―6― いつもより一回多く洗濯機を回し終えてから、雪也は建物の屋上で大きく伸びをした。 ここから吹く風が好きだ。 それに、どこまでも突き抜ける青い空の下で洗濯物を干す事も雪也は嫌いではなかった。いや、むしろ好きだと思っていた。 黒いロープを2本、屋上の入口から向かって両端にそれぞれ張り、雪也は宿泊客たちの洗濯物を干し始めた。女性である那智とオーナーの藤堂(この場合、オーナーを女性だと認識している者は雪也と当人の他には創だけだったりするのだが)は、男である雪也に洗濯をされる事を好まない為、ここで干すのはもっぱら男性陣の物のみとなる。 1号室の創とうさぎはほぼ毎日決まった時間にそれらをランドリーの籠に入れて行くが、4号室の住人、康久は違う。創たちと同様毎日少しずつ頼む時もあれば、一回で一週間分の下着やTシャツをドサッと渡してくる時もある。今日は彼が後者の事をしてきた上に新しい住人・涼一の物もあった為、いささか干す量も多めであった。 「こんな所があったんだ」 その時、ガゴンと重い鉄扉の開く音がして、屋上の入口から涼一が顔を出した。 少し強めの風に目を細め、すっと歩いて来ると錆びついた鉄柵に肘を乗せて辺りの風景をじっと見詰める。 「汚ねぇ町」 雪也に背中を向けて涼一はそれだけ言った。 「………」 そんな涼一の後ろ姿を暫く眺めていた雪也は、一瞬声を掛けようか悩んだ末、沈黙を守って洗濯干しを再開した。丁度昨日涼一が着ていたTシャツを干すところだった。汚れきっていたそれは、今はもう真っ白に石鹸の匂いすらさせて雪也の手の中にある。 「なあ」 涼一が声を出した。 「あんた。何でここにいんの」 「え……」 ここでは互いにそういう話はしない事になっている。 無論、そう決められたルールがあるわけではないし、創や康久などは割としれっとした態度で雪也にその事を訊ねてきたりもする。それは決して悪気があるわけではなく、話の流れ上自然の成り行きでだったり、2人が雪也に対して好意を持っている証だったりするわけだが。 けれど、雪也がここにいる理由を知っているのはオーナーの藤堂だけだ。 他の誰にも話した事はない。 話すつもりもない。 「……どうした?」 何も応えない雪也に涼一が顔だけ振り返ってきた。 「あ…」 「言いたくないわけ?」 「あ…はい…」 雪也が申し訳なさそうに頷くと涼一は鼻で笑い飛ばし、再び視線を風景へと戻した。 「別にいいよ、それならそれで。言いたくねーって言えばいいじゃん」 「………」 「俺があんたなら昨日今日現れた奴にンな事いちいち言うかよ。他人の生活に踏み込むな、くらいは言ったかもな」 「……なら、どうして」 「ん?」 「そんな事訊いたんです」 「あんた、お人よしだろ。ぺラッと喋るかと思ってさ」 悪びれる様子もなく涼一は言い、そして1人で笑った。 それからくるりと振り返ると雪也をちらと見つめ、涼一は使わない工具やら何やらを入れてある長方形の錆びた四角い鉄の箱に腰を下ろした。 雪也もよくそこに座って外の風景を眺める事があった。うさぎなどは鉄柵を越えたコンクリート面に直接座って足を下へぶらぶらさせるのが好きだったりするのだが。 いずれにしろ、客たちはこのホテルの屋上が好きだ。初めての者も大抵すぐにここを見つけて自分の気に入った場所を確保する。 ここには特に目を見張るものはないけれど、胸にくる何かはある。雪也もそれが何なのかを考えたりするのが好きだった。 暫く互いに黙ったまま、雪也は洗濯物を干し、涼一はその場で景色を眺めていた。 そして籠から干すべき物がなくなった時、雪也はふと涼一の手の甲を見つめてはっとした。 昨日の傷口がやはりまだ痛々しく見えた。そういえば、救急箱を涼一の部屋から取りに戻るのもすっかり忘れていた。 「………」 今なら言っても大丈夫だろうか。 途惑いつつ、しかしまた煩いと言われるのも嫌で雪也は困ったようにその場に突っ立っていた。 「……何?」 すると見つめられているのが背中越しでも分かったのか、涼一が不審な顔でちらと振り返ってきた。 雪也は慌てて首を左右に振った。そして誤魔化すように口を継ぐ。 「今日…夕飯、何にしようか考えてて」 「ああ…。毎日考えるのって大変そうだな」 あっさり納得すると涼一は頷き、それからふうと天を仰いだ。その様子がどことなく心ここに在らずという風体で、雪也は「ああ、この人もやっぱり同じなのかもしれない」と思った。 だから罵倒されるのを覚悟で言った。 「傷…」 「……え?」 「その手の傷。化膿すると厄介だから、やっぱり消毒液くらいは塗っておいた方がいいですよ」 「……は、またか」 あんたもしつこいなという風に涼一は苦笑し、それから傷を負ったその手を空にかざした。何とも感じていないようなその姿に雪也は眉をひそめた。 しかしもう一言だけ注意を促そうとしたその時。 「手当てしたいなら勝手にすれば?」 「……え?」 まるで他人の事のように涼一は言った。そして試すような目で雪也を見ると、またふいと視線を逸らしてそれきり黙ってしまった。 「……今、薬持ってきますから」 涼一は応えなかった。 しかし拒絶もされていないのだ。雪也は洗濯籠もそのままに、慌てて屋上のドアへ向かい、階段を下りる間際再び涼一に視線をやった。 ドアが閉まる寸前、その背中だけが雪也の視界に映る。何を考えているのか、涼一はただ空を仰いでいた。 深くは立ち入るまい。けれど、きっとこれくらいはした方が良いのだ。 自らがここにやって来た時のことと重ね合わせ、雪也はきゅっと胸を痛めた。 |
To be continued… |
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