(29)



「 おや。何だい、いつ来てたんだい?」
「 さっきな」
  ベッド横に置かれた丸椅子に腰を下ろしながら、京一は後から病室に入って来た岩山女医にばつの悪そうな顔を向けた。
「 外来の方が忙しそうだったからよ。勝手に入った」
「 ヒヒ。お前にそんな気遣いの精神があったとはねぇ」
  厭味なのか本心なのか分からないような口調で岩山はそう言い、白衣のポケットに両手を突っ込みながら鼻を鳴らした。
「 それよりこの3日ばかし姿を見せなかったじゃないか。一体何処をほっつき歩いていたんだい?  あんたが来なくちゃ、そこのお姫さんが寂しがるだろうよ」
「 へへ…先生も嬉しい事言うねえ」
  ぽりぽりと照れたように頭を掻く京一に、岩山は再度ヒッヒと不気味な笑声を立てながらおもむろに窓際へと歩み寄った。閉じられていた薄い衣地のカーテンがシャッと開かれる。
  途端外からの眩しい光が白い病室をより一層明るく照らし出した。
「 ………」
  京一はそれに一瞬目を細めた後、すっと傍のベッドへ視線を落とした。
  龍麻はすうすうと実に穏やかな寝息を立てている。
  掛け布団の隙間から見えるパジャマは3日前に見た物とは違っていた。先日はブルーの小さな水玉模様が散りばめられた厚生地の物だったが、今日着ているのは薄桃色の絹に可愛らしい小うさぎがプリントされている柄物だ。
  夏からずっと眠り続けている龍麻にこうしたこまめな着替えをさせているのは看護師の高見沢だが、毎回変わる寝巻きの類は仲間達が頻繁に献上してくる見舞い品だった。
  何も知らずにとっかえひっかえ着せ替えをされている龍麻が可笑しい。
  京一は自然浮かぶ笑みを浮かべたまま思わず呟いた。
「 こういう可愛らしい姿見せられると、余計に襲いたくなるよな」
「 フン。お前も日を追ってあからさまになってくるね」
  窓の外を見ていた岩山が京一の発言にちらりと呆れたような視線を寄越した。京一はそれにまた「へへへ」と悪戯小僧のような笑みを浮かべた後、眠っている龍麻の頭をそっと撫でた。

  あの日からずっと眠ったままの龍麻。

  渦王須の姿となった龍麻が自分に向かって攻撃を仕掛けてきたところまでは京一も覚えている。無抵抗でそれを受け入れようとした瞬間、突如真っ白な光が地下全体を明るく照らし出したところも……微か記憶に残っている。
  それでも後の事は全く分からず、気づけば京一は桜ヶ丘病院のベッドの上で、巨漢の女医・岩山から開口一番「右腕は諦めな」と言われた。それに対して何かを考える間もなく視線を横に向けると、そこには自分よりも余程たくさんの管を付けられ意識を失っている、けれど息をしている龍麻の姿が見えた。
  ほっとした。
  確かに右腕の感覚は全く失われていたが、それは別に構わないと思った。
  龍麻が「戻ってくれた」のなら。
「 あ〜、やっぱ3日ぶりに見るひーちゃんは一段と可愛いなあ」
  京一は改めて感無量だというように大きな声を出した。
  長い睫も柔らかそうな唇もみんな好きだ。龍麻はずっと眠っているし、病室に来てもそんな龍麻の顔をまじまじと眺めるくらいしかする事がないけれど、しかしだからこそ、今では京一も龍麻のこういうところが好きだ、あそこが可愛いなどとより強く感じるようになっていた。
「 あとは起きて口開いてくれりゃあな」
「 慌てなさんな。命はあるんだ、そのうち起きる」
  岩山は低い声で諭すようにそう言った後、「あんまり悪戯するなよ」と含みのある言葉を残して病室を去って行った。この女医には何もかもお見通しだと京一は決まりが悪かったが、それでも彼女には感謝していたから、ただ苦い笑いを浮かべてやり過ごした。
  女医は京一が龍麻を見舞っている時だけは他の仲間達が来てもここへ入れる事をしなかった。2人だけにしてくれた。
「 俺ばっか特別扱いだって、桜井あたりは煩く喚いてるけどな」
  眠っている龍麻に京一は笑いながら語りかけた。
「 美里や如月も毎日煩ェの。ひーちゃんが起きないからだぜ? 俺ばっか先に復活してピンピンしてるもんだからよ、今やあいつらの息抜きは俺に八つ当たりする事なんだよな。ったく、ひでえ。あ、勿論ひーちゃんに貢ぐのも奴らの生き甲斐みてーだけど」
  すげえよなあと独り呟いて、京一は病室にひしめいている数々の見舞い品に肩を竦めた。
  そこかしこに飾られている色とりどりの花々は仲間の女性陣が毎日交替で持ってきているものだ。
  パジャマや果物といった定番の物は各自が気に入ったものを見つけた時に随時運んできていて、その他にも毛布や枕をはじめ、遮光用カーテン、お香、空気清浄機などを運ばせた者もいた。食べ物の類は無駄だと岩山などは折に触れ言うのだが、龍麻が目覚めた時いつでも食べられるようにと彼らは病室にそれらを運びこむ事を止めようとしない。
「 皆、ひーちゃんの事待ってるぜ。勿論、俺も」
  京一は再び龍麻に話しかけ、先刻やったように片手でさらりと龍麻の前髪を撫でた。
  龍麻の白い顔は息をしていなければ時々死んでいるように見える事がある。
  それに龍麻自身、柳生という男に斬られた時の事を「別に恐怖は感じなかった、自分はもうとうに死んでいたから」という言葉を吐いていたから、それを思い出す度に京一は動かなくなった己の右腕がぴりぴりするのを感じた。
  そして、今はもういない柳生なる男が信じられないほど憎いと感じた。

  けれど戦いはもう終わったのだ。もう龍麻を脅かす物は何もない。

「 あのな、ひーちゃん」
  左手でぎこちなく龍麻を撫で続けながら京一は言った。
「 昨日までまた潜ってたんだけどよ。安心しろ、すげえ静かなもんだぜ。お前の気持ちが安定してるせいだろうな…静か過ぎて俺には物足りねェくらいだった。はは…不謹慎な話だけどな」
  あとな、と京一は淡々と声を出し続けながら、やがて髪を撫でていた手を頬へ、唇へと落としていった。龍麻の唇に触れるのは特に好きだった。
「 もっと早くにやろうと思ってたんだが、今頃になっちまった。渦王須の墓…盛り土に剣を差しただけだけどよ、ひーちゃんがそうして欲しいんじゃねえかなって思ってさ」
  何故あの時、龍麻が渦王須という少年の姿になっていたのか。京一にはその意味が今もって判然としないが……最近になってようやく思い至るところがある。
  渦王須は柳生戦の際に龍麻が滅ぼし、既にこの世にはいない存在だ。渦王須の魂は確かにあの時京一の傍にいて京一に語り掛けていたが、実態を持った彼の姿は龍麻が己を偽る為に作り出した空の器に過ぎない。……だから京一は龍麻にとって渦王須という少年は、龍麻の中に眠る暗い意思の象徴だったのかもしれないと思っている。龍麻は戦う度に自分は黒くなっていくと言っていた。己の陰の部分に苦しみ、他人の陰の氣をも己のものとし、龍麻は肥大化する陰の《力》を抑える事で精一杯だった。それでも龍麻は渦王須や黒竜に己を移し変える事でぎりぎり「京一と戦いたくない」という意思を持った自分を護っていたのかもしれない。
  そしてそんな龍麻を救う手助けをしてくれたのが、過去龍麻に救われた渦王須の魂なのではないか……そんな風に思うのだ。
「 もうすぐ12月だな」
  龍麻の唇を何度か撫ぜた後、京一は何気なく言った。
「 12月って言ったらクリスマスだろ。クリスマスって言ったら恋人同士のイベントだよな! まあ…俺まだちゃんと告白してねえし。俺たち別に恋人同士ってわけじゃねェけど」
  けどよ、と京一はきょろきょろと誰もいない病室を見やった後、椅子から腰を浮かして龍麻の顔に自らのそれを近づけた。
「 ひーちゃん。普通よ、お姫さんは王子のキスで起きるもんじゃねえの?」
  ちょこんと唇に一瞬触れるだけのキスをして、京一は一人で照れたように笑った。
  それからもう一度、今度は「龍麻」と囁いて深い口づけをする。
  龍麻が眠っている時に勝手にするなどと、当初は多少の罪悪感も抱いていたが、今では病室に来る度やっている慣例行事だ。いつか自分のキスで龍麻が目覚めてくれたら最高だなと思って毎度やってみるのだが、しかし期待に反して龍麻は相変わらず規則正しい寝息を立てているだけだ。
「 あーあ、今日も起きねーの? ひーちゃん、いい加減寝過ぎ」
  苦笑しつつ、京一は再び椅子に腰をおろし、それから窓の外を何となく見やった。
  まだ本格的な冬の訪れとまではいかないが、白い空を眺めているとあの時の眩しい光を思い出す。龍麻に貫かれる事を覚悟しながら、それでも無抵抗を決めて剣を捨てた己の氣の力だけを思い返す。
「 今ならアンタにも勝てる自信あんだけどなぁ…」
  消えてしまった師匠の姿を思い浮かべ、京一はふっと笑った。
  それからゆっくりと立ち上がり、龍麻の事をもう一度見下ろす。
「 じゃあな、ひーちゃん。また来るからよ。今度は俺も何か持ってくる。ひーちゃんの好きなもん……何がいいかなあ」


「 ………ン」


「 ……………は?」
「 ……メン」
「 なっ!?」
  突然唇を動かしそう発した龍麻に、京一はぎくりとして椅子を蹴り倒してしまった。
「 ひ、ひーちゃん?!」
「 ……京一」
  そうして龍麻はゆっくりと目を開くと京一の名前を呼んだ。未だぼんやりとした眼差しで焦点があっているのかいないのか、ぼうと天井を見つめたまま微動だにしない。京一も驚きのあまりそんな龍麻を凝視し声が出せなかったのだが、やがてそれがどのくらい続いたのか、龍麻がゆっくりと首を横に動かしてきた。
「 京一」
  そして龍麻はもう一度呼んだ。
「 ひー……ちゃん」
「 夢、見た」
「 ゆ、夢…?」
  微か声が震えたが龍麻はそんな京一に気づかなかったようだ。「うん」と小さく頷いた後、龍麻はゆるゆるとした視線をあちこちに向けながら言った。
「 京一が…俺の横でラーメン食べてた。早く起きないと…全部食っちまうぞ、とか…」
「 あ、ああ…。それ、夢じゃねえかも…」
  京一はよく病室にカップラーメンを持ち込んでは眠る龍麻の横でそれを啜っていた。岩山や高見沢は病室で何て事をとそれを発見する度に怒っていたけれど。
「 あと……学校の話とか、皆が話してて」
「 やっぱそれ夢じゃねえよ。あいつら何かっつーとひーちゃんに日常報告しに来てたからな。意識のどっかではもう起きてたのか」
「 あと……」
  京一の声を受けて龍麻は白い唇を動かしながら少しだけ瞳に感情の色を浮かべた。
「 うん、何か……。変なんだけど……」 
「 何がだ?」
「 京一から…何回もキスされる夢見た」
「 うっ……」
「 ………ごめん。変な話して」
「 い、いや…」
  だからそれも夢じゃないんだが…と言いかけて、けれど京一はぐっと唾を飲み込むと唐突に言った。
「 ひーちゃ…いや、龍麻。俺、お前に惚れてんだ」
  龍麻の反応を窺う前に京一はたて続けに繰り返した。
「 お前が好きだ」
  何ヶ月も眠っていた相手に突然何を言ってるんだという想いもあったけれど、龍麻が目覚めたらすぐに言おうと思っていた事だ。だから言えた事に京一は満足した。「ああやっと言えた」と思った。
  一人で感じ入って息を吐くと、龍麻はそんな京一に未だぼんやりとした表情を見せたまま、やがて「俺も」とあっさり答えた。
  京一はその答えにまさしく目を点にした。
「 はぁ……?」
「 俺も好き」
「 そりゃ………」
  一体どういう意味で……と言いかけて、けれど京一は意図的に唇を噤んだ。どういう意味もこういう意味も、「友達として」の意味に決まっている。正直、ここまで気持ちが昂ぶっている今、そんな答えを聞かされるのは本音きついと思った。
  だから京一はごほごほとわざとらしく咳き込んだ後、「そうか」とだけ言い直した。言い直して、完全に知らばっくれた。
「 ま、まあ…なら、俺ら両想いなわけだし…。そ、そうだ! クリスマスイブには初デートしなくちゃな!」
  強引にそう言いながらちらりと龍麻を見下ろせば、龍麻はやはりぼけっとした顔をしたまま何の反応も示さなかった。
  ただようやっと京一の方には視線をあわせ、それからほんの少しだけ微笑んだ。何故そこで笑みを見せたのか、勿論京一に分かるわけもない。またその無垢な笑顔にふらりと眩暈を感じた事も言わずもがな、だ。
「 きょういち」
  そうして龍麻はクラクラとしている京一をよそに、まるで赤子のようなたどたどしい口調で再度京一を呼んだ。
「 京一、顔、赤いの何で」
「 べっ…別に赤くねえよ!」
「 おかしい…。変だな、胸が痛い」
「 えっ!? 大丈夫かひーちゃん、今ナースコー…つか、岩山のババアを…!」
  けれと途端慌てる京一に龍麻は緩く首を振るとふっと目を閉じ再度唇に笑みを作った。
「 違う。……この痛みは、嬉しいもの」
「 ……ひーちゃん?」
「 京一が好きだ」
  龍麻はそうしてそっと手を出した。
「 ひー…」
  京一はそんな龍麻に途端どきんと心臓を鳴らした後、動かない右手にじれったさを感じながら動く左手を差し出して龍麻の左手をぎゅっと不器用に掴んだ。
「 俺も……好きだぜ」
  そして京一はもう一度、はっきりと龍麻に告げた。ドキドキしていた。自分の気持ちを口に出して言う事がこんなに照れくさく勇気の要る事だと初めて知った。
「 好きだ」
  けれど京一はこれから何度でも言いたいと思っていた。
「 好きだ」
  龍麻の手を握り締めながら京一はそして自分も一緒に笑った。
  温かい。
  白く透き通るような、人の体温を感じさせなかった龍麻の手に仄かな熱を感じる。そしてまた自分の熱も龍麻に感じ取ってもらえているのが分かった。
「 なぁ……ひーちゃん」
  それを確かな喜びと感じながら、京一はこれから始まる新たな自分たちの関係に想いを馳せた。

  龍麻は一度死んだと言ったけれど。
  それなら、今この時から新たに始めればいい…そう思った。
  蘇った龍麻の生を、今、京一は自らのその手にしっかりと感じ取っていた。



  そして恐らくは龍麻も、また。



Fin…



28へ戻る後記へ