(3)



「 ーったく、こんな夜更けに起こしおって…」
  緋勇の腕を治療しながら、女医が不機嫌な声を上げた。
  緋勇はいいと言い張ったが、仮にも異形のモノたちから受けた傷だったから、たとえ回復が早くても医者には見せた方がいい。そう言った僕に、彼は渋々頷いた。
「 さっき帰ったと思ったら、今度はアンタが怪我人かい。全く、忙しない事だね」
「 すみません」
  緋勇が素直に謝っている。どうやら、彼はこの女医が苦手のようだった。
「 ヒヒッ…。まあいいさ。お前は特別だ。どうだい、今夜はもうここに泊まって行くかい? たっぷり可愛がってあげるよ?」
「 け、結構です…っ」
  包帯の巻かれた腕を上げて、緋勇はほんのり汗まで浮かべて女医の提案を拒絶していた。
  桜ヶ丘病院。僕は初めて来たが、拳武の学生も時々世話になると聞いている。表向きはただの産婦人科だが、こうやって特殊な怪我をした者の治療も請け負うという、いわくありげな場所だ。女医がこんな感じの人だとは思わなかったが…しかし、彼女の腕は確かなようだった。
「 ところで、早くそこの二枚目を紹介せんか」
「 え…っ」
  女医がちらりと僕の方を向いてそう言った言葉に、緋勇は何とも間の抜けた声で聞き返した。それから何故か口ごもって下を向く。女医は不服そうに腕を組んだ。
「 何だい、緋勇。アンタ、私にこのコを紹介するのが嫌なのかい? 名前を聞いたくらいで取って食ったりはしないよ。新しい仲間なんだろう?」
「 ち、違います、壬生は…っ」
  緋勇は慌てたようにそう言ってから、また沈んだように俯いてしまった。
  それから、ぽつりと言った。
「 壬生は俺たちの戦いとは関係ありません。仲間じゃ…ありません」
「 ……」
  胸がちくりと痛んだ。
  当然のことを緋勇は言っただけだ。僕は彼らの…緋勇の仲間じゃない。共に戦ってくれないかと言われた時、僕は無下に断った。あの時は…緋勇のような奴と一緒に戦うなど、到底無理だと思っていたから。彼のことを嫌いだったから。
「 何だい、違うのかい。それにしちゃ、何だってお前―」
「 お、俺たち、もう帰ります!」
  緋勇は女医の言葉をかき消すと、また焦ったように椅子を蹴って立ち上がった。
  それから僕の方をちらとだけ見て、「行こう」というように目だけで訴えてきた。僕は女医に軽く一礼して、診察室を出た。





  病院を出るまで緋勇は小走りで、一度も後を歩く僕の方には振り返らなかった。まるで逃げ出すみたいなその後ろ姿に、けれど僕も黙ってただ後を追った。
「 緋勇」
  ようやく声をかける気になったのは、緋勇が病院を出てもまだその歩く速度を緩めなかったせいだった。
  僕が呼び止めると、ようやく緋勇の足はぴたりと止まり、何だかおどおどしたような目でこちらを振り返った。僕がそんな彼に追いつくと、ここで初めて彼は声を出した。
「 壬生…」
「 どうしたんだい、急に」
  僕が言いかけると、緋勇はいたたまれないというような仕草をしてから、ぎゅっと唇を噛んだ。しばらくそんな彼の側にただ立っていると、彼は思い切ったように声を出した。
「 ごめんな、こんな時間に…。迷惑だっただろ?」
「 別にそんな―」
「 さっきも…すごく壬生に甘えた…。俺…。ホント、ごめん」
  彼が何故そんな風に謝るのか、僕には理解できなかった。僕が彼を探してここまできたのは僕の意思だったし、あの時…彼が「怖い」と言って僕にすがってきた事も。 
  僕は…迷惑だなんて思わなかった。
  ただ彼の気持ちが、まるで自分のことのように苦しかっただけで。でも、その痛みだって決して嫌なものじゃなかった。
  その事を告げようと口を開きかけた時、緋勇が搾り出すような声でまた言った。
「 だって壬生は俺たちの仲間じゃないのに…こんな事で引っ張り回して、迷惑だよ。俺…何か、お前にとってうざいだけだよな…っ」
「 緋勇、僕は―」
「 もう…もう、壬生の嫌がること、しないって決めたのにな。壬生が迷惑になる事言ったりしないって…。なのに、俺」
「 緋勇、迷惑なんかじゃないよ」
「 な、壬生。さっき言ったことも、俺が泣いたことも。誰にも言わないで…? 勝手だけど…壬生も忘れてほしい。俺が…怯えてたことも」
「 緋勇…」
「 俺、嫌なんだ…こんな自分、本当に嫌なんだ…」
  緋勇は僕の方をちっとも見なかった。ただ辛そうに、泣くのを必死にこらえるように、じっと地面の方を向いたままそれだけ言った。僕はそんな彼を、どうしようもなく抱きしめたいと思った。先刻はただ無意識のうちに彼を抱きしめていた。何も考えられなかった。多分彼だってそうだったと思う。
  でも今の僕は。
  はっきりと自分の気持ちが、彼を抱きしめたいと言っていた。
  それなのに、僕はただ馬鹿みたいに彼の前に立っているだけだった。彼の頑なな様子が、僕に触れてくれるなと言っているみたいだったから。彼の氣に押されて、僕は手が出せなかった。
「 ……君がそう言うのなら」
  だから。
  忘れることなんかできるわけがないのに僕は言葉を出していた。緋勇が顔を上げた。
「 君がそう言うのなら、今夜のことは忘れるよ」
「 …ありがとう…」
  緋勇はまた視線を僕から逸らして、そう言った。
「 じゃあ、俺帰るから…」
「 家まで送るよ」
  緋勇の言葉に慌ててそう言った僕に、彼は薄く笑って首を振った。
「 もう近いし。大丈夫。それに…」
  緋勇は何かを言いかけてはたとそれを止めた。それから、無理に出した笑顔で僕のことを見ると、もう一度僕に礼を言ってきた。
「 本当に今日はありがとう。壬生に電話して…良かった」
  そう言うと、彼はまるで僕から逃げるみたいに、だっと駆けて夜の闇の中へと消えてしまった。僕は彼の足音が消えるまで、そこから去ることができなかった。





  それから一週間。
  緋勇からの電話はぱったりと途絶えた。
  あんなに頻繁にかかってきた元気な声も、帰ると必ずドアの前にいた姿も、たかだか一週間とはいえ、突然なくなると妙な気分だった。
  ……いや、違う。
  突然だったからとか、たった一週間だからとかじゃない。
  彼が僕のそばにいない。その事実が、たったそれだけの事が、僕の心をここまで不安定にさせているのだ。妙な気分などと言ってしまったのは…多分、僕はそんな自分の「弱さ」を、己の中ではっきりと認めたくないからだ。
  今まで会う時はいつも彼からだった。彼が勝手に僕を追いまわして、僕はただそれを容認して…。ただそれだけの関係だった。それ以上の事を考える必要なんかなかった。
  それなのに。
  大体、僕は緋勇龍麻の何なんだ。知人? 兄弟子? それとも友人?
  でも、そんな不可解な関係の中で、これだけははっきりしている。

  僕は彼らの仲間じゃない。

  緋勇だってそう言っていた。僕は彼らの仲間じゃないんだ。
  それなのに、何故僕がわざわざ彼に会おうとしなければならないんだ?
  何故僕は彼に会いたいと…思ってしまうんだ。

 『壬生…怖いよ…』

  彼の声がまだ耳に残っている。

 『痛いよ……』

  その言葉で、僕の胸もひどく痛む。
「 緋勇……」
  あの夜と同じようにつぶやいてみた。彼の存在がまた僕の中で大きくなった。





  そんな時だった。
「 紅葉。久しぶりだな」
  僕が仕事を終え、また少しの傷をつけて拳武に帰ってきた時に、あの人はいた。
  薄暗い道場の中で、明かりもつけずに立っていた。僕は多少意表をつかれたが、努めて表には出さないようにした。
「 館長…。帰っていらしたんですか」
「 ああ。だが、またすぐにトンボ帰りだ。その前にお前の顔を見ておこうと思ってな」
「 ……」
  拳武での最高指揮官でもある「館長」こと鳴瀧冬吾氏は、僕の武術の師でもあった。 後に、彼が緋勇にもほんの数ヶ月間指導をしたことがあると聞いて驚いたこともあったが、今となってはその理由も…。何となくだが理解している。
「 どうだ、仕事の方は」
「 問題ありません」
「 そうか」
  館長はそう言った後、僕に近づいてきたかと思うと、素早い動きで僕の右手首を掴んだ。
「 ……っ!」
「 痛めたな」
「 ……大した事はありません」
  僕が無機的に答えると、館長は僕への拘束を解いた。それから、僕に背を向けて感情のこもらない声で言った。
「 緋勇龍麻に会ったそうだな」
「 ……はい」
「 彼は…」
  館長は言いかけて、またくるりと振り返ってから僕を見つめた。僕の感情を見透かそうとするかのような瞳だった。僕は目を逸らせた。
「 彼は弱い」
  そしてその瞬間、館長はそう言った。
「 お前もだ、紅葉」
「 ……」
「 だがお前たちの《力》は…この世の中を変えるだろう」
  館長の言った台詞に、僕は一瞬だが嫌悪した。この人の言いたい事は分かっているつもりだった。この人を師として尊敬もしている。
  だが、この時の僕はムキになっていた。
「 僕にはどうでも良いことです」
  館長はそんな僕を黙って見つめていた。僕は止めることができずに続けた。
「 僕がまだ未熟なのは分かっています。弱いと…思います。ですが、僕はこの《力》にだけ振り回されたくはない。そうされないだけの強さくらいは…持っているつもりです」
「 龍麻君もそうだと思うか」
「 彼は僕などより、もっと…理解しています」
「 …そうか」
  館長は頷くと、踵を返して道場の入り口へと向かった。けれど扉を開いて出て行く瞬間、ひどく厳かな声で言った。
「 彼を救ってやれ、紅葉」
  その時、振り返った館長の顔を、僕ははっきりと見ることができなかった。陰に包まれた暗い闇の中で、この人は相変わらず独りで生きているのだろうと思った。
「 そしてお前もだ、紅葉。彼ならお前を理解してくれる」
「 館長、僕は…っ!」
  言いかけたが、館長はそれだけを言うと僕を置いて去って行ってしまった。
  いつも唐突で、一方的な人だった。けれど、あの人の言葉で、いつも救われている自分がいることも、また事実だった。

 その夜、僕は緋勇の夢を見た。
 明日は、彼に会いに行こうと思った。



To be continued・・・



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