(7)



  新しく買った携帯には何も伝言は入っていなかったから、仕事を終えて自宅に帰ってきた時、ドアの前に立ち尽くしていた龍麻を見つけ、正直驚いた。
「 龍麻! いつからここに?」
「 あ…お帰り、紅葉」
  どこか遠くへ視線をやっていたのだろう。僕が近づく気配にも気づかなかったのか、声をかけられた事でようやく視線を現実に戻してきた龍麻は、ワンテンポ遅れた笑顔を見せた。
  辺りはもう暗い。
  コートを着込み、首にはマフラーを巻いてはいたが、それでも寒かったのだろう、龍麻の唇から漏れる白い吐息は何だか痛々しく感じた。
「 鍵…忘れてきたのかい?」
  ともかくも龍麻を中に入れねばと思い、僕は言いながらもポケットから自宅の鍵を取り出してガチャリとドアを開くと、半ば強引に彼を中へと押し込んだ。龍麻はやや遠慮するような素振りを見せたが、「お邪魔します」などと小さく言って玄関の中へと身体を入れた。
「 冷えただろう? 今、暖房入れるから」
「 あ、大丈夫だから」
「 そうは見えないよ」
  僕は言いながら部屋の電気をつけ、改めて振り返って後から部屋の中に入ってきた龍麻を見つめた。寒さのためか頬がやや紅潮し、いつも白いその肌も、今はそれを通り越してすっかり蒼褪めてしまっていた。
「 今、温かいお茶も淹れるから。龍麻はそこに座って」
「 あ……」
  龍麻は頷きながらも、一人で慌てたような僕に何か言いた気な顔をしてみせた。僕は身体を冷やした龍麻のことがひどく気がかりで、その様子をうっかり見落としそうになった。ただ龍麻がそんな僕の腕をくっと掴むと、あとは俯いて何も言わないので、僕は動きを止めてそんな彼をじっと見詰めた。
「 どうしたんだい、龍麻」
「 う、ん……」
  何だろう。
  一瞬頭が空白になり、僕はただ茫然と目の前の龍麻を見つめた。


  あの日を境に、僕たちはお互いの存在をようやく素直に受け入れられるようになっていた。
  僕は龍麻を好きだという自分の感情をごく自然に認めることができたし、龍麻も僕と一緒にいたいという気持ちに正直になってくれたように思えた。僕の勝手な思い込みもあるかもしれないけれど、それでも龍麻はもう僕を避けようとはしなかったし、こうやって時々は僕の帰りを待ってくれるようになった。
  そう、時々なんだけれど。


「 龍麻……?」
「 あ、何でもないんだ。ごめんな」
  何となく僕がつぶやいた問いかけに、龍麻はひどく申し訳なさそうな顔をすると、掴んでいた腕を離した。僕はそれを不審に思いながらも、彼の頬へと自らの手を当てた時、想像以上に冷えているその体温に再び慌てふためいてしまった。
「 龍麻、一体いつからあそこにいたんだい? 携帯には連絡入れてくれてないだろう?」
  あの時壊した携帯はもう使い物にならず、僕は新しい携帯を手にしていた。勿論、番号は1番に彼に教えた。
「 鍵だって渡してあるのに。勝手に入っていていいんだって言ったじゃないか」
「 うん…忘れちゃってたんだ」
  龍麻は気まり悪そうにそう言った後、僕の言った通りソファに腰を下ろした。それから手持ち無沙汰のように傍の置物に手を触れたりしている。
  僕はキッチンに入ってヤカンに火をかけると、お茶の用意をしながらそんな龍麻をちらと見た。
  以前、頻繁にここに来ていた時の龍麻の姿とつい重ねてしまう。
  あの時は度が過ぎるくらい図々しくて元気が良くて。
「 紅葉?」
「 あ…っ」
  龍麻に言われ、僕は慌てて体勢をコンロの方に戻すと悲鳴を上げているヤカンの火を止めた。
  彼を見ていると時間の感覚が鈍くなる。彼を好きだと自覚してから、それはいよいよひどいものになっていた。
「 龍麻。紅茶でいいかい」
「 うん」
  ついでに龍麻が来た時の為にと作っておいたリンゴタルトを出してトレイに乗せると、僕はようやく龍麻がいるリビングへ戻り、改めて彼の顔を見ることができた。
「 夕飯は食べたよね?」
「 あ……うん」
「 ………もしかして、まだ?」
「 ううん、食べたよ! でもこれは食べる。いただきます!」
  龍麻は何だか妙に不自然な笑顔を作ってから、僕が出したタルトをぱくりとほおばった。すかさず「美味しい」と言って嬉しそうな顔をしてくる。
  それで僕はもう舞い上がってしまった。情けない話だけれど。
「 僕のもいいよ」
「 えっ、いいの? あ、でも紅葉は夕飯食べた?」
「 大丈夫だよ、僕は」
「 仕事の帰りだろ?」
「 そうだけど」
「 大丈夫か? 俺、いきなりいて疲れてないか?」
「 まさか」
  やたらとオロオロする龍麻に僕は多少面食らって身体を引いたが、なるべく表面には出さないようにして笑顔を作って見せた。すると龍麻は心底ほっとしたような顔をしてから、再びフォークを動かす手を盛んにし始めた。
「 そんなに急いで食べなくても、取ったりしないよ」
  可笑しそうに言う僕に、龍麻は照れたように頷きながらも相変わらず忙しそうに口を動かした。こういうところは「あの時」と同じだなと思う。甘い物が大好きで、毎日僕の所に何かを持ってきては一人で全部食べて……。
「 龍麻」
  ようやく人心地ついて紅茶をゆっくりと喉に流し込んでいる龍麻に、それで僕はやっと改めて問い質す気持ちができた。
「 今夜はどうしたんだい? 何か…あった?」
「 ……ううん、別に」
  一間隔遅れた後に、龍麻はそう言ってから俯いた。紅茶のカップをテーブルに置き、まるで怒られた子供のように畏まった姿勢を取る。僕はそんな彼の隣にいて自分だけリラックスした格好を取っているのも嫌だったので、自分もソファにもたげていた背中を浮かすと、やや前傾姿勢となって龍麻の顔を覗きこんだ。
「 でも、随分長いことあそこに立っていたんだろう? 何か嫌なことでもあったんじゃないの」
「 ないよ。別にないよ」
「 そう?」
「 うん。ただ、紅葉に会いたかっただけ」
「 ……っ!」
  あまりにも嬉しい台詞をさらりと言ってくれるので、さすがに面食らい声を出し損ねた。すると僕の驚きが伝わったのか、龍麻は自分も焦ったようになって言葉を先についてきた。
「 こ、この頃会ってなかったし」
「 あ…ご、ごめん。立て続けに仕事が入って……」
「 あ、うん、分かってるんだ。この間そう言ってたもんな! 忙しいの分かってたから…」
「 ……………」
「 ……………」
  しんとした部屋に、壁にかけた時計の音がいやに煩く聞こえてきた。僕は自分が赤面していない事を祈りながら、柄にもなく高鳴る胸を抑えながらそっと龍麻の身体を引き寄せた。
「 あ………」
  龍麻が小さく声を漏らして、けれど逆らわずに僕の胸にしがみついてくると、僕は彼を抱く腕に力を込めた。
「 今日……泊まっていくだろう?」
「 え…う、ん……」
  龍麻がこくんと頷いたのが分かって、 僕は自分が言った言葉が空回りしなかったことに心底安堵の息を漏らした。

  馬鹿みたいではあると思った。

  確かに「恋人」なんてものを持ったことは1度もなかったし、誰かを「好き」になったこともなかった。元々自分のような人間は、人を愛するということなど母という例外を除いては有り得ないと思っていたし、許されないことだとも思っていた。
  火遊びのような、少しの好奇心で女と寝たことはあったが、それも身体の快楽以外何も残らなかったし、ただ「それだけ」のものだとしか言いようがなかった。

  それなのに、龍麻のことになると。 

  僕は龍麻のことを自分の「恋人」などとは思っていない。けれど僕は彼のことが好きだし、勢いのこととは言え、きちんと告白までしていた。龍麻はそれを喜んでくれたようだし、傍にいてほしいとも言ってくれた。だから僕たちはあれ以来、お互いが会える限りは会い、一緒にいるように努めてきた。 
  でも、それだけなんだ。別に他に何があるというわけではない。
  僕は彼を前にするとどうにも情けないくらいに身体の動きが鈍くなるし、龍麻も以前のしつこく僕にまとわりついていた頃とはまるで別人で、ふざけてくっついてきたりということがなくなっていた。

  だから僕は龍麻を抱きしめるだけでどうにかなってしまいそうな自分にその度困惑してしまうのだった。


「 紅葉。先、ありがとう」
  浴室にこもっていた龍麻から声をかけられ、僕のくだらない思考はそこで止まった。
「 あ、お湯、丁度良かった?」
「 うん。ありがと」
  龍麻は再度礼を言うと、ふわりと笑って濡れた髪の毛をタオルで拭いた。 彼のそんな仕草を見ただけでドキリとしてしまう。また身体に熱が帯びるのを感じた。
  僕が渡したパジャマは、やはり龍麻には大きかった。袖口からは彼の指先しか見えない。ズボンの裾はまくっていたが、それがどうにも子供っぽくて、それがまた僕の気持ちをいたたまれなくさせた。
「 紅葉、どうかした?」
「 あ…」
  適当に言葉を紡いで、僕は逃げるように浴室へと入った。泊まっていけと言ったのは僕なのに、どうにも気持ちが落ち着かない。
  きっと久しぶりに会ったせいだ。
  何とかそう言い聞かせて、 僕は服を脱ぐと思い切り熱いシャワーを浴びようと風呂のガラス戸を開いた。



  いつもより数段長い時間そこに篭って僕が出てきた時には、龍麻はすっかりくつろいだ様子でソファの上で膝を抱え、テレビの深夜番組を見ていた。がちゃがちゃと騒がしい男女の声が部屋を満たしていて、どこが面白いのか分からないのだが、皆楽しそうに微笑んでいた。
「 何を見ているんだい」
  冷蔵庫から飲み物を出しながら声をかけると、龍麻はその番組が気に入っているのか、「最近出てきたお笑いタレントのトーク番組」とだけ答えた。ちらとそちらの画面に目をやると、見知らぬ男2人に囲まれて、こちらはどこかで見たことのあるような女性タレントがにこやかに何かの話をしていた。好きなタイプの男性の話、趣味の話、最近あった面白い事の話など…。
「 好きなの、こういう番組」
「 時々見るよ。深夜番組って何も考えないでいいじゃない。気楽に見れるから好きだな」
  龍麻は言ってから、僕が自分と彼の物として持ってきた二つのグラスを眺めて「あ、美味しそう」とつぶやいた。
「 どっちでもいいよ。好きな方を取って」
「 こっち何?」
「 グレープフルーツ」
「 じゃあそれ」
  龍麻はそう言って半透明のグラスを受け取るとグレープフルーツジュースをそっと口に運んだ。あとはただ熱心に( という風に僕には見える) テレビ画面に視線をやっている。
  楽しそうだ。
  試しに僕もその番組を5分少々真剣に見てみたが、やっぱり何が楽しくて笑っているのか、何が面白くてこんな番組が長続きしているのか分からなかった。ブラウン管の中の人間たちは程度の低い話ばかりしていた。
  いや、僕みたいにそんな事を考えながら見てはいけない物なのだろうが…。
「 ねえ、紅葉」
「 えっ?」
  そんな風に画面に対して心の中で不平や疑問を飛ばしていたから、急に龍麻が話しかけてきたことに僕はすぐに反応を返すことができなかった。慌てて龍麻の方を見ると、彼は少しだけ迷ったような様子を示していたが、手にしていたグラスを僕に向けるとおずおずと言った。
「 紅葉…やっぱりそっち貰っていい?」
「 え? それ、まずかったかい?」
「 あっ! そんなんじゃないけどさ。そのオレンジも飲んでみたいから」
「 別にいいけど」
  僕が素直に持っていたグラスを渡すと、龍麻はそれだけですごく嬉しそうな顔をして、僕が飲んでいたオレンジジュースを美味しそうに口にした。どっちも飲んでみたかったのかなと思っていた時、龍麻がまた不意に言葉を出した。
「 紅葉、こういう番組好きじゃないだろ」
「 え? いや、別にいいんだけど…」
「 嘘々。『これのどこが面白いんだ?』って顔してるよ」
  龍麻はここで今日初めて僕をからかうような顔をしてから声をたてて笑った。
  今までまるで「お客さん」のような態度の龍麻だったから、僕はそれで少しだけ安心して、つられて笑顔を見せた。
「 ……ごめん。でもあまりこういうのに慣れていないから」
「 ううん。いいんだ。俺も嫌いだから」
「 え? だってさっき―」
「 あはは。でもこういうのだって見てると色々分かるじゃない? 笑顔のタイミングとか、さ」
「 え……」
  龍麻の言葉に胸をつかれたようになって、僕は後の言葉を失った。龍麻は僕の方は見ずに黙って画面を見ていた。
「 龍麻?」
  問い返すと、龍麻はにっこり笑って僕を見て、それから首をかしげる仕草をしてからゆっくりと言ってきた。
「 本当は、怒りたかった」
「 え?」
  不意に出された言葉だった。
「 何でもっと電話くれないんだとか」
「 …………」
「 どうして電話つながらないんだとか」
「 …………」
「 どうして俺って紅葉にこんな遠慮してんの、とか」
「 龍――」
「 どうして紅葉って俺にこんな遠慮してんの、とか」
「 ………龍麻」
「 でも笑ってた方が安全だから」
  龍麻は言ってから、けれど今はすっかりその笑顔を消して黙ったまま僕を見つめた。僕が固まった身体をどうともできずにいると、彼は業を煮やしたようになってそんな僕にどんと体当たりをしてきた。
「 今日かけたら……また留守電で」
  僕の胸に顔をうずめてきた龍麻に、僕は声をかけるのが精一杯だった。
「 ……いつかけたの」
「 学校終わってから。ずっと会ってなかったから。ずっと連絡なかったから」
「 ごめん、忙しくて」
「 それは分かってる!」
「 ……………」
  言い訳だ。僕は咄嗟に自分自身にそう言った。
  僕は龍麻に電話しても何を話していいか分からない自分に躊躇して、いつの間にか待ってしまっていたのだった。
  龍麻が連絡をくれるのを。
  思えばずっと何もしなくても龍麻は僕のところに来てくれていたから。
「 ごめん、龍麻」
「 鍵なんか貰っても、紅葉のいないこの部屋で待ってるの不安だよ。携帯番号知ってても、紅葉が出てくれなきゃ意味ない」
「 うん」
  僕がそっと龍麻の両肩を包むようにして抱きしめると、彼は興奮していたように荒げていた息をはあと大きく吐き出して静かになった。
  しばらくの間。
  僕たちはまた互いの体温だけを、心臓の鼓動だけを確認していた。そして僕はこうやっていつも何かに怯えている龍麻を、より一層愛しく感じた。自然と抱きしめる腕には力がこもった。
  そして僕はそうすることによって自分こそが癒されるのだということを、無意識のうちに理解していた。
「 紅葉…?」
  きつくなった拘束に戸惑ったような龍麻の声が聞こえたが、僕は彼がそう言って顔を上げた瞬間、彼の唇を奪っていた。
「 紅……っ」
  最後まで呼ばせずに塞いだ唇は、以前気紛れでしてしまったあの時のキスとはまるで違う感触がした。彼への気持ちを確かめるように、僕はその後何度も龍麻の唇に自分の唇を重ね、そして口内にまで侵入し、その舌をとった。
「 んぅ…っ」
  苦しそうに眉をひそめた龍麻を無視して、どんどん熱くなる身体の望むままに、僕は龍麻を拘束し続けた。ソファに彼を押し倒して、口付けを続ける。
「 は…ぁ、紅、葉…っ…?」
「 好きだよ、龍麻……」
「 ………紅葉」
「 好きだよ…」
  免罪符みたいだ。少しだけ顔を強張らせる龍麻に言い聞かせるように、僕は二度そう言って彼の上に跨り、また深く唇をあわせた。やがてそれを口許から顎、首筋へ落としていって、だぶついた寝間着のボタンに手をかけた。
「 紅葉…ッ」
  拒絶とも誘いとも取れるような切羽詰まった声が聞こえた。それすら耳に心地良くて、僕はそう言って自分を呼んだ龍麻と目を合わせると、彼の前髪をかきわけそっと訊いた。
「 嫌かい?」
「 …………」
  龍麻はしばらく黙ってそう訊いた僕を見やった後、ゆっくりと首を横に振った。そしてかっと赤面した彼の口から言葉が漏れた。
「 俺も好き…紅葉が好き……」
「 龍麻……」
「 紅葉になら、俺、全部―」
  けれど龍麻がそう言いかけて僕の首に両腕を巻きつけようとした時――。

  電話が鳴った。

「 ――ッ!」
  互いにびくりと身体を揺らして、僕たちは動きを止めた。容赦なくけたたましく鳴る電話音に、僕は夢から覚めたような心持ちがした。それは龍麻もだろう。みるみる紅潮する頬をごまかすように、龍麻は僕に向けかけていた腕を自らの額に持っていった。
「 ………はい」
  僕は仕方なく立ち上がって受話器を取った。
  誰がどう聞いても不機嫌極まりない声だったろうが、しかし電話の向こうの「あの人」はそんな僕に構うことなく簡潔に言葉を紡いできた。
『 紅葉。仕事だ』
  「あの人」の、館長の厳とした声。
  僕は急激に身体の熱が下がっていくのを感じた。
「 ……はい。今すぐ」
  そう応えた時、背中に刺さるような視線を感じたけれど、僕はただ龍麻に謝るしかなかった。

  彼は笑って見送ってくれたけれど。



 

To be continued…



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