ここ数日間の記憶が僕にはない。
…というよりも、何も考えられなかった。
突然入った電話。
突然知らされた凶報。
龍麻が敵に斬られて病院に運び込まれたと聞いた時は…。
(9)
「 よお、壬生。相変わらず陰気な面してンなァ」
病院の前でばったりと顔を合わせた蓬莱寺に、僕は害のない厭味を思い切りぶつけられた。何と反応して良いか分からなくて沈黙していると、向こうはそれにも慣れたような目をして見せた。
この剣聖が今までどれだけ龍麻の力になってきたか、支えになってきたかを僕は知っている。直接見たのは数度だったが、それでも彼の傍に立つ蓬莱寺京一という男の影響力というのは、とても大きいものだと思った。
僕は、だから多分心の中で彼の事を妬んでいる。
蓬莱寺は僕のそんな思いに気づいていないのか、それとも気づかぬフリをしているのか、実にサバサバとした態度で話しかけてきた。
「 お前、最近全然学校行ってねェだろ。 …まァそれは俺もだけど。けど、ひーちゃんも目、覚めたんだし、ここの医者ももう大丈夫だって言ってんだからよ。そう悲壮な顔して毎日見舞いに来る事ないんじゃねェ?」
「 ………僕は」
「 なんて、な」
「 ………?」
僕が言おうとする前に、蓬莱寺はすぐに僕の言葉をかき消して馬鹿にするような笑いを見せた。
「 冗談だよ。ンな必死な目向けるなって。ひーちゃんの顔を1日も見ないでお前が耐えられるわけねェもんな」
「 …………」
「 まァ、それはあれだ。ひーちゃんも多分同じなわけだし」
「 蓬莱寺……」
「 だからよ」
蓬莱寺はまた僕に言わせないで言葉を継いだ。そのどことなく憂いを含んだ顔は、いつもの不敵な彼とは違うような気がした。
「 お前…ひーちゃんにくだらない事言うなよな。『護ってやれなくてごめん』とか『傍にいてやれなくてごめん』とか。そういう事をよ」
「 …………」
「 そういうのはよ…俺らも同じなわけなんだし」
「 ………ああ」
「 ホントかよ? ホントに分かって答えてんのか、お前? それならまあ…いいんだけどな」
「 分かっているよ」
「 ふーん」
僕の返答に納得できないものを感じるのか、蓬莱寺はやや手持ち無沙汰な顔を閃かせていたが、やがて片手に下げていたスーパーの袋を僕に突き出すと、やっといつもの顔を見せた。
「 やるよ。ひーちゃんへの差し入れ。今の時間って他の奴らも来てないし、たまには2人でゆっくり話せるンじゃねえ? 俺は久々に学校にでも行くわ」
「 蓬莱寺……」
「 けどよ、言っとくけどよ。お前らの事知ってンの、俺だけじゃねえから。気をつけろよな」
「 え?」
僕の前に人差し指を突き出してそう言う蓬莱寺はどことなく芝居じみて見えたけれど、僕は思わず驚いて聞き返した。すると蓬莱寺は途端に破顔して、おかしそうに続けた。
「 みんな知ってるンだぜ? 最初は仲間にならなかった奴が『いつの間にか俺らの龍麻とくっついてる』って事をな。お前、かなり敵視されてるわけ」
「 ……………」
「 へへへ…ざまあみろってんだ!」
蓬莱寺はそう言うと、僕にくるりと背を向けて
「 じゃあな 」 と片手を挙げて去って行った。僕はその不敵な背中が何だか少しだけ寂しそうに見えたので、なるべくそれを視界に入れないようにして病院の中へ入った。
柳生。
どうしてもつぶやいてしまう、その名前を。
その度に抑えきれない怒りの感情が僕の中で激しく動き回り、それのせいで僕は何度も自分自身がどうにかなってしまいそうになった。
龍麻が奴に斬られて意識を失い、病院に運ばれたと聞かされた時は、一体何の間違いかと思った。彼が激しい戦いを続けているという事は勿論知っていたし、常に死という危険と向かい合わせだという事も、僕は十分承知しているはずだったのに、その時は何かの間違いなのではないかと頑なに思ってしまったのだ。龍麻の強さを知っていたからというのもあるが、それ以上に。
彼のいなくなるこの世の中など耐えられないという、単なる自分本位な想いが僕の中にはあった。
『 紅葉…っ 』
龍麻を置いて仕事に出てしまった夜、帰らずに僕の事を待っていてくれた彼の事が本当に愛しくて、僕はその気持ちが昂ぶるままに彼の事を抱こうとした。龍麻もそれを許容してくれていると感じた。けれど、僕は彼の気持ちを傷つけるだけで、何もできなかった。ただ彼に謝るだけで。
『 紅葉…… 』
泣きながら僕の名前を読んだ龍麻の姿が今はこんなに痛い。
いつもいつもすれ違いばかりで、本当は互いに求め合っているはずなのに、何故かうまく気持ちを伝えきれない。互いにどこか遠慮している。それはきっと僕のせいだと分かっているのに、僕はどうともできずにいた。
そしてそれから数日もしないうちに、龍麻は柳生に――。
「 もう、遅いよ京一! 何道草食ってたんだよ!」
病室に入った途端、ベッドの方から声が飛んできた。
「 あ、分かった。どうせまたナースのお姉さんたちにちょっかい出してたんだろう! お前がそれ目当てで学校サボってここに来てる事くらい、分かってんだからな!」
「 龍麻」
「 あ……!」
ドアを閉め、入り口付近にある衝立から顔を出して声をかけると、龍麻は人違いに気づいて驚いたように口をつぐんだ。
「 く、紅葉…だったんだ…」
「 うん」
「 ごめん! 俺、てっきり京一だと思ったから」
焦ったようになって俯く龍麻に近づきながら、僕は先刻彼から渡された袋を掲げて見せた。
「 さっき入り口の所で会ったんだ。その時これも渡されたんだけど」
「 あ、貸して!」
龍麻はすぐにそれを奪い取ると、中の物を確認して嬉しそうに笑った。それで僕も何となくほっとしたようになって傍にある椅子に腰を下ろした。
僕は龍麻が意識を失っている間は勿論、こうして面会ができるようになってからも、毎日病院を訪れていた。ただ、いつも周りに他の仲間たちがいるからという事もあったが、龍麻とはなかなか思うように会話する事ができなかったし、うまい事2人きりになれたとしても、こんな風に自然に笑う龍麻の顔が見られる事はあまりなかった。だからそれが蓬莱寺のお陰とはいえ、龍麻のこの喜びようは本当に嬉しかった。今日は何だか自然に話せそうだと思った。
「 彼に何を頼んだんだい」
僕が訊くと、龍麻は袋から目を離して実に活き活きとした様子で言った。
「 へへ。えーとね、シュークリームにミルフィーユ、ティラミスとエクレア、それにプリン!」
「 そ、そう」
「 俺、もう全然平気なのにここの食事ってホント病人食しか出ないんだもん。甘い物なんかもってのほかって感じで。舞子にこっそりタイヤキ頼もうとしたら院長先生に見つかってひどい目に遭ったし…」
「 それなら…先生の言う通りにしないと駄目だよ」
「 わっ! ダメダメ! これはもう俺の! せっかく京一に危険を冒して買ってきてもらったんだから!」
僕が袋を取ってしまうと思ったのか、龍麻は慌てたようになって布団の中にそれを素早く隠してしまった。それから思い出したようになってクスクスと笑う。
「 京一、ここの先生苦手だからさ。びくびくしちゃってホント情けねーの! 俺がこんな頼んでんのに駄目駄目言ってさー。しょーがないから、退院した後1日付き合うって言ったら渋々OKしたよ」
龍麻の台詞に、僕は一瞬言葉を出すのが遅れた。
「 付き合うって…?」
「 あ、俺ね。24日に退院なんだ。さっき先生が言いに来てくれたんだけど。でもその日ってクリスマスイブだろ。みんな、どっか遊びに行こうってうるさいんだ。誰か一人選ぶと面倒だから京一と遊んじゃえばいいかなって、一石二鳥」
「 ……………」
僕の沈黙には構わずに龍麻は続けた。
「 目、覚めた時さ。アイツの馬鹿みたいに泣いてる顔がいきなり飛び込んできて何かと思ったよ。俺はあんなんで死んだりしないのに、死ぬわけないのに、俺のこと馬鹿やろうって怒るの。何それって感じ」
「 怒った…?」
「 うん。みんなは謝るけど、アイツは違う。あいつは、『勝手に倒れるな』って怒るんだ、俺のこと」
「 ……………」
龍麻は僕の顔を見ていなかった。僕は声が出なかった。
病院で龍麻の意識が戻るのを待っていた時、彼の大勢の仲間たちは皆が皆一様に彼のことを護れなかった事を悔いていた。そして、謝っていた。龍麻をあんな目に遭わせてしまった、何もできない自分たちをひどく悔やんでいて、苦しんでいて。勿論、彼らは龍麻が目覚めた後も、そんな不甲斐ない自分たちの事を責め、龍麻に謝って―。
でも蓬莱寺は。
「 京一はさ、すごく解ってくれるんだ。俺のこと」
龍麻が言った。僕が顔を上げると、やはり彼は僕のことなど見ていなかった。ただ、彼が買ってきてくれた菓子の入った袋を見つめていた。
「 アイツだってみんなと同じように俺のこと心配して、俺がこうなったの、自分の力が足りないせいだって悔やんでいるんだ。人一倍、誰よりも強くありたいって奴だしね。…でも、それはさ…それは俺だって同じなんだよ」
「 龍麻……」
「 だから謝られると堪らない。みんなが後から後から俺に謝ってきて…俺は耳を塞ぎたかった。でもそれをアイツは…京一は解ってくれてたんだ。だから、俺のこと叱ってくれたんだと思う」
「 ……………」
「 嬉しかった」
「 ……………」
僕は…どうだっただろう。
彼が意識を取り戻して、龍麻と初めてこの病室で顔を合わせた時。
僕は彼に何を言い、どんな顔をしていただろうか。
思い出せない。
「 紅葉」
はっと我に返ると、そこには困ったような顔をした龍麻がいた。そして龍麻はその表情通り、困惑した声を出した。
「 そんな顔しないでよ」
自分がどんな表情をしているかなんて、今の僕には分からない。正直、分かりたくもなかった。
「 紅葉。俺と紅葉って本当に似ているよね」
そして龍麻は言った。
「 みんなきっと似ていないって言うよ。きっと紅葉もそう言うと思う。俺だって、前までは全然似てないって思ってた。俺が欲しいものを紅葉は全部持っていて、俺はそれが羨ましくて…」
「 龍麻」
「 でもさ…俺たちってすごく似ている」
ようやく龍麻は僕の方を見てくれた。揺ぎ無いその瞳を前にして、僕は彼こそ、僕にない全てのものを持っていると思った。
でも龍麻は言った。
「 俺たちは同じだよ。兄弟みたいだ」
「 ……………」
「 だから今は…紅葉のことを考えると凄く痛い。胸が、苦しい」
「 ……………」
「 紅葉の考えている事が分かるから。すごくよく分かるから。俺はその想いを愛しいと思うけど、逆に時々、すごく憎くなる」
「 ……………」
「 紅葉のこと、時々すごく嫌いになる」
「 ……自己嫌悪みたいに?」
僕がやっと言うと、龍麻は目を細めて得心したような顔をした。
「 自己嫌悪…。ああ、そうか。うん、そうかもしれない」
「 でも僕たちは…違う人間だよ」
「 分かってる」
でも…と言いかけて、龍麻は再び口を閉ざした。
病院の部屋は何故こんなに白いのだろう、と僕はふとそんな事を考えた。
壁は勿論、ベッドのシーツも布団も。水差しを置く棚も多少薄汚れてはいたけれど同じ色だった。それは何もかもを受け入れるけれど、何もかもを透かしてしまうような薄い色彩。僕はこの部屋に龍麻と2人でいることが急に怖くなった。
陽の光を遮るはずのカーテンすら、今は白く見える。
「 紅葉」
その時、龍麻が言った。
「 何だか眠くなってきた。今日はもう…帰ってくれる?」
「 ……………」
「 それにさ…毎日来てくれなくてもいいから」
龍麻がどんな表情をしているのか、僕にはよく見えなかった。僕自身が見ようとしていないせいからか、それとも。
「 心配してくれてありがとう」
そして龍麻はそう言ってから、ほんの少しだけ僕の手に触れた。冷たい手だった。何の熱をも通さないかのような、ひどく凍えたその手は――。
『 紅葉……っ 』
あの泣いていた時と同じ、とても哀しい氣を僕に伝えてきた。
|