恋の亀急便(中編)
「 注文がない? ここずっと?」
「 ああ」
タオルでがしがしと濡れた髪の毛を威勢良く拭く九龍は、不機嫌面の如月を前にぽかんとした顔を見せた。
図々しくもまんまと「亀急便」のバイト要員となった九龍は突然「汗流させて」と言ったかと思うと、如月が何も返さないうちに家の中に上がりこみ、自分で掃除をして風呂に入った。
そして今はその風呂上り。
奥の間で明りもつけずパソコンから漏れる光だけで机に向かっていた如月は、背後から覗き込むようにしてこちらへ来た九龍にむっとした声を上げた。
「 裸でウロウロするな。着替えはないのか」
「 うん、ない。持ってる服みんな汚れてるし。何か貸して」
「 ……隣の箪笥の一番下に浴衣がある」
「 浴衣! うわあ日本って感じ。ありがとう」
腰にバスタオルだけを巻いた九龍は嬉しそうに笑うと如月から離れ、隣の間へと消えた。如月は招かれざる客にもう一体何度目か分からない深いため息をついた後、再びパソコンの画面に視線を戻した。
JADEショップを始めてから、もう一体どれくらいになるのだろうと思う。
『 翡翠って本当に商売が好きなんだな』
当時、あの頃の如月の隣にはまだ龍麻がいた。高校卒業の日、特に何をする当てもないと言う龍麻にさり気なく同居を勧めた時、龍麻は最初ただ曖昧に笑っただけだった。
けれど翌日には如月の家にやって来て、龍麻は当然のように如月の傍にいた。
そうして次々と仕事を広げる如月をよそに、龍麻は日がな1日ぼんやりとして過ごす事が多く、退屈じゃないかと声を掛ければ「別に」とつまらない返答だけを寄越してきた。そしてそこにはいつも薄っぺらい笑みだけがあった。
『 翡翠と俺は違う人間なんだな。当たり前だけど。最近凄くそれを感じる』
別れを切り出す数日前にも、龍麻はそんな事を言ってただ寂しそうに笑っていた。何もしない、しようとしない自分を悔いていたのか、それとも如月に依存した生活に窮屈なものを感じていたのか。そんな風には見えなかったのに、それでも龍麻は言ったのだ。
『 翡翠には苦労ばかり掛けてる。俺、暫くお前から離れるから』
どうして強く引き止められなかったのだろう。思えば龍麻は毎日この家のあの縁側で1人ぼんやり桜の木を眺めていたが、本当は待っていたのかもしれない。何を考えている、もっとこちらを向いてくれ。―そう懇願する如月の姿を期待していたのではないだろうか。
けれど如月はいつも黙って龍麻を見守るだけだった。好きな事をすればいい。ただここにいてくれれば。そんな考えが結果的に龍麻を手放す事になってしまった。
いつかは戻ってくる、そう思い冷静なフリをしていても、やはり心は落ち着かなかった。
だからこそ、先月不意に飛び込んできた「緋勇龍麻」の文字には信じ難い気持ちと同時に、どうしようもなくこみ上げる高揚感があったのだ。
それなのに。
「 まったく…一体何をしているのか…」
「 ねえ、翡翠」
「 !?」
ぎくりとして振り返ると、そこには浴衣ではなくTシャツとジーンズに身を包んだ九龍がいた。
「 なん…」
驚いた。一瞬龍麻に呼ばれたのかと思ったから。
「 緋勇さんって翡翠とここで一緒に暮らしてたの?」
けれどそう放ったのは九龍。如月にとって赤の他人である葉佩九龍だ。
九龍はどことなく興奮したような顔で嬉々として続けた。
「 だってこの服だけじゃない、明らかに翡翠のじゃない物がいっぱい仕舞ってあったし。あ、あとアルバムも発見したよ。綺麗な人だよね、緋勇さんて」
ぴらりと指に挟んだ1枚の写真を九龍は如月の前に掲げて見せた。
卒業式の時のものだ。学生服姿の龍麻が静かな笑みを湛えていた。
「 ……元の場所へ戻してこい」
くぐもった声でそれだけ言ったが、九龍には聞こえていないようだった。
「 これさ、貰えないかな。俺、この写真が欲しいんだ」
「 ………」
「 こんな綺麗な人はめったにいないし。リアルの緋勇さんもこの間ツテから画像送ってもらって見たんだけど、高校のこの時の方が…何ていうか、危険で<生きている>感じがするな。ゾクゾクする」
「 ……葉佩」
「 ハンターって言うより、この人自身が<お宝>という感じだね」
「 ………」
腹が立ち過ぎると声は出なくなるものらしい。勝手に自分たちの部屋を荒らした事にも当然頭にきたが、何より「特別な目」で龍麻を見つめているだろうその視線に苛立ちが募った。
「 ……ッ」
しかし相手は高校生だ。怒鳴りつけるのも大人気ないと、如月は沈黙を守り続ける事でその怒りを鎮めようとした。
「 翡翠」
すると、黙り込んでいる如月に九龍がじっとした視線を寄越しながら言った。
「 こういうのってあれでしょう。踏み込んではいけない領域ってやつ」
「 ………?」
如月が眉をひそめると九龍は口の端を上げた。
「 人には絶対にやってはいけない事というのがあるんだよね。この線から向こうを越えたら辺り一帯地雷原…罠の嵐。だから人はそのラインを見極める事が大切だって」
「 ……なるほど。君はそのラインを見極めるのが下手らしいな」
「 うん」
ごめん、と小さく謝った九龍は、しかし写真を返そうとはせずにちらと背後に目をやると言った。
「 この家は遺跡の中みたいだね。俺には魅力的な物ばかりだ」
「 骨董品屋だからな」
「 それ、ボケてるの?」
くすりと笑った九龍はもう一度如月に近づくと背後のパソコンを覗き込み、続けた。
「 注文がないならあった事にすればいいよ。そうだな物は…PC356と356TSWでいいんじゃない」
「 それは君が欲しい物なんじゃないだろうな」
「 はははっ」
如月の素のツッコミに九龍は参ったという風に破顔した。それは俄然子どもらしくない表情だった。
九龍は言った。
「 いや、だってあっち行くのにハンドガンくらい持ってないと不安じゃない」
「 ハンターのくせに銃くらい持っていないのか」
「 持ってないよ、普段は手ぶら。全部現地調達だもん。それかJADEショップで随時ご購入。客の鑑でしょ?」
「 まったく…」
すいすいとよく動く九龍の口元を眺めながら、如月は全てを諦めたように肩を落とした。
掴み所のない人間は龍麻1人で十分だというのに、既にもう自分はこの葉佩九龍という人間にすっかりペースを乱されている。そうして迷惑だと思いつつも、こうして何もかも許容して龍麻の元へ九龍を送り込もうとしている。
龍麻に接触したいのならば自分で行けばいい。
なのにそう出来ない。何故。
「 手に入る可能性が低いなら、諦めて追わない方がマシだから」
「 な……?」
不意に発せられた九龍の言葉に如月は目を見開いた。傍に立ち尽くす九龍の瞳はパソコンから発せられる光にゆらゆらと照らされて日本人らしからぬ色を放っていた。
それは氷のように冷たいブルーか、或いは激しく燃え立つ青の焔か。
「 ………」
如月が思わずその瞳を凝視していると、九龍は不敵な笑みを向け言った。
「 じゃあ、明日に備えて今日はもう寝るね。物の用意よろしく、翡翠」
「 ………」
「 あ、ところで俺は何処で寝ればいいんだろう? 翡翠と同じ部屋で寝ていい? 俺、誰かに添い寝してもらうとよく眠れるんだけど」
そう言った九龍の瞳からは、たった今まであった不思議な瞳の色はもう消えていた。今はただもう無断で風呂を使った時と同じ、やんちゃな小僧がいるだけだ。
「 ………」
如月は気を取り直したようになって首を何度か横に振ると、言い聞かせるような口調で九龍に向き直った。
「 ……葉佩」
「 何?」
「 君に言いたい事がある。まず僕の事を『翡翠』などと気安く呼ぶな」
呼んで良いのは唯1人だけ。
自分が生きている、その理由である緋勇龍麻1人だけだ。
「 それから僕は君と添い寝なんかしない。断じてごめんだ」
「 それはやっぱり緋勇さんとしかしないって事?」
「 ……葉佩」
「 ちょっとここだけは真剣に答えて欲しい。今度の俺の仕事にも重要だから、それ」
「 は?」
また訳の分からない事を言い出したと混乱する如月をよそに、しかし九龍は急に真面目な顔になると身体を寄せて迫力ある様子で迫った。
「 ちょっとはっきり言って下さい。添い寝は緋勇さんとしかしない?」
「 な、何を馬鹿な…」
「 じゃあ緋勇さんが今頃天香学園で見知らぬピチピチの男子高校生と添い寝してても貴方は嫉妬しないんですか?」
「 だ、だから何を言ってるんだ君は! だ、大体龍麻が…」
そんな事をするはずがない、と言おうとして如月は口を閉じた。
龍麻にその気はなくとも、周りはどうだか分からない。現に龍麻自身がまだ高校生の頃、当時は誰もが龍麻を「そういう対象」として見て、盛んにアプローチを掛けていたではないか。
「 ………」
「 俺にだって言いたい事はあるんですよ、如月さん」
九龍が言った。
「 正直、俺の災難は貴方たちの痴話喧嘩が元になっていると言っても過言ではないんだから。今日この家に来てますますそれを確信しました。あのね、だから言って下さい。貴方は緋勇さんを愛してる。帰ってきて欲しい、取り戻したいんでしょ。添い寝したいんでしょ」
「 ……君はどうしても添い寝から離れられないらしいな」
如月の怒りの含んだ低い声に九龍は鼻で笑い飛ばした。
「 ふん、往生際が悪いのは貴方の方だ。素直じゃないから恋人に逃げられるんですよ」
「 貴様…!」
「 煩いな! 早く正直に言えって! 緋勇さんを好きなんだろッ!?」
「 葉佩!」
「 何だよ! 好きなんだろ!? 言え!」
「 ああ、好きだよ! それが悪いか!?」
「 ………」
「 あ……」
唾を飛ばして思わず叫んだ如月は、その自分自身の声にぎょっとして目を見開いた。
こんなパワーがまだ自分にあるとは想いもしなかったから。
龍麻がいなくなってしまったあの日から、自分はすっかり無気力なのだ。
それが。
「 ……悪くないですよ」
すると暫くは呆気に取られていた九龍がやがて我に返ったようになり、不意に畏まったように呟いた。如月が不審な顔をすると、九龍はにこりと笑った後、はっきりと言った。
「 それじゃあ俺も、その<宝>取り戻すの手伝う」
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