第111話 チビ

  貴様は誰だと闇の手が向かってきた時、龍麻は咄嗟に全身に力を込めた。

「ぐうぅっ……!?」

  闇が、紅の男が低く呻く。伸ばされた手がすうっと引き下がり、暗い影が退いたのが分かった。

「……っ」

  それでも目を開いた先、男の姿はまだそこにあった。紅蓮の髪。京一や天童の髪の毛も赤茶けた色をしているけれど、この男のそれとはまるで違う。男の色はまさに血の色だ。煌々と燃え盛り、今も一度は退いた手をぐっと握り締めながら、憎悪の瞳で龍麻を睨み据えている。

「ここは我の世界」

  男が言った。

「それも遥か過去の、今はなき刻の泉だ。生者の匂いがする貴様が入り込める場所ではない……」
「刻の泉……?」
「名乗れ。貴様は何者だ」

  男が不遜にそう尋ねた。龍麻は咄嗟に己の名を紡ごうと口を開きかけ――しかし、ぴたりと押し黙った。
  そして。

「お、お前が、先に名乗れ!!」
「………」
「訊いてきたお前が名乗れっ。でなきゃ俺は教えないっ」
「……我に命じるか。たかがヒトの分際で」
「そ…! そんなの、お前だって…!」

  同じ人間じゃないかと言いかけて、しかし龍麻は急激に苦しくなる呼吸に言葉を失った。
  辺りの闇が深くなる。と同時に、側でケタケタと笑っていた若き徳川王の姿もあやふやとなり、彼の人も今は悲嘆に暮れたように跪き、頭を抱えて項垂れている。
  王様も苦しいのだろうかと心配になり、龍麻の視線は思わずそちらへ移った。

「あんなものが気に掛かるか。あれの夢を渡ってきたのか」

  すると男がそれに気付いた風になって龍麻に訊いた。そして得心したように双眸を窄める。

「夢を渡れる種族がまだ生きていたとは不快な……。鳴瀧め……隠していたな」
「え……?」
「まあ良い。ならば今すぐ消すまでだ。あの時のように……造作もなく」

  男が再度揺らめいて龍麻の側に接近してきた。
  謎の男の攻撃!!

「はっ…!?」

  しかし驚きと恐怖で足の竦む龍麻に予想していた痛みは訪れない!
  龍麻は男からの攻撃にダメージを受けない!!

「何……?」

  男の更なる攻撃!!

「わあっ」

  龍麻は目を瞑った!!
  しかし龍麻はダメージを受けない!!

「貴様……! まさか、貴様は……!!」
「王様っ!!」

  男を振り切るようにして、龍麻は慌てて駆け出した。拍子、足をもつれさせ転んでしまったが、そのままごろごろと転がりながらもうずくまる徳川王の元へ近づき、必死に声を掛ける。

「出よう! こんな所から、もう出ましょう!?」
「……誰だ?」

  徳川王は両手で顔を覆ったまま龍麻を見ようとはしない。けれど、この闇の空間にあって明らか異質な龍麻の澄んだ声色にははっきりとした反応を見せた。

「俺、迎えに来ました! 翡翠に頼まれて!」
「飛水……? ああ、あいつか……。ふ……最早あれも、すっかり呆れて私を見放したさ……」
「え? あ!」

  みると徳川王の面影がまた少し変化した。徐々に成長を遂げている。そうして王は驚く龍麻のその目の前で、先刻の門前で見せたような憂い深き「現在」の王の姿へと変貌していった。
  その王が言った。

「あれは先代に頼まれたから仕方なく私のお守りをしていただけだ……。だが、あれの本来の使命は徳川を守る事ではない。何故なら、あれの本来の主は――」
「そんなこと! 今はどうでもいいじゃないですか、とにかく今はここから!」
「父上も! 良き王だ、善政を敷く賢王だなどと称されていたその裏で! 旧九角領での資源を己が糧とし、我が国の利益に還元していた! とんだ偽善者だ! 私はもう何も信じられない! あの国も! あそこに住まう全ての人々を!!」
「王様っ!!」

  龍麻の声は届かない。しかしそれも仕方のない事ではあった。龍麻がこの王と顔を合わせたのは今日が初めてなのだ。家族でもない、友人でもない相手の心をこちらへ向かせる事は難しい。ましてや今、この純粋無垢な王は過去の九角国崩壊の咎を感じ、己にも自国にも深く失望している。そんな彼に、昔の戦争について彼以上に知らない龍麻などが何かを言えようはずもない。
  如月ならきっと少しは違っていたのだろうけれど、その如月は龍麻にしかこの王は救えないなどと言う。

「翡翠、やっぱり、そんなの無理だよ……俺じゃ」

  誰か、誰かこの王の心の隙間を埋めてくれる誰かを呼ばなければ。王が心を向けてくれる誰か。
  誰がいる? 夢を渡ってきた中で、この短い間に龍麻が見てきた、自分以外の救える誰か。
  誰か、誰か。自分に出来る事は、きっとせいぜいがそれくらいだ。

「一度闇に堕ちたモノを救えるものか」

  紅の男がゆっくりと歩み寄りながらそう言って笑った。
  龍麻がぎっとした視線を向けて睨みつけても、男はびくともしない。ただ微か興味深そうな目をくゆらせ、王に寄り添う龍麻を見つめる。

「全てに絶望している。この男はもう死んだも同然だ」
「死んでない!」

  けれど龍麻は男に向かって怒鳴った。

「この人の夢……いや、過去か? どちらにしろ、あんただって見てきたなら分かるだろう!? 王様は、ただ自分の国が好きで……そこに生きる人たちが好きで……! 皆が幸せで、平和な暮らしをって願っていただけなのに!」
「それが愚かだと言うのだ。そんなものはただの夢幻に過ぎない……」
「そんなことない! 人の夢をバカにするな!!」

  一体お前は何なんだッ!
  龍麻の胸の中で言い様もない鬱屈がぐるぐると炎のように巡り巡った。
  悪くない。心が弱くなるのはちっとも悪い事じゃない。愛するからこそ、欲するからこそ人は時に弱くなる。そのせいでほんの少し道を逸れてしまったからって、一度絶望したからって。
  人間がすぐに死んだりするわけがない。
  助けられる方法があるはず。

「うぐぐ……ぐぐぐぐぐ……!!」

  石のように硬くなってしまっている王を無理矢理立たせようと両腕に力を込めながら、龍麻はただただどうにかせねばと思考を一杯にさせた。まるで接着剤でくっつけられたようだ。王はぴくとも動かない。

「フ……フハハハハ! 無駄だ! 貴様には何も出来まい!」
「う、煩い…! ふぐっ…ぐぐぐぐ!」
「何を持ってそこまで抗う? 貴様の血がそうさせるか……そうまでしてヒトを救いたいか」

  無駄だと再度冷酷に告げる男に、しかし龍麻は「煩い!」とすぐに怒鳴り返した。

「俺が誰も救えなくてもッ! 俺に何の力もなくてもッ! 俺は、絶対諦めない!」
「ぬぅ…!?」
「だってこの人は! まだ、死んだら駄目なんだッ!!」

  その時、不意に龍麻の全身から先刻男を退けたものと同じ白い光が無数の線となって放出し始めた!!
  男はその白い光に一瞬、後ずさる。
  その間、細く白い光は王の足元に一つ一つ丁寧に集まり、まるで上等の絹糸が一本一本何かを紡ぐようにある「個体」を象っていった。
  みるみるうちに、それは一匹の獣の姿となり、一つの命となる。

「あ……?」
「何だと……?」

  龍麻と男の声がほぼ同時に響いた。

《キュウゥン……?》

  目の前に現れたのは、金色にたなびく綺麗な毛並みを持つ子どもの獣……。
  それも普通の獣ではない。これは鋭い牙と爪を持つモンスター。

「お前は……あの時の、キラーパンサー?」

  龍麻が息を呑んだようになってその獣に目を見張ると、そのキラーパンサーの子どもは不思議そうに龍麻を見つめた後、やがて側にうずくまる王の姿を認めて甘えるような声をあげた。

「……チビ?」

  すると王の顔がゆっくりと上がった。獣の姿を見つけ、酷い驚きにその目が大きく見開かれる。

「チビ……? お前、チビなのか……?」
《グウ……クウゥーン……!》

  王の呼びかけにチビと呼ばれたそのキラーパンサーは嬉しそうに鳴いて身体を摺り寄せた。
  王の眼に生気が蘇る!!

「あ……」

  それで龍麻の心臓もどきんと早鐘を打った。脱出できる、そんな確信が頭を過ぎった。



  《現在の龍麻…Lv21/HP1/MP0/GOLD118050》


【つづく。】
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