(14) 保健室の外でやかましく騒ぐ集団を諌めたのは生物教師の犬神だった。 「 先生ッ! ひーちゃんは大丈夫なの!? ボクたちを中に入れてよッ!」 「 駄目だ」 「 先生!」 泣き出しそうな桜井の声を耳に入れながら、京一はぼんやりとドアの前に立ちはだかっている犬神の白い影を見つめた。 その周囲を取り巻くのはいつもの面子―美里、醍醐、それにたった今悲痛な声を上げた桜井の3人だろう。裏密や遠野もいるかもしれないが、保健室の中から影だけを見ている限りでは、京一の視界の範囲内にそれらしい気配は感じられなかった。 ただ、いずれにしてもちょっとした騒ぎにはなってしまったらしい。 「 緋勇は何ともない。かすり傷を負っているのは佐久間のバカだけだ。だからお前らはもう帰れ」 詰め寄るような3人に対し、犬神の淡々とした説明は続く。当分ここから出る事はできないだろう。今外へ出たら連中に何を言われるか分かったものではない。 京一は軽くため息をついた後、改めて保健室内に視線を戻した。 京一が座っている場所は怪我をした生徒などが保険医から治療を受ける場所で、腰を下ろしている小さな丸椅子は京一には少し窮屈だった。それを無理にぐるりと回し、京一は背後にある衝立向こうのベッドへ目をやった。 そこには意識を失ったままの佐久間と、その佐久間を見守っている龍麻がいる。 「 ―――なぁ」 ドアの向こうでは人の声がしているけれど、ここは静かだ。 京一は白い衝立越しにいる相手に声を掛けた。 「 なあ。おい。おいって。返事しろ、こら」 自棄になったように立て続けにそう言ってみたが、相手はまだ怒ったままなのかうんともすんとも返事をしない。むっとして唇を尖らすと、それとほぼ同時、保健室の外で美里のキンとした声が響いてきた。 「 先生。それなら京一君に会わせて下さい。彼に訊きたい事があるんです」 その台詞に京一はぎくりとして振り返った。 いやに陰の篭った声だ。周りの者たちもそう感じたのだろう、先刻まで騒いでいた桜井もしんと黙りこくっている。 「 訊きたい事?」 もっとも犬神だけは動じていないらしい。変わらぬ調子で美里に返している。 けれど美里も心得たものだ、堂々とした声で続けた。 「 龍麻が佐久間君の付き添いで会えないのなら仕方がないです。でも京一君は違うのでしょう? 何故彼にも会えないのですか」 「 ………」 「 先生」 「 会って何を訊く」 美里に犬神の冷たい声が響く。京一はそれをまるで他人事のような面持ちで聞いた。 そして扉の向こうから、京一にはもう《それ》が見えていた。 自分に会いたいのだと言う美里の周りから、否、美里だけではない、醍醐、桜井、そして犬神の身体から発せられている何やら淡い《光》が。 「 ……ッ」 咄嗟にはっとして京一は振り返った。 衝立の向こう。 「 な……」 美里たちの比ではない。 「 緋勇…?」 思わずその名を呼んだ。 相手は静かだ。 「 先生」 けれど保健室の外で再度犬神を責めるように呼ぶ美里の声に、遂にその影は動いた。 「 緋―」 声を出しかけた京一を無視し、衝立の向こうから現れた龍麻は依然として厳しい顔をしたまま、黙って美里たちがいるであろう入口へ向かって歩き出した。 そうして。 「 あ! ひーちゃん!」 「 龍麻!」 「 龍麻……」 仲間たちがそれぞれに呼ぶ中、龍麻は後ろ手にぴしゃりと引き戸を閉めて再び保健室の中を彼らから遮断すると、くぐもった声で言った。 「 今日はもう帰れ」 「 でも、龍麻…」 「 帰れ」 「 ……ひーちゃん」 呼びかけた美里を許さず、悲しそうに呟く桜井にも龍麻は堪えた様子がない。京一は半ば茫然としたままその影を追った。京一が今まで見た事のない、それは龍麻の仲間たちへ対する初めての拒絶だった。 「 ……分かった。行こう、みんな」 一番初めにその気まずい空気を破ったのは醍醐だ。まだ何か言いた気な美里と、心細そうにしている桜井の背中を大きな掌で支えるようにして促すと、醍醐は2人を連れ立って保健室の前から去って行った。 「 ………」 京一は彼らの気配が完全に消えるまでドアの前から動こうとしない龍麻の後ろ姿をじっと見やったまま、やがてゆらりと立ち上がった。スタスタと近づきスラリと扉を開くと、そこには依然固まったまま立ち尽くしている龍麻の背中と、突然外へ出て来た自分を見やる犬神の視線とがあった。 「 何なんだよテメエ」 京一は犬神の方は無視し、龍麻だけを見てむっとした声を上げた。どうせ返事などないだろうと思っていたので立て続けに口を切った。 「 何キレてんだよ」 「 ………」 「 騒がしいあの連中にキレてんのか、俺にキレてんのか。どっちだ」 「 ………」 「 おい」 「 蓬莱寺」 するとため息交じりの声で犬神が口を挟んだ。面倒事はごめんだという風に髪の毛をまさぐると、曲者の生物教師は嗜めるような声を出した。 「 お前らももう帰れ。下校の時間はとっくに過ぎてる」 「 ……っ、けどよ!」 「 お前がイラつくのは分かる」 珍しく京一の肩を持つような台詞を先取りした犬神は、しかし片手でさっと「黙れ」と合図すると再度小さなため息をついた。 「 あのバカは気がついたら俺が追い出す。ただ意識を飛ばしているだけだ、直に目覚めるだろうからな。お前らはもういいだろう」 「 ………俺だって別にあんな野郎の事は心配しちゃいねえぜ」 「 なら帰れ」 「 ………」 京一が犬神の台詞に憮然としたままちらと龍麻の方を見ると、龍麻は未だ京一に背中を向け、じっとその場から動かなかった。 けれど京一がフンと鼻を鳴らして先を歩き出した、その数秒後。 「 ………」 ちらと何気なく振り返った京一の背後には、ゆっくりとだがこちらに来ようとしている龍麻の姿があった。俯いたままで京一の方は向いていないけれど、ただ単に同じ昇降口に向かっているからこちらに来ているだけだろうけれど。 京一は何となく安堵する思いで、自分の後をついて来た龍麻の氣を感じながら、わざとゆったりとした歩調で外へ向かった。 もしかすると校門の所にまだ美里たちがいるかもしれない。―そんな不安を覚えた京一だったが、幸い彼らの姿はもう校庭の何処にも見当たらなかった。 「 まったくさんざんだぜ」 わざと龍麻に聞こえる程の声で言ってみたものの、予想通りそれに対する反応はなかった。京一は木刀を肩に抱え直し背後にいる龍麻をちらりと振り返った後、「お前」と返事など期待しないぞと言い聞かせながら言葉を出した。 「 お前にも佐久間や俺が…俺がさっき咄嗟に放ったような《力》があるわけだな」 龍麻の仏頂面は見たくなかったので、京一は歩を進めながら続けた。 「 お前には言いそびれてたが、俺、あの変な化け物みたいなやつを昨晩お前の部屋でも見たんだよ。そん時は力任せに叩き落として倒したんだけどな。けど、さっきのはあんなめちゃくちゃな一振りとはまた違う…何ていうか、<コツ>が分かったと思うぜ。ただある腕力を使うだけじゃない、違う《力》を使うわけだ」 「 うん」 「 ……あ?」 不意に背後からくぐもった、しかし確かな返事があった事で京一はぎくりとして足を止めた。振り返ると、龍麻は相変わらず下を向いたままだったが京一の後はしっかりとついてきていたようで、そのすぐ間近で佇んでいた。 「 ……お前にもああいう《力》があるんだな?」 「 うん」 京一の問いに龍麻はまた頷いた。 「 佐久間や、さっき保健室に来た桜井たちにも見えたぜ。普通の連中にはないオーラだ。けど、お前はまた別格なんだな」 「 うん」 「 はっ…」 謙遜するでもなくまたしてもすぐに同意した龍麻に京一は今度は皮肉な笑みを浮かべた。 「 急に喋るようになったじゃねえか。ま、適当に返事してるだけなのかもしれねェけど。けど、結局お前は何でその事を俺に隠したかった? お前一人だけの秘密って事ならまだ分かる。けど、あのおかしな《力》はお前にだけじゃねえ、佐久間や俺や…美里や醍醐、桜井にもあるじゃねえかよ。きっとあの如月や壬生、村雨の野郎にもあるんだろ。そこまできたら、もう別に珍しくも何ともねえよ」 「 そうだな」 「 …俺がそれに目醒める可能性があったとして…それでお前に何か困る事でもあるわけか?」 「 ……いや」 「 如月の奴は言ってたよな。俺が危険な目に遭うのをお前は止めたかったってよ。けどお前は―」 「 違う。翡翠の言った事は全部適当だ。全部俺を護る為だけの」 「 ……ッ」 思わず言い淀む京一に龍麻は無表情のまま言った。 「 確かにそうだ。お前が見えたと言った《あれ》は何も俺だけにあるものじゃない。お前にも美里たちにも翡翠にも…或いはそれに気づいていない他の連中にだってあるものなのかもしれない。何て事のないものなのかも」 「 ……けどお前は俺がそれに目醒める事を止めたがった」 「 ああ」 「 如月がお前を護るってのはどういう意味だ?」 「 ………」 京一の問いに龍麻は答えなかった。 京一は今度は怒りを面に出さず、諦めて切り口を変えた。 「 さっき言ってたな。正義のヒーローは悪者を倒す為に戦うってよ」 「 言った」 これには龍麻はすぐ答えた。 「 なら――」 京一はそれに促されるようにすぐ続けた。これを逃してはもう二度と捕まえられない、そんな焦燥感に似た想いが己の胸を激しく焼いていたから。 「 何処にいるんだよ。その悪者ってのは」 ひどく熱い。 じりじりと青白い炎が内でくすぶっているのが分かった。それに多少顔を歪めさせながらも、京一は自分を無機的な目で見つめる龍麻の顔を一時も逸らさず見つめ続けた。 「 緋勇」 強く呼んだ。今度は絶対に沈黙させないと。 逃がさないと思いながら。 「 龍麻」 そう、呼んだ。 「 一緒に来い」 「 あ?」 その時だ、そう言う声が返ってきたのは。 驚く京一に龍麻は京一と同じくらいの強い口調ではっきりと言った。 「 今から。来いよ。連れて行く」 「 お、おい…?」 突然踵を返した龍麻に京一は思わず声をあげた。既に校門近くにまで来ていた京一から背を向けて、龍麻は再び校舎の方へと戻っていく。その背中には、時折垣間見せていたような迷うような途惑うような、そして物憂げな様子は欠片も見受けられなかった。 はっとした。 「 旧校舎……」 京一の呟きを聞いた者は誰もいない。 夕闇の迫る校庭で、京一は龍麻のいる対角線上に独り佇んでいた。すぐ近くにいるはずで、少し走ればすぐに追いつく。 けれどその龍麻への距離が、この時の京一にはひどく遠いもののように感じられた。 |
To be continued… |