龍麻を好きだと自覚してからまだ数時間しか経っていないが、京一はいきなりピンチだった。
「 京一も入りなよ。凄く気持ち良かったから」
「 ………」
「 大体、美里に攻撃されて埃塗れだし…って、そういえば怪我してたんじゃなかったか? 大丈夫なのか?」
「 ……おい」
「 ごめん、色々あってうっかりしてた。どこやられた? 傷見せて。手当てするから」
「 かすり傷だから平気だ…って、それより! おいって!」
「 何」
  自分の目の前で膝をつき、心配そうに身体を寄せてくる龍麻に京一は心内でだらだらと汗を掻きながら半ば悲鳴のような声を出した。
「 ふ、風呂から出たらさっさと服着ろっ! 風邪ひ…引くだろうがッ!」



  (25)


「 京一はどうせ泊まるだろうと思ってコンビニでパンツは買っといたんだけど。傷の事は考えなかったなあ」
  既に血の止まった…けれど赤くただれた火傷の跡に薬を塗りつけながら龍麻は「ごめんな」と殊勝に謝った。京一は促され渋々差し出した己の腕をよそに、自分の傷を看る龍麻の旋毛をじっと見つめた。

  全くくだらないと思うが、今すぐこの黒々とした髪の上に…龍麻の頭に自分の顎を乗せてみたい。

( アホか…! 何考えてんだ、俺!)
  頭の中でそんな些細な妄想を抱いては、すかさずそう思った己に鋭い突っ込みを入れる。
  京一は傍にいる龍麻という存在にじりじりとしながら、けれど何も出来ずにいた。
  風呂上りの龍麻からは石鹸の良い匂いが漂っている。
  先ほど龍麻は上半身だけとはいえ意識しまくりな京一の前に白い肌を惜しげもなく晒していた。京一としては「コイツ、俺を煽ってやがるのか」と恨めしい気持ちになってしまうのだが、龍麻にしてみればそんな文句は言い掛かり以外の何物でもないだろう。互いの裸などここ数ヶ月の付き合いで既に何度も見せあっているし、大体京一自身、今まではそれを見せられても何ともなかったのだ。体育の授業で着替える時は勿論、こうやって龍麻の家に泊まりに来た時とて、龍麻は先刻と同じように裸でほいほい部屋に戻って来ては「風呂上りにはこれ」などと豪快に牛乳を飲んだりしていた。京一とて同じようなものだ。小蒔あたりが知ったらまたぞろ騒々しく喚き立てるのだろうが、そんな事は「健全な友達同士」なら何も変わった事ではなく、取り立てて意識する事も何一つない。
  意識している京一自身の気持ちが問題なのだ。
「 そういえばさあ」
  そんな京一の心情など「友達」感覚な龍麻には到底理解できないのだろう。相変わらずの瓢々とした様子で呑気に話を始めている。(こいつ、薬塗りすぎだよ、くすぐってェよ!)としきり焦っている京一の事など全く構わず。
「 俺、今日の期末テスト休んじゃったな。京一なんか全欠だけど」
「 ………」
「 ……? 京一? 聞いてる?」
「 あ? あ、ああ…」

  テスト? 今はそんな事どうだっていい。

  それが京一の本心だったが、(だから不貞寝していた時に親がいつも以上に騒いでいたのか)とはちらと思った。
「 初日の時も美里が見舞いには自分が行くからって止めてたけど、桜井も醍醐も心配してたよ。今日は俺も休んじゃったから、皆きっともっと心配してる。まあ、電話線は抜いてあるから、連絡あったかどうかも分からないけどね」
「 ……お前って」
「 ん?」
「 あいつらの事想ってるのか想ってないのかホント分かんねェな……」
  京一の何気なく飛び出した言葉に龍麻はきょとんとした後、やがて破顔した。
「 はは。そうかもね」
  俺もよく分からない、と龍麻は言ってからぴたりと京一に触れていた手を止めた。やばかったかと京一が後悔した時にはもう遅く、龍麻は京一に塗っていた薬瓶を箱に戻しながらあの寂しそうな顔を見せた。
「 そ! そういえばっ!」
  だから京一はとにかく何か話さなければと、薬箱を手にする龍麻からは視線を外しつつ慌てたように口を継いだ。
「 お前よ、そういえば何で俺の傷が美里からのだって分かったんだ?」
  そんな事どうでもいいだろうにと思ったが、他に話題が見つからなかった。
「 美里から聞いたのか? お前らいつ…」
「 美里が翡翠ん家で休んでた俺の所に来たんだよ。だから京一たちが旧校舎にいるだろうなって事も分かったし」
「 あいつ……大丈夫だったか?」
「 何が? 別にどうもしてないよ。俺が『謹慎してろ』って怒っておいたから、多分家で大人しくしてると思う」
「 ………」
「 当然だろ? 俺の気持ちも無視して勝手に京一に喧嘩売ったりしたんだから」
  龍麻はここで初めてさっと顔を上げると京一に向かって何やら不敵な笑みを浮かべた。それはほんの時折龍麻が見せる、仲間たちよりも一段も二段も上にいる者の……支配者の顔だった。
  それは今さっき「桜井や醍醐が心配している」と言いつつも「電話線を抜いている」と平気で答えた時と似た表情だった。仲間たちを受け入れながらも、心の一番奥の方では決して己を見せようとしない龍麻の孤高の寂しさがそこにはあった。
「 京一、風呂入ってきなよ」
  ぼんやりとする京一に龍麻が言った。いつの間にか薬箱を隣室の棚に仕舞い終えていて、いつまでもその場に座り込んだまま微動だにしない京一を不思議そうに見下ろしている。
  そしていつまで経っても京一が何も言おうとしない事に痺れを切らせたのか、龍麻はそっと息を吐くとくるりと踵を返した。
「 俺は疲れたから。先に寝てる」
「 え…?」
  それで京一がやっと顔を上げた時には、龍麻はもうベッドがある隣室へと消えていた。心なしかその去り際の背中が本当に疲弊しているようで、京一はここにきて今さらぎくりとし、腰を浮かした。

  疲れているのは……俺のせいなのか?

「 おい…ひーちゃ……」
  呼びかけて京一は慌てて自分も龍麻が向かった隣室へ向かった。
  幾ら平然としていても、笑顔を見せていても、龍麻が自分を前に無理しているのは間違いない。龍麻は「抑えるから」と言った。友達だから。「グレー」でい続ける事が仲間たちにとっても自分自身にとっても、そして京一の為にもなるからと。
  けれど龍麻は、本当は今も自分とこうして一緒にいるだけで苦しいのではないだろうか、そう思った。
「 なあ…。だ、大丈夫かよ」
「 何が」
  龍麻は既にベッドの中にもぐりこんでいて、京一のいる方向には背中を向けていた。布団の中から酷くくぐもって聞こえたその声は傍に寄ってもいいのだろかと京一を躊躇わせ、明りの灯るリビングの入口からベッドまでの距離をとても遠いものに感じさせた。
「 疲れてるって…俺のせいか…?」
  龍麻を包んでいる盛り上がった掛け布団を見つめながら京一は恐る恐る訊いた。
「 なあ…俺のせいなのか」
「 違うよ」
「 けどお前…。本当は…如月の…」
  如月の家で休んでいた方が良かったのではないか…そう言おうとして、しかし京一は思わず口を噤んだ。
  言いたくなかったからだ。
  いつだったか如月が張った結界の中で龍麻は如月の身体に寄り添うようにして眠っていた。その姿が突如として脳裏に蘇り、京一は自身でも信じられない程にイラだった想いが全身を駆け回るのを感じた。あんな風に如月に甘えて如月しか頼る者がいないような態度で……ずっと、あんな風にして2人で過ごしていたのだろうか。勿論、美里や壬生や村雨にもそれなりに依存はしていたのだろうが、あの如月骨董品店という場所だけは、如月だけは、龍麻にとって特別な場所、人のように思われた。
「 京一…俺、明るいと眠れない」
  京一がいつまでも去ろうとせず、かと言って自分にも話しかけようとしない気配を察知したのだろう。
  龍麻は背中を向けたまま、暗に「出て行ってくれ」と告げた。
「 ……っ」
  けれどそれによって京一の想いはより一層燃え上がった。
「 何で…っ」
  ズカズカと歩み寄ると、京一はもう龍麻の掛けていた布団を捲り上げ、それをベッド下へと叩きつけていた。
「 何であいつは平気で、俺じゃ駄目なんだ!?」
「 ……何?」
  突然激昂したような京一に龍麻がごろりと体勢を変えて視線を向けてきた。眉間には皺が寄り、迷惑そうだ。というよりも、本当に気だるいのだろう。いささか息を乱しながら龍麻は自分を真上から見下ろす京一を弱々しい目で見返した。
「 何怒ってるの」
「 分かんねえんだよ…! 何で俺の氣がお前を苦しめる? 何であいつらの氣なら平気で、俺のは駄目なんだよ! 俺の氣だってあいつらと同じ陽の氣ってやつなんだろ?」
「 言っただろ。京一のは強過ぎる。強過ぎる陽の力は今の俺には毒なんだ。………この話、もうしたくない」
  龍麻は嫌そうだった。そして本当に苦しそうだった。だから京一も大人しく引かなければならないというのは重々承知していた。
  それでも、ふいといじけたように再びごろりと自分に背を向けた龍麻が…龍麻のほっそりとした身体が愛しくて憎くて、どうしようもない気持ちだった。この身体を如月や美里や、他の仲間たちが愛しいと思っている事もどうしようもなく許せないと感じた。
  ただ「好き」だと思っているだけではない。酷く狂おしく激しい気持ちが京一の中で渦巻き始めていた。

  これも自分の氣の力が増大している事と関係あるのだろうか?

「 ……龍麻」
  けれど、今はそんな小難しい話はどうだっていい。
「 龍麻。こっち向けよ」
「 ………」
「 おいこら。無視してんじゃねえって」
「 ……もう眠りたい」
「 ………」
「 もう放っておいて」
「 冗談じゃねえ…」

  なら、何で、お前は。

「 なら何で如月ん所出てきたんだよ」
  訊かずにはおれなかった。
「 あそこの方が眠れるんだろうが。俺がいると毒なんだろうが。なら何で旧校舎に…俺たち探しに来たんだよ。如月を止める為か? ならあいつと帰れば良かっただろ。如月の奴だけを帰して、何で俺をここまで連れて来ちまったんだよ。それに、疲れてるんならコンビニだのスーパーだの寄らなきゃ良かっただろうがよ。あれが欲しいこれが欲しいって散々時間を無駄にしてたのはお前だぜ」
「 ………煩い」
「 あ? ああ、そうかよ! 俺は元もと煩い男だからなぁ! お前の大切な如月翡翠と違ってスカした態度なんか取れねーし。冷静なフリも出来ないんでねえ! むかつくなら俺といるの止めるか? 今からでも如月の所帰るか!?」
「 煩いっ!」
  京一の徐々に激しくなる言葉に龍麻も遂にガバリと起き上がり、キッとした目を向けた。ハアハアと未だ荒い息はそのままだが、上気している頬は明らかに京一に対する怒りで燃えたものだろう。
「 何なんだよ! 何でそこで翡翠の名前ばっかり出るんだよ!」
「 お前らが怪しいからだろ!」
「 怪しい!? 何が!?」
「 どういう関係だって訊いてんだよ!」
  思わず上に圧し掛かって再び龍麻を押し倒すと、京一は暴れようとする相手の両手首をがしりと掴んでベッドに強く縫い付けた。それは意外にも酷く簡単な作業だった。龍麻が弱っているのが分かる。ひどく憔悴しているのが。
  それでも決してこの力は緩めない。
「 好きなのかよ……あいつの事」
「 何なんだよ、何の話なんだよ…」
  京一を振り解けない事が悔しくて仕方ないのだろう。龍麻はぐっと唇を噛み締めた後、やり切れないというような切ない声を出して途端瞳を潤ませた。
  それを見ただけで京一の全身は燃えるように熱くなるのに。
「 好きとか嫌いとか……何で京一がそんな事訊くのか分からない。翡翠は、玄武で、俺を分かってくれてて…」
「 好きかどうかって訊いてんだよ!」
「 分からない! そういうのは分からない!」
  龍麻は京一の詰問にそれ以上の悲鳴のような声で返し、ぎっとした目を向けた。
  そして言った。
「 京一といたかったからじゃないか!」
  手首を押さえつけられたまま、何も出来ない状況ながら、龍麻はそう叫んで尚も京一を自分の上から振り落とそうと足をばたつかせた。
「 京一と仲直りしたかったんだ! コンビニ行きたいって言ったのも、スーパー行きたいって言ったのも! 京一と前みたいに買い物して…一緒に歩きたかったからだ! 疲れてても、苦しくても、前みたいに、少しでも京一といたかった! だから、ここにいる!」
「 龍………」
「 京一は意地悪だ!」
  そして龍麻は唖然とする京一を睨み据えた後に当然首を横に向け、自分の手を押さえつけている京一の腕を見つめて――。

  がぶり。

  その痛みを京一の脳が知覚するのには数秒の時が要った。
「 ………いってー!!」
  思わず龍麻から手を離し身体を仰け反らせたものの、時既に遅し。京一の手首の少し上の部分には、龍麻の歯型がくっきりとついていた。
  龍麻はその隙にベッドから飛び降り、勢い余って下のカーペットへもんどり打って倒れたが…それでもすぐに体勢を整えて、攻撃準備万端のような獣のように牙を向けた。
「 い、犬かお前は…!」
  噛み付かれた京一はただただ堪ったものではない。フーフーと大袈裟に患部に息を吹きかけ、涙交じりで抗議するような目を向ける。
  一方で、龍麻が口走った言葉を必死に頭の中で繰り返して聞いている。
  全く忙しい。
「 いきなり噛み付くなんて反則だぜ」
「 いきなり人の上に乗っかる京一の方が反則だ!」
「 乗っかるって…いや、乗っかったが…」
「 俺に謝れ!」
  龍麻は子どものようにそう声を荒げた。やはり今にも泣きそうだ。そして崩れ落ちそうだった。
  さすがに京一もここまで龍麻の苦しそうな姿を見ると、「やっぱり今すぐもう一度押し倒し直して襲いたい」とか、「いっその事好きだと告白しちまいたい」とか言う気持ちは消えてしまった。
  龍麻の気持ちも考えず、自分の気持ちばかりを押し付けようとするなんて、勝手もいいところだ。今は本当にそれどころではないのだから。
「 悪かった」
  だから京一はベッドから自分も下りたって龍麻の前にしゅがみこみ、言った。
「 悪かったよ。許してくれよ、ひーちゃん」
「 ………」
「 ひーちゃんが、よ。俺のせいで苦しんでるっていうのがどうしても納得いかなかったんだ。そんなの酷いじゃねえかよ。そんで…そんなひーちゃんを癒せるのが俺じゃなくて…如月とか、他の奴だって思うと…余計むかついて、さ。だから当たっちまったんだ。悪い」
「 ………反省してる?」
「 してるよ。すげえしてる」
「 ………」
「 してるよ」
  京一はもう一度言い、そっと龍麻の頭の上に自分の手を持っていった。
  触っても良いだろうかとその寸前で暫し宙に浮かしたままにしていたものの、龍麻が別段逆らう所作も見せていなかったので、やがてそっと下ろしてその髪の毛を撫でてみた。
  龍麻は嫌だとも止めろとも言わなかった。
  苦しそうでもなかった。
「 京一と戦いたくない」
  すると龍麻がもう一度そう言った。あの時見せた泣きそうな顔が再びそこには浮かんでいた。
「 京一」
  そうして龍麻がだっと自分の胸に抱きついてきたのを、京一はどこか他人事のように見つめていた。懐に入り込んできた龍麻の温もりは温かくて小さくて頼り無くて。
  けれども嫌というほど感じてしまう絶対的なその《力》に畏怖も覚えて。
  そんな龍麻がやっぱり愛しいと京一は思った。
「 俺だってお前と戦いたくなんかねえ。つーか、絶対戦んねえぞ」
「 うん」
「 約束だぞ」
「 うん」
  龍麻が必死に頷くのを見て、京一はここでやっと龍麻をぎゅっと抱きしめた。力強く抱きしめて、龍麻の髪の毛に顔を埋めて、「俺も」と呟いた。
「 俺も、たった一日でもひーちゃんと気まずくなってすげえ辛かった」
  上野で別れた時、自分は認めないと思いつつも龍麻が何処か遠くへ行ってしまうのではないかと不安だった。もう自分たちの関係は終わりなんだろうかと考えると堪らなかった。
  だから今ここに、自分の傍に龍麻がいるという事が京一は素直に嬉しかった。
  恋人ではなくて友達だけれど。でも、嬉しかった。
「 ひーちゃん。絶対何とかしようぜ。何とか…俺らが戦んなくてもいい方法を考えようぜ」
「 うん」
  龍麻はただ素直だった。
  そして自身もぎゅっと京一にしがみつき、そのせいで辛そうなのに、決して京一から離れようとはしなかった。



  けれど、そうやって2人静かに寄り添って眠った次の日の朝。





  京一が目を覚ました時、隣にいたはずの龍麻の姿は何処にもなかった。





To be continued…



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