(9)



  京一が真神の面々と騒々しい花見をしてから1週間の時が経とうとしていた。つまり京一が転校してきてから既に半月が経った事になる。何とめまぐるしい時間だった事か。
  ぼーっとした頭を奮い立たせながら、京一は放課後の教室で頬杖をついていた。
「 おはよ、蓬莱寺」
「 ん……」
  帰りのHRを終えて真っ先に席にやってきたのは龍麻だ。にっこりとした穏やかな風貌にはそろそろ見慣れてきている。けれど、ああこの1週間で大分顔色が良くなったなと、京一は未だ覚めない思考の中でそう思った。
「 随分と熟睡してたみたいだな。犬神先生がずーっと睨んでたの、知らないだろ?」
「 知らねェなあ。俺は美女の視線には鋭いが、男の視線にはとんと疎いもんでね」
「 そっかあ。だから俺の熱い愛の視線にも気づかないで眠りこけてたのかあ」
「 だからお前は…。そういう台詞を言うと―」
「 こら〜! 京一ッ!」
「 ……来やがった」
  頭のてっぺんから大きな石が落ちてくるような強烈な元気声。京一は思い切り顔をしかめて、頬杖をついていた片手をがくりと外した。
  振り返る間もなく、その声の主―桜井―が京一のいる席にだっと近づいてくる。
「 またまた〜! ちょーっと隙があるとそうやってひーちゃんと2人っきりで話して〜!」
「 あ、あのなあ…」
「 うふふ、そうよ京一君」
  今度は反対方向から美里の登場だ。相変わらず心意の見えない薄ら寒い笑顔ですたすたと傍に寄ってくる。ちなみに立ち位置はいつも龍麻の隣だ。
「 私たちは皆仲良しですもの。だから皆でお話しましょ」
「 そうそう。ひーちゃんも、あんまりコイツに近づいちゃ駄目だよー! 京一ってね、すっごくエロいんだよ! この間判明した事実! アン子が言ってたもん、京一って3年だけでなくって2年の可愛い子とかのチェックもめちゃくちゃ早いんだって〜!」
「 ちょっと待て! お前、そりゃ何だあ!」
「 だって1回話しかけられた相手の子の名前と顔はすぐ覚えられるんでしょ?」
「 そんなのは当たり前だ。男として当然のマナーだな!」
「 まったく。何でこんなのがモテてるのかねえ。皆、転校してきたばっかりで京一の本性を知らないから、夢見ちゃってんだね! 可哀想!」
「 ………もう勝手にしろ」
  俺はまだ眠いんだという後の言葉は、しかし京一は続けさせてもらえなかった。
「 おっ、お前らもう集まってるな! よし、またいつもの店に行くか?」
  馴染みのメンバー最後の1人、醍醐が嬉しそうな顔でズンズンと歩いてきて、皆は一斉にそちらへ視線をやった。そうして友人の芸のない提案にうんうんと無条件に賛同している。
  この破天荒なマイペース型の桜井たち…勿論龍麻も含めた4人組と群れを成してからというもの、京一は何だか調子を狂わされてばかりだった。あの花見を境に確実に親密になった(と、少なくとも向こうは思っている)事で、彼らは転校当初よりも格段に京一に構うようになったし、その分口も悪くなった。無論、それは彼らのアイドルである緋勇龍麻が依然として京一にばかり話を振り擦り寄ってくるからというのもあるが、京一の方としてはそれがどうにも釈然としない。
  何故なら京一はあの如月の家で龍麻に「もう旧校舎に近づく事はしない」と約束してから、本当に一切あそこへ行こうとはしていないのだから。
  だから龍麻が何故未だこうも自分に干渉してくるのか、その理由が京一には分からなかったのだ。
「 皆、ごめん。俺、今日は行けないんだ」
  その時、ぼんやりとしている京一の耳に龍麻のそう言う声が聞こえた。ハッとして顔を上げると、あからさまにがっかりしたような桜井の顔が視界に映った。
「 えーっ。どうしてひーちゃん? 何か用事でもあるの?」
「 うん」
「 どうかしたの龍麻。何か…あった?」
「 そんなんじゃないよ。あのさ、今日は病院の日だから」
「 ああ……」
「 あ、そうか」
  龍麻の返答に醍醐と桜井がすぐに得心したような声を漏らした。美里は真面目な顔をして黙りこくっている。
「 ……? 緋勇、お前どっか悪いのか」
  京一が不審に思ってすぐに訊ねると、龍麻は緩く首を振りながら「ううん」とすぐに否定した。
  そして間髪入れず京一に言った。
「 蓬莱寺さ、付き合ってくれない?」
「 は?」
「 龍麻。私が一緒に行くわ」
「 あ、それならボクも! ボクも一緒に行くよ!」
「 そうだな、それなら俺も―」
「 ううん」
  一斉に名乗りをあげた3人に龍麻はすぐに首を振った。穏やかな笑みはそのままだけれど、珍しくもそれはどことなく頑なな様子だった。
「 駄目だよ。岩山先生いつも言ってるだろ。皆で来るなって。せいぜい付き添いは1人って」
「 だったら何も京一じゃなくても〜」
「 ううん。蓬莱寺がいい」
「 龍麻……」
  龍麻の即答に美里がこの上なく悲しそうな顔をした。しかし京一はこの時初めて龍麻の方に同情した。いつもは龍麻が自分ばかりに意識を向けるせいで、自分が美里たちに酷い目に遭うとぶうたれているのだが、よくよく考えればこれほど毎日皆から請われれば、龍麻の方とて断るのも一苦労だろう。皆の事が嫌いでないだけに、こうして誰かを選ばなければならない立場というのは、それはそれで大変かもしれない。
  まあ、こいつらと違って龍麻に特別な感情を抱いていない俺が矢面に立つのは、ある意味正解なのかもしれねえな……。
  だから京一はふとそんな事を思い、納得したように頷いて立ち上がった。
「 ああ、いいぜ。病院ってのは幾つになっても嫌なもんだもんな。それくらい付き合ってやるよ。いつもメシ奢ってもらってるし」
「 ……ありがとう」
  珍しく素直に自分の誘いに乗った京一が意外だったのだろう、龍麻は自分から言い出した事のくせに面食らったようになって一瞬礼を言うのを遅らせていた。
  それでもやはり嬉しそうだ、そんな龍麻の顔で美里たち3名は渋々とその場を引き下がった。
「 ……ケッ」
  しかし、教室を出る間際。
「 ん……?」
  恨めしそうなもう1つの視線に京一は思わずぎょっとして仰け反った。
「 テメエ、調子に乗るのもいい加減にしとけよ…!」
「 あぁ……?」
「 蓬莱寺。どうしたの、行こう」
「 あ、ああ……」
「 ……ケッ」
  廊下から京一を呼ぶ龍麻の姿を認め、「その悪態をついた男」はそのままのっしのっしと去って行った。クラスメイトの佐久間猪三。転校初日に茶々を入れてきた男だが、あれからすっかりなりを潜めていたというのに。
「 ったく、何だありゃあ…」
  京一は半ば呆れたような声を出した後、はあとため息をついて龍麻の後を追った。



「 桜、昨日の雨でもうすっかり散っちゃったね」
  校舎を出て通りの桜並木を見上げながら龍麻が寂しそうにそう言った。
「 ああ」
 その背後をのろのろと歩いていた京一は、同じくゆったりとした歩調の龍麻に淡々と返した。
「 この間の花見が丁度見ごろだったみたいだな。……お前は殆ど寝てて見てないだろうけど」
「 あはは…。うん、あの時は気持ち良かったなぁ。すっかり熟睡」
「 まったくだぜ。俺はお前のリクエストした飲みもん忘れたってさんざんあいつらに責められてよ。わざわざまた買いに行かされたってのに、お前はまだ寝てて結局行き損」
「 ごめん。でもあれ、後で飲んだよ」
「 ったく、お前はホントに皆のアイドルだからなあ」
「 もう…何だそれ……」
「 何だじゃねえよ。大体よ、さっき気づいてたか? 美里たちが俺の事恨めしそうに見送っただけじゃねえ、あの佐久間の野郎もすんげえ目で睨みつけてきやがってよ。お前はあんなのも手懐けちまってんだからな」
「 違うよ。佐久間はあれで案外義理堅い奴だから。俺に借りがあるって勘違いしてんの」
「 は? 何だそれ」
  京一が聞きとがめると、龍麻は白々しい態度で「昔、ちょっと喧嘩の仲裁した事あって」とだけ答えた。それ以上はもう話したくないのか、身体全身に「訊ねるなオーラ」を発し、京一に次の質問を許さなかった。
「 最近は……寝てんのか?」
  仕方なく京一は話題を変えた。これもあまり聞いて欲しくない事かもしれないと思いながら。
「 うん」
  けれど龍麻はすぐに答えた。
  そんな龍麻の背中を眺めながら、それはやはり自分が旧校舎へ行かないと約束した事によって安心したせいだろうかと、京一は何となく思った。龍麻はこの1週間、やはり授業中はあまり眠っていないように見えたが、その他の…たとえば昼休みや放課後のラーメン屋など、美里たちと一緒にいる時などはやはりよく眠っていた。
「 で、お前。どっか体調悪いのかよ」
「 え?」
「 医者って」
「 ああ…。うん、別に悪くはないよ。ただの定期健診」
「 ただのって…。フツーよ、一般の健康な高校生はそんなしょっちゅう定期健診なんてしないだろ?」
「 ………」
「 お前の…何か、その《力》とかが関係してんのか?」
「 ………うん」
「 ……そうか」
「 蓬莱寺」
  ぴたりと足を止めて龍麻が振り返った。それからどことなく困ったような顔になり、何事か言いたいのに言えないという風になって龍麻はすっと俯いた。
「 ……? どうした」
「 うん…。あの、さ……」
「 ああ」
「 ………」
「 何だよ。どうしたよ」
  何も発しようとしない龍麻に京一の方が不安になり、再度訊ねた。
  こういう時には物凄く実感する。
  京一は桜井たちとは気兼ねなく悪態をついたり冗談を言い合ったりできるが、龍麻と2人きりだとどうにもそれが出来ない。元々桜井たちと遠慮なく話が出来るようになったきっかけはこの龍麻のお陰みたいなものなのに、だ。京一は龍麻絡みの事で何かと桜井たちに妙ないちゃもんをつけられたり厭味を言われたりしたが、逆にそれで親睦(?)を深めたりもした。
  けれど当の龍麻とは、どうにも日が経つにつれどんどんぎくしゃくしていくような、そんな感じがした。
  それはたぶん、龍麻が京一に自分の《力》のことを話そうとして話せない、そして京一も聞きたいのに聞くのを止めた事に原因があるのだろう。
「 ……何でもない」
  考え込んでいる京一に龍麻が言った。
「 え……」
  慌てて踵を返しまた歩き始める龍麻を京一はどことなく失望した気持ちになりながらじっとその後ろ姿を見つめた。こうして近づいてくるくせに、今日だって俺に一緒に来てくれと言ったくせに、どうしてあと一歩を踏み出さない? そんなじれったい想いが京一の胸の中をぐるぐると激しく駆け回った。
「 けどそんなのは…俺も、同じか」
  本当は……。
「 あー! やめた! こんなのは俺らしくねえ!」
  けれど京一は頭の中で呟きかけた言葉を消すと、急いでどんどんと離れていく龍麻の後を追った。


  そうして辿り着いた病院で――。


「 ぎゃあああああああ!!!」
「 ほ、蓬莱寺っ!?」
「 何だい、このコは。人見て化け物みたいな声出しおって…」
「 こ、こ、こここは……! ままままさかとは思ったが…っていうか、俺、看板見て気づけ……!」
「 ど、どうしたんだよ蓬莱寺!?」
  薄暗い廊下の向こうから突然ぬうっと現れた女医を認めた途端絶叫した京一に龍麻が驚いたような声上げた。しかし京一はそれどころではない、院内の待合室の1番端にまでじりじりと後ずさりしながら、大量の汗をだらだらと流しつつ絶句している。
  桜ヶ丘病院。
  この名前、この場所でまずはぴんとくるべきだったのだ。しかし嫌な過去、忌まわしい思い出というものは無意識に封印しようとするように、京一も見事に「ここの事」は忘れていた。表の看板を目にした時は一瞬「ん?」と思わないでもなかったのだが、まったく不覚だった。女医の巨体とその獲物を捕らえたら離さない、おぞましくもねちっこい視線を目の当たりにするまでは、京一はここが自分が幼少の頃よく通った病院だなどという事はすっかり失念していたのだ。
「 ヒッヒッヒ…。誰かと思ったら、お前、京一じゃないかい? 嫌だね、随分と久しぶりだ。ガキの頃はあんなに可愛がってやったっていうのに、忘れちまったのかい?」
「 わ、わ、忘れてねえから今こんなびびってんだろうが…!」
「 蓬莱寺? 一体どうしたんだ?」
「 おい緋勇ッ! お前は何だってこんな病院に来てんだよ! ここがどこだか分かってんのか!? ここは産婦人科だろーがっ。っていうか、ここはヤバイ! 定期健診なら、もっとまともな病院行け!」
「 え…。だ、だって…」
「 ヒッヒ。おやおや、酷い言いようだねえ。まあいい…。アンタの事は後でじっくりと可愛がってやるとして…」
「 可愛がらなくていいっ」
「 龍麻。一体全体どういうこったい? あんたと京一が一緒に肩並べてここに来るなんてねえ」
「 いえ…それより俺は何で先生が蓬莱寺と知り合いなのかって事の方が驚きましたけど…。ああ、でも蓬莱寺って元々は東京の出身だって言ってたから…」
「 そうだねえ」
  ぶるぶると豊満な胸を揺らしながら、女医はでっぶりとした尻を待合室の小さなベンチにどっかりと乗せた。それだけでベンチは壊れそうな勢いだったが、幸いこの待合室にいる「患者」は龍麻たち以外誰もいなかった。
  女医はふんぞりかえりながら細い眼を一層細めて言った。
「 何の因果かねえ。あんたとこの京一が知り合うなんてね。コイツの師匠とアタシとはちょっとした知り合いでねえ。自然、コイツのガキの頃の怪我なんかもアタシがよく看てやってたのさ。そうだろ京一?」
「 み、看てもらいたくなんかなかったけどな…!」
「 蓬莱寺。岩山先生は凄い名医だよ?」
「 いっ…」
「 ヒヒッ。さすがはアタシの可愛い龍麻だ。よおく分かってるじゃないか。あとでまた可愛がってやるさね」
「 はい」
「 こら緋勇…。お前、何嬉しそうに笑ってやがんだ…」
  人の良い顔するのもいい加減にしとけと言おうとする京一に、しかしその直後、実に素っ頓狂な声が廊下の向こうから響いてきた。
「 きゃう〜ん! ダーリーン!!!」
「!?」
「 まったくあのコは…。舞子っ。廊下は走るんじゃないよっ!」
「 きゃう〜ん。先生、ごめんなさあい!」
  迫力ある女医に叱られながらもちっとも動じていないようなその女性は、そのユニフォームからしても「一応」この病院の看護師だろう。くるくるとした巻き毛に人懐こい笑顔が印象的だ。そんな彼女は龍麻を認めるとこの上なく嬉しそうな顔をした後、がばっと龍麻の首筋に勢いよく抱きついた。
「 ダーリーン、舞子、とーっても会いたかったよお!」
「 舞子ちゃん、重いって」
「 やんやん! だって〜。ダーリンとは〜。こんな時でしかゆっくり会えないもん〜! 今日の日を舞子すっごく楽しみにしてたんだからあ!」
「 あ、ありがと…」
  龍麻が何となく押され気味だ。女医の出現で壁に寄りかかった状態のまま床に腰を下ろしていた京一は、ぽかんとしてそのチカチカとする光景を眺めた。
「 んー?」
  するとそんな京一に「舞子」なる看護師がここでようやく視線を向けた。
  そして指差して叫ぶ。
「 あーっ! 京一クンだ〜!」
「 へ……」
「 や〜、はじめましてだねえ! 私は〜高見沢舞子って言いますぅ! 舞子は〜ダーリンの〜舞子でーす!」
「 は、はあ…?」
「 舞子、いい加減そのバカなノリやめな」
「 えへへ…はあい」
  女医にため息交じりの注意をされた舞子はすぐに殊勝になるとぺろりと舌を出し、静かになった。それでも京一に親しげに笑いかけると、「噂は皆から聞いてるよ!」と言い、改めて礼をしてきた。
「 京一クン、舞子のこともよろしくねっ」
「 はあ…」
  あまりにハイテンションな人物の出現のせいで、そして昔「大分お世話になった」女医の登場のせいで、京一はただ面食らっていた。もごもごと曖昧に返答をしつつ、京一はひたすらにその場で暫し固まっていた。
「 ………京一」
  だから京一は、その時ニコニコしている舞子の傍で龍麻がどことなく悲しそうな顔をしている事や、小さく小さく「京一」の名前を呼んだ事にはまるで気づけなかった。



To be continued…



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