(5)
「 天童ー!」
屋敷に入るなり、龍麻は勢いよくドアを開くと、驚いて近づく多数の使用人には目もくれず、ここの主の名を呼んだ。
「 天童、天童ー!」
何だかひどく嫌な予感がして。
もう九角には二度と会えないような、そんな嫌な予感がして、龍麻は夢中で叫んでいた。
もしいないのなら、この屋敷の人間締め上げてでも九角が何処へ行ったのかを聞き出そうなどとも思った。
しかし。
「 ……るせえな。 何だ、何度も呼びやがって」
気だるそうな声と共に、九角が奥の部屋から顔を出した。和装姿だ。ずっと家にいたのだろう。寛いでいたところを思い切り邪魔されたというような様子だった。
「 あ、天童…」
いざ本人を目の前にすると、龍麻はそのまま固まってしまった。
そんな龍麻を九角は思い切り不審の目で見やってきた。
「 おかしな奴だ。何を血相変えてきたかと思いきや、今度はだんまりか。相変わらずお前は―」
「 天童っ!」
「 ………っ!?」
しかし、九角が最後まで言わないうちに。
龍麻は靴も脱がずに上がりこむと、そのままだっと目の前の九角の元まで走り。
思い切り抱きついていた。
「 龍麻…?」
さすがに九角も意表をつかれたようだった。尋常ではない龍麻の態度に眉をひそめ、ただ縋り付かれたままの格好で相手の名を呼んだ。
「 龍麻。何だというんだ、お前は」
「 天童…良かった、いてくれて…」
「 あ? 何だそれは」
依然訳が分からないという様子の九角に、しかし龍麻は顔をあげることもせずに、ただぎゅっと抱きついたままだった。
「 俺…お前のことすごく好きなんだ…」
そして、いきなり告白していた。
自分でも訳が分からなかったが、気づいたらそんな言葉が口をついて出ていた。
九角がどんな顔をしてその自分の言葉を聞いたのか龍麻には分からなかったが、怖くて離れることができず、だからもう一度言った。
「 好きなんだ…。俺、天童がいないと駄目みたい…」
九角のがっしりとした身体に顔を擦り付けたまま、龍麻は何だか泣き出しそうな自分を必死に抑えながら尚も続けた。
「 よく分からないけど…分かんないけど、でも俺は今のお前がすごく好きで…。だから、お前がどっか行ってしまったらどうしようって…すごく不安で」
「 ………おい」
九角が何かを言おうとしていた。何も言ってほしくなくて、龍麻は焦ったように言葉を出し続けていた。
「 俺、お前が何だって、もうそんな事どうだっていいんだ…っ! だから、俺…俺…っ!」
「 おい、離れろ」
九角がきっぱりと言った。龍麻は胸を鋭利なナイフで衝かれたような感覚に陥ったが、それでも必死だった。
「 ……嫌だ……」
「 嫌だじゃねえよ。離れろと言っているんだ」
「 やだ…! やだよ、俺、お前から離れたくない…っ!」
「 龍麻。俺の言う事がきけないのか」
凛とした声で言われて、龍麻はびくりとなり、おずおずと九角から少しだけ距離を取った。九角の顔をまともに見ることができなくて、俯いたままぎゅっと唇をかんだ。
拒絶されている。そう思った。
けれど、刹那。
「 そんな事は知っている。いちいち言ってんじゃねえ」
「 え…?」
驚いて弾かれたように顔を上げると、九角はいつもの悠然とした態度のまま、龍麻のことを見下ろしていた。
「 ったく、間抜けな面しやがって…」
九角はそう言った後、龍麻をあやすように、子供にやるそれのような仕草で髪の毛をぐしゃりとかき回した。
「 わ…っ、ちょ、天童…!」
「 くだらなねえ事で屋敷ン中を土足で上がりこみやがって。ガキか、てめえは」
「 な、何だよ、そんな風に言わなくたって…!」
こっちは散々心配して、こんなに胸が苦しくて。
こんなに…安心しているのに。
今、目の前に九角がいることを。
「 ……ち。今度は泣き出しやがった」
九角は不意にぽろぽろと涙を落とし始めた龍麻を呆れたように見やってから、ふうとため息をついて、そのまま龍麻のことを片手でぐいと引き寄せ強く抱きしめた。
「 まったく、お前と一緒にいるとペースが乱れる」
「 嘘だ…全然、平然としているくせに…」
龍麻はそう言った後、嗚咽をもらしながら九角に再びしがみついた。
その夜は、ひどく強い風が吹いていた。
龍麻がふと目覚めた時、周囲の暗さに目が慣れるまでに時間がかかったが、激しい風が辺りのものを飛ばし、戸を激しく叩く音はやけに耳についた。
「 天童…?」
先刻まで傍にいてくれたはずの九角はいなくなっていた。
子供のように泣きじゃくってしまった龍麻を九角はバカにしたように笑っていたが、それでも龍麻が落ち着き、休む事ができるまでは傍にいてくれ、髪を撫でてくれた。
あんなに優しい九角は初めてだった。
「 天童…」
もう一度呼んだ。返事はない。ただ風の音が響いていて。
龍麻は立ち上がり、襖を開いて庭へと続く渡り廊下へと出た。
轟々と吹きすさぶ風に髪の毛や衣服を乱しながら、龍麻は九角を探した。
今夜は月も出ていないのか、庭の池につく小さな明かりしか光らしきものはない。自然、歩く足も危うげなものになった。
びゅっ。
その時、切り裂く風が龍麻の横を通り過ぎ、そうして不意に風がぴたりと止んだ。
「 あ…?」
不自然だ。そう思った。しんとした冷たい空気の中、龍麻は何かに誘われるように、裸足のまま庭に降りていた。
「 天童……」
そして、庭の中央に立ち尽くす九角を目にして、声をかけた。
先ほどまで気づかなかったが、九角は龍麻のすぐ傍にいた。
いつもの刀を手にしたまま龍麻に背を向け立っている九角は、しかし明らかに様子がおかしかった。
そして、龍麻の声に反応して振り返った時―。
「 あ……」
彼の眼は、人間のそれではなかった。
「 天―」
「 緋勇龍麻か……」
目の前の鬼は――そう言った。
未だ姿は間違いなく九角天童のものであった。しかし、その瞳が。全身を包む氣が。
間違いなく、それはあの時の九角のものであった。復讐、憎悪、野心。それら全てが融合したかのような、陰に包まれた氣を持つ男。そして自分という人間を、緋勇龍麻という人間を認識している――。
宿敵。
「 こんな月の見えない夜はな…」
その九角は、また不意に龍麻に背を向けて言った。
「 風が俺を呼ぶ。そして《力》を…求める」
「 天童…」
「 緋勇よ、俺に勝ったなどと思うな。俺は直にまたお前の前に姿を現す。 完全な俺となってな―」
そう言った瞬間、天童の氣が激しく揺れた。相反する2つの力が一つの身体の中で強くぶつかり合い、消しあっているかのように龍麻には見えた。九角自身はその場に依然確りと立ち尽くしていたのだが。
そして九角は刀を一度振るうと、もう一度龍麻の方を見た。はっとする。
額から血が…流れていた。
「 おのれ……。貴様はどこまで…この俺の邪魔をするのか…!」
「 天童……?」
爛々と光るその眼に、龍麻は圧倒された。そして同時に。
惹かれていた。
「 天―」
しかし。
「 貴様を…俺は必ず殺す……」
鬼は言った。
龍麻はただその眼に射貫かれ、動けなかった。
その瞬間、 風が再び激しく吹き荒んだ。そうして龍麻の横をもの凄いスピードで通り抜けると、その「氣」も消えた。
辺りに、静寂の夜が帰ってきた。
「 て…天童…!」
風が止んだ途端、我に返った龍麻は未だ立ち尽くしたままの九角の元へ駆け寄り、その両腕を揺すった。
「 確りしろ、天童!」
「 ……龍麻」
九角はしばらくしてからようやく我を取り戻したようになり、必死に自分を呼ぶ龍麻を見やった。
「 天童…」
心細い声を出してはいけないと思いつつ、龍麻はまた泣き出しそうな自分を必死に堪えてただ相手を呼んだ。すると、九角の指がすっと伸びてきて、いつの間にか泣いていた龍麻の頬に当てられてきた。
「 あ……」
「 またか…。よく泣く奴だ…」
ぐいと乱暴に涙が拭われる。すると龍麻の瞳からは新たな涙がどっと溢れてきた。
「 ちが…だって、天童が……」
全然俺を見ていなかったから、と言おうとして、けれど龍麻は黙りこくった。
「あの」九角とて、天童であることに変わりはない。
自分を憎み、蔑み、緋勇龍麻という男は自分と戦う相手でしかないと見ている九角天童もまた、自分が愛してしまった天童なのだ。
「 龍麻。鬼の俺でも、お前は俺を愛するのか」
九角が訊いた。龍麻ははっとして、九角を見た。
「 違う、天童は鬼なんかじゃ…」
しかし、
言いかけて龍麻はその言葉を飲み込んだ。
違う事を口にする。
「 天童が鬼だって何だって関係ない。俺はお前が何だって、お前のこと…愛してる」
「 ………バカが」
九角はそう言ったが、しかし自分にすがりつく龍麻に顔を近づけると、そのまま唇を重ねた。龍麻は黙ってそれを受け入れた。そして口づけの後に言う。
「 天童、だから…だから、俺を置いてどっか行ったりしな…」
「 もう休め、龍麻」
しかし九角は龍麻に最後まで言わせずに、そう言った。
そうして龍麻から身体を離すと、闇の空に視線を向けた。
翌朝。九角は龍麻の前から姿を消していた。
「 ひーちゃん、開けろ」
有無を言わせないその声に、龍麻は仕方なく玄関のドアを開けた。
「 ……ひでェ面」
表に立ち尽くす親友は、龍麻の顔を見るなりそう言った。
「 飯買ってきてやったぞ。…身体に悪そうなコンビニ弁当だけど」
「 ……ありがとう」
「 美里も来るってきかなかったんだけどさ。 へへ…醍醐と小蒔が捨て身で取り押さえた。あいつ来るとややこしくなりそうだしさ」
「 ……京一、何だか最近生傷増えたね」
「 へっ! こんなもん、何ともねェよ!」
京一は強がるようにそう言って笑ったが、龍麻は一緒に笑おうとして失敗してしまった。
龍麻が学校を休んで、一週間ばかりが過ぎていた。
学校には熱があると連絡していた。実際、それに嘘はなかった。九角が龍麻の前から何の前触れもなく消えたあの日から、龍麻の身体は思うように言うことをきかなくなっていた。熱くて、寒くて、吐き気がした。眠りたいのに眠れない夜が続き、空腹なのに、何も食べたくない日が続いた。
九角の屋敷にも入れてはもらえなかった。
「 天童様がお帰りになられましたら、こちらからご連絡さしあげますから」
使用人の若い女性が申し訳なさそうに言うのを、遠くで聞いた。
( どうして…急に、消えるんだよ)
何度問い掛けても、それに答えてくれる人はいない。
最後の夜に見た、あの赤い眼を思い出す。殺気だった、憎悪に震える眼。
そして、哀しい鼓動。
( 天童……)
ただ唱えるのは一人の名前だけだった。
そうこうしているうちに、身体が動かなくなった。
「 なあ、ひーちゃん」
自分で買ってきた食べ物に手をつけながら、京一が呼んだ。
「 俺はよ、ひーちゃんが今まで何やってたのかとか、訊いてねェよな。ひーちゃんも言わなかった」
「 ………」
「 俺は別にそれでいいと思ってた。 いつかひーちゃんから話してくれるだろうと思ったし、何より…最近のひーちゃんはすげー楽しそうだったからな」
「 うん……」
何故だか京一の顔がまともに見られなくて、龍麻は膝を抱えたまま俯いた。
京一は構わず続けた。
「 俺はよ、ひーちゃんに彼女ができたんじゃねえかと思ってたんだ。
…そういう面してたから」
「 うん……」
「 でも、今は何だか…よ。失恋したにしたって、ひでェ状態じゃねえか」
「 うん……」
「 お前、うんしか言えねェのか?」
「 京一はさ…誰かを好きになったこと、ある?」
「 ん……」
俯いたままだが、龍麻の口調ははっきりしていた。京一は黙りこんだ。
「 俺は、初めてだった。 こんなに好きになった人はいないよ。それこそ…自分より大事だ」
「 ………」
京一がじっと聞いていてくれたので、龍麻は堰を切ったように口を動かした。
「 その人はさ、すごく冷たいんだ。俺のこといつもバカにしてさ。同じ年なのに、俺より全然大人ぶっていて、自分だけが何でも分かっているような顔してさ。むかつくんだけど、だけどそういうところも好きでさ。本当は優しいし。それに何より、あの強さに…俺は惹かれていたんだ」
「 強さ?」
京一が怪訝な顔をしたが、龍麻はそれには答えなかった。
「 でも俺は…あいつの表面しか見てなくて…あいつの事全部分かって好きだって思っているわけじゃなかった。あいつの苦しみなんか全然分かってなくて、ただ一人ではしゃいでたんだ。今はそんな自分にむかついてしょうがない」
『 お前のように…ムカつくほど白い奴にはな…俺のことは分からねえよ』
ああ天童、そういうことだったんだね。
今になって、あの時の九角の言葉がひどく胸にくる。
「 ………ひーちゃん」
「 なあ、京一。 お前、人間には表と裏の顔があるっていうの、信じるか?」
「 あ…? 何だそれ」
「 美里が言ったんだ。人には陽の部分と陰の部分があるって。俺はその人の…陽の部分しか見ていなかった」
「 ……ああ、まあ。美里なんかを見るとそういうの分かりやすいか」
京一がつぶやくように言った声は、龍麻には届かなかった。
「 俺、自分のことそういう風に考えたことなかったからよく分からないけど…たとえば、あの人と一緒にいられるのなら、何にもいらないとか…全部を壊しても、全部を捨ててもいいとかって思うこの気持ちは…俺の陰の心なのかな?」
「 ………?」
京一が不快な顔をしながら無言で問い返してきたことに、龍麻は気づいていた。ようやく顔をあげて、泣き出しそうな瞳のまま、親友に向かった。
「 きっと今の俺は…あの人のためなら、京一や美里や…みんなを裏切っても、あの人を取るよ」
「 ………」
「 そうはっきり言える自分が……何だか怖い」
「 ………バカだな、ひーちゃん」
京一がようやく声を出した。
驚いて改めて京一を見ると、今まで多くの試練を共にしてきた相棒はひどく穏やかな優しい笑みを向けていた。
「 ひーちゃん。人間に表も裏もあったもんじゃねえよ。ひーちゃんはひーちゃんだ。それ以外に何があるよ?」
「 ………」
「 なあ、ひーちゃん。もしさ、ひーちゃんがそいつのことすげえ好きで、そいつのために何でもやれるっていうなら、やってやればいいんじゃねえのか? それで俺のことや他の奴に対して多少キツイことになったとしてもよ。俺は構わねえよ。だってよ、俺とひーちゃんは相棒だからな」
「 京一」
「 ひーちゃんがどんな事しようが、俺は許せるぜ? そんくらい、俺はひーちゃんのこと信じているってこったな」
「 ……ごめん、ごめん、京一…ッ」
「 ばーか、そういう時はな、礼を言うもんだぜ」
京一は思いっきりの笑顔を見せてから、「
まあ、俺はともかく美里は悲惨かもなあ」などと言って苦笑した。
そして、京一が「それより、飯ちゃんと食えよ!」と促した時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
「 ん…? 誰だ? 美里が来ちまったかな?」
京一が苦い顔をしながら立ち上がり、龍麻を制して自分が玄関に向かった。
ガチャリとドアを開ける。と、同時に、驚いた京一の声が聞こえた。
「 何だ、何だ? 珍しいな、お前。どうした?」
「 龍麻は?」
綺麗な透き通った声。
京一が「中にいるけどよ…」と言いかけた時には、その人物はもう許可もなく部屋の中に入ってきたようだった。
「 おいおい、どうしたんだよ、そんな怖い顔してよ」
「 龍麻」
背後から慌てたように言う京一の声を無視してやってきた人物は、居間に座り込む龍麻を厳しい眼で見下ろした。
それから、手にしていた長細い布地に包まれた物を龍麻に向けてすっと差し出した。恐らくは刀剣だろう。しかも相当の力の持ち主が持っていたものに違いなかった。
内側からひどく迫力のある氣が発せられているのが分かった。
「 おい、一体どうしたんだよ、如月!」
京一が龍麻の前に立ちはだかるようにして、半ば怒鳴るように相手に言った。
呼ばれた方―如月翡翠―は、依然厳しい眼のまま龍麻のことを見据えていた。しかし不意に京一の方を見ると素っ気なく言った。
「 悪いが、蓬莱寺。席を外してくれないか。龍麻と2人で話したいことがあるんでね」
「 はあ? おい、一体何が―。 大体、その刀は何だよ?」
しかし京一のその質問に、如月は答えなかった。
ただ龍麻のことを見つめ、龍麻もそんな如月を見つめるだけだった。
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