今まではその色にも臭いにも声にも。
「 ひ…ひぃ、い……!」
これほどまでに無感情になる事はなかったのに。
「 ゆ、許してくれ…助け……ッ!」
醜く命乞いをする男を僕はどんな眼で見下ろしていたのか。
「 金かっ? 金で頼まれたんだろう!? なな、なら俺はソイツの倍…いや、五倍出す…ッ! だ、だかだからだかッ…命だけ―――ギィ…ッ」
「 ……………」
男は最後に声にならない声を喉元の方で微かに出してから、絶命した。
往生際悪くいつまでも逃げ惑うなんて、下手に血が出て痛いだけじゃないか。
それに男から流れていたものは血だけじゃなかった。失禁、涙、それに鼻水。それら全てに塗れて、男は全身ぐちゃぐちゃだった。
「 ………後は頼む」
背後で後処理をする為に待機していた人間たちに声をかけ、僕はそちらにはもう振り返らずにその場を去った。
手にしていた時計にちらと目をやる。もう真夜中も0時を過ぎていた。
こんなに時間をかけてこなした仕事は初めてだった。
(10)
龍麻が退院する事が予定されていた日はクリスマスイブで、世間はいやに浮ついていて煌びやかで、どことなくいつも以上に落ち着きがなくなっているような感じがした。
僕は龍麻が退院するその日、彼が蓬莱寺と約束をしたという事を彼自身の口から聞いていたから、いつものように病院には行く事はしなかったし、彼に連絡を取る事もしなかった。好きな相手が違う誰かと一緒にいる事を選んで平気でいられるほど僕は寛容な人間じゃなかったし、かと言って龍麻に蓬莱寺と会うのはやめて自分といて欲しいと言えるほどの勇気も持ち合わせてはいなかった。
またその日は、半年ほど前から調査をし事を進めてきたターゲットを僕自らの手で処断する日だった。
…そんな日に限ってと思わないでもなかったが、
同じその日の朝には、入院している母親に以前から約束していた花を届ける用もあった。…それらの用事を済ませるまでの間、またあの誰もいない部屋で龍麻を待たせる事は、今の僕にはできそうもなかった。
いや…違う。
ただ僕は、彼に誘いの言葉をかけて断られるのが怖かったんだ。龍麻があの時僕を拒んだ事が僕にはショックだったから。だから僕は自分自身にそんな言い訳をして、自分から龍麻と距離を取ったんだ。
「 ちょっと壬生? 壬生じゃない?」
そんな風に僕がぼんやりとつまらない考えを巡らせている時だった。
「 あ………」
「 やっぱり壬生だ。随分イイ男が1人で歩いているなァと思っていたのよ」
仕事を終えたばかりで、まだ身体も熱を持っている。
僕はすぐに家に帰る気がしなくて、何となく夜のざわついた街を歩いていた。そんな僕に気さくにそう声をかけてきた彼女は、ひどく嬉しそうな顔でまじまじとこちらを見やってきた。
「 久しぶりね。こんな所で会うなんて奇遇じゃない」
「 そうだね」
「 ……って、壬生はアタシの事ちゃんと覚えている?」
「 ああ……」
「 本当? アヤシイわねェ」
僕はすぐにそう応えたのだが、相手はどうも信用していないらしい。だがどことなく楽しげな眼をしているその表情から、彼女が僕に敵意を持っていない事は容易に分かった。
彼女が長い髪をさっと片手でかきあげる仕草をした途端、強い香水の匂いが鼻をついた。そんな彼女は、イブに似つかわしい真っ赤なコートを羽織っていた。隣には、恋人なのだろうか、僕たちよりも少し年上といった感じの男が不審な顔をして僕と彼女を交互に見やって立っている。彼女がヒールの高いブーツを履いているせいか、その男は少しだけ小さく見えた。
「 ちょっと壬生。何ジロジロ見てンのよ。フフ、分かった。あんまりアタシが綺麗なもんだから見とれてるんでしょう」
「 そうかもね」
「 あ、もう! 軽くかわしちゃって、ムカつく」
「 おい、亜里沙。誰なんだよコイツは」
たまらずに男が彼女に声をかけた。彼女は煩わしそうな視線を男に向け、「煩いわねェ、ちょっと待ってなさいよ」と居丈高な態度で平然とそう言い放った。
「 ごめんね、壬生。コイツ、今のアタシの彼氏。結構アタシの言う事聞いてくれるから付き合ってあげてるの」
「 あげてるって何だよ!」
「 あら、じゃあ帰ってもいいのよ。そしたらアタシはこれから壬生と一緒に飲みにでも行くから」
「 そ、そんな亜里沙〜」
男が情けない声を出した。僕はどういう顔をしていいか分からなくて、ただ無表情を通していたが、どうにもここにいつまでもいるのは良くない気がして早々に退散する事にした。
「 あ、ねえ待って」
しかしロクに挨拶も交わさずに去って行こうとする僕を彼女は呼び止めた。
「 みんなから聞いてるよ。龍麻と最近仲良いんだってね」
「 ……………」
不意に先日蓬莱寺が僕に言った言葉が脳裏をよぎった。
「 みんな知ってるンだぜ? 最初は仲間にならなかった奴が『いつの間にか俺らの龍麻とくっついてる』って事をな」
「 ……………」
僕が黙りこくっていると、彼女―龍麻の仲間でもあり、以前僕も話をした事がある藤咲さん―は、何かを見透かしたような目をしてにやりと笑った。
「 いいんじゃない。アタシは、前々から壬生がアタシらの仲間になってくれれば良いのにって思ってたンだから」
「 僕は……」
「 あ、いいのいいの。もしアタシたちと一緒に戦うのが嫌でも。龍麻の傍にいてくれるなら。龍麻を護ってくれる役、やってくれるなら」
「 ……………」
いい加減しびれを切らせていそうな男にも全く構う風もなく、藤咲さんは僕に笑顔を向けたまま続けた。
「 あのコってホントに危なげでショ。アタシが慰めてあげるってのに全然聞く耳持たないし。どうしたもんかなとは思っていたのよ。でも、壬生なら安心ね」
「 藤咲さん…」
「 あ、なーんだ、アタシの名前覚えていてくれていたの?」
嬉しい、と彼女は本当に柔らかな顔でふわりと笑った。年上じみた外見、それに態度が、その時だけは僕と同じ高校生のそれに見えて僕ははっとした。
「 それより今日はイブじゃない! …って、もう0時過ぎちゃってるからクリスマスか。早く帰ってあげてよ。龍麻、どうせ待っているんでしょ?」
「 ……………」
彼は。龍麻は。
「 待っていないよ……」
「 え、何?」
僕のつぶやきは彼女には届かなかったらしい。僕も再度言う気持ちにはなれなかった。後はもう不機嫌極まりない男の雑音を耳に入れながら、僕は彼女たちの傍を離れた。
龍麻を護る役。
「 僕も、できると思っていたんだけどね……」
自然とそうつぶやいてしまい、僕は失笑した。情けない。馬鹿みたいに明るい街の色や光が無性に腹立たしくなった。
僕は足早に家路へと向かった。
やっとたどり着いた自宅マンションのドア前には、人影があった。
「 ………よォ」
蓬莱寺だった。
「 何で………」
彼は独りだった。僕が絶句してその場に固まっていると、相変わらず闇夜の中でも燃える赤色を閃かせた彼は、僕に向かってまず口の端を上げて微笑みかけてきた。
「 遅ェじゃねえかよ。何だよ、またあれか? お得意の暗殺業に勤しんでたってわけか?」
それは随分、棘のある言い方だった。
僕が何の反応も返さずにいると、彼は寄りかかっていたドアからゆらりと離れ、一歩二歩と歩いて来て、一言。
「 へへへ…メリークリスマス」
とぼけた声だった。けれど僕が彼を呼ぼうと口を開きかけた瞬間――。
「 ………ッ!!」
突然、彼の重い拳が僕の頬めがけて飛んできた。
「 ぐ……ッ!」
がつ、と石か何かが当たるような鈍い音がして、僕はそのままその場に転倒してしまった。幸い咄嗟に取った受身でそれほどのダメージは受けなかったが、さすがというべきか、いつも剣を振るっている人間の割には、彼の強打は凄まじいものだった。
「 ……テメエがくたばれよ」
蓬莱寺は僕を上から見下ろしたまま、ぎらついた眼を閃かせてそう言った。
「 蓬莱寺……」
「 煩ェ。本当はな…俺はテメエなんかとは、これっぽっちも喋りたくはねェんだ」
「 ……………」
「 けど…けどよ。仕方ねェだろうが。ひーちゃ…龍麻がよ。アイツが、お前の事、好きだってンだから」
「 蓬莱寺……」
「 分かンねェのか? お前、本当は馬鹿なンじゃねェのか? 俺に馬鹿とか言われた日にゃあ、お前相当だぞ。何で…俺はお前に、アイツの事『頼む』って言ったよなァ!」
「 ……………」
「 何でお前みたいな奴にアイツを任せないといけないンだ! くそッ…! テメエみたいに、陰気でじめじめしててよ…人の気持ちも分からない奴なんかによ!」
「 ……………」
まったくその通りだ。
いつの間にか唇の中が切れて血が口許から流れていた。僕はそれを片手でぐいと拭ってから、すっと立ち上がった。今まで見下ろされていた蓬莱寺を今度は見下ろした。でも彼は怯まない。決してこの僕から目を逸らしたりはしない。
彼は天下無敵の剣聖。
龍麻を護るために生まれてきた人間なんだ。
「 ……何で今日、来なかった」
「 ……………」
僕を一回殴った事で、怒鳴った事で少し落ち着いたのか、蓬莱寺はふうと一度大きく息を吐き出してから、くぐもった声でそう言った。けれど僕がすぐに返さなかったからだろうか、すぐさまイラついたようにきっとなった目を向けて、彼は再び怒鳴ってきた。
「 聞いてンのかよ!? 何で今日テメエは病院に…龍麻の所に来なかったのかって訊いてんだよ!」
「 …………仕事があったんだ」
僕は何を言っているんだろう。何故かそんな言葉が口をついた。彼は一瞬、完全に呆けた顔をしてそんな僕を見つめてきた。
「 何だと……?」
「 午前中は母の見舞いに行かなくちゃならなかった。午後からは検査だったからね。その後は仕事だ。仕方ないだろう」
「 ……………」
「 龍麻からは今日君と約束があると聞いていたから、僕がいかなくてもいいだろうと思ったんだ」
「 ……壬生。本気で言ってンのか」
「 知っているか、蓬莱寺」
「 …………?」
僕は自分でもどうしたことか、もう止まらなくなっていた。今まで堰き止めていたものが一気に胸に湧き立った感じがしていた。
「 その男には妻と1人娘がいてね。両親も健在で上に三歳差の糖尿持ちの姉がいる。それから三十以上離れた愛人が2人」
「 何の話だ……」
警戒したような蓬莱寺の声が遠くの方で聞こえた。僕は彼の事など構わず、ただ口を動かした。
「 愛人の1人はまだ高校を辞めたばかりで、年は僕らと同じなんだ。母親とうまくいかなくて家出して、街で掴まされたクスリに手を出したらそれを止められなくなって。ボロボロになっている時にその男に拾ってもらった。男には遊びのようだったが、彼女は好きだったみたいだね。あんな男のどこがいいのかとも思ったが、彼女は本当に好きだったんだと思うよ。イブが来るまでに仕上げるのだと言って、バイトの合間にセーターを編んでいた」
「 ……………」
「 見知らぬ僕に何を思ったんだろう。ああいう子は本当に何でもぽんぽん話す。自分の事も、親の事も……男の事もね」
蓬莱寺がどんな眼で僕を見ていようが構わない。僕には知った事ではなかったし、今話している内容だって僕にはどうでもいい事だ。
じゃあ…何故僕はこんな事を口にしているんだろう。
「 その子の好きだった男は…僕が今日、始末した」
「 もうよせよ……」
「 人間なんて簡単に死ぬんだよ」
「 おい壬生……」
「 君には分からないだろうけどね」
「 よせって言ってんだろうが!」
不意に隣の部屋の明かりがついた。蓬莱寺の怒鳴り声で驚いたのだろう、玄関先で様子を伺っているようなのが分かった。僕はそちらにちらとだけ視線を向け、それから再び蓬莱寺を見やった。何て揺るぎのない眼なんだろうか。その光は強すぎて、僕には眩しすぎた。彼には何かを疑ったり迷ったり…自分を見失ったりした事がないんだ。
きっと、一度もないんだ。
「 龍麻が君の事、言っていたよ。自分の事をよく解ってくれるって」
「 ……………」
「 すごいね」
「 ……もう一度殴られたいらしいな」
「 ……………」
「 おい壬生、聞いて――」
「 僕は君を殺してやりたいよ」
「 ………ッ!」
知らなかった。
自分にこんなに、暗い部分があるなんて。
今まで人を殺す時だって、こんなに――。ああ、でもそうか。今日は随分違った。今日の仕事は今までとは比べ物にならないくらい、相手を苦しめて時間をかけて。
館長。
その時、どうしてか僕の師の事が思い返された。あの人はいつも厳しくて稽古の時も容赦がなくて。僕に他の門下生たちよりも情をかけてくれている事は知っていたけれど、龍麻に対する時のそれとは明らかに違った眼をしていて。
でもあの人はきっと気づいていたんだろう。僕のこういう暗い部分に。
陰の技の継承者。
だからあの人は、龍麻に自分の技の全てを教えはしなかった。
僕に、だけ。
「 おい、壬生……」
はっとすると、目の前には僕の「陰」の部分に触れて半ば絶句しているような蓬莱寺の姿があった。僕は途端にたまらなくなり、彼に背を向けた。
「 ……さよなら、蓬莱寺。もう僕の前に姿を現さないでくれ」
早口でそう言ってから、僕はそのまま逃げるように部屋のドアを閉めた。彼はもう何も言ってこなかった。
以前、館長は龍麻の事を「弱い」と言い、それは僕も同じだと言っていた。けれどあの人は同時に、僕たちの《力》はいずれ世界をも変えるものになるだろうと言い、そんな事にはまるで興味のなかった僕に、まるで何もかも解っているんだと言わんばかりの顔をして続けて言った。
彼を救ってやれ、と。
「 ………ッ」
今日会った藤咲さんも。それに龍麻の多くの仲間たちも、そして蓬莱寺も。
言わんとしている事が同じなのは僕にだってもう当に解っていた。彼を護れたら良いと思う。彼を護りたいと思う。僕は彼が好きなんだから。
でも。
『 そしてお前もだ、紅葉』
館長はあの時、同時に言っていた。僕が彼を救うように、僕も彼に救ってもらえば良いと。
『 彼ならお前を理解してくれる』
あの時の言葉が今さらこんな風に思い返されるなんて思いもしなかった。
「 理解……?」
僕は誰に向けてでもなく、馬鹿にしたような口調でつぶやいていた。
笑ってしまう。本当に互いを理解し合うことなんて、絶対にできっこない。大体、理解って何だろう。どうやって相手を本当に解るなんて事ができるっていうんだ。僕は蓬莱寺じゃない。僕は今まで人の事なんて、相手の事なんて、何にも考えずにただ殺してきた。ただ汚してきた。この手を、血で。
そんな僕が理解?
「 救ってもらう…だって……?」
僕に救いなんていらない。冗談じゃない。ああでも、どうして。
「 どうして……こんな……もの……」
僕は訳が分からなくなって、力の抜けた右手を頬に当てた。その手が何かに濡れて湿った感触がした。僕はそれを必死に拭って拭い去ってしまおうとしたけれど、なかなかうまくいかなかった。
涙なんて厄介なものが、この僕にもあるなんて。
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