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途中1度だけ重苦しい夢を見て目が覚めたのだけれど、後はずっと熟睡する事ができた。
「ん…」
肌に心地良いシーツの感触を楽しみながらごろりと寝返りを打ち、雪也は薄っすらと目を開いた。まだ眠っていてもいいかなと少しだけ思う。今日は1日中、それこそもう嫌という程目を瞑っていたはずなのに、どうにも身体が重くて起き上がるのが億劫だった。
それでも涼一が帰ってくるまでには起きて食事の支度をしなくては。涼一はいいと言ってくれたけれど。
そう思いながら雪也がもう一度寝返りを打ち、窓側に背を向けた時だった。
「わっ…」
「………雪也」
そこにはうさぎがくりくりとした目を向け、じっと雪也を見つめていた。
「う、うさぎ…?」
驚いて起き上がろうとしたものの、うさぎはそんな雪也の肩をぐっと捕まえた。まだ寝ていろと言いたいらしい。
雪也はそのうさぎの顔を見て、動かしかけた身体から再び力を抜いた。
「……雪也」
するとうさぎはもう一度雪也の名前を呼び、そして言った。
「俺にも母様がいる。病気なんだ」
「あ…うん…」
それは以前涼一から聞いて知っていた。涼一は創から聞いたようだったが。
雪也が途惑いなら次の言葉を待っていると、うさぎは暫く閉じていた口をすっと開け、続けた。
「俺は母様大嫌いだ。男の俺に《うさぎ》なんて名前をつけて、勝手な事ばっかりやって、しまいには狂った。壊れちゃった」
「うさぎ……」
暗く沈んだようになった雪也の瞳にうさぎ自身も少しだけ目を細め、悲しそうな顔をした。
その表情を見せたのは本当に一瞬だったのだが。
うさぎは言った。
「でも母様は俺が見舞いに行くとちょっと元気になるんだ。ちょっと笑う。俺の事うさぎって呼んで頭を撫でてくれるんだ。……雪也がやってくれたみたいに」
「俺が?」
こくりと頷くうさぎの顔を雪也は驚きと共に見やった。確かに自分は何かにつけてうさぎの頭を撫でていた。仏頂面で、初めて会った時はロクに目もあわせてくれなかった心に傷を持つ子ども。その子どもが、日々真摯に向き合い語りかける事で徐々に打ち解け心を開いていってくれる、それが雪也には嬉しくて堪らなかった。鬱屈としたうさぎが過去の自分と重なって見えていたというのもある。一人っ子で弟とか妹といった存在に憧れを抱いていたせいもある。雪也はうさぎの事が本当に可愛くて好きだった。だからどうしたって優しくしたくて甘いお菓子を作ったり頭を撫でたりしていたのだ。創が渋い顔をしても、無闇やたらと甘やかす事を止められなかった。
その自分の情愛をうさぎは母のそれのように感じていたのか。
胸の奥が熱くなった。うまくは言えない、けれどうさぎが自分を家族のように思っていてくれた、その事実が雪也には素直に嬉しい事に思えた。
「雪也」
けれど、その時だった。
「え? ……ん!?」
感慨に浸っている雪也にうさぎは何を思ったのか、いきなりちゅっと唇へのキスをした。
「!」
雪也が突然の事態に目を見開いたまま硬直しているとうさぎは平然として言った。
「でも、雪也は母様じゃない」
「………」
「それならこういう関係になりたかった」
「え……?」
「でも」
うさぎは途惑いまくる雪也には構わず続けた。
「俺、創と家に帰る。母様とはまだ一緒に暮らせないけど、これからはもうちょっと近くでいつでも会えるようにしてやろうと思うから。許したわけじゃない。けど、母様は俺の母様だからな」
「うさ…」
「だから雪也とはお別れだ。だって雪也も涼一と行くんだろ?」
「え……う、うん」
「むかつくけど、しょうがない。創は『雪也が決めた事を喜んでやらないのか』って俺を怒るし」
「創が?」
「うん」
うさぎは頷いた後、「煩い兄ちゃんだ」と言ってぶすくれて見せた。
けれどその顔はどことなく小さな「大人」のようにも見えた。
「しょうがない」
そのうさぎはもう一度言った。
そして笑って。
「雪也が俺の母様だったら良かった。でも、母親は選べない。雪也は俺の母様じゃない。それに雪也はもう涼一のもの」
「………」
「『しょうがない』って百回くらい言えば諦められるって、前、康久が言ってた」
「康久が…」
呟くように言う雪也にうさぎは再度笑った。その顔はやはり小さな大人のものだった。
「俺も言うよ。いつまでかかるか分からないけど」
「うさぎ…」
「涼一をあまり調子に乗せんなよ」
「な…何言ってんだよ…」
「ふふ」
「……もう」
やっぱりうさぎは凄い。自分などより余程大人ではないか。
颯爽と部屋を出て行く小さな後ろ姿を見やりながら、雪也は茫然とした後は、ただもう苦い笑いを浮かべるしかなかった。



「雪、ちゃんと休んでたか?」
涼一がそう言って雪也の部屋に入ったきたのは、うさぎが去ってから数十分後の事だった。
「うん」
「あ、いいよ。そのまま寝てろって」
ベッドから起き上がろうとした雪也を無理に制して、涼一は自分が傍に行くと心配そうに片手を差し出した。
それから雪也の額に手をやる。
「熱…ないよ?」
雪也が何とかそう言うと、涼一は「うん」とくぐもった声を出した後、傍にあった椅子を引き寄せてそこに座った。ベッドの上で上体を起こした雪也がよく見える位置だ。
「………」
そして涼一は暫くの間、雪也の顔をじっと見つめたまま何も言おうとはしなかった。
「涼一…?」
それに堪らず、雪也が先に口を開く。何かあったのだろうか、一瞬そんな不安な気持ちが過ぎったが、何かあるも何も涼一はあの母と会いに行っていたのだから、むしろ何もない方が不思議なのだ。
雪也は申し訳ないように項垂れた後、涼一を窺い見るようにして言った。
「母さん…何か言ってた?」
「ああ」
簡素に答えた涼一のその声にドキリとした。
「な、何て…」
「んー…」
涼一はオドオドする雪也から一時も目を離さず、またしても曖昧に答えた後、どこか焦れたように雪也の手を両手で包み込むようにして握った。そうして雪也のその手を何度か摩るようにして触れた後、涼一は実に自然な動作でそこに唇を当てた。
「りょ…」
「何ていうかさ」
雪也に言わせず涼一は言った。
「まあ無茶な事を言わせてもらうとさ。雪に親なんかいなけりゃ良かった」
「え?」
「雪と血の繋がった奴なんかこの世にいなきゃいいんだよ。どっかさ、綺麗な草原の片隅に咲く花からぱっと零れ落ちる感じでさ、生まれてくんの。雪は」
「な、何の話…?」
「それでさ、生まれたきた雪は勿論俺が一番最初に見つけるの。雪には親もいない、知り合いもダチも何もいない。雪の世界には、ただ俺だけ」
「りょ…」
「俺1人」
「………」
たぶん自分を笑わせる為の冗談なのだろう、雪也は心でそう思いつつもうまく笑う事ができず、ただ目を見開いたまま沈黙した。涼一の方も笑ってはおらず、かと言って真剣な感じでもなく、ただ淡々としていて今は自分が触れている雪也の手のひらをじっと見つめている。だから雪也も大人しくされるがままに手のひらを差し出し、涼一の落とす視線に自分も目を落とした。
どうして良いか分からずに、ただ時だけが静かに流れているような気がした。
「お前にもう一回会いたいって」
その時、不意に涼一が言った。
「その他の事は心配すんな。あの腐れ野郎は俺が死ぬほど蹴り飛ばしてやったし…。もう二度と雪の前には現れないようにしておいたから」
「え……」
ぎくりとして一瞬で顔が青褪めた雪也に、しかし涼一はもうその「腐れ野郎」の事を口の端に乗せようとはしなかった。
そして雪也の手をぎゅっと握り直した後、涼一は言った。
「俺はもう誰が何と言おうとお前を俺の所へ連れて行く。本当は今すぐにでもこの町出たいよ。…でも、雪はそれ、ヤだろ?」
「俺……」
「お前のお袋に俺たちが発つ日を言ったよ。そしたら、その前にもう一度だけお前と会いたいってさ。しかもその時は俺抜きでとか言いやがって、ふざけんなって思ったけど。まあでも、雪がそうしたいって言うなら……そうしてやってもいいぜ」
「………」
「だって雪は俺と行くって言ってくれたんだからな」
「涼一…」
「別にさ、俺はお前ら親子を永遠に引き離そうって悪党じゃないぜ? ……まあ引き離したいけど」


でも雪がそうしたくないって言うなら、そうしなくてもいいし。
雪がそうしたいって言うなら、喜んでそういう風にしてやるよ。


涼一は不敵にそんな事を言った後、ここでようやくふっと笑んだ。
「………」
その笑顔に雪也は一瞬ドキリとした。涼一がひどく頼もしく、そして綺麗に見えたから。
「あーあと、ここの奴らも俺らが発つ前にお別れパーティ?だか何だかやりたいって。ったく、めんどくさい奴らだよな。康久とか護の奴まで呼ぶとか言ってよ! 未練がましいったらないぜ」
「護も?」
「……康久に反応しないで護にだけ反応するなよ」
素早くそんな事を言って唇を尖らせる涼一に雪也は「あっ」と言ったものの、けれどその後は何だか可笑しくてつい笑ってしまった。涼一は何が可笑しいのだと更にぶうたれていたけれど、雪也はどうしてか漏れた笑みを仕舞う事ができなかった。
ただ可笑しくて、嬉しくて。
そしてこれなら、今一度母に会う事もできそうだ、何となくそうも思えた。


許したわけじゃない。けれど、母は母だから。


うさぎが言ったその言葉を自分自身も繰り返し、雪也はぎゅっと目を瞑った。
「雪…」
涼一が何かを感じ取ったのか、そんな雪也の唇に指先で触れ、そしてそっとキスしてきた。
「……涼一?」
はっとして目を開くと、涼一はそんな雪也に喋るなと言わんばかりの態度でもう一度その唇に指先を当てた。
そしてどことなく偉そうに。
「雪。もう一回キスしよう?」
本当に偉そうに、そう言うのだった。
「……うん」
けれどこの時の雪也には涼一のその声が、言葉が、とても嬉しく感じられた。
「うん…したい」
だから素直に頷くと、雪也は了承と同時にやってきた涼一の影を静かに従順に受け入れた。



To be continued…


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