―8― ノックをしてから数秒後、その声は返ってきた。 「雪也さんですか」 「はい」 「どうぞ」 了承を得てから部屋の中に入ると、3号室の住人・那智はベッドに腰かけて膝の上に読みかけの本を置いていた。 朝食時に会った時と同様、那智は長い黒髪を後ろで1つに結わえ、くすんだ深緑のトレーナーに黒いズボンを穿いていた。年齢は雪也より5、6才程上、それでもまだ20代後半だというのに、彼女の黒縁眼鏡の奥で光る目はずっと疲れている。たまには外に出た方が良いのではと、雪也は彼女を見る度に自分の事を棚に上げて心配な気持ちになる。 「夕食を持ってきました」 那智の部屋は入ってすぐ目の前に本棚、その左手にベッドと小さな丸テーブルがある。そこに食事を置きながら雪也が今夜のメニューを言うと、那智はへこりと頭を下げた。 「雪也さん、いつもすみません」 「いえ」 「……いつもご迷惑をお掛けして、本当にすみません」 「平気ですって」 那智の言葉に雪也は苦笑する。 彼女はいつも最低2回は謝らないと気が済まないようで、雪也がいくら大丈夫だと示して見せても申し訳なさそうな表情を崩さない。 じっと下を向いたまま、那智は何処でもない所を見つめていた。 「冷めないうちにどうぞ」 「はい。頂きます」 「………」 「………」 「……那智さん」 「はい」と言いつつもなかなか立ち上がろうとしない那智に、雪也は視線を変えると手元の本を示して言った。 「今日は何を読んでたんですか?」 「あ…創が貸してくれたんですけど…ベルギーの童話です。私、元々本ってそんなに好きでもないものですから、創が『ならこれくらいなら読めるだろう』と」 那智と1号室の創は従姉弟同士だ。彼女をこのホテルに呼んだのも創らしい。どういう経緯でここへ来たのかは、彼らよりも後から来た雪也には分からないのだが。 「どんな話なんですか?」 読書家の創が無口で篭りがちの那智に本を貸す場面を想像しながら雪也は訊いた。 那智は薄っすらと笑みを浮かべるとすぐに答えた。 「とても温かいお話です。女の子が病気になったお友達の家へお見舞いに行くんですけど、そのお見舞いの品に何を持って行こうかあれこれ悩むのが微笑ましくて」 「そうですか」 「私、この女の子の気持ち、凄く良く分かるのです。いつも一緒にいて、その子の好きな物、何でも知っているはずなのに…。その子の好きな食べ物、好きな花、好きな色、好きな遊び…。でも、何が1番喜んでもらえるかと改めて考えるとすぐに答えが出てこない…。勿論、1番じゃなくても良いんだと思います。何でも嬉しいと思います。でも、やっぱり贈る方は考えますよね。……難しい事だと思うのです」 「そうですね」 雪也が相槌を打つと、しかしドアの方から「そうかな」と別の声が返ってきた。 「ひっ」 「あ……」 那智がびくりと肩を揺らし、ドアの方へと視線をやる。 雪也は困ったようにそこからゆっくりと現れた涼一を見やった。 「俺は別に難しい事とは思わないけど」 「あ…あ……」 「あの、那智さん…」 見知らぬ人間が突然自室に入ってきた事に、当然の事ながら那智はすっかり怯えてしまっている。 もっと早くに涼一の事を話すのだったと雪也はすぐさま後悔した。 「那智さん、この人は――」 「剣涼一」 雪也が紹介する前に涼一は自分で名乗った。 壁に片腕を寄りかからせた格好で、涼一は那智と適度な距離を取りつつも明るい声で言った。 「この間からここに泊まってるんだけど、俺の話って聞いてるよね」 「………」 那智はすっかり固まって動けなくなっている。涼一からあからさまに視線を外し、ただ蒼白になって俯くだけだ。 しかし涼一は構わずに続けた。 「那智さん、だよね。俺が来たせいで皆とメシ食わなくなったってホント?」 「つ、剣…」 あまりにもストレートに物を訊ねる涼一に雪也はたまらず声を掛けた。 しかしやはり涼一は構わない。 「迷惑なら俺、時間ずらしてメシ食ってもいいし。逆に俺が部屋に入ってもいいけど。知らない人間って怖い?」 「………」 返事はない。ハラハラする雪也に、けれど涼一は淡々としている。 「あのさ、それで今の話だけど。那智さんも言ってたじゃん。別に1番じゃなくても、きっと何でも嬉しいと思うって。そりゃー病気の時って我がままになるし、欲しい物持ってきてくれないといじける事もあるんだろうけど。誰かが自分の事気にして何か持ってきてくれたら、その気持ちが1番なんじゃないの」 「………」 「簡単じゃん」 そして涼一は自分の方をてんで見ようとしない那智に向かってにっと笑った。 「それにさ、あーだこーだ悩んでいる分だけ、見舞いの時間は減っちゃうわけだろ。それってつまんないじゃん。だから早く行ってやるのが1番のプレゼントって言うか」 「………」 「あー、でも。ここまで言っておいて何だけど、俺は何もしてくれない方がいいなあ」 「え?」 これには雪也が途惑って思わず聞き返した。涼一はそんな雪也をちらと見てから、再び那智を見て笑った。 「だってめんどくせーもん。折角静かに療養してんのに、また誰か来たら色々気ィ遣わなきゃなんないしさ。病気の時くらいゆっくり寝させてもらいたい」 涼一の言葉に雪也は眉をひそめた。涼一はどこか悪いのだろうか、そんな思いが脳裏を過ぎる。 「雪也は?」 「え?」 しかしその考えはすぐに涼一によって打ち消された。 「あ、言っとくけど俺は健康体だから。ここに来てんのはたまの道楽だよ? ところで雪也は、もし自分がぶっ倒れて入院したら何が欲しい?」 「俺…?」 突然振られて雪也は焦って何度か目を瞬かせた。 自分が入院している所などあまり想像した事がない。ましてや誰が見舞いに来てくれるのかなど。 「そ。何が欲しい?」 「うん…」 困っていると不意にベッドの方からぽつりと声が漏れた。 「私……」 那智が声を出した。いやにか細い、震えた声色だった。 「私は、花がいいんです」 「花?」 涼一がすぐに反応すると那智はゆっくりとだが確かに頷いた。 「この部屋は暗いですから…。花があったら…いいなあと…。でも、私にはそういう欲しい物があるけれど、やはり相手は…あの、あ、貴方のように…来て欲しくないと思っている事もあるわけで…。いろいろ考えると難しいなと…」 「それ、考え過ぎ」 涼一はそう言って苦笑した後、ドアの方へ歩いて行って出口から再度那智に声を掛けた。 雪也がいる位置からはその涼一の顔は見えなかったが、きっと自信に満ちたあの目をしているのだろうなと思った。 「ま、そういうの否定する気はないけど。那智さん、俺の事は涼一でいいから。ホテルのどっかで会ったら一応よろしく」 「……しく、お願いします」 最初の方はよく聞こえなかった。 しかし那智は去っていく涼一に確かにそう言い、それからちらと雪也に上目遣いの視線を寄越した。 途惑いに満ちた、けれど驚きの方が大きい目で。 雪也はそんな那智にただ優しく笑むことしかできなかった。自分とて、あの剣涼一という人間の事はまだよく分かっていないのだ。どう接すれば良いのかなど、こちらの方が訊きたいくらいで。 雪也が部屋を出ると、階段の所には待ち構えたような顔をして涼一が立っていた。 「まずかった?」 「何が…」 「ああいう態度」 「いや…」 雪也が首を振ると涼一はふっと笑んで先に階段を下り始めた。雪也がそれに続くと、不意に素っ気無い声で涼一は言った。 「俺も引きこもりになったら、あんな風に読んでた本の内容訊くの?」 「え?」 「まったく笑っちまうな」 「………」 何が笑えるのか雪也には分からなかった。 ただ「笑える」と言いつつも一向に笑う様子のない涼一に、雪也は、もしかすると彼は今凄く不機嫌なのだろうかと確信なく思うのだった。 |
To be continued… |
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