(26)



  息せき切って現れた京一を如月は別段驚く風もなく店先で迎え、素っ気無く「龍麻なら来ていない」と答えた。
「 なら…ハアハア…何処へ…っ?」
  この息苦しさは走ってきたせいばかりではない。京一は自分のみっともなく取り乱した様子を頭の片隅では正確に認識していた。落ち着かなければ、考えろ……そう思ってはいる。それでも飛び出した言葉は酷く切羽詰まっていて余裕のないものだった。
「 お前ん所じゃねェなら龍麻は何処だよ!?」
  掻き消そうとしてもどんどん大きくなる不吉な予感に胸がキリキリと痛む。
  ともすればこの目の前にいる男に当たってしまいそうな衝動を必死に抑えながら、京一は手にしていた木刀をぎゅっと握り締めた。
「 君なら分かるだろう」
  けれどそんな京一に対して如月の方は至って静かだった。昨日はどちらかといえばこの如月の方が冷静さを欠いていて憔悴していたようだったのに…たった一日でもう己を消し去り、感情の見えない瞳を宿している。その事がどうしようもなく苛立たしくて、京一は乱れた息も構わずガバリと顔を上げた。
「 ……っ!」
  しかしふとその如月の背後―店の奥に別の人間の気配を感じて、京一はハッと息を呑んだ。
  壬生に美里。それに岩山の所で治療を受けているはずの村雨の姿がそこにはあり、奥の間からじっと静かな眼でこちらを見ているのが分かった。
「 おい…」
  けれど京一がそんな彼らに向かって何事か言おうと口を開きかけた瞬間、すうっとそれを遮断するように如月が身体を動かした。
「 行け」
  それは凛とした冷たいものだったが命令とは違う、むしろどこか寂寥めいた声色だった。
「 蓬莱寺」
  その如月は口を噤んだ京一に再度強い口調で言った。
「 龍麻は最早僕たちには見えない……君にしか辿り着けない場所にいる。龍麻の見ている世界を理解出来るのは君だけなんだ。……早く行け」
「 ……如月」
「 もし今くだらない事を言おうものなら、今すぐ昨日の借りを返すぞ」
  感情の篭もらない声ではあったが、そこには昨夜如月と龍麻との間に無粋な想像を巡らせた京一を読み、責めている様子がありありと見て取れた。
「 ………」
  全く不思議だ。京一は彼らの事がちっとも分からないのに、彼らは京一の考えなど全てお見通しなのだから。
「 へっ……」
  強がって笑って見せるくらいしか出来ない。京一はくるりと踵を返した。

  昨日、俺を無駄に挑発して、わざとこっちの《力》を引き出そうとしたのはお前だろうが。それで「借り」なんて、冗談じゃねェ。

  京一はもう彼を、彼らを振り返らなかった。再び息をする間も惜しんで、やって来た道をただ全力で走り抜けた。





  この数ヶ月間、強さを求めて京一はただがむしゃらに剣を振るっていた。

『 京一。強さってのは何だ?』

  激しい戦闘の末飛び散った異形の肉片を目にする度、京一はほんの時折だが姿を消した師匠の顔を思い出した。いつでも不敵に笑って子どもの京一にも容赦なく剣を振るい叩きのめしていたとんでもない師匠だ。
  けれど京一は口にこそ出さなかったが「強い」その師匠を尊敬していたし憧れてもいたし、いつか絶対に乗り越えて勝ちたいと思っていた。
  《力》に目醒め、旧校舎の地下でその能力を伸ばせば伸ばすほど、京一は自分が師匠に近づいた気がしていたし、その事がただ単純に嬉しかった。
  ただ、そのせいでほんの少し周りが見えなくなっていた事があったかもしれない。いつも気をつけなければと思っていたのに返り血を残したまま地上に上がる事が多くなったし、それをさり気なく指摘した龍麻が物憂げな表情をしていた事にも気づかなかった。村雨や美里が龍麻の異変を指摘し「龍麻が苦しそう」と言って初めてそうだったかと思うほどだ。本当は気づいても良かったはずなのに、京一はどこかでその事実から目を逸らしていたところがあった。
「 京一。気をつけてな」
  京一を見送る度に龍麻がそんな風に背中越し声を掛ける事を、京一は「大丈夫だ」と答えながら、「また止められるんだろうか」とどこかで警戒していた。折角腕を伸ばすチャンスを逃したくはなかった。龍麻があそこへ潜る事を良しとしていない事など始めから分かっていたが、それでも京一はただ「力」を伸ばしたくて他には何も要らなくて。
  一番大切な事を見逃していたのだ。

『 考えろ、京一。強さとは何か…。お前が出すんだ。お前が見つけろ…』

  師匠の言葉が、今、京一の耳を痛いほどに突き刺してくる。
  こんな身勝手で己の事しか考えていない自分のどこが正しい力なのか……。
  京一はひたすら走りながら、最後に見た龍麻の悲しそうな表情を思い出して唇を噛んだ。





「 お前は単純バカだからな」
  これまでの自分の行動を散々後悔しながら、それでも走る速度を緩める事なく「その場所」へやって来た京一に、仏頂面の生物教師は開口一番そう言った。
「あん…?」
  息が苦しくて喋るのも億劫だし、大体今はそれどころではない。
  それでも、旧校舎の地下へ潜る際いつも利用している入口前を陣取った犬神を押し退ける事も出来ず、京一は額にぴくりと怒りの筋を浮き立たせた。
「 何なんだよ…!」
「 何処へ行く」
「 あぁっ!? 決まってんだろうがッ! そこだ! お前が立ち塞がっているそこだ! 龍麻の奴を連れ戻さねえと!」
「 何故緋勇がここにいると?」
  犬神はすうと口にしていた煙草を離すと細い紫煙を吐き出して京一に訊いた。
  危機感という物が全くない。多少なり事情を知っていそうな犬神なのに、何故こんな風に落ち着いていられるのだろうか。京一はそんな相手にぎりと歯軋りして更に一歩詰め寄った。
「 如月の所にはいなかった。あと考えられるのはここしかねェ」
「 ……感じたわけではない、か」
「 あ!?」
「 喚くな。……お前らにはどうでもいい事かもしれんが、試験明けとはいえ、校舎には登校してきている生徒もいる。騒ぎにはしたくないだろう?」
  別段何処を見ているという風でもなく犬神は遠くへ視線をやると、再び煙草を咥え、すぐまた煙を吐いた。
「 ちっ!」
  京一は焦れた想いを抱きながら、しかし渋々声を潜めて頷いた。
「 そりゃそうだがよ…。なら、とっととそこどいてくれ。俺は行かなくちゃなんねえんだよ…! 龍麻が…」
「 惚れたか」
「 かっ…関係ねェだろうが、テメエには!」
  咄嗟に誤魔化す事も出来ず裏声を出してしまった自分を京一は恥じた…が、やはり今はそんな事にも構ってはいられない。熱くなる顔を意識しながらも再度キツい表情を浮かべて京一は犬神を睨みつけた。
「 おい! 煙草ならよそで――」
「 ………」
「 ……?」
  けれど京一はそこで初めて違和感を抱いた。
  おかしい。
  この犬神という教師は自分がここへ来た時もまるで驚いた様子もなく、むしろようやく来たかという風な態度だった。けれど「待っていた」割には地下へ行く事を勧めもせず、それどころかその入口の所に立ったまま動こうとしない。
  むしろ……邪魔をしているようだ。
「 まさか…」
  京一はズキズキとする頭を片手で抑えながらぐっと一瞬だけ目を瞑った。
「 まさかアンタもこの俺を龍麻から遠ざける…。俺と戦うなんて言うんじゃねェだろうな」
「 ……蓬莱寺」
「 冗談じゃねえぞ! んな暇あるかよ!」
  何か言いかけた犬神を制して京一は怒声を上げた。如月の所から堪えていたものがここで一気に噴出したようだ。もともと気も長い方ではない。ただでさえ急いている時に余計な事で時間を費やしている暇などないのに。
  龍麻が、龍麻が危ないのだ。
「 どけ、犬神ィ!!」
  京一は逸る気持ちを爆発させ、更に大声を上げて手にしていた木刀をめいっぱい振り上げた。
  犬神の方は依然として静かで、やはりぴくりとも身体を動かそうとはしなかったのだが。
「 どけって言ってんのが聞こえねェのかよ!? 龍麻はそこにいるんだろ!? あいつは俺と約束したんだ! 俺とは戦わないってなッ! なのに…突然、消えてやがって…!」
「 『約束した』から、消えたんじゃないのか」
「 !?」
  犬神の言葉に京一はぴたりと動きを止めた。
「 蓬莱寺」
  すると犬神はようやく少しだけ身体を揺らして吸殻を懐に仕舞いこむと、陰氣な据わった眼を向け言葉を出した。
「 緋勇はお前と……《緋勇龍麻》として真っ向から戦いたくないから、独りで地下へ潜ったんじゃないのか」
「 どういう…事だよ」
「 ………」
「 犬神ッ!」
  更に木刀を強く握り締める京一に、犬神は微か嘆息してから口を開いた。
「 あいつは完全なる《陰の器》としてお前に斬られる事を望んでいる。……意思を失くした龍がそのまま暴走してお前を喰らうとも考えられるがな」
「 なんっ……」
「 緋勇がここへ来たのは1時間ほど前だ。奴は既に俺の《力》ではどうにも出来ない程の莫大な《力》を内に秘めていた。飛水のガキが言っていたと思うが、あの《力》に対抗出来るのは最早お前だけだ」
「 何を、俺は龍麻とは――」
「 だが、今のお前では返り討ちに遭うだけだな」
「 …ッ!」
  その言葉に京一が一瞬抗議の声を詰まらせると、犬神は気だるそうな雰囲気の中にも鋭く光る眼光を向けて続けた。
「 緋勇がお前の氣に呼応し《力》を増しているのとは対照的に、お前自身は緋勇の氣に応じて己の《力》を上げている節が見られない。お前の強さはまだ十分じゃない。このまま下へ潜っても龍に喰われるだけだ」
「 何を…言っていやがる」
「 俺はお前の為を想ってここに立っていてやるのさ。みすみす殺られに行く事はない。もう少し修行して強くなってから…正義の味方として奴を倒せばいい」
「 ………」
「 奴はもう意思を失くしたただの器になっているさ。お前の知っている緋勇龍麻はもういない」
「 テメエ……」
  喉がカラカラに乾いていて、声がうまく出せない。
  それでもこの全身を覆う怒りだけは本物だ。龍麻は戦いたくないと言っていた。京一も約束したのだ。絶対に戦わないと。龍麻の気持ちは未だに分からない。正直、それ故に怖いと想う事もある。
  それでも昨夜交わした約束は本物だと知っているし、だからこそ龍麻が違う形で自分との約束を守ろうとしているのなら、自分は今退く事など絶対に出来ない。龍麻を守ってやらなければならない。
  何も言わずにいなくなった龍麻に「バカ野郎」と言ってやらなければ。
「 蓬莱寺。諦めがついたか。さっさと引き返せ」
  追い討ちを掛けるような犬神の声が更に聞こえた。
  京一の理性の糸が切れたと思ったのはその時だ。
「 どけ…」
「 ………」
「 どけって言ってんだよ…」
  教師だろうが《力》を持っている何物だろうが、構わない。
「 犬神ィッ!!」
  今、自分と龍麻との間を妨害する者は誰であろうが斬ってもいい。京一は心の底からそう思って剣を振り上げた。ただ脳裏に浮かぶのは龍麻の笑顔、龍麻の寂しそうな顔、昨夜の……自分に縋りついていた龍麻だけ。
「 ……フン」
「 なっ!?」
  けれど京一が容赦ない自身の攻撃を犬神に決めたと思った瞬間だ。手にしていた木刀は空を斬り、気づけば目の前に犬神の姿は消えていた。
「 な…」
「 ……お前らの痴話喧嘩に巻き込まれるのはごめんだ」
「 はっ…!?」
  一体いつの間に移動したのか。犬神は悠々とした様子で京一の背後に立っていた。
「 お、お前…」
「 教師に対して何だ、その口のきき方は」
  もっとも…と、犬神は呟きながら再びしなびた煙草を取り出し、それに火をつけてからフイと横を向いた。
「 もっとも、お前があいつをどうにかしなけりゃ、ここで教師だ何だと言ってる生活も終わりだ。……後はお前らの問題だ。蓬莱寺。『今の』気持ちを忘れるな」
「 何を……」
「 さあ行け。もう誰もお前を止める奴はいない」
「 ……ちっ」

  最後までお前らは訳が分からない!

  そう思いながら、しかし京一は問い質す事はとうに止めたのだからと犬神を振り切り、入口へ飛び込んだ。背中越しに犬神の視線はひしひしと感じたが、掴み所のない人間の相手などもうウンザリだった。そう、龍麻以外はもうウンザリなのだ。
「 龍麻…! 待ってろよ…!」
  気づいたばかりなのだ。
  龍麻が好きだという事…ずっと抱きしめていたいと強く願った。
  そして昨夜のようなあんな顔は、もう絶対にさせたくない。
「 まだ何にも…俺はあいつに伝えてねェ…!」
  京一は暗く濁った異世界へと移行していく深淵に身を潜めながら、ただ龍麻の姿を探して下へ下へとその身を落として行った。
  異形の発する瘴気が異様に濃い。その事を身体に痛いほど実感しながら、ただ下へと。





『 君も…君も……』
  京一が向かっている深淵の奥の奥では人の影のようなものがゆらりゆらりと揺れていた。
  2体。ただしそのうちの1体ははっきりしない影のようだ。
  その周囲を夥しい数の異形が纏わりつくようにして蠢いていたが、2体は何ほどの事もないというようにそれらを寄せ付けず、また無謀にも自分たちに喰って掛かってくるそれらには逆にその身を喰らいこんで平然としていた。
『 駄目……』
  そうして揺らめく2体のうちの1体は砂のようにさらさらとした身体を向けながら消え入りそうな声で囁いた。
『 君も来たの……来たの……来たの……駄目……』
「 うん」
  頷いたもう1体の方は砂のようなそれよりもまだ実態があった。声もしっかりとした意思の篭もったそれで、明らかに「ヒト」と分かるものだ。…もっともその影を認知した者がいれば、の話だったが。
  そのヒトに見える方が言った。
「 来ちゃったよ。駄目なんだ。苦しいんだ。我慢出来ない。身体が爆発する」
『 心が……心が…あるから……か、ら』
「 そうだね。空っぽになった君でさえ、今でもこんなに苦しんでいるのに」
『 僕は……僕は、僕は平気………龍麻……』
「 渦王須」
  ゆらめく影に寄り添うように立ったその人物…龍麻は、ふっと閉じていた目を開くとゆっくりとした声で言った。
「 もうすぐここに凄い奴が来るんだ。凄く強くて…眩しい俺の友達。俺を殺しに来る。その前に渦王須……俺を取り込んでくれない?」



To be continued…



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