(3)



「 どうしたの、龍麻。最近元気がないわね」
  放課後、真っ直ぐに龍麻の席にやってきてそう言ったのは美里だった。相変わらずの慈悲に満ちた笑顔が眩しい。京一あたりは「眩しすぎて怪しすぎる」などと龍麻にとっては意味不明の台詞をつぶやく事もあるのだが。
「 うん…ちょっとね…」
「 この間如月君のお店へ行った時に何かあった?」
「 え」
  ぎくりとなって美里の方を見ると、そこには何もかもを見透かしているような、どことなく何かを秘めているようなミステリアスな笑みがあった。龍麻はそんな美里に動揺を隠し切れない様子で挙動不審になったが、それでも「何でもない」と首を振る事はできた。
  しかし美里はそれで「はいそうですか」と引き下がるタイプでもなかった。美里のさり気ない発言は続いた。
「 そういえば壬生君。この間龍麻のアパートの前にいたわよね」
「 え…?」
  不意に出てきた壬生の名前に龍麻が再びびくりと反応を返すと、美里は目を細めて薄く笑い、片手で自らの髪の毛をさらりとかきわけてから言った。
「 あら、知らなかった? てっきり龍麻の所へ遊びに来たのかと思っていたのだけれど。じっと部屋の方を見上げていたわよ? でもそういえば、何だかひどく思い詰めていたようだったわね…」
「 壬生が……」
「 ただ龍麻の部屋を見ていたなんて、どうしたのかしらね?」
「 ………」
  美里の問いに龍麻は何と答えて良いか分からずに沈黙してしまった。そして先日いきなり自分を罵倒し、キスをしてきた「友人」の顔をぼんやりと思い浮かべた。


  龍麻にとって壬生は「友達」であり、「兄弟子」であり、そして「仲間」であった。それは家族のいない龍麻にとってはこれ以上ないくらいの大切な存在であることを示していたのだが、しかしどうやら壬生にとってそれはひどく苦しいもののようだった。自分が龍麻にとって「ただそれだけの存在」である事が辛い…。自分の想いは龍麻のそれよりも遥かに上なのだと、壬生はあの日言外に訴えてきた。
  如月のことを好きかもしれないと言った龍麻に対し、普段から物腰の柔らかい、優しい心根を持つ壬生があんな風に怒り、取り乱したこと。そしてキスをしてきたこと。それは龍麻には大きな衝撃だった。そして同時に、今まで知り得なかった壬生の新たな激しい一面を知り、途惑いを隠せなかった。これからどんな風にあの壬生と接していいのか分からなかった。そしてアパートの前にまで来て、けれど部屋にまで来る事がなかった壬生を想い、龍麻はより一層苦しい気持ちに捕らわれた。


  学校から真っ直ぐ帰ってきた龍麻は、念のためアパートの周囲をぐるりと回ってみた…が、壬生の姿は認められなかった。龍麻は多少落胆した気持ちと安堵した気持ちを半分ずつ抱えて部屋に入った。重たい気持ちが更に重くなった。
  しかしその刹那、不意に部屋の電話が鳴った。
「 ……ッ」
  そのけたたましく聞こえる電話音に龍麻は思い切り意表をつかれ、びくりと身体を揺らした。それでも手は反射的に電話口に向かっていたのだが。
「 もしもし…っ」
  壬生かもしれない。そう思ったからこそ動いた手だった。実際相手が本当に壬生だったして、何を話して良いかは分からなかったが、ただこのまま気まずい状態でいるのだけは嫌だと思った。
「 ……? もしもし」
  けれど受話器の向こうから返答はなかった。
  電話はやがて切られた。

「 ……な、何だよ……」
  プープーとむなしくなる電話音を耳にしながら、龍麻は多少憮然としたまま受話器を置いた。落胆が大きく、肩を落とす。
  するとその瞬間、今度は玄関のチャイムが鳴った。

「 な…」
  さすがに慌てて、しかし急いで玄関に向かう。来訪者が誰かも確かめずに、龍麻は勢いのままドアを開いた。
  けれどそこには誰もいなかった。
「 な…どうして……」
  龍麻は誰もいない外の景色に唖然となり、しばしそこから動けなかった。
「………」

  すぐに切れた電話と、チャイムを鳴らしたまま消えた来訪者。
  それはただの偶然かもしれない。何かの間違いが重なっただけかもしれない。けれど龍麻にはそう思う事ができなかった。この二つの出来事は同じ人間がやった事で、それは明らかに自分に対して何かを訴えたくてやっているものとしか思えなかった。
「 何でだよ…っ!」
  不意に龍麻は猛烈に腹が立った。思わず叫んで、そのままドアを閉めた。そのたったの一動作だけでひどく息が乱れた。頭の中がくしゃくしゃした。
  壬生にばかにされているような気がした。



「 翡翠ってさ。相手の気持ちとかよく考える方?」
「 何だい、突然」
  一体どういう経緯でそういう話になったのかは覚えていないが、以前2人でそんな会話をした事があった。いつものように龍麻が如月の店の帳場前に椅子を引っ張り出して座り、如月の方はそんな龍麻の方は見ずに帳簿に目を通していた。
  静かな空気が2人を包んでいて、少なくとも龍麻にはそれがとても居心地良かった。
「 僕がそういう人間に見えるのかい、龍麻は」
「 うん。ぶっきらぼうなフリしてるけどさ。翡翠は相手のことをよく見ているよ」
「 ………」
「 だって俺のことよく見てる。そういうとこは、翡翠ってすごい」
  龍麻が素直にそう言って如月に賛辞を送ると、言われた当人はひどく嫌そうな顔をしてようやく帳簿から目を離した。そして素っ気無く言った。
「 最低限の礼儀くらいは弁えていたいと思うけどね…。僕は大概、冷たい人間だよ」
「 そうかな…」
「 龍麻は知らないだろうけど、学校では『氷の男』なんて呼ばれているんだよ」
「 えー嘘だあ…」
  龍麻が茶化すように笑うと、如月はようやく苦笑したようになって首を振った。
「 嘘じゃないさ。でも君が僕をそういう風に感じないのなら…それは…」
 そういえば如月はあの後何と言ったのだろうか。定まらない思考の中で、龍麻はぼんやりとそんな事を思い返した。




  散々悩んだ末、龍麻はその夜部屋の受話器を取り、壬生の携帯の番号を押した。
  壬生はすぐに出た。
「 龍麻…?」
  通知番号を見てすぐに相手が龍麻だと分かったのだろう。壬生は少しだけ途惑ったようになりながらも、すぐに龍麻の名前を呼んだ。
「 何か用…?」
  けれどそんな遠慮がちな警戒するような声に、龍麻は冷静になっていたはずの気持ちをあっという間に蹴散らし、カッと頭に血を昇らせた。
「 用があるから掛けてんだよ!」
「 ……龍麻」
「 何で来ないんだよ! 正々堂々とやって来ればいいだろ! くだらない自己主張なんかしてないでさ!」
「 え…」
  受話器の向こうで壬生の怪訝な声が微かに聞こえた。それだけで龍麻は再び腹の中がぐらぐらと煮立ってくるのを感じた。
「 暗いんだよ、やることが! イタ電にピンポンダッシュって何なんだ!? 子供かお前は!」
「 た…龍麻…? 一体何を…」
  壬生は龍麻のその言葉に明らかに困惑しているようだった。しかし龍麻にはただ壬生がしらばっくれているとしか思えなくて。
  ますます身体中が熱くなった。
「 大体! 人に勝手にキ…キスとかしといて、その後何にも言ってこないで、一体何なんだ! 訳分からないんだよ、壬生のやりたい事!」
「 ………僕は」
  壬生の消え入りそうな、悲しそうな声に龍麻は耳を貸さなかった。ただ怒りのまま言っていた。
「 今すぐ来いよ」
  大切な友達だと、仲間だと思っていたから、こんな風に壬生と気まずくなるのは嫌だったし、壬生に卑屈なことをしてほしくなかった。面と向かって話そうと思った。だからこの時の龍麻は、今壬生がどこで何をしているのかとか、いつものように仕事の最中なのではないかとか、そんな事は一切気に掛けなかった。
「 いいな。今すぐ来いよ!」
  そして龍麻は壬生の返事を聞く前に叩きつけるように受話器を置いてしまった。急激に興奮したせいだろうか、大して話してもいないのに喉が渇いた。龍麻は無意識のうちに如月から貰った飴玉の瓶に手を伸ばし、その中の一つを口に放り込んだ。





  壬生が龍麻の部屋にやってきたのは、電話が切れてから数十分後のことだった。
「 遅い」
  出迎えもせずにリビングから背中を見せたまま龍麻はそう言い、その後ちらとだけ玄関口で立ち尽くす壬生を見やった。壬生は息を切らせており、何処からか急いで来たのだろうことは一目で分かったが、龍麻はそのことについては問い質さなかった。
「 ……ごめん」
  すると不意に壬生の方が龍麻にいきなり謝ってきた。遅れてきたことを本当に申し訳なく思っているようだった。肩で息をしたまま沈んだ顔で俯く壬生は、ただその場に立ち尽くしていた。
  龍麻はそんな壬生の態度に再びかっとなった。

「 早くあがれよ。そんなとこにいないでさ」
「 ………」
「 話があるって言っただろ!」
「 ……でも」
「 何!」
  ぽつりと何かを言いたそうにしている壬生に龍麻がきつく責めると、壬生はようやく真っ直ぐ前を向いてから言った。
「 僕はここでいいよ」
  その言葉は、声色は、やはりとても切なげだった。
「 ……何で」
  龍麻はそれで自分の中の温度が一気に下がっていくのを感じた。何だか背後に立つ壬生を見ていると、自分が壬生の何に腹を立てていたのか、分からなくなりそうだった。
「 何で…そんなところにいられたんじゃ、落ち着いて話なんかできないだろ。俺は壬生とちゃんとー」
「 話なんかできない」
「 え?」
  突然そう言った壬生に、龍麻はぎくりとして口を閉じた。
「 君と…もう2人だけで話なんかできない。したくない」
「 な……何言って……」
「 ……はじめは…いられるだけで良かったんだ…」
「 え?」
  壬生の押し殺したような声が龍麻にはよく聞こえなかった。 じっと壬生の方に視線を集め、耳をすませた。
  壬生から目を逸らせなかった。

「 龍麻と初めて出会った時、何て羨ましい人だろうと思った。そして正直、僕は君のことを妬ましく思った。何でも持っている君を許せないと思った」
「 み、壬生…?」
「 僕は君の抱えている苦しみとか哀しみとか、そんなもの何も考えてやしなかった。ただ龍麻、君のことが羨ましかったんだ。他人のことなど今まで何とも思った事がなかったのに。ただ君のことが許せなくて、でも君から目が離せなくて…」
  壬生は苦しそうにそう言い、そこで一旦息を吐いた。視線は相変わらずただ足元に集中していた。龍麻を見ようとはしていなかった。
「 そうなんだ。僕は当初君のことを憎んでいた…んだと思う。そういう気持ちはあったと思う。でも…でも、そのうち…」
「 壬…」
  龍麻の呼びかけに壬生は反応しなかった。恐らく自分の声など届いていないのだと龍麻はこの時壬生の姿を見て思った。だから龍麻は声をなくしてしまった。
  壬生は続けた。

「 そのうち僕は君のことじゃなくて、君に好意を持つみんなのことを嫌いに思うようになったんだ。随分…汚い気持ちになって」
「 ………」
「 邪魔だ、と思った」
「 !」
「 いらないって…。僕以外の仲間なんて、君にはいらないって…」
「 壬…壬生…」

「 その中でも、如月さんのことは特に嫌いだ」
「 壬生!」
  龍麻はたまらなくなったように叫び、それから立ち上がった。つかつかと壬生の前にまで歩み寄り、それから眉間に皺を寄せたまま目の前の今にも崩れ落ちそうな青年と向き合った。胸が痛くて苦しくて、そうしないとまともに呼吸もできないと思った。
「 もういいから…」
  そう言わずにはおれなかった。

「 ……あの人は龍麻のこと……」
「 もういいから言うなよ」
「 ……真神の美里さんたちも嫌いだ。いつも龍麻といる。君を見てる」
「 うん」
  いつもは促してもめったに喋らない壬生の口は止まらなくなっていた。それでも龍麻のことは見ない。ただ下を向いて切羽詰まっていた。
  龍麻はゆっくりと片手を差し出してそんな壬生の肩先にそっと触れた。壬生の身体がびくりと揺れた。震えたのかもしれなかった。
「 ……どうして今まで黙ってた」
「 ………」
「 ただ見ているだけなんて…辛いじゃん」
「 ……言えるわけないよ」
  壬生の自嘲するような声。それも龍麻にはひどく痛いものだった。
「 こんな自分…見せられるわけない」

「 でも俺が翡翠のこと好きかもしれないって言ったら怒ったじゃないか。そのあと無理やりキスまでして」
「 …ごめん」
「 違う。謝って欲しいんじゃない。つまりは、壬生は、俺にどうして欲しいのかと聞いてるんだ」
「 ………」
「 今正直に言わないと一生後悔するよ」
「 ……龍麻」
「 言いなよ、壬生」
  そう自分自身言ったのに、瞬間、龍麻は自分の頭の中に如月の姿が浮かんだのを見たと思った。
  それでも龍麻はその映像を無理に消して、目の前の壬生を見つめた。

  どうしてなのか…。


「 どうしてだろ…壬生のその痛い気持ちが…俺と同じで…」
「 ………」
「 壬生のそんな顔は見たくないよ」
「 一緒にいたいんだ」
  その時、ようやく壬生は言った。ゆっくりと顔を上げ、それからやはり泣き出しそうな顔で龍麻を見つめてきた。
「 君のことが好きなんだ、龍麻」
「 壬生…子供みたいだね」
  龍麻はそれで自分も泣きたい気持ちになって顔をくしゃりと曲げた。壬生の言葉が嬉しくて悲しくて苦しくて。それでも壬生のことを両腕で抱きとめると、龍麻はゆっくりと目を閉じて、壬生の温度をただ感じた。

  君と僕は違うから。

  そして過去自分にそう言ってきた壬生の姿を思い返しながら、龍麻は言った。

「 俺…うまく言えないけど、翡翠とは違う気持ちだけど…壬生のそう言ってくれる気持ち…すごく嬉しいよ」
  いつの間になくなっていたのだろう。口の中で転がしていた、如月から貰ったあの飴玉はもう溶けてなくなっていた。
  まだ口の中にあの甘い味は残っていたけれど。

  龍麻は壬生をもう一度ぎゅっと抱きしめると、自分の背中には感じられない相手の熱が来るのをじっと待った。ただ、待った。
「 ごめん…龍麻」
  壬生がそんな龍麻のことをそう言って抱き返してきたのは、それから数分後のことだった。



To be continued…



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