(8)



  その仕事自体は、大した時間もかからずに終わった。
  元々それは最初から僕に与えられていた任務ではなかった。ただ、最後の仕上げを施すのにその任に当たっていた者では役不足ということで、急遽僕が代役に立てられたのだ。
  その任務を終えた時、僕は自分の肩筋に相手の血糊がついている事に気づき、己の気持ちに乱れがあった事を心底恨めしく思った。
「 ……………」
  龍麻が怒っていなければ、あの笑顔が無理をしたものでなければ、彼は僕の部屋で待っていてくれるはずだ。本当は一刻も早く帰りたかった。だけどこの姿を見られるのには、やはり抵抗を感じた。
  僕は拳武の道場へ行き、そこで着替えをしてから家に帰ろうと決め、自宅へ向かう足を止めて踵を返した。





  コートのポケットに忍ばせていた道場のスペアキーは、以前鳴瀧館長が僕だけに渡してくれた物だった。僕はそのキーを使って中に入り、ロッカールームへと向かった。道場からその場所までは細い1本の通路のみでつながっていて、窓から差し込む光だけを頼りに僕はその道を進んだ。
「 紅葉」
  その時、稽古場の扉が開いて、薄暗い中から館長が顔を出して僕の名前を呼んだ。彼の気配を全く感じていなかった僕はさすがに面食らい、一瞬足を止めて身体を引いた格好を取ってしまった。
「 館長」
「 ……終わったのか」
  当たり前だけど「何が」終わったのかは彼も僕も言葉にはしない。僕は前方にいる館長にただ頷いて返事をした。
「 ご苦労だったな」
  館長はそう言ってから、僕に稽古場に来るよう目だけで命令してきた。僕は黙って先に中へと戻っていった館長を追った。
  彼が僕に期待していること、彼が僕に望んでいることを、僕はそれなりに理解しているつもりだった。それに、戦いの師である彼が弟子であるこの僕に対してそれなりの情を注いでくれていることも、僕なりによく分かっていた。だから僕はあの人の意向にはなるべく添うような行動を心がけたいと思っていたし、だから今夜も言われた仕事を忠実にこなしてきた。
  だけど、今夜は。
  何だか、胸の奥がひどくちりちりした。早く帰りたいという気持ちがやはり強かった。我がままな事を思っているのは分かっているけれど。
「 紅葉。それはどうした」
  僕が稽古場に入るなり、館長はそう言ってやや手厳しい声を出した。 一瞬、言葉に詰まった僕は、けれど彼が言いたい事を理解した後は自分の弱い部分を悟られたくなくて、思わず表情を硬くした。
「 ……申し訳ありません」
「 謝る必要はない。だが…珍しいな、お前が血をつけて帰るなど」
「 …………」
  黙りこむ僕を見透かすような目で館長は黙って鋭い視線を向けてきた。きっとこの人に隠し事はできない。そう思う。
  だけど、僕はこの人に今の自分の気持ちを知られたくなかった。それは初めての感情かもしれなかった。彼に隠したい事ができるなんて。
「 館長…ここで何をしてらしたのですか」
  だから思わず言葉を出していた。自分の事を訊かれたくなくて。
  そんな僕に、不意な質問をされた館長は、けれど相変わらずの平然とした態度で、暗い道場をすっと眺めてから厳かな声を出した。
「 少し…昔のことを考えていた」
「 昔のこと…?」
「 ……お前や龍麻が生まれる前の話だ」
「 …………」
  何かを懐かしむように、けれど一方でどことなく淋しげに館長は遠くに視線をやっていた。多分、ここではない、どこかを見ていたのだと思う。僕は少しだけ躊躇した。こんなこの人の姿を見たことはないと思った。
「 紅葉」
  すると、また突然館長は僕に向かって声を出した。それは夢から覚めたような声でもあった。
「 すまなかったな。引き止めて。もう行くといい」
「 は……?」
  僕が訳が分からずに途惑っていると、館長は僕に背中を向けてから言った。
「 早く帰るといい。あの子はきっと待っているだろう」
「 館――」
「 行きなさい」
「 は…い……」
  本当は館長は僕に何かを言いたいのではなかったのか。
  何かを言おうとして引き止めていたのではなかったか、そう思ったけれど、僕はそれを訊くことができなかった。

  僕は何だか逃げるように、拳武から離れた。





  自宅のマンションに帰り着いた時は、もう時計の針も深夜の三時を過ぎていた。
「 龍麻……」
  思わず彼の名前をつぶやいてしまい、僕は逸る気持ちを必死に抑えながら、そして彼がいてくれるだろうかという不安な気持ちを抱えながら、部屋のドアを開けた。
  玄関から続くリビングは電気が消えていて、いつも帰った時に遭遇する景色と全く一緒だった。しんとした空間の中、僕はなるべく音を立てないように靴を脱ぎ、中へと入った。
「 龍麻……?」
  囁くような小さな声で呼んでみたが、返事はなかった。
  電気の消えたリビングに彼はいない。帰ってしまったのだろうか、無性に居た堪れない気持ちになりながら、僕はダイニングに一瞬だけ視線を向け、それから寝室のドアをゆっくりと開いた。
「 龍―」
  呼びかけて、僕は思わず口をつぐんだ。
「 …………」
  龍麻は、僕のベッドの上で眠っていた。
「 龍麻……」
  今度は再び小さな声で彼の名前を呼び、そっと近づいた。出かける前と同じ、僕の寝間着を着込んだ龍麻は、布団から肩だけを出して壁側に顔を向け、静かな寝息を立てていた。
  目覚めそうにもない。
  僕はベッド脇にまで近づき、なるべく振動を立てないように腰をおろしてから、こちら側に背を向けている龍麻の寝顔をじっと見つめた。帰らないでいてくれた彼がとても嬉しかった。僕のベッドで待っていてくれた彼が愛しかった。

『 紅葉のいないこの部屋で待っていても―』

  寂しいと。
  そう言ってくれた彼が、今ここにいる。
  ここに戻ってくるまでの不安な気持ちがすっと消えていくようで、僕は満たされた気持ちになった。あんなに僕を縋ってくれた彼を置いて仕事に出てしまった事を、本当はひどく悔いていた。館長の命令でも、誰の命令でも、僕は本当は彼を置いていってはいけなかったんだ。それなのに、当たり前のようにいつもの選択肢を取ってしまった自分がたまらなく嫌で、許せなかった。
  それでも僕は。
「 ごめん…龍麻……」
  謝らずにはいられなくて、僕はそう言っていた。
  それからそっと彼の前髪に触れ、しばらく自分の指に絡めてその感触を楽しんだ。
  彼を、龍麻を好きだと思う。
  けれど。
  それでも僕は、僕の運命に従って血に濡れた道を選んでしまう。縋る彼を置いて行ってしまう。
  そのくせ、彼にはここに居て欲しいと思ってしまうんだ。
「 ………ッ」
  思わずたまらなくなって、僕は立ち上がった。部屋を立ち去ろうとして、けれど僕はぎくりとして足を止めた。部屋を出ようとしたその瞬間、背中に射貫かれるような視線を感じたから。僕はハッとして振り返った。
「 龍…麻……?」
  龍麻は起きていた。
「 どうして行っちゃうの……?」
「 あ………」
「 お帰り、紅葉」
  龍麻は言ってから、音も立てずに上体を起こすと真っ直ぐに僕の方を見やってきた。静かな瞳だった。
「 お帰り」
  龍麻はもう一度言った。けれど僕が遅い反応ながらも何とか「ただいま」を言おうとすると、龍麻は急に涙を落として俯いた。
「 た、龍麻…っ?」
  慌てて駆け寄って再びベッドに座り、彼の顔を覗きこもうとすると、龍麻はそれを嫌がって顔をそむけた。僕はどうして良いか分からなくて、ただオロオロとみっともなく途惑い、そして彼の肩に触れた。これには龍麻は逆らわずにいてくれた。
「 龍麻……」
「 ごめん…。何でもないから…っ」
「 何でもないこと…ないだろ」
「 何でもない……」
「 じゃあどうして泣いて―」
「 泣いてない……」
  龍麻は僕から視線を逸らせたまま、ただ無造作に涙を落としていた。涙というものがこんな風にぽろぽろ落ちるものだなんて今まで知らなかった。まるで玩具みたいだ。今の状況が逼迫しているものであるはずなのに、僕は胸の片隅でそんな事を思いながら、黙って龍麻の事を見つめた。
「 紅葉……」
「 龍麻…?」
  僕のことを呼んだきり、やはり黙り込んで涙を落とす龍麻を、僕はどうして良いのか未だ判らずにただ呆然としてしまった。やはりあそこで一人にしてしまった事を怒っているのだろうか。一人になって、また心細くなってしまったのだろうか。いろいろな事を考えながら、僕はとにかく龍麻の涙を拭おうと、自分の指を彼の頬に当てた。
  龍麻はおとなしくて、僕にされるがままだった。
「 ごめん……」
  けれど涙を拭かれたことが気まずかったのだろうか、龍麻はもう一度謝ってから、またかっと赤面して俯いた。僕は彼の顔がはっきり見られない事がたまらなくて、思わず焦れたような声を出してしまった。
「 龍麻、どうしたんだ。どうして謝るんだ? どうしてそんな…僕から目を逸らすんだ」
「 何でもない……」
「 だから何でもないって事ないだろ。やっぱり怒ってるんだろ? 僕が君を置いて出てしまったから」
「 ………違うよ」
「 本当に?」
「 …………違う」
  返答までにひどく間が空いたと思いながら、それでも僕は彼がそれを否定してくれたことに、少しだけ胸をなでおろした。それで、更にもう一度訊く勇気が湧いてきて、彼に向かって言葉を出した。
「 じゃあどうして泣いているのか教えてくれよ。僕にできることがあるんだったら―」
「 ないよ。何もない」
「 ………!」
  いやに龍麻がきっぱり言うので、僕は絶句してしまった。
「 何も…ない?」
  好きな人間のためにできる事が何もないと言われて冷静でいられるほど、僕はできた人間じゃなかった。龍麻が僕のことを拒んでいる。そう感じた。
「 龍麻……僕じゃ、君の力になれない?」
「 …………」
「 僕じゃ駄目なのかい」
「 …………」
「 龍麻!」
「 紅葉だから…駄目なんだ」
「 どうして」
「 ごめん……やっぱり、何でもない」
「 だからどうして謝ってばっかりなんだよ、君は!」
  思わず声を荒げてしまうと、龍麻はびくりとなって、ようやくここで顔を上げた。そうしてみるみるまた泣き出しそうな顔になり、さっと僕から顔を背けてただ頬を紅潮させた。
「 龍麻……」
「 謝るのは…紅葉だって同じじゃないか」
「 え…僕が……」
「 さっき謝った。俺が寝ていると思って……」
「 あ………」
  思わずはっとして黙りこむと、龍麻はじわじわと表情を翳らし、そうして居た堪れなくなったようになり、吐き捨てるような声を出した。
「 紅葉だってどうして謝ったんだよ…っ! 俺は、俺はいつも紅葉に我がまま言って、本当は紅葉に行ってほしくないって思ってて…。だけど紅葉が仕事しなきゃいけないの分かっているから…でも紅葉にもしものことがあったらどうしようって、俺、どうなるんだろうって。だから気持ちがごちゃごちゃしてきて、訳が分からなくて…こんな自分が申し訳なくて謝ったんだ。……けど。紅葉はどうして謝るんだ? 俺に何かしたわけじゃないのに」
「 …………」
  僕は声が出なかった。
  龍麻の。
「 そうだろ? 俺に謝る理由なんて…紅葉にはないのに」
「 …………」
「 ないのに……」
  龍麻の必死な表情が、胸に痛かった。
  僕はようやく言葉を出せた。
「 独りにしたよ」
「 え……」
「 君を独りにしたよ」
「 ………紅――」
  何度でも言おうと思った。彼をこんなに苦しめて、僕は。
「 君を…こんな風に小さくなっている君を独りにした」
「 お、俺…」
「 君は強い。みんなといる時、君は本当に誰にも負けない目をしてる。でも本当は君は……僕と同じだね」
「 紅葉………」
「 だから…そんな君を置いていって、ごめんって思ったんだ」
「 紅葉…っ」
「 謝って済むことじゃないけど…一緒にいようって言ったのは僕なのに」
「 紅葉、紅葉…っ!」
  僕が自分の気持ちをようやく言うと、龍麻はばっとまた新しい涙をこぼして、けれど今度は僕に思い切り抱きついてきて声を押し殺して泣いた。本当はもっと思い切り泣いてもいいはずなのに、彼は我慢して、本当に小さい声をもらしただけだった。
  だけど僕に掴まる腕の力は強くて。
  儚くて。
「 龍麻…好きだよ……」
「 紅葉……」
「 龍麻のことが好きなんだ」
「 紅葉…キスして……」
  龍麻は必死に僕にしがみついてそう言った。何もかもかなぐり捨てて言ってきた台詞のように聞こえた。僕は僕の方を向く龍麻に、真っ直ぐな視線を向けたまま、そっと彼に口付けをした。龍麻の唇に自分のそれが触れた時、僕は全身が何かに打たれたような感覚を受けた。
  ただ「好き」という気持ちだけでは届かない何か。
「 紅葉……」
  そっと唇を離すと龍麻はそれを惜しむような声を出し、もう一度と僕の首に回していた両腕の力を強めた。僕は言われるままに、龍麻の唇に再度自分のそれを重ねた。段々身体の熱が高まって、僕は今度は彼に言われる前に何度も何度も押し当て、貪り、彼の身体をベッドに押し倒した。このまま、彼を自分のものにしたいと思った。
  彼のことを捕まえたくて。
  僕を知ってもらいたくて。
  だけど、その時――。
「 紅葉…!? そ、それ、どうし―!?」
「 え……?」
  素直に僕に従っていた龍麻が、急に驚愕したような声と共に、僕の肩先をぐっと掴んできた。何を言われたのか分からず、ただ混乱していると、龍麻は上体を起こして「怪我したのか!?」と真っ青になって訊ねてきた。
「 あ……」
  龍麻が僕の傷と勘違いしたのは、僕がつけてしまった他人の血糊だった。着替えて、全て拭ってきたはずだったのに。それは首筋にもこびりついていたのだった。
「 何…でもないんだ」
「 本当…っ? で、でも、傷の手当てしなきゃ…ッ!」
  龍麻は誤解していた。これは僕の血じゃない。これは。
  僕が殺した相手の血なのに。
「 何でもないんだ」
「 駄目だよ、紅葉! 俺、薬箱取ってくる―!」
「 いいって言ってるだろ!」
「 !?」
  思わず声を荒げてしまい、はっとすると、そこには僕の声で驚いた顔をした龍麻の姿があった。
「 あ………」
「 紅、葉……?」
「 ご、ごめん龍麻…っ。でも僕は―」
「 う、ううん…。俺こそごめん…余計なお節介だ…」
「 ………ッ!」
  違う。
  そう言いたかったけれど言えなかった。先の言葉が見つからない。僕は必死に取り繕う言葉を捜したけれど、先刻のような淋しげな顔をした龍麻に、与える言葉を僕はすぐに持ち得なかった。
「 …………」
  重い沈黙がどれだけ続いたのだろう。
  僕は動けなかったし、龍麻もじっとしたまま下を向いていた。
  そして。

「 紅葉……」
「 え………」
「 俺……」
  そうして龍麻は、再び泣き出してしまった。僕はどうすることもできなくて。
  でも、でも離れていたくなくて。
「 ごめん、龍麻……」
  また、謝ってしまった。
  そうして彼をぎゅっと力強く抱きしめて、すすり泣く龍麻の身体をずっとただ抱きしめ続けた。
「 紅葉…っ」
  龍麻はそれに逆らわなかったけれど、僕の名前を呼んでくれたけれど、やはり悲しそうに泣き、そうして涙を落とすのだった。

  こんなに好きなのに、僕はまた彼を傷つけてしまった。



To be continued…



9へ