(3)
目覚めた時、白い空間の中に京一がいた。
「 龍麻…龍麻…」
必死に自分のことを見つめ、つぶやくように名前を呼んでいる。
そして、もしかして…泣いていたのだろうか。目が微かに赤く、濁ったような瞳を宿している。
そんな京一の姿を見たのは初めてだった。いつも真っ直ぐ、ひるむことのない顔を自分には見せていた。弱気な表情など、京一には似合わないと思う。
それなのに。
「 死なねえ…死ぬわけねえよ、お前が…」
京一の声がどんどん遠くなっていく。なくなりかけた手の感覚に、しかしわずかに温もりを感じた。京一が自分の手をとってくれたのだと分かった。
京一…。
応えてやりたかったが、龍麻は再び意識を闇へと向けた。
龍麻が柳生に斬られ、重症を負ったのは、自分の出生の秘密を龍山によって明かされ、道心や劉と出会ったすぐ後のことだった。
柳生の存在はいつも身近に感じていたし、彼と遭遇したことは龍麻にとっても驚くべきことではなかった。或いは自分の出生の話ですら、龍麻にはさして衝撃を受ける事柄でなかったかもしれない。自分の力や本当の両親のことについては、何となくだが感づいているところもあったから。
それでも、あの男の圧倒的な力や自分に秘められた力、決められた運命のことを考えると、このまま目が覚めなくても良かったと、龍麻は病院の白い天井を眺めながらぼんやりと思った。
「 龍麻…気がついたのね、良かった…」
その時、不意にすぐ横から聞き慣れた声が龍麻の耳に届いてきた。
美里だった。
「 大丈夫…? どこか、痛むところはない?」
「 ……」
黙って美里を見つめると、彼女は泣きそうな顔になりながらも、そっと龍麻の額に手を当てた。
心地よい感触だった。
「 ずっと眠ったままで…岩山先生は大丈夫だって仰って下さったけど、龍麻がこのまま目を覚まさなかったらって、私…」
美里の優しい瞳がこちらに向けられている。龍麻はすぐにでも起き上がってこの場から立ち去りたい気持ちになった。
けれど、飛び出した言葉は。
「 心配…かけたね。もう大丈夫だよ」
「 龍麻…」
美里の安堵したような、嬉しそうな顔が見えた。また一つ、これで自分を救ったと龍麻は思う。
「 あ、私、みんなを呼んでくるわね」
美里が急に思い出したように言った。
「 みんなって…?」
龍麻が訊くと、美里はにっこりと笑んだ。
「 みんな、よ。みんな、あなたが目覚めるまでずっとここにいたのよ。岩山先生が大人数で病院に居座られたら困るって散々注意されてたのだけど…。だから、病室には順番に一人ずつ、ね」
美里はここで初めていたずらっぽく笑むと、恥ずかしそうにつけ加えた。
「 私がいる時に龍麻が目を覚ましてくれて嬉しい…。私、ずっと祈っていたから…。あなたのこと」
「 …ありがとう」
「 ううん…」
美里は頬を軽く染めて、それからすっと病室を出て行った。
軽くため息をつく。
やがてどかどかと足音が近づいてきたかと思うと、外から聞き覚えのある大声や歓声、ホッとしたような空気がこちらに流れてくるのを龍麻は感じた。
龍麻の身体の回復は、医師・岩山の予想を遥かに越えていた。
元々鍛えられていたからということもあるのだろうが、「選ばれた人間」だけが持ち得る何かが、そこには介在していたようにも感じられた。
「 もうすぐ退院だよねっ」
病室に新しく持ってきた花を花瓶に生けながら、桜井が嬉しそうに言った。病院と学校が近い京一、醍醐、美里、それに桜井は、皆で一緒に来ることもあれば、こうして一人で突然見舞いに訪れることもあった。もちろん、この病院の看護士である高見沢や、駅から一つ二つと近場に家がある仲間たちは、学校の帰りや、時には学校をサボって龍麻の顔を覗きにこの桜ヶ丘の病室にやってきていた。
だから龍麻はここ数日、ほとんど一人でいることがなかった。
必ず、誰かと会話をしていた。
「 ひーちゃんがいないとさあ、学校も何だかすっごく暗いよ。ボクたちだけじゃなくって、クラスのみんなも、アンコたちも、つまんなそうな感じだもん」
桜井は龍麻に背を向けたまま、生けた花の角度をあちこちいじりつつそんな事を話し続けた。
「 特に〜葵と京一! 暗くて、ホンットしょーがないんだから。ひーちゃん、もうすぐ戻ってくるんだからって何回も言ってるのにさ」
「 うん」
「 でしょ! ホント、浮かない顔でさあ…」
言いながら、桜井の声が段々と小さくなっていくのを龍麻は意識していた。
いつも明るく元気で、みんなのムードメーカー的存在。能力も男顔負けのものを持っていて、誰かが傷つきそうになれば、真っ先に助けに向かう、そんな少女だった。
自分とは、やはりまったく正反対の存在。
そんな桜井が病室に入ってきた時から、何だか悩んでいるような顔をしていることは、龍麻にも分かっていた。ただ、気づかないフリをして通り過ぎられるものなら、そうしたかった。
「 あのさ、ひーちゃん」
しかし、振り返ってこちらを見た桜井の顔は、それを許してくれそうもなかった。
「 あのさ、あのさあ…。ひーちゃんは、好きな人っている?」
「 え…」
気のない返事をしたような龍麻に、桜井は焦ったように両手を振った。
「 あっ、え、えーと、ほら! ひーちゃんってモテるじゃん! クラスの子だけじゃなくて、ボクの部の後輩なんかもみんな心配しててさ。そういう話から、ひーちゃんって、彼女とかいるのかなあって話になって…」
「 ……いないの、知ってるじゃない?」
「 あっ、うん。だからボクは誰かに訊かれると別にいないよって言うんだけど、じゃあ好きな人はいるのかって…」
「 ……部活の後輩が訊いた?」
「 ………」
ウソのつけない桜井は、ここで黙った。
やがて一呼吸置いて言う。
「 ううん…。そりゃあ、訊いてくる子もいるけど。ホントは、そのこと知りたいって思っているのは、ボク」
「 桜井が?」
龍麻が問い直すと、桜井はやや赤面して俯いた。
「 …うん。ひーちゃんが何考えているのかとか、ボク、すごい知りたいもん」
「 ………」
「 ひーちゃんが誰を好きで、誰の為に戦っているのか知りたい。みんなの為だって知ってるよ。この街のために、ひーちゃんが頑張ってくれてるのも、よく分かってる。でも…でもさ、こんなに傷ついて、大きいもの背負って、ひーちゃん、それでも誰にも何も愚痴一つ言わない。弱音も吐かないじゃないか。そんなの、ひーちゃん、いつか倒れちゃうよ? せめて、ボク…ううん、葵でも醍醐クンでも、それこそ、京一には、ひーちゃんの気持ちを言ってほしいって―」
「 何言ってるんだよ」
龍麻は必死に言葉を紡ぐ桜井の声を、やんわりとした、しかし威厳のある声で制した。
驚いて顔を上げる桜井には、静かな優しい笑みを向ける。
「 ごめんな、そんな心配かけちゃって。でもさ、お前らしくないよ、そんなこと言うのって」
「 な、何言ってるんだよっ! だって、ひーちゃん―」
「 俺だって、別に聖人君子じゃないんだから、弱音だって吐くし、嫌になることだってあるよ。でも、みんなが支えてくれるから、こうやって生きてられるんだろ」
胸の奥で抑えようのないむかつきを感じながらも、龍麻の声は実によく抑揚がとれていた。
「 別にさ…我慢してるとかじゃなくて…。今は、ホントに好きな人とか、そんなこと考える余裕がないだけ。それでも敢えて誰か特定の人間を挙げてほしいって言うなら…」
龍麻は言ってから、桜井の方を真っ直ぐに見つめて言った。
「 桜井や京一や…俺を助けてくれるみんなが好き…かな」
「 ……」
桜井は暫く黙った後「分かった」と答え、それからいつもの笑顔になると明るく言った。
「 じゃあ、退院したら、みんなでおめでとうパーティーしようね! 知ってた? 明日は、クリスマスイブなんだよっ」
「 クリスマス…」
「 たか子先生は、『クリスマスは、あたしと2人きりで過ごしてもらうよ、うひ、ひひひ』とか言って笑ってたけど」
桜井は岩山の話し方を真似ながら、おどけたように言った。
「 クリスマスは無理でも、退院したら、その日をクリスマスにしてみんなで盛り上がろうよ、ねっ!」
「 そうだな」
「 やった、約束!」
桜井はそう言って、龍麻と指きりをすると、ぱたぱたと勢い良く病室を出て行った。
風がなくなり、白い病室が一気にしんと静まり返った。
「 ………」
龍麻は桜井と絡めた自らの指を眺めた。それから、その手のひらをぎゅっと強く握り、うつむいた。
その日の夜に、龍麻は岩山から「明日の午後」退院をしても良いという許可を貰った。
「 まったく、恐ろしい回復力だねえ」
岩山は感心する、というよりはむしろ呆れたようにそう言った。
「 傷の癒え方もフツーじゃないよ。まったく、若いってのは…」
「 先生のおかげです」
「 うひっ。かわいいことを言ってくれる」
岩山はにやりと笑ってから、100キロは裕に越すであろう巨体をベッド横の椅子に下ろした。
「 まあだからと言って無理はするんじゃないよ。お前のその身体はお前だけのもんじゃあない。分かっているとは思うが」
「 はい」
「 で?」
「 ……何ですか?」
何かを問いただすような顔をした岩山に、龍麻は顔を曇らせた。
「 いや、明日はクリスマスイブだろう。誰かと約束したりするんじゃないのかい」
「 いえ、別に…」
「 ふん」
龍麻の素っ気ない答えに、岩山は何かを知っているかのように鼻息を荒くした後、ちらりとそんな自分の患者を眺めた。
「 ……じゃあ、退院のことは別に誰に知らせることもしないよ。お前さんの退院が決まったら、すぐに報告してくれと頼まれてはいたが」
「 誰にですか」
「 みんなにだよ」
岩山の答えに龍麻はしばらく黙った後、「…ちょっと、一人で考えたいこともあるし」と、言い訳のようにつぶやいた。
「 ま、答えはそんなに簡単には出ないさ」
岩山が突然言った。はっとして顔を上げると、岩山はもうドアの前にまで行っていた。
思わず、呼び止めた。
「 先生…」
「 ん…?」
振り返った岩山に、龍麻は視線を合わせずに小声で訊いた。
「 あの…みんなって…翡翠は…如月翡翠は、いましたか…?」
「 如月…?」
龍麻の質問に、岩山は訳が分からないというような顔をして、眉をひそめた。龍麻が慌てて訂正しようとすると、岩山は突然手を叩いて思い出したように言った。
「 ああ、あの坊やかい。あれも綺麗な顔したコだったねえ。どうしてお前たちの周りには、こう…」
「 あの…」
「 あ? ああ、そうそう。いたよ。お前の手術の後、心配する仲間たちの中、ただ一人後方にいて突っ立ってた。快方に向かうだろうって言ったあたしに、黙って目礼した後そのまま帰って行ったよ。あんまりタイプだったから京一に名前を訊いたんだが―」
それから岩山は龍麻の顔を覗き見るようにしてから、害のない声で言った。
「 そういや、あれから来ないな。お前と違う学校の奴らも、最低一回は見舞いに来てるっていうのに。心配そうだった割には、案外薄情な男だね」
「 ……いえ」
「 何だい。お前は、ああいうのがタイプだったのかい。こりゃ、京一には聞かせられないねえ」
「 そんなんじゃ…」
「 まあいいさ」
岩山は笑って龍麻の言葉を制した後、病室を出て行った。
「 ………」
自分が意識を失っている時。
あの時は、確かに京一の手のぬくもりを感じていた。自分のために泣いていて、自分のために祈ってくれていた。
目覚めた時は美里がいて、同じように見守ってくれていた。
そして、一人になりそうになると、桜井なり、醍醐なり、必ず誰かが自分の傍に来て、自分のために何かをしようとしてくれていた。
けれど。
柳生に斬られた瞬間、確かに自分の脳裏に浮かんだ人だった、自分と一番近しい人だったはずの如月は、自分の前には現れなかった。
どうして。
桜井は自分のことを「誰にも弱音を吐かない」と言っていたが、如月こそ、龍麻が唯一自分の弱さを見せられる人だった。「好き」とかいう感情があるのかは自分自身でも分からなかったが、支えてほしいと思った時、つい寄りかかってしまいたくなるのは、いつでも如月だった。
しかし、彼はいなかった。
「 翡翠……」
つぶやいてみた。しかし、その声は、ただむなしく病室の白い空間を静かに漂い、消えていくだけだった。
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