自分の身体がキライだった。 『このクズ!!』 水嶋と寝ている事が分かった時、母の美奈子は雪也にナイフを突きたて、喚き、責め立て。 そしてこうも言った。 『汚い!!』 そんな事は分かっていた。痛いくらいに分かっていた。 自分は汚い。 だから雪也はもう二度と、誰の前にも己の肌を晒すような真似はしたくないと思った。ホテル「淦」にやってきて心の安寧を見つけ、そして護という心底安心して眠れる居場所を見つけられた時でさえ、その思いは変わらなかった。それに護の事は「母」のように思っていたからこそ、尚の事最後の扉を開く事には躊躇いがあった。 そしてその扉を開けない事が雪也をいつまでも同じ箱の中に留まらせていた。 眠ろうと目を瞑る度に、あの錆びたナイフが脳裏を過ぎる。 母の鬼のような形相も決して消えない。 苦しい。 『雪!』 それが徐々に薄れて行ったのは何故だったのだろう。 それは、たぶん。 ―50― 必死に吐いた言葉は少なからず相手に衝撃を与えたようだ。 「……は」 暫し茫然とその場に立ち尽くしていた美奈子は、やがて小さく唇から笑声らしきものを漏らしながらも、やや蒼白になって目の前の息子を見やった。 「どうしたのよ雪也…。あんた何マジになってんの?」 「………」 「私とは一緒に帰らないだの…暮らさないだの…。一体何を言ってるのよ?」 「もう…決めたから」 「アタシの許可なくそんな事勝手に決めないでよ」 「………」 「決められないでしょ、あんたは。そういう事」 「……決めたよ」 「嘘」 子どものようにそれだけを言った母を雪也は黙って見つめた。 こんなに小さな人だっただろうか。ぼんやりとそんな思いが頭を過ぎる。 「このバッグに何が入ってるって?」 黙り込んでいる雪也に美奈子はたどたどしい口調ながらもそう言った。言いながら手にしているバッグを開き、そして言われた物をすっと取り出す。 あの錆びたナイフ。 「……これが何だって?」 「捨てて欲しいんだ…。それ…」 力なくもその刃先を向けられ、雪也は軽い眩暈を覚えた。自分の声は一体どのくらいこの人に届いているのだろう、それを考えると今こうして立っている自分が不思議で仕方なかった。 以前だったらすぐに座り込むか逃げ出すかしなければやり過ごせなかっただろうに。 「雪」 けれど、その時。 「雪、下がれ」 不意に腕を掴みそう言う声があり、雪也はゆっくりと瞬きをし、改めてその声の主を見やった。 涼一。 「早く下がれ」 茫然としている雪也に涼一はもう一度そう言った。そして雪也が動く前に強引に腕を引っ張ると、自分の背後に隠すようにして美奈子と距離を取らせた。 そんな涼一の所作にカッとしたのは美奈子だ。 「ちょっと。何してんのアンタ」 「雪の前にそんな物騒なもんちらつかせるな」 「コイツが言ったのよ、これ出せって…」 「捨てろと言ったんだ。見せ付けろと言ったわけじゃない」 「命令するの、アタシに…」 声が低い。目が据わっている。 雪也の心臓は途端に早まり出した。酒に酔い、常軌を逸して我を忘れた時の母の姿。過去何度となく見せられたあの恐ろしい時の母の目だった。 けれど涼一は背後で震える雪也の手を後ろ手に握ったまま、自分はまるで動じた風もなく言った。 「お前いい加減にしろ。母親やれないならさっさと消えろ。それを離せないならもう二度と雪の前に姿を現すな。これ以上雪の気持ちをかき乱すな」 「アンタに…何が分かるの…」 涼一の言葉を受けて美奈子が言った。やはりその声は暗い闇に満ちていた。 「アンタに…何が…」 「お前の事なんか分かりたくもないね」 「アンタに…アタシ達親子の何が分かるって言うの…?」 「……それを捨てろ」 「アンタに、何が!!」 「涼一!!」 鬼気迫った声になり、ナイフを振り上げた母を見て雪也は咄嗟に叫んだ。 「雪は下がれ!」 「あっ!」 けれど涼一は背後から身を乗り出そうとした雪也を逆に勢い良く突き飛ばすと、自分はそのままナイフを持って突進してきた美奈子を向かい討った。 「アンタなんかにー!!」 「こっの、バカが…ッ」 「キイィッ!!」 美奈子がまるで小さな獣のような高い奇声を発した。 ガチャンと派手な音がしたのと同時、美奈子はその場に座り込んで「うーうー!」と悔しそうなうめき声を上げて自ら床に頭を打ち付けた。 「……ッ!」 涼一に向けたナイフをあっさりとその当人によって叩き落され、美奈子は体勢を崩し、よろけるままにその場に突っ伏したのだ。 「くそっ! くそ、くそ、雪也はアタシのモノなんだ…!」 美奈子はガンガンと頭を床に打ち付けると悲痛とも取れる搾り出すようなしゃがれ声でそう言った。 「アタシの…! なのに、何なの、何なんだっ!」 「……母さん」 呼ぶ事しかできない、それでも。 涼一の「やめろ」と訴えているような視線をすまなそうにくぐり抜けた後、雪也はよろりと前へ踏み出し、伏して乱れている母を呼んだ。 「母さん」 「………」 もう1度呼ぶと、ぴたりとその呻き声は止まった。傍には涼一がはたき落としたナイフがそのまま床に転がっていたが、もう美奈子はそれには目を向けていなかった。 だから雪也ももう怖くなかった。 傍に寄り、そしてしゃがみこむと母の肩先にそっと触れた。 「俺…涼一と行くんだ」 「………」 「涼一のことが…好きなんだ」 そうだ。雪也は今はっきりとその事を自覚した。 暗い暗い闇の中で、ただ震えて目を瞑る事しかできない自分を明るい場所へ連れて行ってくれた。それは少しだけ強引だけれど、だからこそ一緒に踏み出せる勇気を持てた。 自分は涼一が好きなのだ。雪也は母の小さな肩にもう一度力を込めて繰り返した。 「好きなんだよ」 はっきりと言うと、背後に立っている涼一の影がゆらりと揺れたように思われた。 「母さん」 それでも雪也はそちらを見る事なく、項垂れたままの母に手を掛けたまま言った。涼一を好きだけれど、でも同じように母の事も愛しているのだという事は、どうしても分かって欲しかったから。 だからその手は離さなかった。雪也は言った。 「勝手に…逃げてごめん。だからもう…何も言わないで何処かに行く事はしない。でも…」 ごくりと唾を飲み込み一拍置いた後、雪也は再度勇気を振り絞って言った。 「でも、俺は涼一と一緒に行くから」 美奈子はそう言った雪也の顔を決して見ようとはしなかった。 「喉が痛い。頭が痛い。どこもかしこも痛い」 翌日。 天気の良い昼下がり。午前中に干した屋上の洗濯物もすっかり乾こうかという頃、しかしその天候とは裏腹にホテル「淦」のオーナー藤堂はご機嫌ナナメだった。 昨晩から急に上がり出した高熱が次の日になっても下がらず、彼(彼女)の身体は自己申告通り、どこもかしこも悲鳴を上げている状態だった。それでも横になっている事に飽きたのか、オーナー藤堂はだぶだぶの半纏を着込み、額には凍らせたタオルを巻いてカウンター席で体温計を咥えた。 「オーナー、これハチミツ生姜湯です。私が作ったのです、どうぞ」 「那智が…? へえ…」 だからというわけでもないが、本日の「淦」は完全休養日だ。客が来ないよう、ドアには鍵が掛けられ、カーテンも締め切っている。それでもその隙間から漏れる光を受けながら、那智は朝から店内の清掃に従事していた。 藤堂はそんな彼女の姿をぼうっと見やりながら軽くため息をついた。 「上の片付けは済んでるわけ?」 「あ、今創とうさぎちゃんがやっています。創、絶対にうさぎちゃんに片付けさせるんだって言ってずっと監視してますから」 「昨晩もまた大分暴れたらしいねえ」 「はあ…」 何とも言えないような様子で那智は曖昧に答え、ただ苦笑した。 昨夜突然現れた雪也の母親の存在は、息子である雪也と恋人の涼一、そして那智をはじめとする淦の住人全員に多くのショックを与えた。心が不安定になると部屋の中の物を壊しまくるうさぎは、勿論昨晩は大暴れをして創を辟易させた。熱を出したオーナーも今でこそ那智の出した物を飲んでくれているが、昨晩は本当にむっつりとして誰とも口をきかなかった。そして那智自身、いつも優しい笑顔の雪也に、こう言っては何だが「あんな」母親がいるとはただもう驚きで、また何よりも別室にいても聞こえてしまった母親の台詞―雪也の過去を叫ぶもの―には、気弱な彼女の思考を停止させるには十分だった。 それでも、暫くして自分たちの元にやって来た涼一と雪也が、「帰った」と。 「もう大丈夫だから」と。 そう言った時には、何やら胸の中がほっと落ち着くのを感じたものだ。 「雪也は? まだ寝てるの?」 「あ、はい」 不意に藤堂に呼びかけられ、那智はぼうとしていた気持ちを再び外界に戻し、頷いた。 「朝方1度起きられてましたけどね。涼一さんに今日は何処にも出かけないでゆっくりしているように言われたみたいで、また部屋に戻られました。まだ眠いって言ってましたし」 「珍しい」 「そうなのです、雪也さんがそういう事を言うのって…。私も新鮮だと思いましたです」 オーナーの言葉に那智がかぶりつくように同意すると、それを言った藤堂自身は何とも言えないような苦い顔をした後、何故か深いため息をついた。 「それで? あの王子は何処にいるわけ。まだ帰ってきてないんだろ」 「あ…」 そういえばと、那智は涼一が出掛けて行った時間を思い浮かべ、慌てて店の時計に目をやった。 創は心配する那智を他所に「あの人に任せておきなよ」としか言わなかったけれど。 やはり心配だと那智は思った。 「まあ仕方ないか…。雪也が選んだ事だし」 するとそんな那智に向かって、否、誰に言うでもなくオーナーがぽつりと言葉を吐いた。 「寂しいけど…納得するしかないんだわ。あのババアを追い返したのは確かに雪也と…あの生意気涼一なんだろうし。あのババアが病的な行動に出ないように交渉できんのは確かにあのお坊ちゃんだけなんだろうし…。それに…ああ、でも…」 「あ、あの、オーナー?」 「ああ、それにあいつなら、あいつをどうにも放っておかないだろうしね…。ああ、でも…」 「何をごちゃごちゃ言ってやがんだ?」 「あ! 剣さん!」 「ただいま」 店の扉からではなく、いつもは閉まっているホテルのロビーから入ってきたのだろう。カウンター席でぶつぶつ呟いている藤堂の背後から、涼一が何か汚い物でも見るような目で見やってきていた。 「お前。ぶつぶつ言って気色悪ィな。遂にボケたか」 「うるさいよ。アンタ、そうそう人の背後に立つんじゃないよ。ただでさえ鬱陶しいってのに…」 「ご挨拶だな」 はんと鼻で笑った後、涼一はオーナーの毒になど構った風もなく自分もカウンター席に腰を下ろすと、フロアでモップを持っている那智を見た。そして偉そうに言う。 「コーヒー淹れて」 「あ、はい! ただいま!」 「あんたねえ…うちの客をこき使うんじゃないよ」 「いいじゃん。俺だって客なんだし」 「それで?」 「………」 ぴしゃりと切ってそれだけを問うオーナーに、涼一は暫し黙った後、「俺は殴ってねえよ?」と嘯いた。 そうして涼一はカウンターに肘をついて拳をぎゅっと握った。 「剣さん、どちらに行ってらしたんですか?」 そんな涼一とオーナーのやりとりを不思議そうに眺めていた那智は、カウンター内でせっせとコーヒーの準備をしながら何気ない調子で訊ねた。確か涼一はもう一度雪也の母親と話をしてくると言って出かけたと思ったのだが、殴るだの何だの、何やら物騒だと思ったのだ。 「まあ俺の部下も呼んでたんで。俺は足だけ」 すると涼一はそんな那智に済ました調子でそう言い、長い足をにゅっと伸ばした。 そしてもう一度握った拳を握り直し、涼一は不敵な顔で藤堂を見やり言った。 「ホントはババアも一緒に飛ばしたかったけど、そしたら雪が悲しむだろ。だからとりあえずあの下種野郎だけはもう二度と雪の傍には近寄らせないようにさ。しといた」 「本当に大丈夫なんでしょうね?」 「当たり前だろ」 オーナーの疑わしそうな声に涼一は半ば腹を立てたような口ぶりでそう言い捨てた後、ぷいと視線を逸らした。 そして暫くした後、低く消え入りそうな声だけで涼一は言った。 「……ホントは殺してやりたかったぜ。抑えた自分がバカみてえ……」 「……フン」 そんな涼一にオーナーは鼻を鳴らした後、黙って自分のカップに口をつけた。一瞬不味そうな顔をしたものの、那智の手前我慢したのか、何も発しはしなかった。 「……?」 2人のそんなやり取りを那智はただ訳も分からず眺める事しかできなかった。 |
To be continued… |
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