(7)



  あれはいつの事だったか。
  誰かが實とこちらを見やっているのが分かった。
  見られるのは好きじゃない。不快な気持ちだった。


「 お前は誰だ」
  殺気をこめた声で訊いてやった。すると見えない相手は闇の中に潜んだまま言った。
「 俺は……鬼」
「 鬼?」
  聞き返すと、その「鬼」はこうも言った。
「 俺は……お前だ」
  闇の声はそれだけを言うと、また實と黙りこんでこちらを見据えてきた。それは陰湿で汚らわしくて甚だ不愉快な氣が篭ったそれではあったが、それでも内からくる《力》には興味を覚えた。
  だから嘲って話をしてやった。
「 ほう。お前は俺か。すると、俺は鬼か」
「 そうだ」
  鬼はすぐにそう答えた。
  その声に、益々可笑しい気分になった。
「 では、鬼。いや、九角天童と呼んでも良いのだな。お前はお前を見て何をしている」
「 お前に足りぬものを考えている」
  鬼は至って真面目にそう答えた。
「 足りぬものか…。それは?」
「 ……それはお前が知っている」
「 ああ? 俺がその答えを知っているというのか? おい、お前は俺でもあるわけだろうが。だったら、俺がその答えを知っているなら、お前もその答えを知っているはずだよな」
  何故こんな得体の知れぬ者と真剣に話をしているのか、九角は自分でややおかしな気分に捕らわれながらも、何故か意識を逸らすことができなかった。
「 お前は直に俺の《力》が欲しくなる」
  鬼は言った。
「 そして…俺もまた、お前の《力》が必要になる」
「 言っている意味が分からねェな」
  九角が冷たく言うと、鬼はここでいきなりせせら笑った。冷たく、陰惨な声…いや、音だった。
  辺りには誰もいない。
  その鬼の声を聞く者は、九角唯一人だった。
「 お前は憎いだろう。徳川が。この東京が。そして、誰よりも欲しているはずだ。菩薩眼の娘を」
  コイツは何を言い出すのだろう。九角はいやに静かな思考の中で、正体の知れぬ相手の声に耳を貸し続けた。
「 邪魔な者はことごとく消してゆかねばならん。己の野心を邪魔する者は力でねじ伏せてゆこうではないか」
  いやに熱のこもった声で鬼は言った。
  しかしそれとは逆に、九角は急激に冷めていった。
  何だ、コイツは自分のことを俺自身と言っているが、それでは俺はそんな事を考えているのか?
  九角はぼんやりとそんな事を思う。
  野心。復讐。一族の悲願。

  そんなものには興味がないと思っていたが。

「 違う。それはお前の本心ではない」
  鬼はより一層熱心な言葉でその九角の考えを否定した。
「 お前は誰よりも《力》を欲している。この街を、この世を支配するだけの力をだ。その為には、菩薩眼の娘を探し出し、邪魔な者どもを封殺し、滅ぼさなねばならない」
  そんな事を俺は考えていたのか。
「 《力》の下には多くの人間が跪くだろう。同じ力ある者が、美しい者が、そして財のある者が。皆媚びへつらい、お前に頭を垂れる。お前はこの世の支配者たる器なのだ」
  くだらない。
  俺はそんなものはどうでもいい。
  九角はまたそう思う。
  一族の悲願か。確かに九角の当主としてやらなければならない事というのはあるのだろう。とりあえず菩薩眼の娘を探すのもいいだろう。やってみてもいいとは思う。選ばれた娘とやらがどんな人間なのか興味もあった。
  しかし、自分は何百年も前から生きている人間ではない。復讐だの悲願だのを押し付けられても正直困る。うっとおしいだけだ。
  そんな事は俺とは関係ない。
  だが、鬼である俺はそんな考えは駄目だとしきりに説く。
  ああ、そうか。
  九角は思う。
  コイツは邪悪には違いないが、俺にはない物がある。 《力》を求める純粋な気持ち。純粋などとは笑ってしまうが、しかしコイツは真剣なのだなと九角は思った。
  それが例え陰にまみれたものであっても。

  コイツには、執着するモノがあるのか。

「 そいつは…俺にはねェな」
  九角は独りつぶやいて笑った。
  何かを欲する気持ち。何かを奪おうという気持ち。そんな気持ちを抱いたことは一度もない。だから一族の運命だか何だかは分からないが、その宿星に流されるまま、動いてやるのも良いかと思った。
「 お前は…俺か」
「 そうだ」
  鬼は心なしか嬉しそうに言った。九角が自分のことを受け入れようとしている。それを察して、嬉々とした音を発した。気味の悪い、濁った声だった。
「 お前はこの街で……鬼となるのだ」
「 それが宿命…か」
  それならば、鬼となってみるか。
  俺には、何もないのだから。





  九角が次に目覚めた時。
  辺りはまたしても闇の中だった。つくずく明るい場所には出られないタチなのだろうと九角は半ば自身に呆れてため息をついた。
  一体、どのくらい眠っていたのだろうか。
  おかしな事にまるで記憶がない。しかし、刻が経っているのは分かった。桜に見送られて屋敷を出たあの時とは季節が違う。辺りの景色を見れば分かる。
  暗闇の中、轟々と吹きすさぶ風が葉を落とした木々の間をぬって九角の身体を揺さぶっていた。
  しばらくその場にじっとしていたが、ふと地についていた手の感触に違和を感じて、そっと手のひらを覗いた。暗い中で、ぼうと浮かび上がった赤黒い血を九角は黙って見つめた。

  どうやら、俺の血らしい。

  気づくと、手のひらだけではない。制服にはべったりと血糊がついており、どうやら自分は胸から腹から血を流しているようだった。
「 ……何だ」
  恐ろしく冷静な声で九角はつぶやいた。
  斬られたのか、突かれたのか、裂かれたのか。
  いずれにしても、誰かに攻撃されたことは間違いない。まともに生きてきたとは言い難いから、誰かに狙われたのだろうが、それにしても闇討ちをくらって今まで寝ぼけていたとは随分間抜けな話ではある。
  ゆっくりと立ち上がってみる。多少の目眩を感じた。
「 おいおい、どうしようもねェ最期だな……」
  誰につぶやくでもなく、九角は言ってから苦笑した。
  しかし、その刹那―。

  九角――。

  誰かが呼んだ。聴覚にではなく、脳に直接響く感じである。
「 ………?」
  ふらつく足で辺りを見回したが、誰もいない。しかし声は尚も自分を呼んだ。ひどく悲痛な声で。

  どうして。何故、お前は―。

「 誰だ、お前…?」
  耳障りな声だった。以前にも不快な声を発する奴と出会ったが(しかもそいつは俺で鬼だと言っていたが)、この声はまた別の意味で気色が悪かった。
  慈悲の篭った、「白い」声だ――。

  九角―。
  どうして、鬼にまでなる―。
  どうして?

「 煩ェ…何だってんだ……?」
  声はひどく哀しそうだった。そして、同時にとても強い《力》を発していて―。
「 ……っ!?」
  一瞬だけ。
  その声の主の姿がぼやけて見えた…気がした。
「 …………?」
  さらりとした黒髪が風になびいている。前髪が長いせいで顔がはっきりとは見えない。
  けれど――。

  眩しい。
  そして、その人間の足元には。
  鬼が――。
「 あれは……?」

  俺、か――?

  しかし九角はその後、また記憶が飛んだ。





  あれから、「鬼」を探している。
  あれが夢や幻想でないのなら、鬼は何者かによって倒されていた。そして消えていった。だから鬼はもういないのかもしれない。そう思った時期もあった。
  しかし鬼は俺自身だと言っていた。ならば奴の真の魂はまだここに――この九角天童の中に在るのではないか、そうも思う。奴の気持ちが自分の中に棲んでいる限り、「あれ」は何度滅ぼされても何度でも生まれ変わり、そうして自分に囁きかけるのではないだろうか。結局、九角天童というこの呪われた実体を滅ぼさない限り、奴を殺すことはできないのではないか。
  実際にあの「 鬼 」というものが実体を持ち得るものなのか、それとも自らの願望が生み出した産物なのかは、九角にもよく分かっていない。
  だが、鬼は確かに「あの時期」自分の中に存在して、この街で「何か」を企み、そして何らかの事をしたのだろうと思う。だからあの「白き者」に滅ぼされた。
  そして、そんな鬼と共に滅びるはずだった自分をこちらの世界に呼び戻したのは、それが自分の本意ではなかったにしろ何にしろ――あの黒髪の人間だったのではないかと九角は思う。

『 お前は《力》が欲しくはないか』

  あの時鬼はそう訊いた。他にも何だかくだらない事をごちゃごちゃ言っていたような気がするが、実際馬鹿馬鹿しいと思っていたからあまり真剣には聞かなかった。
  だが。
  力には興味があった。

『 お前は《力》が――』

「 ああ、欲しいさ」
  九角は独りごちる。
「 俺は、鬼―お前に勝てるだけの力が、な……」
  己に勝てるだけの力が。





「 天童。俺、お前のこと好きなんだ…」
  あの間抜け面はそう言って、自分の胸で泣いていた。
「 俺、お前がいないと駄目みたい」
  いつもは馬鹿みたいに拳を振るったり、甘い物をほうぼったりして子供のような奴なのに。
「 天童が鬼だって何だって…俺はお前のこと…愛してる」
  本当に馬鹿なんだろうと思った。
  愛しているってのは何だ。
  お前は一体俺の何を知ってそんな事を言うんだ。
  腹が立った。 自分にはないものを持ち、いつも笑っている。あれには苦しみとか辛さとかそんなものは「憑」かない。そういう人間なのだと思う。
  俺が陰なら、あいつは陽だ。
  正反対なのだ、何もかも。
  それなのに、あの男は…。
「 俺を置いてどっか行ったりしないって……」
  ふざけるなと思った。
  いつもいつも。
  お前の背中を見ているのは俺なのだ、と九角は思った。
  あいつが…緋勇龍麻が憎い、とその時心から思った。

  その夜、鬼が来た。

  そしてその瞬間、まるで走馬灯のように一瞬にして記憶が蘇った。

『 九角、どうしてお前は――』

  龍麻が自分に何事が訴えていた。しかし自分は正に悪鬼の如く笑い、そして不敵に《力》を奮って龍麻と戦っていた。
  思い出した――。
  ああ、あの時のアイツか。

『 お前を許さない。お前は俺が殺す』

  そうか。鬼の俺を倒したのはお前か。

「 それなのに、お前は」

  鬼の俺でも、お前は俺を愛するのか。

『 俺はお前を…愛してる』 
  馬鹿げている。そう思うと益々おかしくなった。
  そして余計に龍麻のことを憎く思った。

  それなのに、鬼は決着をつけぬままに、消えた。





「 九角か…?」
  消えた鬼を探すために、また龍麻から離れるために、九角は屋敷を離れた。あの夜以来、今までのことを九角は徐々にではあるが思い出してきていた。そうしてその記憶を辿るように、九角は東京のあちこちを彷徨った。
  その時、ある男に遭った。
「 お前が…何故…?」
  男は自分を見て大層驚いたような…否、表情にはそれを出さないようにしているのだが、明らかに動揺したような氣を向けてきていた。
  その氣には覚えがあった。
「 ………」
  黙ってその男を見据えていると、相手はじり、と間合いを取ってから警戒しつつ声を発した。
「 やはりあの邪気は貴様のものか」
「 邪気…」
  ああ、鬼の俺もまた彷徨っているのだなと九角は思った。鬼を追っているということは、この男はあの時鬼の俺を倒したあの場所にいた人間か。九角は思い、すっと手にしていた剣をその男に向けて差し出した。
「 ………?」
「 これを…龍麻に」
「 何?」
  男は怪訝な顔をしつつも、 しかし九角の有無を言わせぬその態度に押されるように黙って剣を受け取った。それでも男は怯まず九角を見据えており、九角もまた男を見やった。
  ああ、この男は何やら俺のことをひどく敵視しているようだ。九角は冷静にそう思ったが、また同時にこうも思った。
  この男は、けれども間違いなく龍麻に剣を渡すだろう、と。

  龍麻。

『 俺を置いてどっかへ行ったりしないって――』


「 俺はもとから―お前の傍になんかいなかった」
  九角は独りつぶやいて、暗い空を見上げた。



To be continued…



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