキズモノなわけよ。昔まだ今よりずっとガキの頃に、この子、よりにもよってアタシの男とヤッてたから。聞いてるわよね? まさか内緒にはされてないわよね?」 「………」 涼一が何も答えないでいると、美奈子は目に笑みを閃かせ、次いで雪也を見やった。 「何よ雪也。アンタ、まさか言ってないの?」 「母さ…」 「お前は喋らなくていい」 すると涼一がぴしゃりと言って、ぐっと雪也の手を握った。怒りの表情はなかった。けれど、その無表情は逆にそれ以上の憤怒を内に篭めているのだろう事が容易に想像できて雪也を震えさせた。 「仲の良い事」 手を握り合った2人に冷えた声と目で突き刺して、美奈子は嘆息した。 「まあ何だっていいわよ。知ってるなら知ってる、知らなかったら今知ったって事で。どのみち、こう見る限りじゃあ、涼一さん。アンタはこの子をずっと飼っていたいって思っているわけね。この子はアタシのモノだけど、自分のモノにしたいって思っているわけね。いいわよそれでも。買いたいって言うなら売ってあげるわよ。で、幾らで買ってくれるの」 「………」 「言っておくけどケチ臭い値段つけたら、その場でこの子連れて行くから」 「連れて行く?」 涼一は先刻から美奈子の発言には無反応か鸚鵡返しをするだけだ。故意によるものなのか、呆れて何も発する気になれないのか。恐らくは後者のように思われたが、それによって母の表情がみるみる暗いものになっていくことが雪也にはまたひどく恐ろしいものに思えた。 涼一が手を握っていてくれなかったら、今すぐにでも逃げ出してしまいたい程だ。 本当は自分こそがこの母に言わねばならない事があるはずなのに。 「連れて行くわよ? アンタの目の届かない所へ、ね」 美奈子が言った。 「だからさっさと言えって言うんだよ。幾ら払うんだ? ったく、ぐずぐず考えているようならこの話自体をナシにするよ? ……雪也、アンタこの坊やにちゃんと話を通してるんだろうね?」 「……俺は」 「何よ。言っておいたでしょう。高く買ってくれるように頼んでおけって。分かってるんでしょ、私としたってどっちかっていうとアンタが行きたいって方に行かせてあげたいしね。それとも、実は水嶋の方が良かったりして? アンタ結構M入ってるから」 1人ケタケタと笑う美奈子に、雪也はくしゃりと表情を歪めた。こんな台詞、もう慣れきっているはずで、どうという事もないはずなのだ。今更何を言われてももう驚かない。そう思っているのに。 そう、きっと言い返せない自分が悔しいのだ。雪也は涼一に握られていない方の手をぐっと握り締め、拳を作った。 それに母の美奈子は素早く気づいた。そしてさっと眉を吊り上げ、ヒステリックな声をあげた。 「何それ!? 何なのその態度は! 顔は! 雪也、アンタ、アタシに逆らう気!?」 「俺は…っ」 「この1年! 母親のアタシを捨てておいて、好き勝手しておいて何なの!! どういうつもりなの!? ホント呆れる、アンタ、アタシを何だと思ってるわけ!!」 「母さん、俺は!」 「煩い! このバカ息子! アタシの思う通りにやれないなら黙ってな!!」 「……っ!」 「ちょっと! そこのアンタ! お坊ちゃんも! ホントいい加減にしてよ、さっきから黙りこくっちゃってさぁ! 結局どうするつもりなの!? 払うの、払わないの!?」 酒臭い息を振りまいて美奈子はテーブルに唾を飛ばしまくった。次いでそのテーブルを指輪のついたごつごつとした手でダンダンと叩く。 「息子を買うの、買わないの!?」 ダンダンダン、と。それを叩く音は激しくなった。雪也はその音を聞いているだけでもう居た堪れなくなってしまった。 母の癇癪は泣き出したいくらいに苦手なのだ。 「雪は貰う」 するとようやく涼一が美奈子に答えた。 「……涼―」 言葉を出しかけた雪也をまた制して、涼一は依然として感情の見えない顔で続けた。 「バアさん、よく聞け。うちの国では生涯の伴侶を見つけた場合、男はその相手の親には幾許かの金を渡すんだ。まぁ、その家の血筋の者を貰い受けるんだ、感謝と誓約の意味を込めてな」 「あら。良い国ね」 ガラリと声色を軽いものにして美奈子はきょとんとした顔をした。 雪也は黙って涼一の横顔を見ていた。 涼一は言った。 「聞けよ。まあ、そういうわけだから俺と俺の家は雪也の母親であるアンタに金は払うさ。だがアンタも…息子の雪也の為に何かを与えるんだ」 「……何それ」 「アンタは雪を俺の元に送り出す。そしたら雪はもうアンタの息子じゃない、俺の家の人間だ。だからアンタは雪の親として、最後に雪の為になるような物を考えて与えてやるんだ。……母親として、アンタは雪に何をやれる?」 「……なぁによ、その訳の分からないカッタルイ話は?」 途端白けたようになって美奈子はソファの背に思い切り寄りかかった。 「意味分かんないわよ、何なの? 雪也に物を与える? 何で? それじゃこっちは全然得してないじゃないの。何で息子を失う上に物まで与えなきゃなんないの?」 「俺にくれと言ってるんじゃない。雪にやるんだ」 「同じ事よ。だってそっちの人間になっちゃう奴に物をあげるわけでしょ。ハッ、何それ、アタシには損なだけね。これじゃあ、この話は不成立にするしかないわね」 バカじゃないのアンタ。 そう言って美奈子は涼一を鼻で笑った。 「えてして金持ちって何だかんだとセコイのが多いのよね。こんな事もあるんじゃないかと水嶋に保険掛けておいて良かったわ。行くわよ雪也。この男、妙な事だけ言って結局はアンタに良い値はつけてくれないわよ」 言いながらさっと立ち上がり早々に帰ろうとする美奈子に、しかし涼一が依然静かな口調で言った。 「アンタが雪也の母親として振舞わないというのなら、俺は今度こそ二度とアンタの手の届かない所に雪をやる」 「何ですって?」 ぴたりと動きを止めた美奈子に追い討ちをかけるように涼一は続けた。 「俺はチャンスを与えてやってるんだ。勿論お前の為じゃない、雪の為だ。雪が苦しまないようにお前に妥協点を見出してこんな話をしてやってるんだ。それが飲めないって言うなら、もう二度と雪には近づけさせない」 「何言ってるの、雪也はアタシの息子よ」 「俺のものだ」 「勝手な事を言うんじゃないよ!!」 堂々と怯まない涼一に遂に激昂したようになり、美奈子は叫んだ。 「雪也! 行くよ、何だこの男は! 訳分かんねえ! テメエ勝手な事ばかり吹きやがって、何様のつもりだ! こっちだって優しく話をしてやってるのにっ。金さえ払えばコイツをちょっとの間貸してやろうって言うのに、何で―」 「貸すだと!?」 今度は涼一がその言葉できっとなり、立ち上がった。 「そんな事だろうと思ったぜ! お前ははなから雪を手放すつもりなんかないんだろう! 俺が仮に素直にお前に金を渡したとしたら、その後どうなるか容易に分かるぜ。お前は雪に得意気に言うんだ、『所詮お前は物扱いだ』ってな」 「そうだよ! コイツはアタシのモノなんだから!」 「ふざけてんのはどっちだ!」 「やめてくれよ2人共!!」 遂に雪也が声を上げた。 先に立ち上がって離れてしまった涼一の手をもう一度、今度は自分から握って雪也は言った。 「涼一やめてくれよ!」 「何でだよ雪! コイツ、ホントだったらぶん殴ってやりてえよ!」 「それはこっちの台詞だね! いやそれだけじゃ足りない、アタシの息子を良いようにして、勝手にアタシの元から連れ去ろうとしている悪党が!」 「母さん!!」 今度は雪也は美奈子に怒鳴った。 そしてようやく、抑えていた、内に込めていた想いを吐き出した。 「俺がどこにいようと母さんの息子には変わりない、そうだろ!? で、でも、でも俺はっ」 初めて感情を露にしたような息子に美奈子は一瞬度肝を抜かれたように黙りこくった。 その瞬間をまるで見計らったかのように雪也は言った。 「でも俺は…! 俺にだって感情はあるんだ…! 俺だって母さんを待ってたんだ、ここで!」 「雪也…」 「母さんが来るのを待っていた! けど、けど、それは母さんの所に帰る為とかじゃなくて…」 ハアと大きく息を吐いて、雪也は目を瞑りながらもはっきりとした口調で言った。 「母さんと面と向かって話すためだ…! 俺は…俺は母さんとは、もう一緒に暮らさないって!」 「何よ…雪也……」 「俺は、もう母さんとは暮らさない…帰らない…」 俺は、涼一と一緒にいるよ。 「そう……決めたんだ」 誰にも従わない。誰のものにもならない。 ただ、自分が選ぶだけ。 「そこに入っている物…。だから、母さんも、もう捨ててよ……」 一気に言ってしまった後、雪也は母の白いバッグを見つめながら、これは小さな声で言った。自分も好んで思い出したくはなかったし、それはここにいる母とてきっとそうだろうと思ったから。 水嶋が取っていたあのホテルで母に再会し、母がそこで見せたあの錆びたナイフ。 それをあのカバンから出していた母の姿を雪也はじっと思い浮かべてみた。 そして雪也はゆっくりとだが確かな意思と共に言った。 「それはもう捨てよう…。もう…昔のことだから…」 そう言った自分の声に母がどんな反応を示しているのか、目を瞑っている雪也には見る事ができなかった。 |
To be continued… |
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