(16)



  夜の病院は暗くて静かで、下手をすると今この世の中には自分しかいないのではないかという錯覚に囚われる。
  勿論、そんなわけはないのだが。
「 まったく寝入りばなを起こされて迷惑な話さ」
  奥の診察室から出て来た女医の岩山は、電灯が1つしかついていない薄暗い待合室に座っていた京一に冷めた目を向けた。白衣に両手を突っ込んだ格好で背中を丸め、心底かったるそうな顔をしている。
「 悪ィな。診療時間外にさ」
「 ヒッ! お前。京一。そんな思ってもない事を口にするんじゃないよ。取って喰っちまうよ?」
「 ……そりゃ勘弁」
  覇気のない声でそれだけを返したものの、京一は自らも気だるそうに岩山の背後にある診察室へと視線を向けた。
「 あいつは?」
「 眠ってるよ。1本太いのを打ってやったし、朝まで起きないだろ」
「 そうか」
「 ……誰かに連絡するかい」
  岩山の探るような目に京一は鬱陶しそうな目を向けた後、暫し考えるような顔をした。
「 あいつ、両親いねえって言ってたけど。こういう場合は誰に連絡取ればいいんだ」
「 さあねえ…。まあよく見る面子といや、あれかね。美里葵。同じ学校の聖女様だ」
「 ……あんまり気が進まねえな」
「 ならあれは? 繊細な顔立ちした綺麗な兄ちゃんだ。ええと何と言ったかね。ああ確か、如月」
「 それもパス」
  深くため息をついた後、京一はずるずると長いすにもたれ掛かり、そのままぼんやりと灰色の天井を眺めた。その所作に特に意味はなかったが、何も考えたくない事だけは確かだった。
  勿論目の前に立ちはだかる岩山はそれを許してはくれなかったが。
「 一体どんな悪さをしたんだい。あの龍麻がああまで疲弊するのは…最近じゃあ、とんと拝んでなかったもんでね」
「 そうか…? あいつはいつだって疲れたような…弱っちい目をしてただろ」
「 それにしたってあの憔悴っぷりは異常だね。無理に≪力≫を使ったか……」
「 ……? 何だよ」
  妙に言い淀む岩山に京一は不機嫌そうな声を発した。無論そんな事でこの女医が怯むわけもなかったが、そうせずにはおれなかったのだ。
  こちらとて訳が分からないのだから。突然倒れられて。
「 使い過ぎたか抑え過ぎたか。そのどちらかさ」
「 あ…?」
  ふっと物思いに耽りそうになった京一に岩山は素っ気無くそう言った。それからちらと背後の診察室に目を向けた後、ふうと京一よりも深いため息をついて見せた。
「 あの子は何でも自分1人だけで抱えこんじまう悪い癖があってね。あの戦いの時もそうだった。仲間はたくさんいたはずだ。お前だってもう十分見てきただろう? 連中の龍麻に対する熱の入れようをさ。……だがね、いつでもあの子は…独りで戦ってたんだよ」
「 ……俺には分からない話だな」
  慣れたように、けれど多少の憤りはやはり感じて京一は吐き捨てるようにそう言った。
  ここの連中はどいつもこいつもはっきりとした物言いをしないからイライラする。「あの戦い」だの何だのと言われても、その時その場にいなかった自分にはさっぱり意味が分からないし、大体にして話してきている方がこちらにその時の事を伝えようとしているとは到底思えない。
  ただごちゃごちゃと勝手に呟いているだけ。
「 むかつくんだよ…」
  その怒りを思わず口の端に乗せると、岩山は暫くは何も言おうとしなかったが、やがてフンと鼻で哂った。
  そして言った。
「 あの子を分かりたいと思っているからこその胸糞の悪さだ。その態度も、だから大目に見てやるさね」
「 ……何言ってんだよ」
「 本当に知りたいと思うなら、龍麻本人から聞きな。あの子をよく見ているんだ。……そもそもあの子の深淵を理解している奴なんざ、この街にゃあ1人もいないんだ。このアタシも含めてね」
「 深淵…」
  ふと、京一は先刻潜った旧校舎のどこまでも続く暗い闇を思い出した。
  あそこはまるで緋勇の見えない心のようだ……。訳もなくそんな事が頭を過ぎりもした。
「 だがね、これだけは言っておくよ」
 そんな京一の心根を読んでいるのかいないのか、岩山が探るような目を向けながら毅然とした口調で言った。
「 あの子を下手に刺激するのはおやめ。あの子は諸刃の剣だ。膨大な力を持っている分…壊れるのも実にたやすい」
「 ………」
「 ヒッ! おい、分かったのか!」
「 いてっ!」
  軽い足蹴りを仕掛けてきた岩山に、京一は抗議の声をあげつつ攻撃を受けてしまった脛を擦った。
「 何すんだよ!」
「 今日は特別に泊めてやるから。あの子の傍にいておやり」
「 おいっ…!」
「 他の奴らには内緒にしておいてやるよ。……今日の事があの連中に知れたら…。ヒヒッ、如何なお前でもきっとタダじゃすまないからねぇ」
「 な…望むところだってんだよっ! 何だよ、俺には分からない話ばかりしやがって!」
「 じゃあな」
「 お、おい! ちょっと待てよ!」
  一方的に話を切り上げ踵を返した岩山に京一は慌てて立ち上がったが、無敵の女医はちらとも振り返る事なくそのままのっしのっしと廊下の奥へと去って行ってしまった。
「 ……くそっ!」
  1人待合室に取り残された京一は、やり場のない不可解な怒りを床に叩き落としながらぎゅっと両の拳を握り締めた。
  倒れた時の龍麻の白い顔が脳裏を過ぎった。1人きりになると、京一の頭の中はもうそれだけだった。





  訳の分からない「宿題」を残して不意に目の前から消えた剣の師匠は、それきり京一の前には1度も姿を現していなかった。

  ≪京一。強さってのは何だ?≫

  あの男はいつでも分かった風な物言いをし、京一に対しては、ガキは何も知らないんだなというバカにした目でいつも可笑しそうに笑っていた。京一にはそれが面白くなく悔しくて、いつか、いつしかこの男を負かして、ぐうの音も出ないようにしてやろうとそればかり考えていた。その為、竹刀も毎日必死に振るった。京一にとって「強さ」とは、いつでも不敵なその師匠に勝つ事であり、誰にも負けない剣技を身につける事に他ならなかった。それが恐らく師匠の言う「正解」でないとしても、その頃の京一にはそれしか思い当たる答えはなかったのだ。
  大体、今とてそう思っている。誰にも負けない≪力≫が欲しい。誰にも屈する事のない強い剣、揺るがない自信を胸に抱いて生きていたい。

  ≪考えろ…。強さとは何か…≫

  けれど目標としていた師匠が消えてから、京一は常にどこかしら飢えていた。周りには京一以上に強い者など存在しなかったし、今までは特に波風も立たない平凡な人生だった。多少悪さをして喧嘩をし、大勢の頂点に立っても、そんなものは師匠が言う強さでも、自分が求めるものとも違ったから。
  飢えていた。

  ≪お前が出すんだ。お前が見つけろ……≫

  そんな時だ。東京に舞い戻る事になり、京一は真神学園へやってきた。
  そして龍麻と出会った。
  龍麻のあの≪力≫を見て、京一は震えた。旧校舎での戦闘中は、不謹慎にも何度も笑みが零れ落ちた。あの圧倒的な≪力≫を前にただただ身体が痺れ、興奮して顔は上気した。龍麻といれば自分の求めていた答えはあっさりと見つかりそうだと感じた。
  それに何より、龍麻は京一にくれたのだ。
  ≪力≫を振るえる、絶好の居場所を。

  それなのに………。





「 ……っと」
  病室には極力音を立てないようにして入ったのに、電灯のついていない暗い室内にあるベッドから、龍麻は上体を起こしてじっと京一の方を見やっていた。
「 ……んだよ。起きてたのかよ」
「 うん」
  暗くて顔がよく見えない。
  京一はのろのろとした足取りでベッドにいる龍麻の元に近づき目を凝らした。目の前にまで来て傍に小さな丸椅子がある事を確認し、わざと乱暴にそこへ腰をおろす。
「 もう平気か」
「 うん」
「 ……突然気を失うから驚いたぜ」
「 うん」
「 ………」
  淡々と無機的に返される声に京一は自然不快な気持ちがした。相手は一応病人だ、下手にカッカしても仕方がないと思いつつも、他に言う事はないのかとどうしても眉がつりあがってしまう。
「 蓬莱寺」
  するとその意を読み取ったように龍麻が口を開いた。その静かな表情からは何も感じ取れはしないのだが。
「 今日の事は、皆には内緒にしておいてくれな」
「 ………」
「 大変だからさ…。旧校舎で気絶したなんてバレたら」
「 大変なのは俺の方だと思うがな」
  多少の厭味もこめてそう言ってやったが、龍麻はただ自嘲したような笑みを浮かべた。暗い室内にも映える白い手が同じ色の掛け布団をぎゅっと握るのが見えた。
  この拳が本当に、あの。
「 ……みんなさ」
「 えっ…」
  思わずその手に見惚れていた京一は龍麻の声にハッとして思わず上擦った声をあげてしまった。慌てて取り繕おうとしたが、龍麻は別段気にしていないのか、すぐに後を続けた。
「 みんな、俺の事は異常に心配するから。だから、面倒だから」
「 面倒…?」
  その台詞に引っかかるものを感じて京一が反芻すると、龍麻は再び先ほど見せた己を卑下するような微笑を口元に浮かべた。
「 俺の事、神様か何かだと思ってる。自分たちとは違うモノだと思ってるから」
「 ……緋勇?」
「 だから、蓬莱寺。頼むな」
「 ……頼むも何も、だから俺はハナッから連中に何を言うつもりもねェよ」
「 ………」
  きゅっと口元を引き結んで俯く龍麻は、やはり儚くて頼りない存在に見えた。あの時に見せた鋭い殺気や膨大な≪力≫は何だったのかと思うくらいに別人だ。そう、更に遡れば、そもそも今朝は大層不機嫌な顔で「お前なんか東京に来なければ良かった」などと暴言まで吐いていたのだ。あの時の事だって京一は、本当は一言も二言も言ってやりたかった。やりたかったのだが、今は何だか全てが幻だったかのように、この龍麻からはそんな刺々しさは微塵も見えない。
  ただ、弱々しい。
( あ……そういえば)
  以前に桜井たちが何度か口にしていた言葉を京一は反射的に思い出した。彼女たちは龍麻の事を無条件で愛し慕っていたが、同時にある1つの言葉を使ってどこか絶対的に崇拝しているようにも見えた。
  救世主、と呼んで。
「 ………」
  何だか嫌な気持ちがした。あの時は特に何とも感じなかったのに。
  救世主。
「 ……なぁ。なあ、緋勇」
「 ん……」
  思わず呼びかけた京一に龍麻は割とすぐ顔を上げた。京一はそれに多少意外な心持ちがしたが、さっと立ち直ると無理に口の端をあげ不敵に笑ってやった。どうしてだか分からないが、とにかく言わずにはおれなかった。
「 神様だか何だか知らねーけどな。俺には関係ねェよ。それに、お前はお前だ。だろ?」
「 ………」
「 くだらない事気にしてねェで、とにかく今日はここでゆっくり休め。そんでさっさと元気になれよ」
「 ………うん」
  京一の気持ちが分かったのだろうか、龍麻は小さく1つ息を吐いたものの懸命に応えるように頷いた。
  そしてほっとしたような笑顔を見せた。
「 ありがとう蓬莱寺」
「 ……気にすんな」
  自分も少しだけ笑って見せて、京一は片手をひらひらと振った。そう誤魔化しながらでも視線を逸らさなければ、赤面しているかもしれない今の自分を落ち着かせる事はできそうになかった。
  龍麻の笑顔は危険な毒水のように身体に悪い。同じ男のくせにひどく可愛い。
  京一は初めてはっきりと龍麻の事を「可愛い」と思った。
「 蓬莱………京一」
「 え?」
  その時、不意に龍麻が躊躇ったようにそう呼ぶのを京一は聞いた。半ばぽかんとして相手を見つめると、当の龍麻は途端罰の悪そうな顔をした。
「 今度からさ……『京一』って呼んでもいい?」
「 へ……あ、ああ。別に構わねェけど…」
「 ………」
「 んな事、いちいち許可取るなよ……」
「 うん」
  本当は――――。
  龍麻は京一のどこか責めるようなその言葉に苦笑しつつもゆっくりと言った。
  本当は桜井たちクラスメイトや、初めてこの病院で出会ったばかりの高見沢までもが京一の事を「京一」と呼んでいた事がひどく羨ましかったのだ……と。
「 お前……」
「 俺……そういうの、苦手なんだ。でも、本当はずっとそう呼びたかったんだ。蓬莱…京一と、仲良くしたかったから」
「 仲良……」
  何だそりゃと思いながらも、京一は龍麻にそう言われた事で自分の胸もひどく高い音を鳴らして跳ね上がったのを感じた。
  小学生のようにそんな事を言う龍麻を可笑しいと思う反面、そんな風に言ってくれた龍麻の事を京一はとても嬉しく思った。いつも何を考えているのか分からない、寝ているばかりのおかしな奴だと腹を立てて……俺だけを蚊屋の外に置きやがってといういじけた感情すら抱いていたから。
「 だったら…まあ、仲良くしようぜ」
  ごほんと1つ咳払いをして京一は言った。なるべく浮かれた気持ちを表に出さないようにしながら。
「 大体よ、今日の事は俺らだけの秘密なんだろ? へへ…どうだよ、秘密だぜ! こういうの、何かいいよな。どうだよ、なあ? ――――龍麻」
「 京一……。うん」
  京一のその問いかけに龍麻もひどく嬉しそうに顔を綻ばせた。


  先刻まであれほど暗く不安な気持ちになっていたのに、嘘のようだ。
  すっかり明るい雰囲気になった病室で笑いあいながら、京一は、龍麻とはこれからはもっと互いに近くなれるような……肩を並べて共に競っていけるような間柄になれるのではと、密かな期待を胸に抱いていた。



To be continued…



15へ戻る17へ