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剣涼一という新しい客が加わってから一週間が経った。
ホテル「淦」は相変わらず淡々と時を送っている。静かだ。オーナーの藤堂はいつもの如く店のカウンター席で読書に勤しみ、康久は日中のアルバイトから帰ると夜は食事の後片付けをする雪也を構いたがった。雪也はそんな康久をはじめ、皆の世話をする。いつも通りだ。
しかし変わった事もあった。
今までは殆ど外へ出る事もなく、オーナー同様読書に大半の時間を費やしていた創がうさぎを連れ頻繁に外出をするようになったのだ。本人は「社会勉強だよ」と言ってそれ以上の事を話さないが、それによってうさぎが不機嫌になっているのが雪也には気に掛かった。
そして、気に掛かっている事と言えば、もうひとつ。

「今日も那智は部屋から出て来ないのかい」

夕食時、カウンターから真向かいのソファ席を見やってオーナの藤堂が言った。
雪也がキッチンから頷いて見せると、既に食事を開始している康久が何ともないように言った。
「俺はただ照れてるだけだと思うよ。那智さんは繊細だからね」
「君と違ってね」
「はっ…創、テメエ〜」
自分の隣のソファ席で黙々と食事をしている創に睨みをきかせてから、康久はカウンター席にいる涼一の背中を眺めて続けた。
「涼一が来てからじゃん? 那智さんがここでメシ食わなくなったの」
「……俺?」
康久に名前を呼ばれ、涼一は驚いて振り返った。
ホテルにやってきた初日こそ皆との食事を拒んだ涼一だったが、元来の性格なのか、周囲の空気に馴染むのは実に早かった。今では既に創や康久、無口なうさぎとすら何がしかの会話を交わしたらしい。また、人好きのする康久とは特に馬があったのか、涼一は時々この店内で康久と親しく話をする事が多くなっていた。
このホテルへ来た理由は話していないようだけれど。
「俺、その人に何か悪い事したわけ」
背の高い丸椅子をくるりと回し、涼一は身体を康久の方へ向けると怪訝な顔で訊いた。
「その那智って人、話した事まだ一回もないんだけど」
「あー、別に涼一のせいじゃなくって。な、オーナー?」
「……そうだね。新顔のあんたにまだ慣れていないだけだよ」
「ふうん」
興味なさそうに相槌を打った後、涼一は再び席に向き直り食事を再開した。
創は黙って食事を続けている。
うさぎも黙々とフォークを動かしている。ちなみに、いつもは雪也の近くにいたくてカウンター席を陣取るうさぎだが、今夜は涼一によっていつもの席を先取りされてしまったせいか、創と一緒にソファ席に座っている。
雪也は彼らの食事風景を見やってから、トレイに那智の分を乗せてキッチンを出た。
「その人の所? また?」
するとすかさず涼一が階段へ向かおうとする雪也に声をかけた。
「雪也だってまだ食べてないじゃん」
「あ…俺は後で」
「冷めるよ」
「だから早く那智さんにも持っていかないと」
「……呆れるね」
害のある言い方ではなかったが、雪也はそう言った涼一を困ったように見つめ、それから力なく笑んだ。どう応えて良いか分からなかったし、何を言っても言い返されそうな気がしたから。



「そういえばさあ。あんた、名前は何て言うんだっけ」
涼一がホテルにやってきた2日目。
洗濯を終わらせた後、屋上で自分の傷の手当てをする雪也に涼一は思い出したようにそう訊いた。
「雪也…ですけど」
「ユキヤ? ふーん。もしかして字はこうなの?」
屋上のコンクリート面に転がっていた軽石を掴むと、涼一はカツカツと軽快な音をさせて地面に雪也の母国の字を書いた。
「そうです」
雪也が頷くと涼一は少しだけ得心したように笑った後、ふっとそれを消して真面目な顔をした。
「……なあ。雪也」
「はい?」
そして涼一は言ったのだ。
「俺さ、外の世界で敬語使われるのに慣れててさ。そんで、それにすっげ虫唾が走るって言うか、むかつくって言うか。だからたとえここの小間使いやってようが何だろうが、その話し方やめてくれな」
「え……」
「イラつくからさ。そうやって何か卑屈に下ばっか向いてる奴も」
「………」
「頼むな」
そして涼一は薬を塗ってもらった手を再び空にかざすと、「サンキュー」と明るい声で言った。



それ以来、涼一という人物に徐々に慣れていく皆とは逆に、雪也は彼とうまく話す事ができなくなっていた。
「雪也。俺も行っていい?」
「え?」
トレイを持って階段を上りかけた時、突然その涼一が雪也の元に足早にやって来てそう言った。
「行っていいだろ?」
「那智さんの所…?」
「そう。俺、その人とまともに話した事ないし。何ならそれ俺が持っていってもいいけど」
「それは…」
言い淀む雪也に涼一は素早く返した。
「駄目だろ? なら後ろからついていくだけ。別に何も悪いようにはしないよ」
「………」
縋るように遠目からオーナーの背中を見つめたが、彼(女)がこちらを見る様子はなかった。
雪也は諦めたように頷いてから、再び階段を上り始めた。
人には鬱陶しく構ってくるなと言っておきながら、今や涼一は宿泊客たちと気さくに話をし、そしてこうして皆と食事を摂ることも厭わない。
昼間こそ外に出ようとはしないが、それでも屋上に来て洗濯物を干す雪也に話しかけたり、夜は康久と談笑する。そうして今は話したがらない那智とも話したがる。一体どういう人なのだろうと雪也は思う。
「雪也」
その時、涼一が不意に声をかけてきた。
「え?」
慌てて振り向くと、涼一は無表情ながら首をかしげ、そして言った。
「その那智って人のこと随分気に掛けてるようだけど、その人は雪也の彼女?」
「ま…っ」
まさかと言おうとして、けれど雪也は驚いたせいで取り落としそうになったトレイを持ち直すのに必死で言葉を出すのが遅れてしまった。
すると涼一はそんな雪也の様子を見つめ、急に憮然とした顔になった。
「露骨に照れるなよ。恥ずかしい奴」
「そ、そういうわけじゃ」
「じゃ、何?」
「か、彼女とかじゃなくて…」
「違うの? なら片想い?」
「………そういうわけでも」
実際雪也が那智を心配するのは、ホテルにやってきたばかりの涼一を心配したのと大体同じような理由からだった。しかしそれをうまく説明できる自信がない。
雪也は口篭ると黙って階段を上り、右手奥にある3号室に目をやった。
那智は涼一が部屋に入ってきたら驚いてしまわないだろうか。
「……なあ、おいって!」
「え?」
「さっきから呼んでる。何ぼうっとしてんだよ」
「あ、ごめ…」
「ったく、トロイんだからな」
「………」
呆れたように言われて雪也はしゅんとして俯いた。
早々にホテルの宿泊客たちと打ち解けていく涼一。
けれどその涼一は何故か雪也にはいつもどことなく冷たかった。厳しい声やキツイ言い回しで面白くなさそうな顔をする。嫌われていると思った。
理由は明白。
恐らく雪也という人間が涼一という人間に「合わない」為だろう。
「また。何黙ってるんだよ」
「あ……」
落ち込んでいる雪也に涼一はますます不機嫌そうな顔になって唇を尖らせた。
そして言った。
「康久が言ってた通りだな。雪也は人が良過ぎる」
「そん…」
「けど」
否定しようとする雪也を止めて涼一は言った。
「けど、その割に自分を誰にも近づけない」
「……っ!」
はっとして雪也はそう言った涼一を見つめた。
自分の傍に立つ涼一はひどく真面目な顔をしていた。そして、どこか探るような目をしていた。
雪也は咄嗟に目を逸らした。
そうして、やはり那智は涼一のような人間に会ったら困るかもしれないと思った。



To be continued…