第59話 冷えたスープ

  如月から幾ら貰ったのかは分からない。けれど宿屋の主はいかめしい面をしながらもコスモの3人と老人たちに2つ、部屋を分け与えた。龍麻たちがあてがわれたのと同じ狭く貧相な部屋だったが、野宿よりはマシだろう。
  夕飯を共にした後、老人は紅井たちと、娘は本郷と部屋を共にし、龍麻たちに礼を言うと早々に部屋へ入って行った。
  再び静かな夜が戻ってきて、龍麻は如月が待つ部屋へと戻った。
「 如月」
「 ん…ああ、食事は済んだのかい」
  机に向かっていた如月は部屋に戻ってきた龍麻を振り返り、それから怪訝な顔をした。
「 それは?」
  如月は龍麻が部屋に運んできた物をさっと目で追ってから訊いた。
  龍麻はにこにことして言う。
「 夕飯。宿のおばさんが如月にって」
「 ……君が頼んだのかい」
「 え、うん。やっぱりお腹空くだろうと思って」
  盆を持っているせいで両手が塞がっている龍麻は足でドアを閉めてから再び如月を見た。
「 ここのご主人は気難しい感じだけど、おばさんは結構良い人だったよ。ご飯も美味しかったし。だから如月も―」
「 悪いが結構だ」
  龍麻に最後まで言わせずきっぱりと拒絶の意を示した如月はまた無表情のまま机に向き直った。
  龍麻は唖然として暫し次の言葉が出せなかった。
  しかし何とか気持ちを落ち着かせ、機嫌を取るような柔らかめの口調で言う。
「 で、でもさ。あれだけ危険な地下通路を歩いた後なんだし、何も食べないのは身体に悪いよ」
「 食べ物なら幾らかは持ち合わせている物がある。心配いらない」
「 え……」
  ちらと足元にある如月の荷物を見て龍麻は黙りこんだ。薬草の類が少々入っているだけの小さなカバンにしか見えないが、そういえば以前如月は秋月で大きな荷物を小さくする魔法を使っていたような気がする。それで食事も済ませたというのだろうか。
  どうしてよいか分からず、龍麻は所在なげに食事の盆を持ったまま突っ立っていた。
「 ……いつまで」
  すると如月がふうとため息をつき、動かしかけていた羽ペンを躊躇うようにして机に置いた。
「 いつまでそうして立っているつもりだ?」
  そして再びくるりと振り返って龍麻を見やる。先刻の3人に囲まれて困惑していたような、表情の崩れた如月はもうそこにはいない。すっかり感情を押し隠してしまっている相手の姿に龍麻は再び胸が痛んだ。
「 ……だって、これどうしようかと思ってさ……」
  恨みがましく言うと如月は眉をひそめた。
「 返してくればいいだろう」
「 そんな。折角用意してくれたのに悪いじゃないか」
「 こっちは客だ。出された物を食べようが残そうがこちらの勝手だ」
「 そ…! そういうのは、おかしいぞ!!」
  尊大な物の言いようにかっとして龍麻は声をあげた。
  つかつかと歩み寄り、乱暴に盆に乗った食事を机の上に置く。そして如月を睨みつけた。
「 俺の村では! 出された物はちゃんと感謝して全部食べるのが礼儀だって習った!! そりゃ…時々は嫌いな物が出たり、お腹が痛くて全部食べきれないって事もあるけど! でも! 食べ物を粗末にする奴はバチが当たるって―!」
「 罰? 罰ね。一体誰がそういったものを当てるのか、是非教えてもらいたいね」
「 え?」
「 悪いが僕に信じる神なんかいない」
  如月は龍麻に淀みない瞳を向けたまま言った。
「 君が何を信じようが、どんな教えを守っていようが、そんな事は君の勝手さ。だがそれを僕にまで押し付けるのはよしてくれ」
「 別に…俺は……」
「 ……信じるものなど、僕にはもう何もない」
「 如月…?」
  不意に龍麻は先刻も感じた胸の痛みを感じ、ぐっとその胸元を片手で抑えた。
  どくどくと。
  何故だか、如月の痛みと悲しみが自分にまで流れ込んでくるような気がした。
  龍麻はすぐ傍の如月に手を差し出そうとして、しかしぴたりと止めた。
「 あ……」
  如月がさっと目で牽制し、それを拒んだような気がしたから。
「 ……如月」
  ただ名前を、しかも情けない消え入りそうな声を発するのがやっとだった。
  龍麻の様子を察したのだろう、如月は深く嘆息すると首を微かに振った。
「 すまない。確かに疲れているようだな。どうしてか君には…冷たく当たってしまう」
「 え…」
「 食事の事も申し訳ない。女将には後で僕から謝っておく……」
「 な、なあ如月…」
  態度を軟化させた如月に再度歩みより、龍麻は盆の上でまだ温かい湯気をたゆたわせているスープを見つめながら言った。
「 疲れてるならさ。やっぱりこういうあったかい物を腹に入れた方がいいよ。如月も食べ物を持っているのかもしれないけど、温かい物となると別だろ。だから、折角だからさ」
「 緋勇、僕は…」
「 一口食べれば気も変わるよ! だから、な、頼むから!」
「 緋勇」
  何とか食事をさせようとする龍麻に如月はそれを遮断するようにはっきりと言った。
「 僕は他人から出された物を口にできないんだ」
「 ……え?」
  一瞬何を言われたのか分からずに龍麻は返事をするのが遅れた。
  如月の何でもない事のようなあっさりとした言い方のせいかもしれない。
「 何…?」
「 食べたくとも食べられないんだ。いつからかは分からない。気がついた時にはもうそういう風になっていた。身体が拒絶反応を示す」
「 嘘、だろ?」
「 僕は基本的に自分以外の人間を信用していないんだ。信用できない。どうしてここまで曲がってしまったのかと自分自身でも不思議に思うよ。僕は自分の主さえ…信じる事ができない」
「 ……主?」
「 ………」
  龍麻の問いかけに如月は答えなかった。
  それから机に置かれた盆を見て自嘲する。
  龍麻ははっとして恐る恐る言った。
「 これ…毒なんか、入ってないよ…?」
「 ああ、分かっている。そんなものは入っていないだろうな」
「 それなら…!」
「 頭で分かっていても身体が拒絶するんだ。恐らくは僕自身でも気づかないところから命令が出ているんだろうな。『それが100%安全だとどうして言い切れる。0.1%でも危険の感じられる物には決して触れるな』…とね」
「 お、俺のこと信用してないの?」
「 君ならそう言ってくると思ったよ。だが、そういう問題じゃない」
「 そういう問題だろ!!」
  思わず顔を真っ赤にして龍麻は如月を怒鳴りつけた。
  盆の上に置かれていたスプーンをがつと掴むと、興奮したように続ける。
「 お、俺…! 俺はこれがすごく美味かったから、だから如月にも食べてもらいたいと思って持ってきたんだ! 如月が俺を助けてくれたから! こうやって一緒にここまで来てくれたから! や、宿も取ってくれた! あの! コスモさんたちも助けてくれた! だ、だからお礼したいって…そう思ったから…だから…!!」
「 ……君の気持ちはありがたく受け取っておくよ」
「 受け取ってないだろ!!」
「 君がどう感じようと僕は君に感謝している。これ以上のものを求められても困る」
「 そ、そんなのはおかしい…!」
「 ………」
  こちらはこんなに熱くなっているのに、如月の態度は一向に冷えたままだ。龍麻は無性に悲しくなった。
「 何で…そんな風に言うんだよ…」
「 ………」
  如月はもう何も言わない。恐らくは龍麻のあまりのしつこさに辟易しているのだろう。最早口を開くのも億劫なのかもしれない。
  それでも龍麻はスプーンを固く握り締めたまま、ぐっと俯いて搾り出すような声で言った。
「 それなら…何で助けてくれたんだ…」
  不意にあの時突然現れた如月の事を思い出して龍麻は言った。
「 あそこで如月が来てくれなかったら…俺は天童に殺されたかもしれない。だけど、殺されなかったかもしれない。どっちにしろ俺の命なんか如月には関係ない事だろ…。なのに、怪我までして、何で…」
「 それが僕の仕事だからだ」
「 え…」
  龍麻が顔を上げると如月は依然として感情の見えない顔をしていた。
「 君の力はまだ未知数だが、九角が君に存在価値を認めていたのも事実だろう。現に君は僕が掛けていた結界を解く程の人間だ。……君を九角に渡すわけにはいかなかった。それだけさ」
「 それだけ…」
  如月の言葉がじんと痛く胸に響く。
  それでもそれを押し殺し、龍麻は訊いた。
「 如月の主って誰なの? 仕事って何なの?」
「 それは言えない」
「 どうして」
「 ………」
  すぐに答えない如月に龍麻はかっとなって叫んだ。
「 なあ、どうして!? 如月は誰も信じないって言う。その主さえ信じられないって…! で、でも、その主や自分の仕事の為には命も懸けるんだろう? 危険な事だって顧みずに戦うんだろう!? それって…それっておかしいじゃないか!  俺には全然分からないよ!」
「 ……君に言われるまでもないさ」
  低い声で如月は呟くように答えた。やや視線を逸らし、独り言のように言う。
「 使命に従属するほどに、僕は自分が何の為に生まれてきたのか分からない。幼い頃から僕ら一族は主の為だけに生き、そして死ぬよう教わってきた。だから僕はそうしている。使命を果たす為だけに…」
「 じゃあどうしてその主を信じられないなんて言うんだ」
「 それは…僕が感情を持った生き物だからだろうね」
「 え…」
「 あるいは、そんな事関係ないのかもしれない。僕が未熟なだけなのか…」
「 如月…」
  思いつめたような如月に龍麻はじわじわと不安な気持ちに襲われた。
  如月は迷いのない、堂々とした本当に強い人間なのだと思っていた。頭も良い、剣も魔法も使える。頼りがいになる、凄い奴なのだと。
  それなのに今ここにいる如月は弱さこそ感じさせないが、ひどく儚いもののような印象を受ける。
  龍麻は握り締めていたスプーンを再度ぎゅっと握りこんだ。
  そして、そっとスープの入った皿にそれを近づけた。
「 緋勇…?」
  龍麻の所作に気づき、如月が不審の声をあげた。
  龍麻は構わずスプーンで掬ったスープを自らの口に持っていった。
  そしてそれをこくりと飲み干す。
「 緋勇…」
「 …美味しいよ。ちょっと冷めちゃったけど」
「 ………」
「 俺…死んでないだろ?」
「 ………」
「 数時間後に効力のあるやつで、やっぱり俺は死んじゃうかもって思う?」
「 バカな…」
「 うん。そんな事あるわけない。それに、もしそうなっても死ぬ時は俺も一緒だ」
「 緋―」
「 飲めよ、如月。本当美味いんだ、これ」
「 ……僕は」
「 駄目。でなきゃ俺、ずっとお前につきまとうぞ。明日徳川に行っても、ずっとお前につきまとう。お前が俺を信用してくれるまで」
「 な……」
「 困るだろ?」
「 ………」
「 ほら」
  言って龍麻は如月の口に新たに掬ったスープを持っていった。
  心の中ではどきどきしていた。
  バカな事をするなと、いい加減にしろと怒鳴られるかもしれないと思ったから。
  龍麻は如月に嫌われたくはなかった。それでも、嫌われても如月がこのままなのはもっと嫌だと思った。
「 ……恐ろしくお節介な人だな、君は」
  如月がそう言うのと同時、龍麻は不意に自分の手に掛けられた重みに気づいてはっとした。
  スプーンを持った方の手首が如月に掴まれているのが分かった。
「 きさ…」
「 つきまとわれるのは勘弁してもらいたいな」
「 そ、そうだろ…」
  だったら、と言いかけて、しかし龍麻はその瞬間「あっ」となった。
  ほんの少しだけだったが、キスするように如月が龍麻の持つスプーンに唇を寄せたから。
「 あ……」
「 これで…許してもらえるかな」
「 ちゃ…ちゃんと飲んで、ない」
「 君の服を嘔吐物で汚してもいいなら飲むよ」
「 えっ」
「 嫌だろ?」
  ふっと笑って如月は龍麻からスプーンを取り戻した。それからすっくと立ち上がると窓際へ寄り、わざとそちらへ視線をやりながら照れ隠しのように言った。
「 ……まったく。君なんかに乗せられて、僕もどうかしている」
「 如月…」
  如月のその台詞に龍麻はほんわかと笑った。
  恐らくは、それが如月なりの礼のつもりなのだろうという事が分かったから。
  静かな夜の中、龍麻は月明かりに照らされる如月の横顔をじっと見つめた。



  《現在の龍麻…Lv13/HP65/MP50/GOLD7490》


【つづく。】
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