(2)



  緋勇が僕のことを学校で「待ち伏せ」しなくなってから、一週間ばかりが過ぎた。
  あのひどい「塩紅茶」を飲まされた日から、僕たちの仲は何というか…不思議なんだけれどそれなりに柔らかいものになった。だからそれ以来彼は、僕が嫌がるような真似をわざとすることはしなくなった。
  その代わり、僕が仕事がなくて空いている日は、必ず電話でそれを確かめてから、僕のことを家の前で待つようになっていた。だからまあ…「待たれている」っていう意味では、以前とあまり変わっていないのかもしれないが。
「 あっ、壬生! お帰り!」
  だから今日も。
  彼は昼に僕の携帯にかけてきて、「待っているから」とだけ告げてきた。そしてその通り、彼はマンションの部屋の前に座りこんでいた。僕を見て、嬉しそうな顔をして、さっと立ち上がる。

  そんな彼に、今日も途惑ってしまう。
「 えへへ、今日はさ。これ!」
  そう言って彼が差し出したのは、有名洋菓子店の名前がプリントされた四角い箱だった。
「 何も来る度に何か持って来なくても」
  僕が小さくそう言うと、緋勇は「いいからいいから」と言って強引に僕にその箱を押し付けると、また満面の笑みを向けた。
「 壬生〜、早く中入れてくれよ〜。寒いよ〜」
「 分かったよ」
  甘えたように言う緋勇にほんの少しだけ僕も笑ってしまって、言われるままにキーを出してドアを開いた。緋勇はたったそれだけの僕の動作をじっと見詰めている。
「 ああ〜! 今日も疲れた〜!」
  そして緋勇はだだっと部屋の中に入りこむと、すっかり自分の席になったソファの一角にどさっと身体を預けた。ふざけたような感じだったが、本当にぐったりとしたような緋勇の顔に、僕は少しだけ気持ちが暗くなった。
「 緋勇……その、大丈夫かい」
「 え…?」
  目をつむっていた緋勇は、僕のその声でぱちりと目を開くと、すぐにいつもの笑みになり、がばりと上体を起こして明るい声を出した。
「 ぜ〜んぜんっ! 平気平気! へへへ…ちょっとさ、壬生に甘えただけ」
「 ……?」
「 案の定、心配してくれたじゃん!」
「 ぼ、僕は…っ!」
「 いいのいいの、言い直すなよ? 俺、嬉しいんだからさ!」
  緋勇はそう言ってから今度はソファにあるクッションをぎゅっと抱きしめてまた笑った。
  その笑顔に、何だかどきんとした。
  彼は…何だかうまく言えないけれど、やはり他の者とは明らかに違う空気をまとっていた。その《力》はもちろんのこと、彼の周囲に張り巡らされた「オーラ」そのものが、僕の中にある「何か」に直接語りかけてくるのだ。
  彼のことを知りたいと。
「 な! 壬生! 早く俺が買ってきたケーキ食おっ! でもね、俺まず選んでいい!?」
「 あ、ああ、いいよ」
  お茶を淹れるよと言ってキッチンに立つと、その背後では緋勇が本当にうきうきとした感じでケーキの箱を開けていた。
  さっきの顔は…気のせいかな。
  本当に、彼は一瞬だけ辛そうな顔をしていた。
「 壬生〜! 俺、ミルフィーユねっ!」
  彼は自分が買ってきたものを一番に取って、僕がお茶を淹れてくる前にそれをぱくぱくと子供のようにほうばった。
「 くう〜! 甘いっ! でもこの甘さが最高!」
「 …緋勇、口の周り、ついているよ」
「 え?」
  僕が持ってきた紅茶をテーブルに置いてから隣の彼にそう言うと、緋勇は相変わらず忙しそうに口を動かしながら「どこ〜?」と何とも間の抜けた声を出した。
「 ここだよ…口の端」
  僕が自分の口で指し示すと、緋勇はにこっと笑ってから、僕の方に自分の口をつきだしてきた。
「 取って〜壬生〜」
「 ……バカな真似はしないように」
「 何だ、やっぱ駄目か」
  緋勇は僕のリアクションに予想していたような顔をしてからまたケーキに向き直ると、口が汚れるのも構わずにばくばくと威勢よく食べた。
  それから僕が淹れてきた紅茶を一気にがぶりとやってから、ようやく満足したようにソファに身体をもたせかけた。
「 ふう〜。落ち着いたっ。ごちそうさん」
「 ……そんなにお腹が減っていたのかい」
「 んー」
  緋勇は僕に訊かれて少しだけ考えるようにしてから、目だけをこちらにやってまたにこりと笑った。
「 そういうわけじゃないけどさ。人心地ついたってやつだよっ」
「 ……」
「 な、壬生。今日も晩飯食っていっていい?」
「 ……そのつもりなんだろう」
「 へへ…ご名答。壬生が嫌だって言っても、そのつもりだった」
  緋勇はそう言ってから、またことりと頭をソファによりかからせて、目をつむった。
「 う〜眠。寝てていいか? 晩飯できるまで」
「 いいけど」
「 さーんきゅっ」
  緋勇は目を閉じたままそう言って、後は本当に眠りに入るかのように、身体の力を抜いたようだった。
  そんな彼のことを、僕は不思議な気持ちで見つめた。
  無防備な姿だった。一度は僕に命を狙われた人間なのに、その僕の前でこんな風に眠る彼の存在が、僕には不可解だった。
  安心して眠る彼の姿…。
「 あっ! そうだっ!」
「 !」
  突然ぱちりと目を開いて叫ぶ緋勇に、僕は何故か焦ってしまった。そんな僕には構わずに、緋勇は制服のポケットから携帯を出すと誰かに電話をかけ始め、それから一気に「僕の知らない顔」になっていった。
「 ホント…? 分かった、じゃあ今からそっちへ行くよ」
  そうして彼は電話の向こうの誰かに真面目な声でそう言うと、すっと立ち上がって静かな目のまま僕に言った。
「 ごめん、壬生。俺、用があるの忘れていたんだ。だから夕飯はまた今度」
「 …何かあったのかい」
  僕は彼らの仲間じゃない。なのに、思わず訊いてしまっていた。緋勇はそんな僕に対して気分を害す風もなく、いつもよりも優しい目をして笑って見せた。
「 んーん。何でもないんだ。今日仲間の何人かが旧校舎に潜っていたんだけど、その中の1人がちょっと怪我しちゃったみたいだから…病院に行ってくる」
「 平気なのかい」
「 うん、大した事はないって。けど、誰かがあそこへ潜った日は、いっつも全員が戻ってきてるか確認の電話することになっているんだよ。だから」
  ああそうか。緋勇は彼らのリーダーだ。単なる戦いの為の訓練であろうと、全員の状況を常に把握しておくのは当然の務めだ。自分が戦っていない時でも、それが変わろうはずもない。
「 緋勇…気をつけて」
  そんな事を言う資格もないのに、そう言っていた。
「 うん! ありがとな!」
  けれども緋勇は僕のその科白に本当に嬉しそうに笑って、そうして急いで出て行ってしまった。
  僕は彼の去った方向をしばらく見やっていた。



  僕の戦いはいつも独りだから。
  彼の戦いはいつも仲間が伴うから。
  その戦い方や、戦いに挑む気持ちにはきっと異なる点が多々あるはずだった。
  その違いをいちいち口に出すことはお互いなかったけれど、言わなくてもそのくらいのことは分かったし、分かるからこそ、時に彼のことが苛立たしくて、時に…。
  やっぱり、羨ましくなった。
  彼も…きっとそうなのだろうと思う。


  緋勇のことが何となく気になって、その夜は眠れなかった。

  怪我をした仲間の様子を見に病院へ行くだけだ。だから別にどうということもないはずだった。
  なのに、どうしたことだろう。胸騒ぎがした。
  そして、もしかしたら彼がここへ戻ってくるのじゃないかと思い、外に行くこともできなかった。


  みぶ〜!
  みぶ〜、腹減った〜!
  みぶ〜! お帰り〜!


  バカみたいにはしゃぐ彼の姿しか僕は知らない。以前、僕が本気で怒った時、一瞬だけ悲しそうな顔をしたことがあったけれど。そして、僕のそばにいたいと言って泣き出しそうになったことはあったけれど。

  でも、やっぱり僕の知っている緋勇は…。

  トゥルルルル・・・

「 ……!」
  その時、不意に携帯が鳴って僕はびくっとした。仕事で携帯が夜中に突然鳴ることなど珍しくない。だけど、その時は――。
「はい」
『 壬生……』
「 緋勇…っ?」
  予感があった。彼じゃないかと。彼が僕のところへかけてきてくれるのじゃないかと。暗闇の中で、バカみたいに上ずった声を出してしまった自分がいた。
『 悪い…寝てた…よな…』
「 緋勇、どうかしたのかっ…?」
  声の調子がおかしい。息も途切れ途切れだし、どことなく生彩もない。柄にもなく必死な声を出してしまった。
『 どうも…しないよ? ただ、壬生の声、聞きたかったから…』
「 緋勇、君は今どこにいるんだ?」
『 ……』
「 緋勇っ! 答えろ、どこにいるんだっ!」
『 もう…どうしたんだよ壬生は…』
  電話の向こうの緋勇は、僕の矢継ぎ早の声に苦笑したようだった。
  それでも、僕は尋常ではない緋勇のことが気になって仕方がなかった。
「 どうかしたのは君の方だ! 何かあったのか!? 君は…大丈夫なのか?」
『 大丈夫じゃ…ない…』
「 !」
『 ――って、言ったら、壬生は…どうするの?』
「 ……そこへ行くよ。何処にいるんだ、今?」
『 ……』
「 緋勇!」
『 俺…ね。…どっかの道端にいるよ…?』
  道端? どっかって…何処なんだ。
『 ははは…何か…分かんないんだけど…力、入らない』
「 落ち着け、緋勇。どこの通りにいるんだ? どこからそこへ来た?」
  もう僕は言いながら外に向けて足を動かしていた。ガチャリとドアを開けて、ひどく冷たい外気に身をさらす。
『 壬生…ホントに、来て…くれんの?』
「 もう外に出ているよ。だから、そこから動くな…って、動けないんだな」
『 うん…待ってる…』
  ひどく心細そうな声だった。
  僕は緋勇の意識が断ち切れないように話をしながら、タクシーを呼ぶと彼の仲間がいる病院の方角へと向かった。途中で電話が切れてしまい、もう一度彼にかけたが、応答はなかった。
  彼には敵がいる。それも巨大な敵が。
  いつ刺客に狙われてもおかしくない身だ。多分、そんな事はしょっちゅうで…だからこそ、緋勇は戦いでない時も仲間とは密に連絡を取っていたのだろうし、いつも神経を張り巡らせていたのだろう。
  だから…あんなに疲れた顔もしていたのだ。
  なのに、彼はどうしていつもあんな風に笑っていられるんだ?
  どうして自分の苦しみを人に見せないんだ?
  どうして、彼は…。
「 緋勇…」
  思わず口について声が出てしまった。呼ぶと、それはひどく現実味を帯びて僕の胸に染み渡った。彼、緋勇龍麻という男の存在が、僕の中で大きくなっていくのを感じた。





  車を降りて、電話で聞いたわずかな手がかりから細い脇道を通り、僕は彼の「氣」の気配を感じようと意識を集中させた。彼ほどの人間の氣なら、たとえ弱まっていようとも感知できるはずだった。
  けれども静かな夜の闇の中で、彼を感じることはできなかった。
  焦る気持ちばかりが先立って、ただ闇雲に走ってしまった。どうして仲間でもない僕がこんなに必死になって彼を探しているのか、どうして彼が僕に電話してきたのか、そんな事も頭には全くなかった。
  そして一体どれくらい走ったのだろう。
「 壬生」
  緋勇はいた。
  騒ぎになるのを畏れたのか、それともたまたまここを通りかった時に襲われたのか。
  人通りの少ない、と、いうよりも完全に行き止まりの裏小路の隅に、彼はうずくまるようにして、薄汚れた灰色の石壁によりかかっていた。
「 壬生…本当に…来て、くれた…」
「 緋勇!」
  呼びかけて歩みよると、闇で見えなかった彼の姿がはっきりと見えてきて、僕は思わず足を止めた。
  額から。首筋から身体全身から。
  真っ赤な鮮血に染まった彼の姿が浮き彫りになったから。
「 緋勇、君は…」
「 ああ、これ…これは…多分大した事、ない…」
  緋勇は自分の身体全身にこびりついている血を見てから、ゆっくりとそんな事を言った。身体を屈めて良く見ると、なるほど、額の血は緋勇のものらしかったが、身体についているほとんどのそれは、どうやら敵のものらしかった。
「 何かねえ…俺、油断していたみたい。俺が独りになった途端、だもん」
「 喋らなくていい」
  僕は緋勇を黙らせて、慎重に彼の身体の傷を見た。額の他に腕が少し傷ついているだけで、血もとうに止まっているようだった。一見、左腕の傷は深く抉られたような感があるのに、出血はそれほど見られないのだ。
「 ねえ、壬生…」
  僕の様子に気づいたのだろうか、龍麻が静かな声で言ってきた。だらんと両腕は地面につけたまま、身体も力が抜けたままだったが、その眼だけは…緋勇龍麻、本来のものだと思った。
「 俺ってさあ…化け物だよね」
「 …? …何を…」
「 さっきまでね…ホントは、もっと血、出ていたんだよ? 壬生に電話した時なんか、俺、死ぬかと思ってたもん。敵は大した事ないやつだったんだけど、何か気を緩めていたらばっさりやられちゃってさ…あ、やばいなんて思って、倒れて…ホント…どくどく出血しちゃってさあ…」
「 ……」
「 でも、ほら…」
  龍麻は片方の腕をゆらりと上げて、僕の方へと突き出して見せた。
「 もう血、止まってんだ。痛くないよ。全然…痛みなんか、ない」
「 緋勇……」
「 でも…どうしたんだろう…」
  緋勇はそうつぶやくと、また腕を地面にぱたりと落とし、そうしてすがるような眼で僕を見つめてきた。その眼から、視線を逸らせなかった。
「 俺…動けない…身体が…動かない…」
「 緋勇…」
  僕は無意識のうちに自分の腕を彼の方へ差し出していた。そして、彼もそんな僕の方へ両腕を出してきた。僕は、僕の方へと腕を突き出した彼を支えるようにして、抱きしめるようにして自分の両腕を彼の背中へ回した。
「 壬生…っ」
  すると龍麻も僕の方へ両腕をがっちりと回して。僕にすがりついて、僕に抱きついて、多分泣いているだろう顔を僕の胸におしつけきた。
「 怖い…よ。壬生…」
「 緋勇…」
  ただ呼ぶことしかできなくて。僕は代わりに緋勇のことをきつく抱きしめた。
  するとより一層緋勇も僕に強く身体を押し付けてきて。

「 痛い…よ…」
 そう、彼はつぶやいた。



To be continued…



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