(8)
「 龍麻」
顔を上げると、そこには美里が笑って立っていた。
「 美里…何でここに?」
「 何となく。貴方がここにいるような気がしたの」
美里はそう言って、龍麻が腰を下ろしている石階段の横まで行くと、自分もゆっくりとその隣に腰掛けた。
「 龍麻の家の近くに、こんな神社があるなんて知らなかった」
「 うん」
「 京一君たちがね。貴方のことはしばらく放っておいておこうって。小蒔も醍醐君も、だから本当は心配なはずなのに、じっと我慢しているわ」
「 ごめん」
「 いいの。だって私は我慢してないもの。こうやって貴方に会いにきたでしょう?」
相変わらずの慈悲深い笑みでもって、美里はそう言うと龍麻から視線を逸らせた。
ここ最近ぐずついた天気が続いていたが、この日は珍しく晴天だった。まだまだ肌寒い季節には違いないが、明るい日差しの下で美里はどことなく眩しそうに目を細めると気持ち良さそうに腕を伸ばした。
「 ねえ、龍麻。貴方、運命の赤い糸って信じる?」
「 運命の…?」
龍麻が美里の方を何気なく見やると、美里はにっこりと笑んで頷いた。
「 この間ね、マリィに訊かれたの。『赤い糸ってなあに?』って。龍麻はもちろん知っているわよね」
「 そりゃ…」
「 私はね、そういうものは信じないの」
龍麻の言葉をかき消すようにして美里は言った。そのいやにきっぱりとした物言いに、龍麻は驚いて口をつぐんだ。
「 小さい頃は素敵だなって思ってた。自分の小指に見えない赤い糸が結ばれていて、いつか出会う愛する人とそれは繋がっているなんて…。何だか訳もなく嬉しかったわ」
「 …………」
「 でも、もし自分が好きだと思った人とその糸が結ばれていなかったら? その人は運命の相手じゃないからって諦めなければならないのかしら。その人を好きになっても、幸せにはなれないからって、その人への気持ちが冷めてしまうわけじゃないでしょう」
「 うん……」
「 それに、たとえ好きになった人が自分のことを見てくれていないって分かっていたとしても…」
美里は龍麻のことをじっと見つめてから、また美しく微笑した。
「 私はね、絶対にその人のことを好きでい続けたいって思うの。だって私自身がそれを望んでいるんだもの。運命なんか関係ないわ」
「 運命……」
龍麻は美里に言うでもなく、言われた言葉を繰り返した。
九角と自分は、戦う運命にあった。
宿命だった。
あいつは敵。倒さなければならない相手。
でも。
「 そんなの関係ないよな……」
龍麻は階下の方を何となく見やりながら独りごちた。
「 …好きになっちゃったんだ。絶対だめだって分かっているけど。好きになっちゃったんだから、もう俺は……その気持ちを消すことなんかできないよ」
「 ……龍麻」
「 美里。俺は―」
「 いいの。言わないで」
美里は龍麻を制してから、相変わらず淡々とした態度でにっこりと笑った。
「 私、貴方のことなら何でも分かるつもり。だから何にも言わなくていいのよ。ただ……私はいつも貴方の傍にいるから」
美里は言ってから、龍麻の長い前髪にそっと触れ、相手の瞳を覗きこむようにしてからこの上なく綺麗に笑んだ。
「 だからもし本当に辛くなったら私のところに来て。私、待っているから」
「 美里……」
この時、龍麻は初めて美里の自分への気持ちに気がついた。
いつも一緒にいて、いつも傍で優しく微笑んでくれて。彼女は確かに自分にとってかけがえのない存在だった。それは痛いほど認識していた。しかも母と同じ菩薩眼の宿命を背負った女性ということで、他の仲間たちよりも自分に近いような感覚を持っていたことも事実だった。運命の相手というならば、彼女ほど自分にふさわしい人間もいないだろう。
けれど、龍麻はその運命の相手を愛することはなかった。
「 美里。ごめん……」
きっと謝ることは彼女を傷つけることになる。分かっていたのに、龍麻はそう発していた。美里は相変わらず笑んだまま首を横に振った。そして言った。
「 龍麻。あなた、今までで一番綺麗な顔をしているわ」
九角と別れてから、一体どれくらいの時間が流れたのだろう。
実際に一月とは経っていない。けれど、その時間が。独りで彼を待つ時間が、龍麻には一年にも十年にも感じられた。
風が強い日には九角とあの寺社で再会した時のことを思い出し、龍麻は自分のアパートを出てその場所へ向かった。もちろん九角に会えるのではないかと思ったからであるが、けれどその想いが叶うことはなかった。
しかし美里と話したその夜、龍麻は夢を見た。
最近あまり眠ることができなかったのに、何故かその夜はすっと意識が遠のいた。ベッドには入ってはいなかったものの、ソファに横たわったその身は、やはり疲れていたようだった。
その時である。
九角の夢を見たのは。
九角の眼は赤黒く、殺気に満ちた光を放っていた。
怒り。憎しみ。そして、破壊への喜び。口の端をやや上げたその顔は、どことなく微笑んでいるようにも見えて、その表情がより一層九角の恐ろしさを誇張しているように見えた。
「 天童……」
夢の中で龍麻はその九角に声をかけた。しかし相手は龍麻のことは見えないのか、ただぎらついた眼をしたまま、辺りを窺っているようだった。
ここは何処なのだろう。
龍麻は九角のすぐ傍に立ち、はっきりとしない視界の中で周囲の様子を探ろうとした。分からない。薄暗く埃が宙を漂っているそこは、一種独特の空気を放ち、その世界には九角と自分しかいないのではないかという錯覚を龍麻に抱かせた。
しかし時間が経過すると、ふっとそこに景色が現れた。
小屋だ。
いや、廃墟…と言った方がいいのだろうか。小屋の原型は最早とどめていない。屋根は崩れ落ち、細い枝を組み合わせてできたような粗末な壁は半分以上腐ってなくなっていた。中は丸見えである。
その、元は小屋だったのだろう屋内も、見るべきものは何もない。
以前はあったのだろうか、囲炉裏の跡のような穴とぼろぼろの畳。 あとは鍋だとか服の切れ端だとか、藁だとか…特に気にとめる必要もないものが散乱していた。
九角はその小屋に入ると、うろうろと歩いた後、ふうっと大きく息を吸った。何かを探しているようだった。龍麻はその九角の後を追い、それからはっとして足を止めた。
急に「それ」は出て来た。
今までは認識していなかった。しかし龍麻がその崩れた小屋に一歩足を踏み入れた途端、「それ」は不意に知覚されたのだ。
無数の人の骸。
「 こ…れは……」
思わず手を口に当てて、龍麻は絶句した。どの死体もどくどくとした血を流し、いやにリアルにそれだけが赤い色となって龍麻の視覚を刺激した。そして龍麻はその時初めて、その血以外のすべてのものが無彩色であることに気がついた。
龍麻はそんな白と黒の色調しか持たない九角の広い背中を眺めた。九角が手にかけた人なのだろうか。分からない。九角は足元のそれら人々の死体を目にしているようだったが、彼が今一体どのような顔をしているのか、龍麻は怖くて確かめることができなかった。
その時、戸口の方から不意に人が現れた。
「 キャーッ!」
と、同時に、その人間が叫ぶ声が龍麻の耳に届いた。
女だった。知らない顔だ。と言っても、その顔も姿もはっきりとは見えない。夢だからだろうか、などと龍麻はぼんやりとそんな事を思った。
それでもその誰か分からない「女」は、小屋の中にある無数の死体を見て悲鳴をあげていた。そしてその場に立ち尽くす悪鬼―九角―を見て、明らかに怯えたようだった。しかし恐怖のためか女は動かない。ただ目を剥いて、九角を見ているようだった。
「 ヒ………」
九角が微かに声を漏らした。笑声だろうか。よく分からない。しかし、急にぐるんと女の方へ目をやった九角の横顔がすぐ傍にいた龍麻にははっきりと見えた。
殺意に燃える眼。
「 天―」
しかし龍麻は声を出すことができなかった。
あまりにも恐ろしいその形相に。
女と同じように立ちすくんでしまった。
「 あ…ぁ……」
女は声にならない声をぱくぱくと開いた口から漏らした。しかし、ゆっくりと自分の方に近づいてくる九角を前に逃げることはできないようだった。
九角はそんな女の前にまで来ると、にたりと笑ってから更に緩慢な動作で右手をゆらりと挙げた。
殺される、と思った。
やめてくれ。
しかし、声が出なかった。
ぐしゃり。
女の顔が、鬼となった九角の手によって簡単に潰されるのを龍麻は目の当たりにした。
「 ………っ」
死体は見慣れている。ましてやこれは夢だ。現実ではない。
しかし、そう自分に言い聞かせる龍麻の胸の動悸は激しくなり、ただ九角から目を離せずにいた。
「 ク……ククククク…………」
九角は笑っていた。
そうして、またゆっくりとした動作で潰れた女の頭をなぎ払うように地に捨てると、本当に龍麻の存在には気づいていないのだろうか、のろのろとした足取りのまま、小屋の外に出た。
龍麻はただ流されるようにそんな九角の後を追った。
「 あ………」
するとその鬼の九角の前方に、人影があった。
男。
「 天童……」
九角だった。
「 天童…っ!」
龍麻はそちらの九角に呼びかけたが、やはり向こうは龍麻には気づかないようだった。
九角はただ鬼であるもう独りの自分に視線をやっており、それが自分の元によろよろと歩み寄ってくる様を黙って眺めていた。
「 殺シテヤッタゾ………」
やがて鬼の方の九角がそう言った。
「 お前ガヤラヌカラ……俺ガ殺ッテヤッタ」
「 ………」
聞き取りにくい声だ。龍麻がそう思って眉をひそめた瞬間、しかしその鬼は今度はやけにはっきりとした口調で言葉を出してきた。
「 せっかく与えてやったこの《力》…。せっかく貰い受けたこの《力》…。使わずして何とする。我らの悲願は未だ成就できていないというのに、お前は何をしているのだ」
「 悲願?」
ここでようやく人である天童の方が口を開いた。侮蔑するような目で、鬼の姿をした自分自身を見ている。
「 菩薩眼の娘を取り戻し、江戸の地を復讐の炎で焼き尽くすのだ。全てを破壊し、全てを始めるのだ。そのために、お前は俺を呼んだのだろう」
「 ……知らねェな」
九角はひどくつまらなそうに言った。目を細め、目の前の鬼をただ見据える。それから不意に手をかざすと、そこから何か禍々しい光を放出した。鬼は一瞬、その光に怯んだ。
「 な、何をする…っ!」
「 てめぇは…もう死んだんだろ? 何でまだいるんだよ……」
「 ……俺はお前だ。お前が死なぬ限り、俺は死なぬ。お前はそれを知っていて、今までこの俺を探していたではないか」
「 探していた」
「 それはお前がまだこの俺の《力》を欲している証拠。俺を必要としている証拠だ。だから俺は滅びぬ」
「 …………」
鬼は血に濡れた手を掲げながら、しゃがれた声を出した。
いつの間にか、鬼は鬼の姿になっていた。醜く、全身を赤い血で濡らしているかのような姿。剥き出しの目。尖った耳。鋭い牙。
人のものではない。
鬼は続けた。
「 お前はこの《力》を持って、世界を手に入れる男だ。あの男を憎め。お前から何もかもを奪った、あの男を!」
「 …………」
「 そして、 あの男はさらにお前を…! 何も持たないお前自身すら、今度は奪おうとしているのだッ!」
鬼は言った瞬間がばりと振り返って、龍麻のことを指差した。
「 ……っ!!」
「 緋勇龍麻――ッ! 貴様がッ! 貴様さえいなければッ!」
「 天……」
「 お前が憎いッ! 俺は! お前がッ!」
「 あ……あ………」
龍麻はただ呆然としてしまい、出すべき言葉を失った。
しかし、その刹那―。
「 龍麻」
天童が声を出した。龍麻を呼んだ。
その瞬間、龍麻は身体がすうっと楽になるのを感じた。
「 天童……」
呼ぶと、九角の方はやや淋しそうな顔をしてから笑った。
「 渡した剣…持っているな?」
龍麻が黙って頷くと九角は目だけでそれを良しとしてから続けた。決意に満ちた声だった。
「 龍麻。俺は今一度…今一度、鬼となる。鬼となって俺自身の全てに決着をつけたい。だからお前は……俺の元に来い」
「 てんど――」
「 俺と闘え」
龍麻は瞬間、目を覚ました。
かちこちと時計の針が動く音がする。
自分の部屋。ソファの上。
夢。
「 …………」
やはり今の光景は、さっきまでの事は夢だったのだ。
けれど。
「 あの声は…」
現実だと思った。
ふと、自分のすぐ傍にある刀剣に目がいった。九角の剣。高いのかと訊いたら、すごく嫌そうな顔をしていたっけ。何となくそんな事を思い出し、そうしてあれは一体いつのことだったのだろうと考える。何だかはるか昔の出来事のような気がする。
『 君がやるべきことなんだろう? 』
その時、如月の言葉が脳裏に浮かんだ。
「 ……………」
龍麻は九角の刀剣をその手に掴んだ。そうしてゆったりとした動作で立ち上がった。
九角を鬼にしたのは自分だ。
ならば九角が自分の中に何らかの結論を出す時、自分は彼の傍にいなくてはならない。
そう思った。
どこをどうやってその場所へたどり着いたのかは判らなかった。
「 待っていたぞ。……緋勇龍麻」
気がつくと、龍麻はあの竹藪の中にいた。鬼となった九角と最後に戦った場所。
九角はそこにいた。龍麻を待ち構えるようにして、その場に立っていた。そんな九角を前にしても、龍麻はひどく静かな気持ちだった。恐怖とか寂しさとか恋しさとか。すべての感情がどこかに閉じ込められてしまったかのようだった。そんな無感動な自分が龍麻は自分で信じられなかったが、
しかしそんな中で出た声は、やはり平然としたものだった。
「 夢で呼び出すなんてさ……。俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「 お前が来ないわけはない」
龍麻の言葉に九角はそう言って笑ってから、自信に満ちた眼を見せつけてきた。
「 俺が呼んだんだからな」
九角の周囲から激しい風が巻き起こった。その鋭い風圧はそのまま龍麻の髪を揺らした。
あの出会った時の衝撃そのままに、龍麻は九角と対面していた。
「 うん…。そうだね」
龍麻は素直にそう言ってから、剣を抜いた。九角は笑った。その笑いは、やがて先の柔らかい笑みから陰鬱な黒い笑いに変わっていった。眼が赤くなる。鬼の《力》が色濃く出たようだった。
「 クク……使えるのか、緋勇よ」
「 馬鹿にするな。剣くらい…お前よりも使える」
九角は龍麻のその台詞にまた笑ってから、ぎらついた眼光そのままに言い放った。
「 俺はお前を倒すことによって、今日ここに完全な存在となることができるのだ。分かるか緋勇。俺のこの喜びが。俺の……憎しみが――」
「 分からないよ」
しかし龍麻は微かに笑んで、そんな「九角」を見つめた。
「 そんなの分かりたくもないよ。俺はお前のこと……すごく好きなんだから…」
龍麻のその声を、九角は無機的な眼をしたまま聞いていた。
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