(5)



  冬とはいえ、東京のこの時期には珍しく雪が降った。ぱらついた程度のそれだったが、 もうすぐクリスマスということもあってか、いつもと同じ通りも何だか別の風景のように僕には思えた。やたらと賑やかな音楽が鳴り響き、周囲の人たちもそんな景色の中でひどく楽しそうに見えた。
「 雪か……」
  僕は何となくつぶやいてしまい、はっとして口元を引き締めた。あまり言葉を出す方ではないのに、 何故かその時は声を出してしまっていた。 長い時間そんな華やかな空気に浸されたせいで気分がいつもと違っていたのかもしれなかった。
  柄にもなく、街をぶらついていた。特に何の目的があったわけでもない。突然降り出した雪だったから、傘もない。でも構わないと思った。 
  珍しく仕事が入っていなかった。先日ふとしたことから日本に帰国してきた館長が僕の軽い負傷を大袈裟に扱ったせいらしい。無駄な暇など僕には必要ないというのに。僕は館長のあの夜の視線をも同時に思い出して、胸のあたりが妙に沸き立ってしまった。
「 えー! 嘘、そうなのぉ!?」
「 そうそう! びっくりでしょ!」
  通りすがる女子高生がいやに耳につく高い声で何かを喚き立てていた。この世の中でそんなに驚くことがあるのだろうか。不思議な気持ちがしたが、視線は向けずにただ歩き続けた。

  東京は嫌いだ。

  以前は住んでいる街に対して何の感情も抱きはしなかった。どこにいようが僕のすることに変わりはない。僕の運命に変わりはない。そう思っているところがあったから。たとえ東京にいなくとも、たとえ館長に出会わなくとも、僕はきっとこういう人間で、別段恨みのない人間を殺していたに違いないと思う。それ以外の自分など今更想像もできなかった。
  だからこの東京という場所に対する特別な感慨などゼロに等しかった。
  それなのに、最近ではこの街がひどく疎ましい。
  何故だろう、と思う。
「 壬生」
  その時、前方から見知った顔がそう言って僕に近づいてきた。よく武器や回復薬などを購入する時に世話になる店の主だ。主といっても彼はまだ僕と同じ高校生なのだったが。
  ぱらつく雪景色に妙に似合った人だった。制服を着ているが、仕事だろう。片手には傘を、そしてもう片方の手には風呂敷に包んだ四角い荷があった。品物が入っているのだろうと思った。
「 どうも」
  僕が挨拶をすると、向こうも再び目だけで挨拶をしてきた。そして普段通りの低い声を出してきた。
「 偶然だな。…ああ、しかし君は確か拳武の学生だったな。あそこはこの辺りにあるのだったか」
「 ええ」
  短く素っ気無く応えた。今は他人と話す気分ではない。もっとも、それはいつものことだったが。

  最近は特にだ。

  その気持ちは敏感に相手の人間に伝わったようだ。元々はどちらかというと、この高校生店主の方が人と話すのを面倒がるから、別段無愛想な僕と長く立ち話でもないだろうとも思ったのだろう。また店にいいものが入ったから暇な時でも来てくれ、と型どおりの挨拶をして、彼は僕の横を通り過ぎた。
  しかし、その間際。
「 ああ、そういえば」
  彼は思い出したように振り返って僕に向かって再び声を出した。
「 君は龍麻と知り合いだったんだってな」
「 ………!?」
  突然、彼の名前が出たことで僕は思わずびくりと身体を震わせてしまった。ただの骨董品屋ではない相手は、そんな僕の態度に気づいただろうに、しかし相変わらず表情のない顔で続けた。
「 お互い余計な話をしたことがなかったからな。僕もこの間蓬莱寺に聞いて驚いたよ。……拳武での事件にも、僕は関わっていなかったのでね」
「 ……貴方は」
「 龍麻は僕の客でもあるけど、仲間でもあってね」
「 …………」
「 もっとも僕は呼ばれた時に戦いの協力をするだけで、それ以外のことはよく知らないんだ。知りたいとも思わないしね。ただ…そうだな、この間の蓬莱寺の話と龍麻の態度は興味深かった」
「 …………」
  この人が何を言いたいのか分からなくて、僕はただ黙っていた。
  互いに他の人間にはない特別な《力》があることは、口には出さずとも何となく分かっていた。僕が気づいていたのだから、彼も僕のことは知っていたと思う。しかし、余計な詮索はしてこない。それが楽だったから、僕は彼の店を利用していたのだ。
  そんな、普段は寡黙な高校生店主が今日に限っては、珍しく僕に話を振ってきたのだ。
「 龍麻が君との仲を自分に隠していたと、蓬莱寺は怒っていたよ」
「 え…?」
  思わず聞き返すと、相手は相変わらずの無表情で続けた。
「 いや、怒っていたというと語弊があるか。ただ、言われた方はそう解釈したようでね。龍麻は君とのことを訊いてきた蓬莱寺にいきなり怒鳴っていた。僕の店でだよ。……まあなかなか面白かったんで、それはそれでいいんだが」
「 怒鳴った?」
「 興味あるのかい」
  何故か意地の悪いような目を閃かせて、骨董屋店主は僕のことを見透かすような目で見据えてきた。僕が思わずむっとして口を閉ざすと、彼は「大事な得意客をなくすわけにはいかないな」と、珍しく明るい声を出してから愛想笑いを浮かべた。 読めない人だ。
「 ああ怒鳴っていたよ。『特に話すほどじゃなかったから』とひどくムキになってね。蓬莱寺も訳も分からず当たられて、後で散々怒っていたが、しかしそんな喧嘩も第三者から見ると実に滑稽だった」
「 …………」
「 僕は君の仕事に興味はないが」
  彼は突然そう言って、今度はひどく真面目な顔をしてきた。もちろん、彼に自分の仕事の話をしたことはない。蓬莱寺から聞いたか、それとも元から察していたのか、恐らく後者なのだろうが、僕はただ彼から視線を逸らせなかった。
「 龍麻のことは心配だね」
「 貴方は緋勇とは―」
「 言っただろう、仲間だよ。いや…どうなんだろう。ただ僕は彼のためならこの命をいつでも投げ出すだろうね。それくらい、僕にとって彼の存在は偉大なんだ」
「 …………」
「 他の奴もそうだから彼の傍にいる」
  彼はそう言って、もう一度探るような目を僕に向けた。
「 君は違うんだろう?」
  僕は彼の問いに答えることができなかった。


  思わず彼に―緋勇に会いたくて、僕が真神にまで行った時。
  彼はひどく驚いて、泣いて、そしてもう二度と来ないでくれと僕に言った。僕のことが嫌いだとも言った。だけど僕にはとても納得のいく話ではなかった。彼の苦しみが痛くて、まるで自分のようで、このまま放っておくことなどできないと思った。
  思ったのに。
  僕はあれ以来、やはり彼に会いにいくことができなかった。
  そんな自分が情けなかった。


  別れ際、 如月翡翠―骨董品屋の高校生店主―は、 思わず放心してしまった僕に一言優しい声をかけた。
「 どうでもいいけど、風邪を引くよ。傘くらい買った方がいい」
  僕はそんな彼の言葉にやはり何の返答もしなかったのだが。





  その後、どこをどううろついていたのかまるで覚えていないのだが、何となく自宅に帰るのが嫌で、夜も遅くになってから僕は家路に着いた。雪はもう止んでいたが、2、3時間は濡れた。身体はすっかり冷え切っていた。
  ドアの前に行くと、どうしても緋勇の姿が思い浮かんでしまう。彼は何だかんだとしょっちゅう馬鹿みたいに僕の帰りを待って、甘いものなぞ買ってきて僕にくれた。結局はそれもほとんどを自分で食べてしまうのだが。
「 …………」
  しかしそんな姿も今は当然なくて。
  僕は黙ってドアを開けた。
  中に入って玄関の明かりをつけた時、携帯が鳴った。
「 誰だ……?」
  結局仕事が入ったのだろうかなどと思いながら着信番号も見ずにそれを取った。僕の携帯にかけてくる者など知れている。それに今は誰がかけてこようがどうでも良かった。
「 はい」
  やや不機嫌な声だったかもしれない。靴を脱いで中に入りながら、僕は携帯を耳に当てた。
『 ………………』
  しかしかけてきた相手は一向に自分の名前を告げようとはしなかった。
「 もしもし」
『 ………………』
  問い掛けたが、やはり返答はない。受話器口にいるのは分かる。息遣いを感じるし、明らかにこちらの様子を探っているという感じだったから。
「 誰だ」
『 ………………』
  いつもならもう切っていただろう。けれど僕は思い切りむっとして、姿の見えない相手に怒りのこもった声を出した。
  そしてその後すぐにはっとした。

  緋勇……なのだろうか。

「 …………誰なんだ」
  そんなわけはない。彼がかけてくるはずはない。そうは思っても胸の鼓動が急に激しく鳴るのを感じた。
  彼はあの時もう会わない、もう来ないでくれと確かに僕を拒絶したけれど、しかし僕はそんな事を信じていなかった。

  もし彼が僕と同じ位置にいる人間なら。

  彼はそんな風には思わないはずだと思ったのだ。
「 緋勇……?」
  恐る恐る聞いた。人を殺し、感情を消し、何ものにも動じないと信じて生きてきた僕は、けれどこの時実に情けない声を出したことと思う。それでも確かめずにはおれなかった。
  ぷつり。
  しかし、その瞬間電話は切れてしまった。
「 ………っ!」
  ぎくりとして切れた携帯を眺めた。やや手が震えたが、けれどもう確信していた。緋勇だったのだろうと思った。
「 緋勇」
  しかし僕がそうつぶやいた時―。
「 ………!?」
  また、携帯が鳴った。
「 な…っ!?」
  思わず動揺したものの、また慌てて取った。しかし反応はない。何度か誰かと問いただしたが、しかしそれは再びすぐに切れてしまった。

 そしてその2回目以降、「それ」は一晩中続いた。


  姿の見えない相手は朝方までずっとその「いたずら電話」を僕のところにかけ続けてきたのだ。






「 壬生、目が赤いがどうした」
  僕の様子に気づいたクラスメイトが何気なく声をかけてきた。
「 いや、別に」
  普段から誰に対しても素っ気無いが、同級生というだけあって僕のそういう態度には慣れているのだろう、声をかけてきた相手は変わらず心配そうな声を出してきた。
「 でもその目。寝不足だろ。それとも風邪か? 一昨日雪降って寒かったし」
「 平気だよ」
「 そうか? ま、あんまり無理するなよな」
  相手はそれだけを言うと離れて行った。僕はふっとため息をついて、窓の外へと目をやった。
  あの雪の日から。
  相手不明の電話は2日連続で僕のところに声なき声をかけてきていた。何も言わない。ただかけて、ただ切るだけ。それを朝まで続けるのだ。僕はそれにただ律儀に返事をして取ってから、誰なのかと延々と訊いた。馬鹿みたいだ。電源を切ればそれで済む。しかし僕はその馬鹿なことを2晩も続けたのだ。
  仕事もなかったし、そして僕はただひたすらに信じていたのだと思う。
  あの電話の主が緋勇だと。

  しかし確かにクラスメイトの言う通りではあった。普段から睡眠はろくに取らないのだが、それにしても2晩の不眠は身体にこたえたようだ。それにあの雪も確かに身体の熱を奪っていったのだろう。今日は朝から心なしかけだるかった。
  3日目の今日も仕事を入れてもらっていなかったが、しかし今日に限ってはさすがに早く帰りたいと思った。一昨日の雪が嘘のように、この日は冬にしては温かく、空も晴れ渡っていたのだが、僕はまるでその光を避けるかのように真っ直ぐに家へ向かった。
  そしてドアを開き、中へ入った瞬間。
  また携帯が鳴った。
「 ……?」
  どきりとして、しかしすぐさまそれを取る。まだ夜には早いというのに、しかし間違いなくあの電話の主だろうと思い、慌ててボタンを押した。
「 もしもし」
『 ……………』
  やはりだ。相手は何も言わない。3日目でいい加減慣れていた僕は、一度も言葉を交わしていないのに、いやに馴れ馴れしい口調でその相手に向かって話していた。
「 何なんだい、君は。毎日毎日」
『 ……………』
「 言いたいことがあるならはっきりと言ってくれ。それに今日はまた随分早い電話じゃないか? 僕はまたてっきり人が寝る頃を見計らってかけてくるんだとばかり思ってたけどね」
『 ……………』
「 お陰で2晩も眠っていないよ。もっとも君もなんだろうけど」
『 ……………』
「 今日もだんまりかい?」
『 ……………』
  やはり相手は何も言ってくれなかった。ほどなくして電話は切れた。僕は携帯を恨めしそうに眺めてから、部屋へと入った。
  すぐに電話は鳴った。
「 はい」
『 ……………』
  やはり相手は何も言ってくれない。言わないのが当たり前だと思い始めているから、僕も最早何も思わないのだが。僕は携帯を耳に当てたままソファに座って目を閉じた。
  この電話の相手は、緋勇は、今どこにいて何を考えているのだろう。
  声が聞きたい。
「 一言くらい…話してくれてもいいだろう?」
『 ……………』
「 僕だって……聞きたいんだ。君の声が」
『 ……………』
  そうだ。僕ばかり。
「 僕ばかり喋って不公平じゃないか」
『 ……………』
「 緋勇………」
『 ……………』
  あの時泣いていた彼の姿が思い浮かんだ。そうだ、何故僕はあの時あんな顔をした彼を抱きしめなかったんだろう。何故行かせてしまったんだろう。怪我をして、僕を呼んだ時彼を強く抱きしめたように、病院の帰りも、あの校舎裏でも、僕は泣き出しそうな彼を抱きしめれば良かったんだ。何も不自然なことではないはずだ。
  何故か今はそう思ってしまった。

  怖い、と。

  緋勇はそう言って僕に助けを求めてきたじゃないか。そして「痛い」と言っていたじゃないか。何故その痛みを共有しようと言わなかったのだろう。
「 あ……」
  思わずそんな事を考えていて僕は声を出すのを失していた。
  電話の主は幸い受話器をそのままにしてくれていたようだが、僕は慌てて意識をそちらへと向けた。
「 ごめん、今考え事をしていたんだ」
『 ……………』
  おかしな話だ。人が聞いたら笑うだろう。自分にいたずら電話をかけてくる相手に何を謝っているのだろうか。しかし僕は一人で考えに耽ってこの相手を待たせしまった事を本当に申し訳なく思った。
「 僕は……いつも何でも冷静に考えているようでいて、実はそんな事はないみたいなんだ」
『 ……………』
「 それで後で気づくんだ。 自分の愚かな行動にね。何故あそこでああしなかったんだろう、とか。こうするべきだったとか」
『 ……………』
  何かを語っていたくて僕は思ったことを口にしていた。相手はやはり何も言ってくれなかった。けれど。
『 ……………』
「 緋勇……?」
『 …………っ』
  電話の相手は、泣いているようだった。
「 緋勇……」
  また泣かせてしまったのだろうか。 僕は何をやっているのだろう。 胸が痛んだ。
「 龍麻……」
  思わず名前を呼んでいた。彼の仲間がそう呼んでいたように。大切だということを告げたかったからかもしれない。
「 龍麻」
  もう一度呼んだ。周囲のものなど何も目に入らなかった。
  ただ僕はその場にいて。
『 ……れ……は』
  その時、彼の声を僕は聞いた。
「 龍麻……」
  確かめるようにまた呼んだ。すると今度ははっきりとした声が聞こえた。
『 紅葉……』
  ああ、やっぱり泣いている。そう思った。



To be continued…



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