(11)
僕にはどうって事もない仕事だったのに、館長はまた休暇をくれると言った。
「 疲れているだろう。年末はゆっくり身体を休めるといい」
「 いえ、僕は……」
休んでなどいたくなかった。家になどいたくなかった。今回は怪我だってしていないのだ。それなのに休息を辞退しようとする僕に、館長は片手を軽く挙げてそれを制すと、威厳のある眼を向けてきて言った。
「 お前にはこの後、大きな仕事が待っている」
「 え?」
「 その為に必要な休息だ。勘違いするな」
「 しかし館長―」
「 話はそれだけだ。行きなさい」
「 ……………」
館長はそれだけを言うと、座していた椅子をくるりと回して僕に背を向けた。もう何も言ってはくれなかった。この休暇の後にあるというその「大きな仕事」とやらが何なのかということも。僕の頬に腫れがあったことについても。
館長は何も言ってはくれなかった。
「 ………休暇」
僕は館長のいる部屋を辞してから、そっとつぶやいてため息をついた。
学校自体もう冬休みに入っていたから、殆どの学生にしてみれば誰に言われずともゆっくりする時期なのだろう。大学受験を控えた連中などは今頃それどころではないのかもしれないが、それにしたって、学校があるのとないのとでは大違いだ。生徒がいなくなった校舎は静かなものだった。拳武の道場すら、遠隔地から入学してきた者たちの里帰りが始まったらしく、普段より随分閑散としていた。館長も学院での仕事を終えたらまた海外での仕事があると言っていたから、間もなく学院を…日本を離れるだろう。
周囲はとても静かだった。年の瀬がこんなに静かだなんて、初めて知ったような気がした。僕はその静かな時間をどうやってやり過ごすかという事を考えなければならなかった。
余計な事は考えたくなかった。
「 きゃっ…!」
その時だった。
「 あ……」
「 ご、ごめんなさい…っ! 私、余所見していて…」
急いでいたのだろうか、丁度道の曲がり角に差し掛かった時、僕に思い切りぶつかってきた女の子がいた。ただ彼女の方が勢い余ってその場に尻餅をついてしまい、ぶつかられた僕の方が焦ってしまった。
「 僕こそごめん。大丈夫かい」
「 あ…えへへ。はい、大丈夫ですっ。ごめんなさい、私がそそっかしいものだから…!」
「 いや…怪我はない?」
僕が言いながら手を差し出すと、彼女は少しだけ途惑ったような顔をしたが、すぐにぱっと笑顔になって僕の手を取った。立ち上がりざま、制服のスカートについた埃をぽんぽんとはたく。見た事のない制服だが、高校生であることは間違いないようだった。
「 はいっ、本当にごめんなさい。貴方は、大丈夫でしたか?」
「 ああ、僕は何ともないよ」
「 そうですか! 良かった!」
心底ほっとしたようになって、彼女は再びにこりと笑った。その笑顔は何だか素直で真っ直ぐで…何だかうまくは言えないけれど、僕の心の中にあった靄を払ってくれるもののような気がした。
「 あの私、比良坂紗夜って言います」
そんな彼女は見知らぬ僕にいきなり名乗ってきた。僕は少なからず途惑ったが、彼女に悪意は感じられなかったので流されるように頷いてしまった。
「 あ、ああ…。僕は壬生紅葉」
「 壬生さん」
彼女…比良坂さんは、僕の名前を頭に叩きこむようにして自身でつぶやいた後、再び害のない笑顔を向けてきた。そして言った。
「 壬生さん。今日お会いできて嬉しかったです。また…私たち、会えますか?」
「 え……?」
どういう意味か良く分からなかった。思い切り怪訝な顔をしてしまうと、彼女はとても悲しそうな顔をした。
「 あっ…。ご、ごめんなさい。私…急に、馴れ馴れしい事を言っちゃって……」
「 あ…いや……」
内心ではそう思わないでもなかったが、彼女の悲しそうな顔を見ると悪いのは僕のような気がした。困惑してただ目の前の彼女を見やると、しかし意外と立ち直りの早い人なのか、比良坂さんはすぐに笑顔になって言ってきた。
「 私…戻れないって思ってました」
「 ?」
「 でも、帰ってこられたんです。彼のお陰で」
「 …何の話だい?」
本当に意味が分からなくて僕は問い質していた。彼女は相変わらず出会った時と同じ人懐こい笑みを浮かべ、そしてどことなく現実感のない雰囲気を漂わせながらそこにいた。
「 私、失くしたものはもう二度と戻らないからって…今まで何もかも諦めてしまう事が多かった。自分はこうだからこうとしか生きられない。私を取り巻く環境は、運命はこうだから、こうとしか生きられないって、どこかで歩く事を止めていたんです」
彼女は僕に何かを話しているというよりは、自分自身に話しているような感じで言葉を紡いでいた。僕には何が何やら分からなかった。
それでもそんな僕には構わず彼女は続けた。
「 でも私、本当は看護士さんになりたいって夢をずっと持っていて。それにー」
初めて出会った人間に、いきなり何なのだろう。けれど比良坂さんはまるで歌うように続けた。
「 私を救ってくれた手を、ずっと離していたくないって思いました」
「 …………」
「 壬生さんにもいますか? 大切な人」
「 僕……?」
「 もしもいるなら…やっぱりその手を離しちゃ駄目だと思います」
「 君は……」
「 でないと…。横から来た知らない誰かに取られてしまいますよ? えへ…」
「 え…?」
「 それじゃあ、私! 帰ります! さようなら、壬生さん!」
「 あ、ちょっと……」
しかし彼女は僕の制止の声にも振り返らず、勝手に一方的に話した後、まるで跳ねるようにして駆けて行ってしまった。
「 …………」
不思議だった。
彼女―比良坂さん―は、確かに僕の目の前にいて僕に話しかけ、笑いかけてきたというのに、どことなく漂っているような…先刻も思ったけれど「そこにはいない」ような、現実味のない感覚を僕に与えていた。目の前に、実はいないのではないかというような違和感。彼女が何らかの《力》の持ち主だという事は容易に察する事ができたけれど、かと言って僕の敵だという風にも思えなかった。
「 その手を……」
離しちゃ駄目だと彼女は言った。
「 僕の事など知らないくせに……」
彼女に含むところなどない。けれどその時は何故か恨みがましい言葉がつい漏れてしまった。
タイミングが良かったと言うべきか、僕が自宅のマンションに帰りついた途端、ぱらぱらと細長い雨が降り始めた。洗濯物を外のベランダに干していた僕は、とりあえずはすぐにそこへ直行、それらを取り込んだ。
母が入院して長いせいか、一通りの事は何でも自分でこなすのが当たり前になってしまっているから、洗濯だの食事の支度だのといった事は何も苦にならない。掃除も少なくとも週一くらいの割合でするようにしている。そんな僕の姿を見て、以前龍麻はからかうみたいに言った。
『 紅葉のお嫁さんになる人って幸せだな 』
あの時は何をバカな事を言っているんだと笑っただけだったが、今にしてみればどうして僕が彼以外の人の為に食事の支度をしたり世話を焼いたりしなくてはならないんだと無性に腹立たしい気持ちになる。龍麻に悪気がなかった事は勿論分かっているけれど、彼は僕が彼以外の誰かの為に何かをする事を何とも思っていないのだろうか…そう考えると、面白くない気持ちになった。
「 ……でも…今更何を……」
そこまで思いを巡らせてから、僕は自分自身を卑下するようにつぶやいて失笑した。取り込んだ洗濯物をソファに投げ捨てて、僕はそのまましばらくその場に突っ立っていた。
やっぱり余計な事を考えてしまったじゃないか。
「 ……くだらない」
「 何が」
「 !」
その時だった。
「 た………」
「 紅葉って1人の時、こんな風にぶつぶつ独り言言ったりするんだ」
キッチンの床に座り込んで、龍麻がこちらを見上げるようにしてそう言った。
心臓が止まるかと思った。
「 龍麻……」
「 久しぶり…っても、そんなに経ってないっけ?」
「 ど、どうして……」
「 どうしてって」
「 どうやって中に……」
「 鍵貰ってるじゃん」
龍麻は眉をひそめてからそう言い、それからゆっくりと立ち上がってまるで今目が覚めた猫みたいにぐいんと身体を伸ばして欠伸をした。
「 うぅ〜んっ。足、痺れたーッ」
「 …………」
「 紅葉を驚かせようと思ってずっとここに座っていたからさ。寝室の陰から覗くってテも考えたけど、仕切りのないこっちから現れた方がインパクトは強いかなって」
「 …………」
「 ほーら、紅葉。驚きで声も出ない」
龍麻はしてやったりという風にけらけらと笑ってから、それでもずっと同じ体勢で疲れたのだろう、何度か屈伸をして僕の方に近づいてきた。
「 今日は早かったね。休暇貰えたんだって?」
「 どうしてそれを…」
「 鳴瀧さんから聞いた」
「 …………」
館長が龍麻に僕の何を言ったのだろう。気になったが、すぐにそれを訊く事はできなかった。
とにかく龍麻がここにいる事が信じられなくて。
「 あー何だあ、雨降ってきてるじゃん。俺、傘持ってきてないよ。帰る時まだ降ってたら傘貸してな」
龍麻はリビングのベランダに通じる窓から外を見やって、参ったというような顔をして言った。それから急に思い立ったように顔を僕に向けて。
「 あ、でも。面倒になったら泊まってってもいい?」
何でもない事のように彼は言った。僕はまだ声が出なかった。
「 それにしてもお腹減ったあ。へへ…俺、本当久しぶりに紅葉が作ったお菓子とか食べたいなって思ってさ。そしたら何か我慢できなくて来ちゃってたんだよな。だから今日は土産もなし! な、紅葉、何か今作れる? 夕飯まではまだ早いしさ」
「 …………」
「 入院中は全然食べられなかったし」
「 蓬莱寺は……」
思わず名前が飛び出していた。
「 え?」
龍麻の怪訝な顔もまた僕の胸を熱くさせた。
「 蓬莱寺はどうしたんだ」
「 京一がどうしたの?」
「 一緒じゃなかったのか」
「 今日は一緒じゃないけど?」
「 ………甘い物だって彼に買ってもらえばいいじゃないか」
子供みたいな妬きもちだ。そんな事は知っている。でももう声に出ていた。
「 アイツ、そんな金持ちってわけじゃないし。この間の差し入れは特別だよ。俺が入院している怪我人だから涙を飲んで買ってきてくれたようなもんでさ」
「 そんな風には見えなかった」
「 紅葉がそう見えなくてもそうなんだもん」
「 僕だってそんなに金持ちじゃないよ。君だって知っているだろう」
「 知ってるけど」
「 金持ちがいいんなら、他にいくらでもいるじゃないか。如月さんだか誰だかに頼めば君の食べたい物なんていつでも出してくれるよ。そっちへ行けばいいじゃないか」
「 ………俺は紅葉が作ったやつがいいんだ」
龍麻が初めてくぐもった声を出したけれど、僕は随分ムキになっていた。止まらなかった。
「 勝手にそんな事言われても困るよ。それに、勝手にこんな風に家に入られても困る。確かに鍵を渡したのは僕だけど、それにしたって一言断ってから来るのが礼儀ってもんだろう」
「 ……電話してからだったら、来ても良かったわけ?」
「 …………」
「 お前、逃げたりしなかった?」
「 何で僕が逃げ―」
「 分かるよ。紅葉はきっと逃げてた」
「 先に逃げたのは君だろう!」
思い切り叫ぶ事なんて今までになかった。叫ぼうと、叫びたいと思った事もなかった。
いつもいつも、僕は。
僕は「こういう人間」だからと、諦めて生きてきたから。
自らの欲求など、口にはできない人間なのだと諦めて―。
『 私、今まで何もかも諦めてしまう事が― 』
「 ……!?」
その時、突然僕の頭の中であの比良坂さんの声が響いた。僕は思わず身構えて身体を硬直させた。それは彼女があの時言った言葉を僕が急に思い出したとか、そういう事じゃなかった。
今、確かに彼女の声が僕の中で「発せられた」気がしたのだ。
「 紅葉」
僕のそんな異変に、彼は気づかなかったみたいだ。龍麻は俯いたまま僕に話しかけてきた。
「 退院の日…。俺が紅葉の所に行かなかった事、どう思った?」
「 ……え…」
「 俺が京一と一緒にいるって言った事。俺が紅葉のこと避けようとした事。どう、思った」
「 どうって……」
面白くなかったに決まっているじゃないか。
「 紅葉ってあっさり引いちゃうんだ。あんな時」
「 龍麻…?」
「 俺が紅葉から離れて誰かとすごく仲良くなったとしても、紅葉には何て事ないわけだ」
「 何言ってるんだよ…!」
益々胸が、身体全身が熱くなってきて僕は声を荒げた。けれど、頭にきているのは龍麻の方らしかった。彼は僕の追撃をぴしゃりと制してきっぱりと言った。
「 逃げたんじゃない」
「 え……」
「 そんな事じゃなかった」
「 何を……」
僕の問いに龍麻は構わず続けた。
「 確かめたかっただけなんだ」
「 龍麻……?」
龍麻は今にも泣き出しそうな顔をしていた。けれど精一杯の力を振り絞って、彼は僕を見つめているみたいだった。
「 怖かったんだ。本当は…本当は、あの時…あの瞬間…俺は、すごく怖かった」
柳生に斬られた瞬間の事を言っているのだろうということはすぐに分かった。けれど龍麻は僕の心を読んだようになって首を振った。
「 でもアイツに殺されるとか自分の死とか…。そういう事じゃない。俺が怖かったのは…そういう事じゃ、ない」
「 …………」
「 俺は……」
龍麻は言ってから、いきなりだっと僕に縋りついてきた。僕はどうしていいか分からずにただ棒立ちになっていた。
龍麻は言った。
「 俺は紅葉が見えなくなった事が怖かっただけ……」
「 た……」
「 だから…確かめたかった。俺がもし紅葉から離れようとした時、紅葉はちゃんと…ちゃんと俺を……」
追いかけてくれるかって。
龍麻は言って、自分自身に確認するようにもう一度言った。
「 紅葉が俺を追いかけてきてくれるか…確かめたかった」
「 龍麻……」
「 でも紅葉はバカだから…自分が我慢すればいいんだって勝手に思って俺から逃げようとした。紅葉はバカだから」
「 …………」
「 これ京一に殴られたんだろ?」
龍麻は不意に顔をあげて手を差し出し、蓬莱寺に殴られて多少腫れてしまった僕の頬にそっと触れた。
「 痛かった…?」
「 ……そんな事」
「 嘘だ。痛いくせに」
「 …………」
「 でも…ねえ紅葉」
龍麻は大きく息を吸い込んでから掠れた声で言った。
「 その痛みは…俺も一緒だから」
理解るから。
「 龍麻、僕は―」
『 その手を離さないで。 』
その時、僕の耳にまた彼女の声が聞こえたような気がした。龍麻の身体はずっと小刻みに震えていた。
「 紅葉…紅葉に聞いて欲しい事がある。喋らないと俺…」
痛いんだ。
「 龍麻……」
「 俺、我がままばっかり言ってるね」
龍麻はぽつりとそう言ってから自嘲的な笑みを浮かべた。
僕と同じ気持ち、同じ痛みを、彼は確かに胸に抱えていた。
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