(6)
気だるいと感じていた身体のことなどすっかり忘れて、僕は部屋を飛び出していた。
緋勇が僕の行動を何処からか見ていて電話をかけてきていることは間違いないと思った。ならば今彼はすぐ近くにいる。絶対に捕まえたいと思った。
今、彼と離れては。
「 緋勇……っ!」
姿の見えない相手の名前を呼んだ。誰かが見ていたら、僕らしくないと驚いたかもしれない。実際、僕自身何をしているのだろうと思わないでもなかった。
それでも僕は声を出していた。彼を探していた。
「 緋勇、いるんだろう!」
返事はなかった。気配も感じなかった。何故、彼はこうまで僕を避けるのだろう。彼を求める気持ちと同じくらい、僕はこんな態度を取り続ける彼に苛立ちを感じていた。
「 どうして隠れるんだ…。どうして僕から逃げるんだ!」
道を通りかかった近所の主婦が不審な顔をしてちらりと僕の方を見ていたけれど、別に構わないと思った。他のことに気を取られている暇はなかった。階段を降り、マンションの裏手へ回り、人が隠れそうな植え込みの影にも視線をやった。電話を切ってからそれほど経っていない。あの後すぐに彼が立ち去ったとは考え辛かった。
だって彼は泣いていたんだ。
僕を「紅葉」と呼んで。
「 緋勇……」
今度は無意識のうちにつぶやいていた。何だか無性に悔しくて、今度は自分自身に腹が立った。彼のことにこんなに苦しんでいる自分が分からなくて、ただ混乱していただけなのかもしれないが。
当初はあんなに……うっとおしいとしか思っていなかったのに。
結局、この日は緋勇の姿を見つけることはできなかった。
翌日の放課後、 僕が真神の校門前に立っていると、まるでそれを見越していたかのような顔をして、蓬莱寺がやってきた。
「 ……よォ」
どことなく陰のこもった声だったが、彼は真っ直ぐに僕のことを見据え、「元気かよ?」などと空々しいことを訊いてきた。
「 緋勇は……」
彼の挨拶には耳を貸さず僕がすぐにそう切り出すと、蓬莱寺は少しだけ眉をひそめたけれど、はっとため息をついてから横を向いた。
「 来てねェよ。あいつ、ここ3日ほど欠席してっからよ」
「 …………」
「 俺はお前の所にでも行ってんのかと思ってたよ」
別段、害のある口調でもなかったけれど、僕はそう言った彼の台詞に棘を感じた。そういえばあの骨董品屋が、僕とのことを訊いてきたこの蓬莱寺に緋勇がひどく怒っていたと言っていたけれど、丁度僕もそれと同じ心境だったのかもしれなかった。
僕たちのことを詮索されたくない。
そう感じた。
「 言っておくけどよ。俺はあいつの親友だぜ」
蓬莱寺が言った。
「 あいつの事なら何でも知ってる。あいつの趣味も、あいつの好みも、あいつの……弱さもな」
「 …………」
「 けど、お前のことは知らない」
蓬莱寺はそう言った後、僕にすっと近づいてきて、初めてひどく殺気立った顔を見せた。
「 あいつが何でお前のこと、お前と会ってたこと、俺に言わなかったのか…。 俺は分かりたくねェよ」
「 …………」
「 何でだか分かるか?」
「 ……いや」
「 嘘つけよ」
蓬莱寺は今度は本当に怒ったような顔をして、僕のことを鋭く見据えてきた。
この何でも真っ直ぐに物を言える剣士のことを、僕はこの時羨ましいと思った。そんな小さい感情を抱いてしまう僕に、しかし蓬莱寺はこう言った。思いつめたような顔だった。
「 ……けど、今ギリギリのアイツがお前のこと必要としているんだったら、俺はお前に頼みてェ。龍麻のこと、見てやってくれ」
蓬莱寺は今やすっかり先刻までの殺気を消していたが、僕の肩を痛いほどにぐっと掴むと、後はただ黙ってこちらを見やってきた。
「 ……蓬莱寺」
だから僕は思わず声を出していた。 彼と話すことなど、もうないと思っていたのに。彼の不敵な眼を見たら、声を出さずにはいられなかった。
これが、彼の 《 力 》?
「 ……僕は緋勇のことが好きなんだ」
「 …………」
「 彼を護りたい」
僕の告白に、蓬莱寺は何も言わなかった。
学校にいないとなると、 もう自宅しか考えられる所はなかったが、恐らく彼はいないだろうと思った。
ここまで僕から姿を隠しているのだ。 自宅へ赴いた所で、彼が雲隠れをしていることはほぼ間違いないだろう。 ただ、そう思いながらも、足は迷わずそこへ向かっていた。
しかし、彼のアパートに辿り着きドア横にあるインターホンを押すと、意外にも声はすぐに返ってきた。
『 はい……』
緋勇だった。
一瞬、声を失った。
『 どなたですか』
まさかいるとは思わなかった。だから僕はやや震えたような、上ずった声を出してしまった。
「 僕だよ、緋勇」
『 ………どなたですか』
彼は一間隔遅れた後にそう言った。
「 壬生だ」
『 …………』
はっきりと名乗ると緋勇はしばらく沈黙した。しかしやがて玄関の方に近づく足音が聞こえると、ドアはゆっくりと開かれた。
緋勇龍麻が、そこにはいた。
「 …………」
やや生気を欠いたような顔をしていたが、間違いなかった。ここは彼の家なわけで、いるのは当然かもしれない。けれど、こんな風にいともあっさり会えてしまったことが信じられなかった。
彼は僕のことを避けていたはずだから。
「 ……何の用?」
気だるそうな声で彼は言った。Tシャツにジーンズという格好だったが、明らかに横になって寝ていたようなうつろな目をしていた。目の前の僕に動じた様子はなく、ただ迷惑そうなその表情に胸が痛んだ。
「 ……学校、休んでいると聞いて」
そんな理由でここに来たわけではないのに、僕は思わずそう口走っていた。瞬間、馬鹿な事を言ったという自覚があったが、今更止めることなどできなかった。
緋勇はそんな僕をひどく胡散臭そうな目で見やった後、迷惑そうに言ってきた。
「 ……勝手だろ」
「 …………」
「 俺が何しようが、お前に関係あるの?」
「 ……電話を」
「 何?」
彼の声が、態度があまりにも素っ気無かったので、僕は思わずそう口走っていた。
「 電話をくれただろう」
「 電話?」
何のことだと言わんばかりの顔だった。そして僕のことを馬鹿にしたような目で見上げてくる。
「 何の話?」
「 君が僕にしてきた電話の話だよ」
「 知らないよ、そんな事……」
僕も彼のことをじっと見つめていたからだろうか、
緋勇の方が先に視線を逸らした。そして小さな声で返してくる。
「 何言ってんの? そんなの……」
「 君だよ。あれは君の声だった」
「 知らないよ。電話なんか。俺がするわけない」
「 したよ。 僕のことを『紅葉』と呼んだ」
「 うるさいな! 知らないって言ったら知らないんだよ!」
「 緋勇……」
「 用がそれだけなら帰ってくれる? 俺、具合悪いんだから」
「 具合が?」
彼のその発言で僕はどきりとした。その動揺が伝わったのだろうか、緋勇は途惑った顔を見せた。
「 だから学校休んでるんだろ。風邪だよ。だから」
「 ……大丈夫なのか、薬は―」
「 ああもう、放っておいてくれよ!」
緋勇はたまらないという顔をしてからそう叫ぶと、押し殺したような声で続けた。
「 何なんだよ? 関係ないって言っただろ! 俺の仲間でも何でもないくせに! じゃあな!」
「 仲間になればいいのか」
強引にドアを閉めようとした彼に、僕は咄嗟にそう言っていた。
「 何?」
「 君の仲間になれば、君は僕にそんな態度を取らないでいられるのかい? 他の仲間たち同様、笑顔で僕と話をしてくれるのかい?」
「 な…っ。何言ってんだよ、馬鹿じゃないのか!」
「 緋勇。僕は君と話がしたいんだ」
「 ……俺はしたくない!」
「 緋勇」
「 帰ってくれってば! もう! 帰れってば!」
最後にはめちゃくちゃに怒鳴りながら、彼は駄々をこねる子供のような顔をした。そして後はバタンと大きな音を立ててドアを閉めると、部屋の中からただ
「早く行け!」と僕を拒絶した。
僕は仕方なく数歩彼の部屋の前から遠ざかった。帰りたくはなかったが、どうしようもなかった。
けれど本当に去ろうとした時。
「 ……!?」
電話が鳴った。
「 …………」
数秒の間、しきりにうるさく鳴る電子音を聞いた後、僕は携帯を取った。
「 もしもし」
『 …………』
やはり返答はなかった。
「 ……いい加減にしてくれ」
僕は急に頭に血が上り、すぐにまた彼の部屋の前へと詰め寄ると、どんどんとドアを叩いた。
「 何するんだよ」
緋勇はまだ部屋の奥へは入っていなかったのだろう。すぐにドアを開くと、乱暴にドアを叩いた僕を実に迷惑そうに眺めた。
「 そっちだろう。どういうつもりなんだ」
「 ……何が」
僕の怒りが敏感に伝わったのだろう、緋勇は少しだけ怯んだ顔を見せた。
それでも僕の苛立ちは消えなかった。
「 どうしてだ、緋勇」
「 だ、だから何が!」
「 何故こんな風でしか…僕に近づけない」
「 だから何の話だよ」
「 何故僕を避けなきゃならない」
「 …………」
僕の問いに、彼はひどく辛そうな顔をした。それでも僕は彼に優しい顔をしてあげることができなかった。
「 馬鹿みたいじゃないか。こんな事に何の意味があるんだ」
「 ………うるさい」
「 僕はここにいるだろう。ここで話せばいいじゃないか。どうして―」
「 ……うるさいうるさい!」
「 僕のことが嫌いなのか」
そんな事を彼が思うわけがない。ひどい自惚れだったが、僕ははっきりとそんな事を考えていた。その気持ちを読まれたのだろうか、緋勇は益々かっとなったようで、僕の事をきつく睨みつけると、吐き捨てるように言い放った。
「 そうだよ、言っただろ! もう忘れたのかよ!? 俺はお前が嫌いなんだよ! 大嫌いだよ! だからもう来るなって言ったんじゃないか! しつこいんだよ、いい加減!」
「 ……しつこいのは君だろう? やたらと無言電話をかけてきて、僕が迷惑じゃなかったとでも思っているのか」
「 ………っ!」
迷惑、という言葉に引っかかったのだろうか、
緋勇は途端に声を詰まらせて、唇を噛むと黙りこくった。かっと赤面し、そうして再び僕に向かって毒を吐いた。
「 ……そ、そんな事知らないって言っただろ…。
お前が誰にイタ電されようと知った事じゃないけど、迷惑なのはこっちだよ…っ。身に覚えのない言いがかりつけられて…」
「 ……そうか」
僕も後には引けなくなっていた。
それにもうこれ以上彼とのこんな不毛な会話を続けていたくなかった。冷静さを欠いていたせいもあったかもしれない。
僕は手にしていた携帯を緋勇に見せた後、それを思い切りコンクリート面に叩きつけた。ガチャ、と粗末な音がして、それは僕たちの足元に転がった。
「 あ…っ!」
これには緋勇も意表をつかれたようで、思わずそんな声を漏らした。それから怯えたような顔をしてもう機能しなくなっただろう携帯を眺め、それから僕の方へと視線を移してきた。
「 ……壬生」
「 もういらないよ。こんな物」
「 …………」
僕は壊れた携帯には目もくれず、ただ緋勇の顔を見据えた。
「 煩わしいだけだ。誰がかけてきたのか知らないけど、電話は新しいのを買えば済むしね。……それに君ともこれで関係なくなるね」
「 え……」
意地悪だと分かっていた。分かっていたけれど、僕は僕を苦しめている緋勇に、ほんの少しでいいから自分と同じ気持ちになってほしくて言っていた。
こんな我がままは、生まれて初めてかもしれなかった。
「 もうこれで君と僕を繋げる物はなくなったんだ。ここにも、もう来ないよ」
「………生」
掠れたように僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、僕はそれを無視した。
「 それじゃあ」
僕の言葉に、彼は何も返してはくれなかった。
けれど、携帯を壊したことに後悔はなかった。あんな中途半端な物が僕たちの間にあるから、僕たちの距離は縮まらないのだと思った。
「 さよなら、緋勇」
緋勇はただ僕が投げ捨てた携帯を見つめ、やはり何も言わなかった。僕はそんな彼に背を向け、
2、3歩歩いてから、何だか胸の中がもやもやとして、無意識のうちに振り返った。
「 ……緋――」
彼は泣いていた。
「 緋勇……っ!?」
「 ……っ」
彼は必死に声を出すまいとしていたが、僕が振り返ってそんな自分に気づいたと知ると、必死にこぼれた涙を拭いながら顔を隠そうとした。
「 な…んで、君は―」
「 うるさい…っ! 早く行けよ…行っちまえよ!」
「 緋勇……」
「 ………」
僕がほとんど絶句したまま彼に近寄ると、緋勇はそんな僕から距離を取ろうと部屋の中へ逃げ込もうとした…が、
無意識にだろうか、僕が捨てた携帯に手を伸ばしてそれを拾おうとした。その間に僕は彼の腕を掴んだ。
「 はっ…離せ!」
「 ……どうして君は」
「 捨てたくせに! もう…っ、いらないくせに!」
「 緋勇……」
「 ひ…ひどい……。お前は、ひどい…っ」
緋勇は段々と声を詰まらせながら、ただそう言った。
「 何で壊したんだ…っ。何でこんな…!」
「 …………」
僕は声が出なくなってしまった。
彼はぽろぽろと無造作に涙を落としながら、僕に「ひどい」と言い続けた。
胸が痛かった。こんな気持ちは初めてで、どうして良いのか本当に分からなくて。 ただあの時の後悔を繰り返したくなくて、僕は半ば強引に暴れる彼を抱きしめた。
「 は、離せ! 触るな!」
緋勇は混乱したような声になりながらも、ただそう言って僕から逃れようとした。僕がそれでもただ強く彼を抱きしめていると、彼はやがて静かになり、そして今度は自ら僕の胸にひしとしがみついてきた。
「 緋勇……」
その腕に込められる力が痛々しくて、僕は彼を呼んだ。
「 緋勇……」
「 …………」
緋勇は僕に縋りついたまま、ぽつりと言った。涙声でほとんど聞き取れなかったのだが。
「 ひ……どいよ……お前は」
それでも段々と声がはっきりとしてきて。
「 捨てるなんて…あんな…ひどいよ……」
「 ごめん」
「 壊して…壊しちゃって、もうお前の声、聞けない…っ」
やがて再び嗚咽はひどくなり、緋勇自身、必死になって声を出してきている感じになった。
「 何でこんな事するんだよ…っ! ひどいよ、ひどい…」
「 すまない」
「 ……あ、謝ったって…遅いよ…っ」
「 君がしらばっくれるから、意地悪したくなったんだ」
「 …………」
僕がさらにぎゅっと強く緋勇の肩を抱くと、彼は途端におとなしくなった。
そして想いを返すみたいに、僕の胸により強く自らの顔をおしつけてきた。
「 言っただろう? 僕だって君の声が聞きたかったんだ」
「 ……駄目だよ」
「 どうしてだ?」
「 俺……」
「 緋勇、僕は君が好きだ」
僕は、やっと彼に言えた。
「 え………」
それで緋勇は泣きはらした目のまま、驚いたように僕のことを見上げてきた。それでも僕の腕にすがる手の力は弱まらなかったのだが。
「 好きなんだよ、緋勇」
「 嘘だ……」
「 どうして。 こんなに僕は君のことが気になっている。
君のことを護りたいって思っている。それじゃ、駄目なのか」
「 ………」
「 こんな気持ちになったことはないよ。だから…自分でもよく分からなかったんだ。でも今は言える。君が好きだよ、緋勇」
「 …………」
「 信じてもらえないのか」
「 じゃ……呼…で」
「 え?」
「 電話で……呼んでくれたみたいに」
緋勇が望むことが今いち分からなくて僕が眉をひそめると、彼は先に自分が呼ぶと言わんばかりの顔をしてからそっと言った。
「 紅葉」
あの電話の時の声だった。
「 紅葉。……俺といてくれるの」
「 いるよ」
「 ………」
「 いるよ。龍麻」
「 ……紅葉」
「 好きだよ。……龍麻、一緒にいよう?」
そう言って呼ぶと。
彼はやっと。
やっと安心したようになって。
笑ってくれた。
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