―52― そういえば俺がここに来た理由は言ったっけ?と、何気ない口調で言ってきた創は、その日は珍しく宿泊客の誰よりも酒量が多く、またグラスを空けるペースも早かった。 「ううん。聞いてない」 その時の雪也は那智が切り分けてくれたオーナーお手製のパンプキンパイをソファ席にいた創と康久、それに護の元まで届けたところだった。カウンターの所にはオーナー藤堂の他に、先ほどから焦ったように料理を皿に盛っては「失敗した」と何度もやり直しをしている那智、それを待ちきれずに大皿にある食べ物を手づかみでもぐもぐやっているうさぎ、そして自分の指定席から藤堂と何やらまたくだらない口喧嘩を始めた涼一がいた。 今夜の主役は雪也だからと、その晩の「お別れパーティ」の料理一切を取り仕切ったのはオーナーの藤堂だ。那智はあくまでも補助係、また外から果物やお菓子を調達してきたのは康久で、ビールやワインなどの酒類、それに店内を彩る花束を掲げてきたのは護だった。 創は「皆を代表して」と、雪也に飛行機で読む用の本を何冊かプレゼントしてくれた。またその本を包んだ紙にピンクの可愛いリボンをかけたのはうさぎという事だった。 俺には何もないのかと涼一はぶうたれていたが、その抗議に耳を貸した者は1人もいなかった。それどころかオーナーを先頭に集まった人間全てが「せめて最後の今夜くらいは雪也を独占するな」、「パーティの間は雪也の隣に座る事も禁止」と口を揃え、途惑う雪也を尻目にそう言われた涼一はすこぶる機嫌が悪かった。 ……幸せ者の強みなのか、公然と異を唱えたりはしなかったが。 「それ、俺も聞いた事ない。何なわけ?」 そういうわけで現在ソファ席で雪也を囲んでいたのは3人。最初に自身の話で口火を切った創、それに対して興味津々の態度を見せた康久、そして護である。 「そういや俺、前から思ってたんだよ。創って俺がここに来る前からいたみたいだけど、あんま心の傷って持ってる感じしないし。ホントただ単純にバカンスでいるのかと思ってた」 「俺をあそこにいる人と同じにしないでくれないかな」 カウンター席でオーナーと未だガーガーとやりあっている涼一を流し見しながら、創はそう言った康久にひどく苦い顔を向けた。康久は全く悪びれもせず「悪い悪い」と笑っていたが、雪也が差し出してくれたパイを手に取ると割に静かな目をして言った。 「けどさ、お前は俺とか那智さんと違って一回もわんわん泣いたりとか、何つーか…乱れたの見た事なかったし。俺、そういうの何か不平等だって思ってたんだよな。だってこのホテルって、心に傷抱えた奴が休む場所だろ? の割に、お前って何か達観した感じしてたし」 あぁそういう意味では護さんも、と、康久は雪也の隣でビールを空けている護の事をちらと見て笑った。 「俺、ここの住人じゃないよ?」 「それは分かってますけど。でも、ここにコーヒーは飲みに来てたじゃないですか。宿泊する程じゃないにしても、何か溜まってるもんはあったって事でしょ。ここの店に藤堂ブレンド飲みに来る奴って、やっぱ俺ら宿泊客の予備軍だって聞いた事あるもん」 「え…そうなの?」 雪也が驚いたような顔で護を見ると、当の頼れる青年医師は曖昧に笑っただけで何も言おうとしなかった。その代わり一気にグラスを煽ると、自分の目の前の席に座っている創に目をやった。 「今は俺の話じゃなくて創、だろ。最後に聞こうじゃないか。知的文学青年の悩みってやつを」 「嫌な言い方しますね」 「康久よりマシだろう?」 護が康久を見ながら言うと、当の康久はぶうと大袈裟に膨れて「何で」と抗議の声をあげた。 「別に俺は感じた事を言ったまでだって。なあ雪也だって不思議に思わなかった? 何で創がここに来たのか」 「それは…」 確かに、知りたいと雪也は思った。 康久ではないが、淦に来る住人は皆少なからず1度や2度や3度は部屋で屋上で、そしてこのカウンターのある店内で、みっともないくらいの大泣きを他の宿泊客たちに披露している。何を苦しんでいるのか何があったのか、その理由を話す事は基本的にはないのだが、それでもそんなところを日々互いに見ていれば、各々の酷く傷いた心を立て直すのには時間がかかる、ならば少しでも気を遣おう…と思うようになるのはごく自然な事だった。そしてそのうちにそんな同じ痛みを持つ人間同士が己の過去を話し、聞き合う事があったとしても、それは良い事でこそであれ、いけないなどという事はないはずだった。 それが創はどうだろう。彼はいつでも聞くだけだった。 うさぎや那智、そして時には藤堂の愚痴を聞き、時に適切なアドバイスをし、支えていた。無論、それは先日一足先にここを出た康久もそうだし、雪也もそうだった。或いは護ですら、創とは良き友人であり、良き相談相手でもあるように見て取れた。 そんな創が何故この淦という場所に長い事いたのか。うさぎがいたからというのもあるが、何かまだ。 まだ何かがあるような気がして。 「知りたい…な」 雪也がぽつりと言うと、創が眼鏡の奥で実に物珍しいものを見たという目をしてみせた。 そして背後にいる涼一をちらと見た後、ふっと口元に笑みを浮かべて。 「息抜きにね」 何でもない事のように創は言った。 「これでも潜水には自信があるんだ。だから長い事ずっと息を止めて暮らしてた。深海だって慣れればそれほど悪い所でもないしね。けど、さすがに酸欠状態になって…うさぎの事は口実さ。むしろ俺があいつを利用して国を出てきたと言っていい」 「ん〜? 何かよく分からんが…」 パイを食べる手を止めて康久が大袈裟に首を捻った。雪也にも「今の意味分かるか?」などと訊いてきたが、雪也もうまく答える事ができなかった。 分からない、とまでは思わなかったが。 「はは、でも創、それって」 すると護が突然可笑しそうに目を細めて笑った。創が瞬時に嫌そうになったが、先を言う護を止めようとはしなかった。 だからだろう、護はわざと大きな声で言った。 「お前、それじゃ涼一と同じ理由じゃないか」 大丈夫かと、涼一だけでなくその場にいた全員が心配そうに言ってくれたけれど、雪也はきっぱりと「大丈夫」と返す事ができた。 皆で飲んで食べて、そして語って。 随分と楽しい思いをしたし、その間に昨夜以上の勇気が身体に湧きあがっているのを感じていたから。 「雪也」 だから雪也は突然店に入ってきた母の美奈子を見てももう驚かなかったし、「外で2人で話したい」と言った彼女にもすぐに頷く事ができた。 「雪也」 そんな母は淦のある裏通り、袋小路になっている赤レンガの壁の一角に背中を寄りかからせ、見上げた先に浮かぶ明るい月を虚ろな目をして眺めていた。彼女の手にはいつもの煙草があったが、それは1度も口に運ばれる事なく、ただちりちりと白い灰が地面に落ちていくのみだった。 「雪也」 3回。 美奈子は意味もなく雪也の事を呼んだ。 「うん」 同じく3回目、雪也が「何」と返答すると、母の美奈子はそんな息子へは視線をやらず、実につまらなそうに言った。 「水嶋の奴、何を言われたのかは知らないけど、血相変えて国に帰ってったわ」 「………」 「やっぱり金持ちは違うわね。あのお坊ちゃんに命令されてやって来た上等のスーツ軍団。一体何なのかしら。別に水嶋を脅したようには見えなかったけど、でも何かやばいネタ掴まれてたのは間違いないわよね。あ、それにあの坊ちゃんには散々蹴り飛ばされててひーひー言ってたわ。あれだけはちょっと面白かった」 「………」 「安心しなさいよ。別にホテルの奴らも黙認だったから。警察沙汰にはならないし。水嶋本人があれじゃあね」 「母さんは…」 あの男が好きだったのかと訊こうとして、けれど雪也は口を閉ざした。壁に寄りかかる母の左斜めの位置に立ち尽くしたまま、じっと物憂げなその横顔を観察する。生気のない顔。昨夜も思ったけれど、やはり少し小さくなったように見えると雪也は思った。 「あんな男のどこがいいのよ」 黙る雪也に母が言った。またぽとりと煙草の灰が落ちた。 「顔もいいけど、お金もあるけど、権力も欲しいままだけど。でも、それっぽっちじゃない。それだけの男じゃない。お母さんのアタシの方がアンタは絶対好きなはずよ」 「母さん…」 「アンタのお母さんはアタシでしょ。アタシの方が好きでしょう?」 「………涼一と行くよ」 「……なによ」 遅れながらもしっかりそう言った雪也に、美奈子は不貞腐れたように一言返した。 しかしそこに一昨日の晩見せたような半狂乱な様子はなく、母はそんな答えは言われなくとももう分かっているというような、どこか諦めと悟りの混じったような顔をしていた。 だから雪也はもう1度言った。 「手紙書くよ」 「いらないわよ」 すぐに返された言葉にも怯まなかった。 「電話もする」 「出ない」 「写真…送ってもいい?」 「………」 「涼一が言ったんだ。涼一が住んでいる所、窓から綺麗な海が見えるって。俺、そこの写真撮ったら母さんに送るから。返事なんかいらないよ」 「当たり前よ、返事なんか…。別に、書かないし」 「うん」 「アタシは手紙も電話もしてあげないわよ」 「うん」 「会いにだって行ってあげないわよ」 「……うん」 「寂しくなったって……アタシは知らないわよ」 「………」 「アタシは……どうせ、誰か見つけて、そいつといるし」 「………」 「そいつと恋愛して、もしかして結婚するかも」 そう言った後、母は「あはっ!」と、何かを吐き捨てるような投げ遣りな笑いを飛ばした後、むっつりとした視線を雪也に寄越した。 そして言った。 「でも、もう子どもは生まない」 雪也が何かを言う前に母は言った。 「アンタ以上の出来た子どもは、もう作れそうもないしね」 その翌朝、雪也は涼一と共にホテル「淦」を出た。 |
To be continued… |
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