(13)
僕がいつからそこにいるのか、僕は知らない。
「 紅葉。仕事だ」
前方に見える黒い人影。その人が僕に言った。抑揚のない、ひどく静かな声だった。僕は眼を凝らしてその人の顔を何とか見ようとしたけれど、ダメだ。その人はその場からちっとも動いていないのに、僕はその人が誰なのかを確認する事ができなかった。
「 紅葉」
その人がまた呼んだ。
「 あ………」
逆らい難い何かを感じて、僕は無意識に足を動かした。その人の方へ…いや、けれど一歩を踏み出した瞬間、その人はもうそこにはいなかった。
あるのは、ただ膨大な真っ黒の空間。
陰ノ龍ヨ――――――。
誰だ。
誰かが何かを呼んでいる…。僕を? いや、僕じゃない誰かなのか。けれど耳に痛いほど響くこの重苦しい音は一体何なのだろう。僕は一体何処を彷徨って歩いているんだ。
ここは何処なんだ。
殺セ―――――――。
また、声が。僕に言っているのか。この声は、僕に命令しているのだろうか。殺す。誰を? 何の為に? 僕は…。
僕は、殺したくない。
『 ねえ、聞いてくれる? 明日ね…やっとその人とデートなの。クリスマスイブにデートできるなんてホントに幸せ。私…あの人に出会えて良かった
』
「 ……ッ!?」
不意に聞き覚えのある明るい声が背後から聞こえて、僕は驚いてその後ろを振り返った。年は僕と同じくらいの…少女。僕はあの子を知っている。皆に見捨てられて、ボロボロになって、独りぼっちでいた所をある男に拾われて救われた少女。男にとってはあの子の存在などただの気紛れ、遊びに過ぎなかったのに、あの子はあの男を愛して、そしてクリスマスに自分が編んだセーターをプレゼントするのだと笑っていた。
その男は、どうしようもない、奴だったんだ。
僕が殺さなくとも、いずれ誰かに消されていた、そんな―。
人殺シ―――――――。
声が聞こえる。少女の声。ああ、あの子が僕に言っているのだと分かった。泣いている。泣いて怒って、僕に掴みかかろうとして、出来ずにいる。僕はこんな暗闇に落ちているし、あの子は……何処か違う場所から僕を睨み、呪っている。
僕はそうやって今まで一体何人の人間を不幸にし、そして彼らに呪われてきたんだろう。
「 紅葉。仕事だ」
ああ、館長。
今度はハッキリとあの人の姿が僕の目の前に映し出された。
いつものように、何を考えているのか分からない顔だ。この暗闇の中にまで僕を追ってきて、また仕事をさせようだなんて、この人も大概ひどい人だと思う。
「 はい…館長」
でも僕はこくりと頷いてあの人の傍に歩み寄った。
僕は相手が館長でなくとも、誰に頼まれてもきっとこうやって人を殺す。そういう人間だから。感情を消す事なんて簡単だ。自分を消す事など簡単だ。僕はそうやってずっと生きてきた。誰にも頼らず、誰をも信用せず。
僕はもとより、この暗闇の中―陰の世界で生きる龍だから。
陰ノ龍ヨ―――――――。
まただ。またあの声が僕を呼んだ。ひどく不快な声だ。だけど僕はこの声を振り払えない。誘われるままに足を進めて行く。不思議だ。足が軽い。何も見えないこの世界なのに、どうしてだかこんなにも僕は自分の行き先を知っている。そうか、この行き着く先は。
「 壬生…紅葉だな」
そこに、男はいた。
「 …………」
紅蓮の髪を肩にまでかけた大きな男。鋭い眼光で僕を見下ろすその男は、それこそ無の表情で僕を見ていた。
「 我が名は柳生。柳生宗崇」
男は…柳生は僕に向かってそう名乗った。そして柳生はそう言ったまま、ただ暗闇のこの空間でどっしりと立ち、僕を見据え続けていた。
おかしい。
悪の根源と謳われているはずのこの男に、この男から何も感じないのは何故だろう。何の匂いもしないのは、一体。
「 我と共に来るか。陰の龍よ」
「 貴方と……?」
「 お前があれに惹かれるのも道理。相反する心を持つ者を、時として人間は興味と憎しみの混じった感情で見つめるものだ。だが、本来お前はこちらに来るべき男。そうであろう?」
「 何を…言っている……?」
段々と柳生の顔がぼやけてくる。僕は自らを奮い立たせるべく声を出した。柳生は誰の事を言っている。僕に、何を言わせたがっているのだろう。
僕が惹かれる人物……?
柳生は僕の困惑したような様子に気づいたのか、勝手知ったるような眼をして笑った。
「 お前は我が空間に飲み込まれた時点で、今あの者の存在を忘れている。いや、自らの中に封印している。それは…お前が完全にあの者を認めていない証拠だ。自らがあの者の場所へ行く事にためらいを持っている証拠だ」
「 何の話か分からない」
「 お前は、人を殺せるな」
柳生は僕に素っ気無く言った。
「 そしてお前は己を消せる。そして何処までも破壊に従事できる…混沌の中に生きる事を選ばれた者だ。お前にあの者は……背負えぬ」
「 あの者……」
何だろう。頭が痛い。
僕は誰かの事を想っている。この暗闇に飲み込まれる前、それこそついさっきまでその人の事しか考えていなかった。それは分かる。だけど、だけど僕は、どうしてだか。
人殺シ―――――――。
「 う……ッ!」
あの少女の声が、聞こえた。
僕が自らの手を鮮血に染めて、時間をかけて殺したあの男。あの男をあの少女は愛していて、誰よりも大切に想っていて―。
「 そんな感情はくだらぬよ」
柳生が何処からかそう言った気がした。それはひどく冷めた声、けれど一方でどこか…ひどく僕を卑下するような嘲りを込めた音にも取れた。
「 僕は……人を、殺せる……」
「 そんなお前にあの光は眩しいだろう。お前に、あれはふさわしくない。さあ、闇に溶け込め」
「 僕は………」
あの光って……何だ……。
柳生が言っている事が分かるようで分からない。確かに僕には、救いのなかった僕には、そういうものがあった気がする。つい最近まで、ようやく手に入ったばかりのその温かい何かがあった気がする。温かくて、優しくて。
でも。
とても、弱くて………。
「 紅葉……ッ!!」
その時、声が。
「 紅葉、行くな!!」
誰だ………?
僕は咄嗟に辺りを見回し、そして目の前に立つ柳生に視線をやった。柳生はただ静かに僕を見ている。この声が聞こえていないのか。分からない。ただ僕を見下ろし、見下し、そうしてそれでも僕に向かってごつごつした拳を、大きな片手を出してきた。
「 さあ、壬生。我と共に来い。お前の行く道はここしかないであろう。くだらぬ幻影に惑わされるな」
「 幻影……?」
この男はあの声を幻影だと言うのか。僕には確かに聞こえた、あの必死な声。
今にも崩れ落ちそうな声を。
「 ……………」
「 お前は迷っていた。だからここに来たのであろうが……」
「 ああ……」
「 お前は闇に生きる男。そうであろう?」
「 そうだ……」
「 それならば、さあ…壊せ……!」
柳生が口の端を歪めて微かに笑うのが見えた。僕がそれを直視した瞬間、さっきまで僕の耳に響いていた「あの人」の声はぴたりと消えた。
「 ………壊すのか」
僕が俯いたまま言うと、柳生は更に笑みを向けた。
「 そうだ。何も残さず、何も生かさず、ただこの世に混沌を―」
「 壊すのは……!」
オマエ、ヲ――――!!
「 ぬぅ…ッ!?」
柳生の言葉を最後まで吐かせずに僕は全身から《力》を放出し、それを柳生に向けて放った。
「 ぐおぉ…ッ! き、貴様ぁ……!」
柳生がそれによって数歩後退した。闇の中、紅い男の姿がゆらゆらと何かに揺さぶられるのが見えた。そして僕の身体も、何かが。
「 こ…これは……」
何だか、何かに護られているような今までに感じた事のない光が全身に溢れてきた気がした。
そしてその瞬間。
「 龍、麻………」
その名前が。
「 は…っ!」
そうして。
「 ………」
ふと気づくと、僕はまた違う場所に立っていた。
辺りはまた先刻の闇とは別の異空間に包まれていた。不可思議な球体が宙を彷徨い、何か得体の知れない不気味なモノがトグロを巻いて蠢いているような、そんな空気に満ちた空間。
「 こ…こは……」
「 紅葉!」
「 た……」
けれど、そんな途惑う僕の横に突然縋りついてきたのは。
「 紅葉、紅葉! お前、お前、大丈夫か…ッ!」
「 ………龍麻」
「 うん…! うん、俺、俺、龍麻だ…! 紅葉…紅葉、バカ…」
「 …………」
呆けたまま僕は僕の腕にしがみついてボロボロになって泣いている龍麻をただ見やった。どうしていきなり僕はここにいて、そして龍麻も僕の隣に立っているのだろう。
ああ、でも。
「 龍麻………」
僕は、その名を呼んでいる。
「 紅葉! バカ! お前、柳生の術にまんまと乗せられて俺の事無視してただろ!」
「 え…?」
「 え、じゃない! 俺のこと…見ようとせずに、ぼーっとしてさ…!」
「 そう…だったかい…?」
「 そ、そうだったかいって…あのなあ!」
龍麻は今度は僕の胸をめちゃくちゃに叩きながら、何度も何度も僕の事を「バカ」と言った。
そうして。
「 龍麻…泣かないで……」
ああ、やっぱり僕は君を最後まで心配させている。
「 龍麻…僕は……君と、一緒にいる」
「 え………」
僕の胸にしがみついていた龍麻が僕の言葉でふっと顔を上げた。この人はこんなに温かいのに、こんなに光の当たる場所に立っているのに、どうしてこんなに不安な顔をしているんだろうと思った。でもそんな龍麻の瞳を見つめた時、僕は不意に気づいた。
感じた。
何だ、みんな同じじゃないか。
「 龍麻は…僕がいないと、心配だから」
「 な……っ! そ、それはこっちだって、こっちだっ…!」
「 龍麻…?」
「 ………ッ」
けれど龍麻はムキになって言いかけたものの、不意に黙りこくって後はまた沈黙した。そうしてふっと顔を上げると、まるで何かを怒られてしまった子供みたいな顔をして、それからこくりと頷いた。
「 うん。いろよ…いてくれよ……紅葉」
そして龍麻はぎゅっと僕の手首を痛いくらいに掴んで、何かを堪えるように俯いた。
「 龍麻……」
僕は龍麻のその表情と言葉を生涯忘れないだろうと思った。
「 陰の龍よ…お前のいるべき世界は……」
「 !?」
不意にまたあの柳生の声が聞こえた気がした。
「 陰の龍よ………」
「 …………」
けれど僕は首を横に振り、それを振り切ると僕自身も龍麻の手を取って今在る異空間を見回した。この先に、本当に倒すべき相手がいて、僕には龍麻を護る使命がある。それが、その事実だけが今の僕の全てだった。
「 龍麻…。絶対に帰してあげる」
元の世界に。
「 紅葉も一緒だぞ…?」
僕の言い方が気に食わなかったのか龍麻が口を尖らせてそう言った。僕は微かにそれに笑って返したけれど、後は襲いくる気配のする前方をただ見やった。
あの世界を壊したら、きっと君は解放される。
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