(12)



  気だるい身体を無理に押して登校してみれば、授業が終わったと同時に喚きたてる桜井小蒔とその仲間たち。
  京一は何とか起こしていた身体をかくんと折り曲げると、その声から逃げるようにそのまま机の上に突っ伏した。
「 勘弁しろ…。俺は眠ィんだよ、ちくしょう…ッ」
「 寝る権利なんかあると思ってんのかッ!!」
  京一の耳元でわざと響くように、桜井は机の上をバンバンと叩いて唾を飛ばした。
「 ちゃんと答えろよなッ! 何だって今日遅刻してきたの!? しかもひーちゃんと一緒にさッ!」
「 そうだぞ京一」
  間髪入れずに後を続けてきたのは醍醐だ。相変わらず腕組をした格好で偉そうである。
「 京一。龍麻が登校してこなくて、俺たちがどれだけ心配したか分かっているのか? たとえ遅れてくる事があっても普段はきっちり連絡をくれるあいつが電話にも出なかったんだぞ。お前が一緒にいながら何故…」
「 京一が一緒だったからじゃないの?」
  興味津々でわざわざ隣のクラスからやって来てそう茶々を入れるのはアン子こと新聞部の遠野杏子だ。面白そうな顔をして目を細めると、机の上に頬をくっつけ無理やり寝ようとする京一を伺い見る。
「 アンタ、確か昨日龍麻クンの付き添いで一緒に病院行ったわよね? それで今日は仲良く登校って。状況から言っても、蓬莱寺京一は緋勇龍麻の家に泊まった。そう考えるのが普通よね」
「 ととと泊まった〜!? ひーちゃんちに!?」
「 な…何だと…!」
  桜井と醍醐が唖然としている中、遠野は更に追い討ちを掛けるように澄まして続ける。
「 ここに美里ちゃんがいなくて良かったわね? ま、具合悪くして保健室行ってる龍麻クンの付き添いでいないわけだから、後でたっぷり絞られるのは間違いないと思うけど」
「 あいつのはただのサボりだろ。机の上じゃ熟睡できないから保健室行くって言ってたんだぞ」
  顔の向きをごろりと窓側へ移し、鬱陶しそうに遠野から視線を外した京一はハアと大袈裟に肩で息をしてみせた。自分だって眠いのを我慢して授業を受けたというのに、堂々とサボりの龍麻だけが彼らに庇ってもらい、自分だけが責められるとはどういう事なのか。
  まあ確かに遅刻決定だと分かった瞬間、こうなる事は容易に想像できたのだが。
「 ねえ京一…。あんたまさか、龍麻クンを『寝かさなかった事』があったわけじゃないでしょうね?」
「 はあ? 何だそりゃ」
  またまたごろりと律儀に頭の向きを遠野の方へ向け、京一は眉をひそめて問い質した。しかし直後、目の前を囲んでいた桜井と醍醐がわなわなと大袈裟に震えて蒼白になっている事に気づき、京一はその何やら尋常ではない空気に仕方なく上体も起こした。
「 おい…何なんだよ、お前ら」
「 ま、ま、まさか…。京一…」
「 きょ、京一、お前、まさか…」
「 だから何なんだよっ! まさか何だッ!?」
「 ……みんな、大丈夫よ。この顔じゃ何もしてないわ。大体、龍麻クンに何かしてたらあたしたち全員、絶対タダじゃ済ませない事くらいコイツにも分かってるわよ」
「 そ、そうだよね…」
「 そうだな…」
「 ……ったく、全っ然分かんねェ。気分悪ィな…!!」
  勝手に青褪め勝手に安堵しているような彼らに京一は最早問い詰める気も起きなくて、フンと鼻を鳴らしそっぽを向いた。けれど、何がなくともとにかく「自分たちの龍麻」の家へ京一が泊まったという事実は、それだけで彼らには許し難い事だったらしく、その後も延々と京一は厭味のような罵倒のような、理不尽な感情を叩き続けられたのだった。
  しかも龍麻は結局その日最後まで教室に戻ってくる事はなかった。





「 蓬莱寺」
  京一が「今日は厄日だ」と思ったのは、そんな散々な1日がようやく終わろうかという6限後の事だった。
「 ちょっと生物室まで来い」
「 何でだよ」
「 俺の授業に熟睡し続けてよく言えるな。いいから来い」
「 くそ…」
「 やーいざまあみろ!」
「 煩ェ!」
  生物教師の犬神にクラスメイトたちの前で堂々と呼び出しを喰らってしまった京一は、それを異様にからかい喜ぶ桜井に怒鳴り散らしながら、自棄のようになって乱暴な足取りで教室を出た。廊下にはご丁寧に犬神がそんな京一を待っており、名簿の角で肩をトントンと叩きながら無愛想な顔で「さっさと来い」などと言った。
  京一はちっとあからさまに舌打ちをしたが、仕方なく後に続いた。どうせ今日桜井たちは「抜け駆けをした京一」を置いて、龍麻を引っ張りながらさっさと下校する事だろう。抜け駆けなど京一本人にしてみれば言いがかりも甚だしいのだが、彼らにとって昨日の出来事は紛れもなくそれに類するものらしい。全く付き合っていられない。
  けれど。
  京一は心の中で負け惜しみでなく思った。
  自分にとっても今日はその方が都合が良い。
「 まあ掛けろ」
  生物室を抜けて隣の準備室のドアを開けると、犬神は京一に雑多なその空間へ先に入るよう促した。転校してきたばかりの京一はここへ来るのは初めてだった。といっても、やはりこういう場所も何処の学校とも代わり映えはせず、資料の入った棚にテーブル、それに教員用のデスク以外、取り立てて珍しい物は見当たらなかった。
「 コーヒー飲むか」
「 おいおい。説教すんじゃねえのかよ?」
  意外なもてなしに京一が目を見開くと、それを発した犬神はフンと鼻を鳴らしながら奥のデスクの椅子にギシリと腰掛け、未だ立ち尽くしたままの京一を見上げた。
「 お前がそれを望むならしてやってもいいが。まずは俺の用件が先だ。座れ」
「 別に逃げ出さねえって」
  仕方なく隅にあった椅子を引き寄せ、京一はそこへ腰を下ろすと傍のテーブルに肘を置いた。視線の先にいる犬神の顔は、彼が光の差しこむ大きな出窓を背にして座っているせいか、あまりはっきりとは見えなかった。
「 で? 何だよアンタの用件ってのは」
「 昨日は緋勇の所へ泊まったそうだな」
「 ………」
  思わず黙りこんだ京一に犬神は哂った。
「 何だ? そのウンザリした顔は」
「 別に…」
  簡単だ。お前が「あいつらと同じ」だからだよ。
  心の中だけでそう毒を吐き、京一はしらばっくれた顔で誤魔化すようにテーブルへ視線を向けた。大して興味もない生物図鑑をぺらぺらとめくって、わざと犬神からの視線に知らぬフリをする。
  けれど犬神は構わず口を開いてきた。
「 見たのか?」
  それは実に単刀直入な問いだった。
「 ……あ?」
「 見たのか」
「 ……何をだよ」
  不機嫌な顔をする京一にも犬神はまるで動じなかった。
  そして言った。
「 異形のモノだ」
「 イギョウ…?」
「 俺は異様に鼻が利くんでな。お前の身体から臭うんだよ。……あいつらの血の臭いがな」
「 血…?」
「 訳の分からん奴だ。お前は己の《力》にまだ完全には目醒めていないくせに、奴らの声を聞き、捉え、そして…倒せた。言ってみれば素手で熊を殴り殺したも同然だ」
「 ……訳分かんねェのはお前の話だろ」
「 そう言うのか?」
  バカにするように犬神は笑い、妙にしんと黙りこくる京一に値踏みするような目を向けた。眼鏡の奥のその眼は何もかも見通すような、そんな鋭い獣のような光を発していた。
  この時の京一はその事に気づいてはいなかったが。
「 あいつ…」
  犬神に向けて言っているというよりはむしろ独り言のような感じで京一は呟いた。
「 泣くんだよ。俺に傍にいろってよ」
「 ………」
「 けど、そう言ってたくせに、次の日にはもう『蓬莱寺、何でいるんだっけ?』だぜ。昨日の事なんか全部忘れたみたいに飄々とした顔してよ…。おまけに、学校来る時あいつ俺に何て言ったと思うよ? 『お前なんか東京に戻って来なければ良かったんだよ』だとさ。ホント…参るぜ。一体何なんだ、あいつ…」
  京一は今朝方起きたその胸のむかつきを再度胸に過ぎらせて、ぎりと強く唇を噛んだ。
  京一が目覚めた時、龍麻はもうベッドから抜け出して制服を着ていた。1時限目には大遅刻の時間ではあったが、大寝坊の京一よりはマシで、龍麻は既にすっかり出掛ける用意を整えていた。そうして京一が今日はサボろうと言うのをガンとして拒み、朝食を共に摂った後は仲良く一緒に登校した。そう、それまでは。それまでは昨夜の事を口にしない事以外、全く同じ柔らかい笑顔の緋勇龍麻だったのだ。
  それなのに。


『 蓬莱寺。お前なんか東京に戻って来なければ良かったんだよ』


  昇降口の所で不意に龍麻はそんな事を言った。
  そして唖然として声も出せないでいる京一に背中を向けたまま、龍麻は更に素っ気無く第二陣を放った。


『 今さらやって来て、お前は俺を殺す気なのか』


  あの夜、京一のことを初めて「京一」と呼び、縋ってきた龍麻の面影は、そこには微塵もなかった。
  そして大丈夫だと、ずっとこうしていてやるからと必死に慰めてやった京一に「傍にいて欲しい」と囁いた事すら。
  龍麻は何もかも忘れてしまっているようだった。



「 もう『蓬莱寺』に戻ってたしよ…」
  ここらへんは京一の単なる駄々のような台詞だったが、犬神はその最後の一言だけは見事に受け流し、やがて口を開いた。
「 昨夜…あいつはお前を離さなかったのか?」
「 ん…」
「 傍にいてくれと言ったんだろ。一緒にいたのか」
「 ああ…こんな事は桜井たちには絶対言えねェけどな。ベッドで寝てくれっつーから一緒に寝た」
「 抱いたのか?」
「 ……は? まあ、男2人にゃ狭いベッドだったからな…」
「 そうじゃない。ヤッたのかと訊いている」
「 …………は?」
「 あいつを抱いたのか」
「…………」
  暫くの沈黙の後。
「 ……ッ!!」
  京一はガタンと椅子を蹴ると口を開けたまま絶句した。
「 ……その様子じゃ、何もしてないようだな」
「 あ、あ、あ……!」
「 当たり前、か?」
  くくっと喉の奥で哂った犬神は、しかしやがて傍の煙草に手を伸ばすとマッチで火をつけそれを一息吸った。室内にふっとたゆたう紫煙は、動揺しているこの時の京一とはあまりに対照的だった。
  犬神は言った。
「 だがお前はもう十分見てきたはずだ。あいつに惹き付けられている多くの人間の様を。それは女だけだったか」
「 そ、そりゃ…! 男も、醍醐とかも、異常にあいつには入れ込んでっけど…!」

  俺は別だ。

「 俺は…!」
  けれどその一言が何故か言えず、京一はまたぐっと黙りこくってしまった。
  そして瞬間、以前龍麻が如月翡翠に抱かれるようにして眠っていた様を思い出した。
「 ………」
「 ……お前が気づいているのかいないのかは知らんが」
  犬神は煙草をくゆらせながらのんびりとした口調で言った。
「 あいつが気を許すのは強い人間にだけだ。あいつの氣に早々飲み込まれないような、な.。そういう点で《力》ある奴の仲間たちは一見安心のようだが…実は、そうでもない」
「 どういう意味だ…?」
  京一が分からないという風に先を急かすと、犬神はすぐに再び口を開いた。
「 緋勇龍麻の隣にいる事を許された人間は少ない」
  その人間たちは「特別な奴ら」なのだと、犬神は言った。
「 特別、だ…?」
「 ああ、そうだ。《力》があったって全員が全員緋勇の氣に耐えられるわけじゃない。むしろそういう奴は滅多にいない。付け加えるなら、この学校であいつの《力》に対抗できるのは美里葵だけだな」
「 美里…」
「 緋勇は、美里の傍によくいるだろう」
「 ………」
「 外でなら美里以外の奴に依存している事もあるだろうがな。何せあいつは美里の自分への気持ちに気づいている。だから極力一緒にいないようにしているが、学校では美里の所にしか逃げ場がない」
「 ……お前はどうなんだよ」
「 俺はただの生物教師だ」
  嘲笑うようにして言う犬神に、京一は何の言葉も返せなかった。犬神の言っている事の意味が分かったような、まだ分からないような、分かりたくないような。そんな状態だった。
  美里、壬生、それに如月…か。
  彼らが龍麻にとっての「特別」なのだろうか?
「 じゃ…俺は…何だってんだよ…」
  京一は喘ぐようにそう発した後、ただどうする事もできずにその場に立ち尽くしていた。
  ただあてもなく犬神の吐き出す紫煙を目で追う事しかできなかった。



To be continued…



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