「 蓬莱寺、はいお茶。あ、適当にそこらへん座ってよ」 「 あぁ、悪ィな。それにしても、男の一人暮らしの割に随分と綺麗にしてんじゃねえか。さっぱりしたもんだぜ」 「 うん。あまりごちゃごちゃしてるの好きじゃないし」 「 へへへ…。ま、お前の場合、散らかしてても美里たちが率先して掃除とかしに来てそうだし。よく呼んでんのか、こうやって?」 「 ううん。まさか」 「 ………?」 「 俺、自分からここに人を入れるなんてしないよ」 「 え…?」 「 ここ…。俺の領域に皆を呼ぶなんてしない。蓬莱寺が初めてだよ。何でかな……でも、今日は泊まっていってくれよな」 (10) 少なくとも京一には、岩山女医のあの粘着質な笑みは何か良からぬ事を企んでいる恐ろしい類のものに見えている。だからそんな女医と龍麻が肩を並べて診察室へ消えた時、京一はようや立ち上がって慌てたように高見沢舞子という看護師に訊ねた。 「 お、おい…。本当に大丈夫なんだろうな?」 「 ええー? 何がですかぁ?」 「 何がって! あのおっとろしいエロ医者と緋勇みたいな奴を2人っきりにして平気なのかって事だよ! 緋勇、ハッキリ言って喰われるぞ!?」 「 あはは、京一クンって面白〜い」 「 俺は真面目に言ってんだ!」 のほほんとした舞子に京一は痺れを切らしたように声を荒げた……が、その焦りを理解してくれるような人間は、不幸にもその場には唯の一人もいなかった。 「 ふう…ったく。まぁ俺には関係ねえか…。緋勇の奴も自分から率先してあいつについてったんだしな…」 「 大丈夫ですよー? 先生はすっごく偉い先生なの! いっつもダーリンの身体の事気遣ってくれて、本当に優しくって頼りになる名医さんなんですからぁ!」 「 まあ…」 あまり声を大にして言いたくはないが、確かに「名医」というその点はそうかもしれない。京一はそれを心の中だけで思い、頷いた。 剣の修行で師匠からやたらとしごかれていた頃、京一は常に生傷が絶えなかった。あのいい加減で、けれど剣に関しては一切の妥協を見せない古風な若武者は、子どもであろうが何だろうが、1度手合わせを始めると弟子である京一にも容赦なかった。勿論それなりに手は抜いてくれていたのだろうが、時折師が垣間見せる殺気や気合といった「氣」の部分には震えを覚えた。それが放たれた切っ先と共に風を抜いてやってくると、どうしても次の一手に遅れを取ってしまい、傷を負った。 『 このクソガキ、また怪我しやがった。診てくれ』 師匠はよくそんな風に言って、無様に倒れ伏してしまった京一をこの桜ヶ丘病院に運んだ。どうして忘れていたのだろう。当たり前のように繰り返されていた、傷を負い、そしてそれを癒す作業…。師匠が女医とどこでどういう風に知り合ったのかは知らない。けれど2人の話しぶりからして随分と以前からの親しい仲だと言う事は京一にも分かった。 そういえばあの頃、京一は岩山女医からされる数々の「セクハラ紛い」な治療を事によると師匠との剣の修行よりも恐れていた。女医の治療はいつだって的確だったが、同時にそれ以外の「余計な事」も多過ぎた。医者というものは本来尊敬するに足る立場の人間だと思っていたから、そんな女医の行為は幼い京一を多少の人間不信に陥れた程だ。 しかしいつだったか意識朦朧でベッドに寝かされていた京一は、その女医が隣室で呆れたように師匠を戒めているのを聞いた事があった。 『 お前。確かにアタシは可愛い坊やの手当てが出来る役得に預かれて美味しいけれどねえ。ちっとばかしやり過ぎなんじゃないのかい』 『 はっ…。アンタからそんな優しい台詞が聞けるとはな。長生きはするもんだぜ』 『 バカだね、からかうもんじゃないよ』 『 言っておくがな』 勘違いするなよ。 師匠は苦い顔をしているだろう女医に向かって自分こそが参っているというような、それでもどことなく高揚したような調子で言っていた。 『 アイツの《力》に当てられていつでもギリギリなのはこの俺だ。本人まるで気づいちゃいないが……京一の《力》は、世界を変えるぜ』 『 ほお……。アンタがそんな風に言うなんてね』 『 フッ…。ちなみに、こいつは身贔屓なんかじゃねェからな。誤解するなよ。おっと、けど、この事はまだアイツには言うな。ガキは誉めるとすぐ調子に乗りやがるからな』 あの時、師匠の言った意味の殆どを京一は理解する事ができなかった。その為、桜ヶ丘病院での出来事を封印するのと同時に、その時の記憶も京一は心の奥底へと仕舞いこんでしまったようだ。師匠の何が「ギリギリ」なのか、《力》とは何なのか……。恐らくそれは、師匠が自分に対してくれた初めての賞賛の言葉だったろうに。 しかしあの時の心意を問い質そうにも、肝心の師匠はもういない。彼はある日突然、京一の前から姿を消してしまったから。 「 ねえねえ。京一クン。京一クンってば!」 「 はっ!?」 呼ばれて京一がはっとし我に返ると、途端耳にカチカチという規則正しい時計の音が響いてきた。 「 京一クン、どうしたの? 急にぼーっとしちゃってえ」 「 あ、ああ…悪ィ。何でもねえよ」 ぱちぱちと瞬きをしながら首を振る京一に舞子は心配そうな目を向けた。 「 そう? それならいいけど〜。もし気分悪いようなら、ダーリンの後に京一クンも先生に診てもらうといいよっ!」 「 それだけは勘弁してくれ」 きっぱりとすぐさま拒絶の意を吐き、京一はふうと息を吐き出すと改めて待合室のベンチに深く腰をおろした。それにしても暗い病院だ。患者が来る気配もないし、一体全体現在開業中なのかも怪しいところだ。 「 あ、あのねえ。ダーリンが来る時はこっちの診察室はいつも人が来ないようにしてるんだよ」 「 は?」 舞子の発言に京一はぎょっとして顔を上げた。今、自分はこの疑問を口に出して言っていただろうか? まじまじと目の前の不思議看護師を凝視すると、その当人は人懐こい笑みを全開にして首をかしげた。 「 あれえ? 今、どうして他に患者さんがいないんだろうって思わなかった?」 「 いや…思ったけどよ」 「 あはっ。あったりぃ!」 「 いやだから…。何で分かったんだ?」 京一が訊くと舞子はニコニコして答えた。 「 ダーリンに関する事なら舞子は何でも分かるのでーす。ダーリンの事を〜心配してくれる人の事も〜舞子はとってもよく分かるの!」 「 は、はあ…。いや別に…俺は……」 言い淀みながらも結局京一は口を閉ざした。考えていたのは自分が以前に消した記憶の事だが、それでもあれらの出来事や閑散としたこの病院の事に思いを馳せる事は、あながち龍麻と無関係な事でもない気がした。 そういえば…。ふと思い出したようになり、京一は目の前に立つ舞子を見上げた。 「 あのよ。緋勇の奴は…どこが悪いんだ?」 「 え?」 「 いや…。あいつは別にどこも悪くはないって言ってたけどな。あいつ…他の奴とちょっと違うんだろ? それで…まあ、ここに定期健診に来てるとしか俺は聞いてないし、よ」 「 あれ? 京一クンってダーリンの事何も聞いてないの?」 「 ……っ」 ズバリと言われた事に何故か痛いものを感じ、京一は思わず黙りこくった。そう、何も聞いていない。緋勇龍麻には何かがあるという事、それだけ。何か未知の《力》があるという事、それだけしか。 そして恐らくはその《力》というのは、あの頃自分にとってはただ不可解なだけだった、師匠が持っていたものと近しい類のものである事。 それだけしか知らない。分かっていない。 「 んー」 舞子が困ったように顎先に指を当てた。 「 一緒にここに来たから、もう京一クン、ダーリンの事全部聞いているのかと思ったよぅ。あのね、もし聞いていないならダーリンから直接聞いてね?」 「 あ…ああ。まあ…そう…だな」 京一が曖昧ながら焦った風に頷くと、舞子はすぐにまた全開の笑顔になった。 「 ダーリンは京一クンに聞いて欲しいんだと思うよ。だから一緒に来てってお願いしたと思うから」 「 ………」 「 診察室、入る?」 「 は…?」 「 あそこ」 2人が入っていった場所を指差した後、舞子は京一に窺うような顔を向けて両の手を後ろで組んだ。 「 いいのか?」 けれど京一がそう訊いても舞子は今度は何の返事もしなかった。 「 ………」 それを焦れた想いで見つめながら、京一はすっと廊下を少し行った先の診察室へと目を向けた。自分はただの付き添いだ。大の高校生に診察室の中までついて行く必要は、恐らくないだろう。けれどよく考えずとも相手はあの恐ろしいセクハラ女医だし、龍麻が何かされる危険性は十二分にある。龍麻自身があまりにも平然として女医について行くから、京一も茫然としていた事もあって思わず見過ごしてしまったが……大丈夫だろうか。龍麻はとにかくぼうっとした奴だから、女医にうまいように言われて良いようにされているという恐れもある。それならばいかに診察中とはいえ、付き添いである自分が中へ入るのはごくまっとうな事、いやむしろ義務ではないか? 「 緋勇…ッ」 そこまでの結論に達すると京一は途端急いた気持ちになり、慌てて立ち上がった。もう舞子の方には一切振り返らず、だっとの如く2人がいるだろう診察室へと駆け込む。ノックもせずにバンと勢いよくドアを開け広げ、京一は思い切り叫んだ。 「 緋勇、無事かッ!?」 「 ……え?」 「 何だいこのコは。ったく」 「 は…?」 目の前に現れたのは丁度制服のシャツに腕を通そうとしている龍麻と、目の前の椅子に座っている女医の呆れ顔だった。 「 あ………」 京一がぽかんとしていると、龍麻が驚いたような顔で言った。 「 蓬莱寺? ど、どうしたんだ…?」 「 いや…その…」 「 まったく失礼な奴だね」 すると今度は岩山女医がふうと鼻の穴を膨らませて厭味たらしい目を向けた。 「 何が無事か、だい。アタシが可愛い龍麻に何してるってんだい? アタシはただ、丁寧に隅から隅まで舐めるように龍麻の身体の様子を診てあげただけだよ…ひひ」 「 な…そ、それがっ! 危険なんだろがッ!」 「 大丈夫だよ、蓬莱寺」 すると龍麻はやっと意を飲み込んだという顔になってからやんわりと笑んだ。ゆっくりとした動作ながら白いシャツに腕を通し、1つ1つ丁寧にボタンをはめていく。 「 ………」 京一は何となくそんな龍麻の着替えをじっと見やってしまった。 言葉がなかった。 「 それじゃ先生。ありがとうございました」 「 ああ。またおいで」 「 はい」 着替えを済ませ礼を言う龍麻に女医は軽く片手を挙げると優しく頷いた。 「 言っておくけどね、今は安定してるってだけだ。少しでも辛くなったら言いな。我慢はするんじゃないよ」 「 分かってますよ」 「 それで、京一」 そうして女医はどことなくボー然としている京一にさっと目線をやり、続けた。 「 ここにいる緋勇龍麻はこの儚い顔立ち通りの弱いコなんだからねえ。ちゃんと家まで送ってやんだよ。それがいっちょまえの紳士ってもんだ」 「 え…先生…」 驚いた風になる龍麻には構わず、女医は確認するように再度京一に向かって言った。 「 いいね、京一?」 「 ああ…」 それに押されるように、京一は黙って頷いた。 未だ龍麻の裸身が目に焼きついて離れなかった。 「 俺、両親いないから」 別に見てもいないテレビを流しながら、2人は向かい合ってコンビニで買った弁当を食べていた。どういう経緯でそういう話になったのかは分からない。京一は箸を動かしながら、なるべく何でもない風を装いつつ龍麻の話に耳を傾けた。 「 物心ついた時からいないし。寂しいなって思う事もあったけど、だからかな…。俺、あんまりよく分からないんだ」 「 何がだ?」 「 情とか。そういうの」 「 ん?」 「 よく分からない」 「 ……親がいなくたって、そういうもんは、分かる奴には分かる」 「 ……うん。まあ、そうだね」 どうしてこんな話をしているのだろう。京一は苛立たしい想いを抱きながら、それをどうする事もできずにいた。 普通仲良くなった男同士が夜を徹して語り明かす事といったら、もっと健全でもっと明るくて楽しくて…。少なくとも、こんな暗い話にはならないはずだ。大体、そんなのは自分のキャラクターではないと思う。 それなのに、龍麻のアパートを訪れてから、お茶を淹れてもらって何気ない話をして、こうして夕食の時間になった今の今まで、京一たちはちっとも「そういう空気」にならなかった。 ここにあいつらがいたら、少しは変わったんだろうか。 「 なあ…。蓬莱寺」 「 ん」 恐る恐るという風に口を切った龍麻に京一はここでようやく顔を上げた。そこには本当に心細そうな、どことなく泣き出しそうな龍麻の顔があった。 どきりとした。同時に岩山が龍麻を「弱い」と言った言葉が鮮明に脳裏を過ぎった。 「 俺といても…つまんないだろ?」 「 何…言ってんだ」 「 桜井とか醍醐とか。皆といる時と違うよな」 「 ………」 「 ごめんな」 「 バーカ。何でお前が謝るんだよ」 「 うん…。何か」 「 何かじゃねえよ」 箸を投げ捨てて京一は自棄になったように叫んだ。この胸の高まりを、不可解な渦巻く感情を誤魔化したい気持ちもした。 「 お前、ヘンだぜ。病院帰ってから何か暗いだろ。まあ、それは俺にも原因があんのかもしんねえけど…。けど、だからって俺はお前といてつまんねえとか、そんなことは絶対ねえよ。もしそうなら、こんな風にお前のとこ来たりしねえしよ」 「 ………うん」 「 ………」 「 なら……」 「 ん?」 「 あ、いや…」 「 ………」 けれど龍麻はその先をまた言わなかった。 言おうとして言わない。途惑いながらもやはり口を噤み、押し黙った。京一はそれを逸る想いでただ見つめた。そして同時に診察室で見てしまった龍麻の白い裸身を思い浮かべた。 白い。そう、白くて美しい肌なのに。 あのざくりと斬られたような傷跡……あれは一体、何なのか。 |
To be continued… |