(18)



  夏がやって来ようとしていた。
  京一が真神学園に転校してきてから、かれこれ3ヶ月の時が過ぎた。初夏の訪れと共に東京での高校生活もそろそろ1学期が幕を閉じる。
「 その前に…期末テストっていう最悪なイベントが待ってるんだけどな…」
  じりじりと肌を焼く図書室の一角で、京一は全く進まない数学の問題集を前に悪戦苦闘していた。エアコンも効かないこんな悪環境でただでさえやりたくない勉強と睨めっこしなければならないのには訳がある。前回の中間テストで周りも呆然な最低ランクの成績を取った京一は、担任の美人教諭から「期末で3教科以上赤点取ったら夏休みなし」という容赦ない宣告を下されているのだ。
「 夏休みっていやぁ、プールに海にオネエチャンの水着姿だろー!」
「 それって結局全部同じ事じゃない?」
「 るせえっ! とにかく夏休みがなくなるなんてありえねェ! それだけは阻止しなくちゃなんねーんだッ!」
「 はいはい、だから今こうやって皆で勉強してるんでしょー」
  ぐっと握り拳を作って喚く京一に桜井が適当な相槌を打つ。先ほどからこんな調子で実は全く集中していないのだが、京一にしてみれば机に向かっているだけでも今の自分は相当に努力していると思う。美里や醍醐は「もう少し真面目に」などと煩く注意してくるが、これ以上何をどう頑張っても大した成果は上げられそうにない。
「 あーっ、くそ。分かんねェ…! もうやめてェ!」
「 京一、どこ?」
「 ん?」
  しかしこれで一体何度目か。京一が情けない泣き言を発したその時、龍麻がそっと救いの手を差し伸べてきた。いつも授業では寝ているくせに何故か美里と並ぶ程の優秀な成績を維持している龍麻は、京一がぶうたれてシャーペンを取り落とす度に、こうして隣から率先して声を掛けてくるのだった。
  そうして京一には全く理解不能な数式を実に丁寧に解いてみせるのだ。
「 ……な? だからこうやるとここまで答えが出るだろ?」
「 なーるほど! そしたら後は……こうやればいいのか?」
「 そう。正解」
「 おおー!」
  京一は京一でそうやって龍麻に導かれていくと不思議な事にスラスラとペンが動き、あっという間に一問解けてしまう。そうすると途端嬉しくなって、先刻のうだうだとした不満気な顔はあっという間に消え去るのだ。
「 さっすがひーちゃん! スゲェな、下手な教師より教え方うまいもんな!」
「 京一がやろうとしないだけだよ。本当は理解力あるんだから」
「 いーや、やっぱ俺にはひーちゃんが必要だー。なあなあ、じゃあ次は?」
「 え? えーと、これはな…」
「 ストーップ!!」
  しかしこれもまた先ほどからの繰り返しなのだが。
「 ひーちゃん、駄目っ! そうやって全部教えちゃったらコイツの為にならないでしょっ。甘やかしちゃ駄目だよーっ」
  桜井がぷんすかと頬を膨らませながら龍麻から京一のノートを取り上げる。
「 京一っ。キミもひーちゃんが優しいのをいい事に調子に乗るなっ」
「 んだよ、だって教えてもらわねーと分かんねーんだよ!」
「 嘘だ嘘だ、結局ひーちゃんといちゃつきたいだけなんだろーっ!!」
「 てめえ…! 俺は今お前のそんなくだらない話に付き合ってる暇はだな…!」
「 静かにしろ、お前ら!」
  2人の永遠に続いてしまいそうな言い合いを醍醐が止める……これも先ほどから延々リピートされている事である。
  その後に続く美里の相槌も同様。
「 そうよ、ここは図書室なんだから。静かにしなくちゃ。ね、小蒔も」
「 ぶう」
「 京一君も、龍麻にばっかり聞いてないで私にも聞いてくれていいから」
「 お、おう…」
  目が怖いぞ美里…と京一はたらりと冷や汗を流したが、勿論その言葉は当人には告げなかった。そもそもここへ来て皆で勉強しようと言ったのは美里なのだが、こうも龍麻が京一ばかり構うところを見せられては、桜井ではないが「龍麻フリーク」としては面白くないのかもしれない。
「 ………」
  そんな事を考えた後、、京一はちろと龍麻の横顔を見やった。桜井らに言われて京一のノートを取り返す事は諦めたようだ。苦笑交じりに自分の勉強を再開している。
「……ん」
  けれど京一の視線にはすぐに気づいたようだ。龍麻は3人に気づかれないようにこっそり京一に微笑みかけると、「また怒られちゃったな」……そんな悪戯っぽい表情を閃かせた。
  京一はそんな龍麻に自分もニヤッと笑い返した。こうやって2人だけで目配せする事が最近ではとても増えた。そしてその瞬間が京一は結構好きだったりする。

  龍麻は優しいし、気持ちの良い奴だし、一番のダチだ……。

  三ヶ月の時を経て、今では京一もそう思っていた。転校してきたばかりの頃こそ、龍麻が何を考えているのか分からず、また龍麻の未知なる《力》に翻弄されて途惑いもしたが、同じく《力》に目醒めてそれに磨きを加えるようになってからの京一は、明らかに龍麻に対する見方を変えるようになっていた。
  日々、旧校舎へ潜って己の力を高める度に分かるのだ。龍麻の強さ、龍麻の輝き。
  龍麻の魅力。
  そんな龍麻がこうして自分と屈託なく話し、笑ったり楽しんだりしている。それが京一には堪らなく嬉しかった。それに今では龍麻も京一が旧校舎に一人で潜りに行ってもあまり憂鬱な顔を見せたり、「気をつけて」と言った心配の声を掛ける事もなくなっていた。
  信用されているのだろうと思った。自分で言うのも何だが、かなりの《力》がついている自信がある。龍麻もようやく安心したのだ。京一にならあそこを任せられる、と。
  そんな安定した日々の中、京一は最近ではとことん最後の高校生活を謳歌する事が出来ていた。だから夏休みも絶対に確保したい、龍麻と休暇を思い切り楽しみたいと思っていた。





  そして期末テスト初日。
「 やべぇ…おもっきし寝坊した……」
  ボサボサの髪をかきむしりながら、京一はトーストをかじりながら半ば自棄気味にのろのろと学校へ向かっていた。今日の日の為にあれほど特訓し気合を入れていたというのに、昨夜ほんのちょっとつけた深夜番組で「水着のオネエチャン達」が何やら大騒ぎしていたものだから、ついついそれに釘付けになってしまったのだ。
  そのせいでこの体たらく。
  今さら猛ダッシュしても一時限目には確実に間に合わない。息を乱して二時限目の数学に支障があってはいけないだろうという事で、京一は一番手の生物は追試頼みで行く事にした。あの犬神がそれをやってくれるかは甚だ怪しいところではあるが。
「 あー…くそっ。目覚まし掛けてたのになぁ…。つか、誰か起こせよな」
  ぶつぶつと文句を言いつつ、京一は学校へ着いた途端浴びせられるだろう桜井たちの説教を思って心底げんなりした。連中の事だ、だから京一は駄目なんだとか、あれほど寝坊には気をつけろと言ったのにとか、何だかんだ煩く騒ぐに違いないのだ。
「 ま、いいか…」
  けれど京一はそこまで思い、かぶりを振った。
  いい加減鬱陶しくなったら龍麻が何とかしてくれるだろう。最近彼らの前で窮地に立つ京一を助けてくれるのはいつでも龍麻で、「みんな、もうそれくらいにしたら」と言う鶴の一声で皆渋々ながら黙りこむ。今日もその手でいこうと、京一はすっかり頼りにしてしまっている「親友」の「仕方ないなあ」という苦笑を思い、ふっと笑った。
  けれど、その時だ。
「 ん?」
  ふと行く手を阻むかのような黒い影が京一の前にすうっと覆いかぶさってきた。何となく下を向いていた京一がその影に眉をひそめ顔を上げると、そこにはおよそ現役高校生らしからぬ知人の姿があった。どうでも良いが、この暑いのに相変わらず鬱陶しい学ラン姿である。
「 よう、村雨。どうしたよ」
  するとその京一の何気ない挨拶に、目の前のその人物…村雨祇孔は学帽のツバをくいと指先で上げながら不敵に笑った。
「 ふっ…お前こそどうした? もう学校はとっくに始まっちまってるんじゃないのかい」
「 あー、見りゃ分かるだろうが。寝坊だ寝坊。ったく、期末テストの初日だってのによ。いきなり一科目アウトだ」
「 その割にゃあ、随分余裕じゃねえか。少しは焦って走ってみたりしねェのかい」
「 面倒臭ェ」
  キッパリと京一は答え、それから胡散臭そうな目を向ける。
「 お前こそこんな所で何してんだ? ま、大方徹夜で新宿街を徘徊して朝帰りってとこなんだろうがな」
「 今日は蓬莱寺。お前さんに用があってな」
「 は? 俺?」
  茶化そうと思ったところをいやに真面目な顔でそう言われ、京一はぴたりと動きを止めた。
「 ………何だよ」
  そして不意に気づく。
  村雨はいつもの愛想の良い笑いを口元に浮かべているようでいて、実はその眼はちっとも笑っていないのだ。表情は真剣そのもの、そして全身から漲るかのようなその《力》は明らかに敵意を持って京一の方を向いていた。
「 何の真似だ?」
「 まぁ、ここは人目がつく。ちょいとそこの廃ビルまで顔貸してもらうぜ」
「 おい…俺はこれから学校――」
「 先生の事っていやあ…ついてくるか」
「 は…?」
「 来い」
  眉をひそめる京一に構わず、村雨は短くそう言うともう先を歩き始めた。断る事など許さないという有無を言わせぬ態度だ。それに勿論京一は気分を害したし、おとなしく後をついて行く事も癪に障ると思った。
  けれど、龍麻の事と言われては行かないわけにはいかない。
「 ったく、何なんだよ…!」
  かじりかけのトーストを無理矢理全て口の中に放り込み、京一は仕方なく先を行く村雨の後を追った。

  そして歩く事数分……。

  午前から人の通りが閑散としている通りを抜け、今はどこの企業も入っていない取り壊し予定の廃ビルの屋上まであがると、村雨は無言のまま乱暴に学ランを脱ぎ捨て、愛用の花札を手にした。
「 おい…?」
  京一が未だ訳が分からず、強風吹き荒ぶその場所で途惑いの声をあげると、村雨はいまやすっかり据わった目つきをして京一に言った。
「 構えな」
「 は……?」
「 本気で掛かれ。俺はお前を殺す気で行く。お前も俺を殺す気で来い」
「 何…言ってんだ?」
  冗談ではない、それは眼を見れば分かる。
「 おい…一体何だっつーんだよ?」
  けれども戦う理由はない。
  村雨とは龍麻を通して如月骨董品店などで何度か顔をあわせて話す程度の仲だが、全くの他人というわけでもない。それにその時はお互いにふざけた会話も交わしていたし、もともとがお互い人見知りをしない気さくな性格もあって、京一としては「腹の立つところもあるが、話せない相手ではない」と村雨の事を評価していた。少なくとも如月や壬生よりはよほど自分に近いものを持った男だと思っていた。
  それなのに何故こいつは今俺に刃を向けようとする?
  しかも殺す気でくるだと?
「 おい…ひーちゃんの話があるんじゃなかったのかよ」
  カバンを投げ捨て、じりと間合いを取りながら、京一は尚も時間を稼ぐかのようにそう言葉を切った。ただの手合わせというならともかく、今のこの状況はどう考えてもそのような可愛いものではない。相手は本気なのだ。
「 答えろよ。俺は理由のない喧嘩はしない主義だ」
  するとそんな京一に村雨は嘲るような笑みを浮かべた。
「 フッ…。見て分かんねェか。これは喧嘩じゃねえ。俺は本気でこいと言っただろう」
「 おいっ! ふざけんのもいい加減にしろよ、せめて理由を――」
「 来ねえならこっちから行くぜッ! 十一・空刹!!」
「 おわぁッ!?」
  問答無用で攻撃を仕掛けてきた村雨に京一は思わずみっともない声を張り上げ、ごろごろと横へ転がりながら何とかその一陣を避けた。
「 テ、テメェ…マジかよ…!」
  木刀を握り直し、京一は体勢を整えながら村雨を睨み据える。理由など聞いている暇はなさそうだ。とにかく本気でいかなければ怪我をするどころか命が危ない。
  それほど村雨の札の威力はあなどれない。その《力》は強大だ。全身から漲る凄まじいまでの《氣》は何者をも切り裂かんほどの勢いで燃え上がっていた。
「 ふっ…」
  その村雨は自分が発した第一波を避けた京一に小さな笑みを漏らした。しかしそれはただの笑みではない。自嘲をこめた、どこまでも暗い陰の篭もった微笑だった。
「 蓬莱寺…。テメェをここまで放置してきたのは俺らの責任だ」
「 あぁ…?」
「 お前は強くなり過ぎた。最近の先生の様子、まさか気づいてねェとは言わせねえぜ」
「 は…?」
「 気づいてないってなりゃあ…余計に許せねえなぁッ!!」
「 うおっ!?」
  話しながら村雨の第二陣の攻撃が降りかかる。またしても京一は防戦一方で、その鋭い札を己の氣を通わせた木刀で弾き返すだけで精一杯だった。新たに距離を取る。たったそれだけの動作で息が乱れた。身構えて戦闘に臨んだ者とほぼ不意打ちを喰らった者との、それが本気の戦闘における差だった。
  京一は明らかに村雨に押されていた。
「 くっそ…」
  それでも納得いかない怒りが京一の全身を覆う。
「 訳分からない事ばっか言いやがって…! ひーちゃんが何だってんだ!? 村雨! テメエ、今ぶっ飛ばしてやっから、俺が勝ったらちゃんと説明しろよ! ……剣掌・旋!!」
「 むぅッ…!?」
  京一の手元から眩いばかりの光が発せられた。それは村雨の攻撃の色とは明らかに違う、陽に満ちた金に輝く閃光だった。



To be continued…



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