第124話 先生の家

  ≪旅人の泉≫は今いる場所から別の場所へ瞬間的に移動できる不思議な回廊だが、それ故に人体に及ぶ衝撃も並大抵のものではないらしい。

「う……」

  再び気を失してしまった龍麻は、自分がどの位そうして意識を奪われていたのか分からなかった。
  ズキズキする頭を押さえながらも酷い焦燥感に駆られ、龍麻は慌てて身体を起こそうとした。

「痛っ…!」
「無理をするな。あの泉を通れば身体に余計な負担が掛かる」
「え…っ」

  上体は起こせたものの頭痛で目が眩んだ龍麻には、自分にそう声をかけてきた人物をすぐ認めることが出来なかった。
  しかし、聞き覚えのあるその落ち着いた低い声。
  無理に頭を振り、龍麻は再度目を開けた。

「犬神先生…?」

  龍麻のいるベッド脇に腰を下ろして煙管をくゆらせていたのは、徳川で、そしてもっと昔、故郷でも何度か顔を合わせていた父・鳴瀧の友人・犬神杜人だった。

「先生何で…、あ! マリィは!?」
「落ち着け、大丈夫だ。隣の部屋で休ませている」
「お、俺、行かなくちゃ…!」
「何処へ。その身体で遠出は出来まい」
「俺は何ともないんです! それより翡翠と御門が! 村、がッ、うわッ!」

  勢い余ってベッドから転がり落ちそうになった龍麻を、犬神が寸でのところで支える。その気だるそうな様子とは裏腹に片手だけで龍麻を悠々と押さえられる腕力。
  その犬神はひょいと龍麻をベッドへ戻し、ふっと小さなため息を漏らした。

「落ち着け。お前等がやってきた泉から何匹か紛れて後をつけてきた異形がいたから、何が起きたのかは大体想像がつく。鳴瀧め、俺への回廊は塞いでおくと言っていたくせに、まだ残していたとは…まんまと騙された。巻き込まれたこっちはとんだ迷惑だ」
「え…!? あの、先生――」
「まずは飲め」

  犬神がぐいと差し出してきたカップには、恐らく温かい飲み物が注がれているのだろう、龍麻の緊迫感とは対照的に白い湯気がほかほかと漂っていた。
  しかし龍麻は首を激しく振ってそれを拒絶した後、再度強い口調で訴えた。

「戻れますか!? 俺!」
「戻る? 何処へ」
「俺の村です! マリィもいたし、俺…2人を置いてきちゃったけどでも! やっぱり戻りたい! 戻らないと!」
「お前が行ったところで足手まといだろうよ。仲間もそれを見越してお前を逃がしたんだろう? なかなか見る目があるじゃないか」
「先生!」
「俺は別にお前の先生じゃない。確かに鳴瀧に頼まれて先生の真似事をした時期もあったが…お前は大して良い生徒じゃなかったし、実際、今だってこの俺にたてついているじゃないか。人の親切さえ受け取ろうとしない」

  手にしたカップを脇の棚に置いた後、犬神はそう言ってまたため息をついた。
  それでも龍麻は殊勝な態度を取れなくて、半ば泣き出しそうな目で犬神を睨んだ。
  確かにそうかもしれない、けれど。

「……マリィは無事なんですか」
「大分弱っているが命に別状はない。しかし、手当はした方がいいだろうな、幾つか怪我をしていたようだし……だが、あの娘の場合、俺では治療が出来ない」
「え…?」
「あの娘には呪いが掛かっているだろう」
「…っ!」
「恐らくお前の仲間でなければ早々手を出せないようになっている。だからこそ、あの異形たちを相手にあれだけの怪我で済んだとも言えるが……護符代わりにしては随分と過激だな。ベッドに運ぶところまではやれたが、≪得体の知れない男≫の俺が長くあの娘に触れていると……こうなるらしい」
「!」

  犬神がさっと差し出した片腕には酷い火傷のような痕があった。龍麻はぎょっとして声を失ったが、呪いと言えば、確かに九角が徳川へ入国した時にそのような話をしていたことを思い出す。

「……翡翠が、誰でも良いから仲間を呼んで来いって言ってたんです。…俺、行かないと」
「そうか」
「ここは先生の家ですか?」
「まぁな」

  肯定されて、龍麻は初めて周りの景色に目をやった。
  決して広くはない室内。ろうそくの灯りだけで仄暗いその一室は土の壁で覆われており、どこかの穴蔵のようだった。あるのはベッドと棚と、犬神が座っている椅子くらいだ。
  しかし隣に部屋もあるというのだから、案外その向こうは広いのかもしれない。

「マリィに会ってきてもいいですか」
「別に、お前は囚われの身じゃない。好きにすればいい」
「あの…先生、助けてくれて…ありがとうございます」

  ようやく礼が言えるほど落ち着けた龍麻に、犬神の方も纏っていた空気を緩めた。表情も和らぐ。

「突然降って来られたら助ける他あるまい。隠れ家を異形どもに荒らされても困るしな」
「泉の入口は…」
「閉じた。当然だろう。村へ戻るなら自力で戻れ」

  犬神の言葉を何となく遠くで聞きながら、それでも龍麻はゆるりと頭を下げて、それから部屋を出た。
  やはりこの家自体が地下にあるのかもしれない。
  ごつごつとした岩壁には灯りもなく、閉塞感と冷たい風がどこかから吹いている。
  それでもすぐ隣に木の扉があって、龍麻は迷わずそのドアノブを回した。

「龍麻パパ…!」
「マリィ!」

  マリィは龍麻と同じくベッドに横たわっていたが、意識は戻っていた。最初こそ入室してきた人物へ警戒した目を向けたが、それが龍麻だと知ってほっとした笑顔を浮かべる。
  龍麻はそんなマリィの傍へすぐに駆け寄った。

「マリィ、大丈夫か!?」
「ウン、マリィは平気…」
「でも…」

  傍から見ても酷く疲れているようなマリィは、普段の白い肌をより一層白くさせ、血色も悪く、また腕や首筋に幾つか痛々しい打撲や切り傷が見て取れた。

「手当しないと」

  龍麻がそっとマリィのその腕に触れると、マリィは不意にぐしゃりと相貌を崩してかぶりを振った。

「龍麻パパ、ゴメンネ。マリィ、役ニ立タナクテ」
「な…何言ってるんだよ! そんなことあるわけないだろ!?」
「ウウン、マリィがモット強カッタラ、翡翠ノオ兄チャン達ト戦エタシ、龍麻パパノオ願イ通リ、アソコニ残レタカモシレナイノニ…」

  しくしくと泣き出すマリィに、龍麻は思わずぎゅっとその小さな手を握りしめた。
  自分が取り乱してしまったせいで、マリィに無駄な罪悪感を抱かせてしまったのだと今さら気づいた。

「違うよマリィ…悪いのは弱い俺のせい。マリィは何も悪くない。むしろ…マリィがいてくれたから、俺は助かったんだ。翡翠たちだって、だから安心して、俺を逃がせたんだ。マリィと一緒なら大丈夫って」
「……ホントウ?」
「そうだよ。現にほら、マリィのお陰で、俺はどこも怪我してない。な?」
「ウン…。ネェ、龍麻パパ、ココハドコ?」

  龍麻の笑顔にひとまず安心したのだろう。マリィも今さらのように辺りを見回し、不思議そうな顔をした。

「ここは…犬神先生のお家だって」
「イヌガミセンセ?」
「うん…。俺の父さんの知り合いの人で…俺も小さい頃、よく色々面倒見てもらったりしていたんだけど…あの先生、口下手だから、実は俺もよく知らないんだ。あの先生のこと」
「デモ、龍麻パパノダディのオトモダチナラ、イイ人ナンダヨネ?」
「えーと、多分」
「多分、とは何だ」
「わ!」

  突然ドアの所から声をかけてきた犬神に龍麻は驚いて身体を跳ねさせた。
  それから恐る恐る振り返り、罰の悪い顔を見せる。

「盗み聞きしないで下さいよ…」
「俺の家だ。何処にいようが俺の勝手だろう。それより、助けてやった恩人にそんな感想しか持てないのか、お前は」
「だ、だって先生…いつも神出鬼没だし…実際何考えているか分からないし」
「……ほう?」
「俺、先生が何者なのかも実はよく知らないし」
「は……俺が何者かだと? じゃあ、お前は何者なんだ?」
「え…?」
「まぁいい。ところで龍麻。お前ならその娘を手当てしてやれるだろう。救急箱はそこにあるから、薬くらい塗ってやれ」
「あ…ありがとうございます…!」
「OH、センセイ、サンキュー! 龍麻パパ、ヤッパリ、センセイ良い人ネ!」
「う、うん」
「どうだかな。それより、さっきは仲間を呼ぶと言っていたが」
「あ、は、はい、そうです、早く翡翠たちの所へ戻らないと――」
「止めはしないが、1つだけ教えておいてやろう。ここは、お前の村とは正反対の場所」
「正反対?」

  犬神の言う意味が分からず、龍麻は眉をひそめた。
  すると犬神は不意に手にした赤いリンゴを指し示しながら説明した。

「例えば、この世界が丸い球体の上に成り立っているとして…お前の村がこの球の上にあるとしたら、ここはその真下にあるってくらいに離れているということだ」
「な…!?」
「≪旅人の泉≫は一瞬で様々な場所へ行く事が出来るが、いったん入口が閉じられてしまうと、元の場所へ戻るのには骨を折る。ルーラ(移動魔法)が使えればいいんだろうが、この辺りは呪いの干渉が酷くてな。よほど高位の魔法使いか賢者でもいなければ、魔法での移動は難しいだろう」
「そ、そんな、でも俺…」
「お前、ルーラは使えるのか?」
「い…いえ」
「そこの娘は?」
「マリィ、使エナイ……」
「言っておくが、俺はお前らをここへ匿っただけでも大分ルール違反をしている。俺の務めはこの土地の平安を保ち、監視すること。お前という存在を受け入れた時点で、ここは既にかなり不安定になっている」
「俺の…せいで?」
「そうさ、勇者殿」

  犬神はどこか揶揄するようにそう言った後、ふいと横を向いて呟いた。

「とにかく…。今晩分の食事と寝床だけは保証してやるが、後のことは自分で考えろ。俺はもう緋勇の一族とは関わり合いになりたくないんだ」
「………」

  そのどこか遠くを見やるような犬神の眼と対した龍麻は、突然昔のことを思い出してどきんとした。


  ≪緋勇の末裔か……だが、どうせお前も……俺を、置いて行くのだろう?≫


  幼い頃の自分に、この男はとても悲しそうな、それでいて慈しむような眼差しでそう言っていなかっただろうか……。



  《現在の龍麻…Lv21/HP130/MP100/GOLD118550》


【つづく。】
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