あの窓を開けたら


  ―10―



  絵描きの中には自分が一番「描きたい」と思った対象ができると最早それしか見えなくなり、たとえ技法や見せ方を多少変えようとも、根本では「それ」ばかり描く者がいるという事だったが、ツキトには所謂そういったこだわりというものが一切なかった。「十代やそこらで生涯を懸けたテーマが早々見つかるわけはないだろう」と高校時代の美術教師は笑ったが、ツキトとしてはそういうものを見つけてこそ本物だという想いがあった為、こんな自分は何て中途半端なのだろうといつも気恥ずかしさを覚えていた。
  それでも絵の腕を上げたいという気持ちだけはいつでもとても強かったので、学校では教師の勧めるデッサンを、自宅では好きな画家の模倣を、そして外出先ではとりあえず目にしたものを好きなだけ描くという事を繰り返した。

  ただそれらのいずれも、周囲から満足のいく言葉を得る事は出来なかった。

  元々絵を描く事は兄から反対されていた為、本格的に誰かの下で勉強をしたという経験もない。全て「好きなように描く」だけだ。学校の美術部ではいつも顧問から「巧(うま)い」、「観察力がある」などと評価されていたが、ツキトにしてみれば他の部員たちが言われていたような「センスがある」、「個性がある」、「色使いが突飛」といった言葉の方が余程誉め言葉に聞こえたし、自宅では兄に「お前は人の物真似をするしか能がない」と馬鹿にされていたので、これもまた自分のやり方や才能に一層の自信を失くす要因となった。
  加えて出先でのスケッチも、息を抜いて楽しく描く分には良いが、題材選びに関してはやはり周囲の不評を買った。家出をしてから東京で描き溜めたスケッチを見たバイト先の友人・刈谷からも、「もっと面白いものを描けばいいのに、カラスとか花とかつまんなくない?」と、悪気もなく言われたものだ。
  だから、ツキトに本当の意味で欲しかった言葉をくれた初めての人間は、志井である。
「凄いな」
  比較的大きな、そこは噴水と釣り池のある公園だった。
  突然ツキトの背後から覗きこむようにしてそう声を掛けてきた志井は、質の良いスーツをきっちりと着こなした、ツキトが心密かに憧れる「働く男性」そのものだった。自信に満ちた話し方やすらりとした長身、整った容姿。学生時代から一族の会社経営に携わっていた才能ある兄を尊敬し、自分自身には引け目を感じていた為、ツキトは無意識下で元来より「そういったタイプの人間」に弱かった。
「す、凄い、ですか?」
  その為、いきなり話しかけられた事に本当はひどく動転していたのに、ツキトは割とすぐに志井へ視線を向け、そう訊き返す事ができた。
「ああ、凄い。正直、芸術には全く疎いし興味もないけど、この絵が凄いってのは分かる」
「な……何でですか?」
「何で? ……さあ。そう感じたからだよ」
  ツキトのどこか怯えたような問いかけに志井は一瞬訝しむような目を向けたものの、きっぱりとそう答えた。
「普段から何を見ても、特に何も感じないんだ」
「え?」
「俺のこと」
  何でもない事のように志井は自分を指差しそう言った。
「評論家じゃないからあまり詳しく訊かれても困るけどな。ただ、昔っから何に対しても無感動な奴がわざわざ足止めて口を出したくらいには、さ。凄いって事だよ。その絵」
「………」
「こんな説明じゃ…まあ、納得なんかできないか…」
「あ、いえっ」
「あまり気にしないでくれよ。思わず声が出ただけなんだ、邪魔して悪かった」
  茫然としているツキトにいよいよ居心地の悪いものを感じたのだろう、志井はさっと踵を返しそのまま去って行こうとした。元から見知らぬ少年を相手に長話でもないのだろう。
「あっ…。ま、待って下さい!」
  けれどそんな志井の背中にツキトは慌てて声を上げた。
「違うんです! 邪魔だなんて違います! あのっ。う…嬉しくて」
「………」
  ぴたりと足を止めてこちらを振り返った志井にツキトは尚も焦ったように口を継いだ。本当ならそんな事は苦手で、舌がもつれて喉もカラカラと渇いていたのだが、ここで口を閉じたらこの人は行ってしまう、それは嫌だと咄嗟に思ったのだ。
「そんな風に言ってもらえたの、初めてだから…!」
「え?」
  志井が眉をひそめたのも構わずツキトは続けた。
「自分の絵って本当、誰の印象にも残らないなって……思ってたから」
「………」
「はは…あの、『巧い』とか、さっきの『凄い』とか…。そういう言葉自体は言われた事あるんです。でも……今みたいのは、初めてで」
「……そんな大した事言ってないと思うけど」
「いえっ。あ、ありがとうございますっ。本当に!」
「………」
「……あの」
  言いたい事は「とりあえず言い終えたかな」、そう思った途端、ツキトは自分が呼び止めたせいでわざわざまた戻ってきてくれた相手を前に思い切り赤面した。嬉しくてはしゃいでしまって夢中になって。ついつい口を動かしてしまったが、傍迷惑も良いところだ。瞬時にそう思ったが、時既に遅し。向こうは何ともなしに一言感想を呟いてくれただけであるのに、調子に乗って鬱陶しくも張り付いて、向こうだって困っているに違いない。
「あの…」
  けれど一度焦るともう次にどんな言葉を言って良いやら分からず、ツキトは困り果てたようにますます顔を赤くして俯いた。そういえばこちらに出てきてこうやって誰かと面と向かって話すのも本当に久しぶりなのではないかと思った。
「ここ、よく来るのか?」
  すると周囲を見渡しながら志井が言った。ツキトが「え」と顔だけで問い返すと、志井はちらと腕時計を見やった後、少しだけ笑って見せた。
「もう行かないといけないんだ。けど、もし良かったら他の絵も見せてくれよ。……また来る」
「え……?」
「俺、本当に度のつく素人だけど」
「! い、いえっ。お、俺、来ますっ。ここ!」
  こちらへ来てすぐに始めた清掃業社のバイト。ここはその会社から派遣された勤務地からすぐ近くだった。何度も頷いて「絶対に来る」と繰り返し志井の苦笑を誘ったが、ツキトはその時自分がどれくらい嬉しい顔をしているのかという事には全く気づいていなかった。
「一応これ名刺。渡しとく」
「あ……」
  本当に急いでいたのだろう、ツキトがそれを受け取るとすぐに、志井は挨拶もなしでそのまま公園を出て行ってしまった。
「志井……克己さん」
  それでもツキトは志井が残していってくれた長方形の名刺を大事に大事に両手で持つと、何度もその名を目でなぞった。





「……ずっと忘れてたのに、な」
  違う、忘れようと思っていただけだと、ツキトは口に出した直後、頭の中だけでそう思った。志井とどのように出会い、何をきっかけに付き合う迄に至ったのか。一度志井にフラれる直前、ツキトはこの事を何度か思い返そうとしたものの、どうしてもその記憶を蘇らせる事ができなかった。初めて自分の絵を誉めてもらえた、その感動自体は勿論消えるものではなかったが、たとえばあの時の志井の柔らかい笑顔だとか、ツキトの絵を何故「凄い」と思ったのかを説明しようとしてくれた事とか、わざわざ戻って名刺をくれたところとか……そういう一つ一つのシーンに関しては、まるで記憶の箱に無理やり重い蓋をしてしまったかのように詳しく思い出す事ができないでいた。
  それが今になって何故か面白いようにぽんぽんと浮かんでくる。あの時の志井の顔、声、仕草。何もかもが懐かしい。
  それでいて何故かとても胸が痛い。
「月人様。お食事が駄目ならお菓子やフルーツはどうですか?」
「………」
  自室のベッドでぼんやりと天井を眺め続けているツキトには、実は先ほどから典子と田中が入れ替わり立ち代わり、廊下の前で声を掛けてきていた。
  昨夜はずっと眠れず、ほんの少し意識が遠のいたと思ったらこの家に帰ってきて初めて怖い夢を見るなど、本当に散々だった。夢の内容自体は詳しく覚えていないが、とにかく酷い夢というのは確実で、はっと目が覚めた時の不快感といったらなかった。
  だから朝が来て兄と姉が出掛け、一気にしんとした静寂と明るい日差しが優しく気だるい身体を包んできても、ツキトはそれに甘えこそすれ、起き上がる気力を出す事はできなかった。
「お坊ちゃん。起きてますか」
  今度は田中か。
「煩いよ……」
  片腕を翳して両目を隠すと、ツキトは罪のない田中に毒づいた。もう何も考えたくないんだ、放っておいてくれという気持ちでいっぱいだった。どうせ部屋を出て階下へ下りて食事を取っても、その後はまた昨日と同じだ。外へ出る事も許されず、電話を掛ける事すらご法度で、ずっと田中と典子に監視されるだけの時間。ならいっその事ここから出たくはないと思う。もし仮に昨日や一昨日のように兄や姉が家に戻ってきたとしても、ここにいて閉じこもっていれば顔を見なくても済む。兄はこの部屋の合鍵を持っているから勝手に入ってこられる可能性もあるが、嫌だと言って拒絶しよう。今日は出来る、そう思った。
「兄さんが、悪いんだ……」
  その台詞は妙に小さく萎んだもので、ツキトは自身が発したその情けない声色に思い切り狼狽した。けれど一旦口にするとますますその想いは強くなり、今の自分がこんな風に何をどう考えて良いのか分からなくなっているのも全部兄のせいで、自分は何も悪くない……そんな頑なな考えに頭の中全部が支配されていくような気がした。
  いつの間にか廊下に人の気配はなくなっている。典子も田中も諦めたらしい。
「………」
  カーテンも開けず空気の篭った部屋の中で、ツキトは昨晩唐突にされた兄からの口付けを思い出してぐっと唇を噛んだ。
  何故逆らえなかったのか。 
「違う…! 急に…急に、されたからだ…っ」
  咄嗟に思い浮かんだその考えを振り払うかのように、誰も聞いていない部屋でツキトは吐き捨てるようにそう言った。目を開けない。顔を覆っている腕を下ろす事もできない。それをすればただでさえ完全に消せない昨晩の出来事が一気に自分の全部を襲い、余計に訳が分からなくなりそうで怖かった。

『月人……』

  口づけが終わってから後、暫く互いに見つめ合っていたなどという事には、ツキトは最初気づかなかった。ただぼうっとして意識が遠のいて、無意識のうちに自分を見やる兄の瞳を眺めていただけだ。
  けれど「ずっとそうしていた自分」にハッとした時には、ただただ頭に血が上った。

『な、何す……!』

  今更な抵抗の言葉が口をつき、けれどそれすら喉が詰まって咳き込んだ。ごほごほとみっともなく前屈みになり、無表情の兄から落ち着けと言わんばかりに背中を優しく撫ぜられた。
  それによってツキトの感情はより昂ぶった。

『嫌だ…っ』

  その手を乱暴に払った後はもう無我夢中だった。
  ツキトは太樹から視線を逸らせたまま立ち上がると全速力で二階の自室まで一気に駆け込んだ。背後は一度たりとも振り返らなかった。そんな風に逃げ出さなくとも太樹が追いかけてくる気配はなかったし、ベッドに潜り込んで布団を頭から掛け丸くなった後も、その背に声が掛かってくる事は遂になかった。
  兄は何も言わず、追いかけても来ず、そうして朝になるといつものように家を出て行ってしまったのだ。
「バカ…バカ、バカ……!」
  今までツキトは一度たりとも太樹を罵倒するような言葉を出した事はなかった。どんなに厳しく冷淡な事を言われても、恨めしい思いを抱いた事があっても、根底ではいつも尊敬していたのだ。憧れていた。幼い頃から家族の中で唯一自分を気遣い、構ってくれた優しい兄だ。高校へあがってからは昔のような目に見える優しさを示してくれる事もなくなったが、いつでも本当はまだ自分を見捨てていない、自分を想ってくれている兄でいる事は、ツキトにも十二分に分かっていたから。
  だからこそ、好きでずっと続けていきたいと思った絵の事とて徹底的に反抗する事も出来ず、「才能がない」と斬り捨てられても、兄を嫌ったりはできなかった。

  探してくれていた事も、本当は凄く嬉しかったのだ。

  発見された公園で思い切り殴られ、怒りの篭った眼で見下ろされた時は心の底から震えたけれど、それでもツキトは思ったのだ。
  兄は自分を見放していなかったのだ、と。
「酷いよ…。兄さんは、酷い…っ」
  それなのに。
  ツキトは顔を隠しながら何度も今この場にいない兄を詰った。言えば言う程苦しいと、胸が痛いと分かっているのに、何故あんな事をしたのかと、そればかりが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
  この鬱陶しい思考を全部取り払って全部失くしてしまいたい、そう思った。





  出会いのきっかけはどんどん薄れていたのに、あの日の事だけはどうしたって忘れられない。
「ツキト。お前以外に好きな奴ができた」
  志井から「好きだ」と言われ付き合うようになって。
  一緒に暮らして幸せだと思っていた日々から一転、そう言われてしまった時は、覚悟はしていたものの全身から血の気が引き、大袈裟でなくツキトの目の前は真っ暗になった。
「どんな人なの…?」
  男のくせに取り乱すなんてみっともない。こんな時はクールに何でもない事のように振舞わなければと、ツキトはわざと一生懸命平静な声を出そうと努めた。
  同棲してすぐに志井の態度はよそよそしく素っ気無いものになっていたから、ツキトもこの恋の終わりが近づいている事は何となく察知していた。あれほど頻繁に求められ毎日のようにしていたセックスもなくなった。一緒に食事をとる回数も減った。帰宅すると毎日のようにツキトが描いた絵を見ていた志井は、むしろその行為を義務感のようにうんざりとした顔で行うようになっていた。
  だから、もうこれは駄目なのだろうと。
「どんな…? ……お前と正反対の奴だよ」
  容赦のないその台詞はツキトの心を自分自身ですら実感できない程に粉々にした。
  もう好きではないが嫌いでもないからと、志井の言う訳の分からない言葉に流されずるずると同居を続けた事もその心に多大な負担を与えた。志井と一緒にいたいから、まだ好きだからと抑え付けていたその傷は知らず知らずどんどん膨れ上がり、遂に身体が悲鳴をあげた。
  それでも志井に「もう終わりだ」と完全に告げられるまで、ツキトは志井から離れる事ができなかった。
  好きだったから。

『志井さん……右手が動かない……』

  そうしていつの間にか絵を描く事から遠のき、あのおぞましい事件が起きてから後、ツキトは遂に気持ちだけでなく身体全部で筆を執る事を拒絶するようになった。他の作業では問題なく動く利き手が、こと絵を描こうという行為にだけは敏感に「嫌だ」と反応する。痛みを訴える。
  よりを戻してからの志井はツキトのこの「症状」をどこか病的なくらい思い悩み、何とか元通りにしようとあちこち奔走したが、全て徒労に終わった。ツキトはそれを申し訳なく思いながらも、そして自分でもどうにかしなければと思いながらも、やはり一向に動かない右手をただ力なく見つめるだけだった。
  本当は理由などとうに分かっている。それを志井に告げられない自分を卑怯だとツキトは思った。
  でも、いつもどこかで怯えていたから。
  また絵を描くようになって、もしまた志井にあの目を向けられたら?
  苦しそうに自分の絵を「義務」で眺めて、しまいには「もうお前のことは好きじゃない」と言われたら?
「ツキト。痛くないか? 右手…早く元に戻るといいのにな……」
「う、ん……」
  言いながら右の手の甲を優しく撫でてくれる志井に、ツキトはどうしても言えなかった。
  志井が自分に「もう終わりだ」と告げたあの悪夢がもしまた現実になったら……それが堪らなく怖いのだ、などとは。どうしても駄目だ、言えないと。





「お坊ちゃん。お食事を取ってからにしたらどうですか」
「いいよ。今食べたら吐くかも」
「……それじゃ余計に体力減りますね。でもあとで絶対果物くらいは食べて下さいよ」
  典子さんがまた泣きそうですからという田中に、ツキトは曖昧な返事をしただけですぐにまた背を向けた。彼女の「外にいますから」との言葉にも、そうやって遠慮してくれた事に対する礼を満足に口にする事はできなかった。
  自室にい続けてもただ色々な記憶に悶々として、気持ちなど到底晴れる事はないと観念したツキトは、午後過ぎになってようやく部屋を出た。ただ、田中や典子と言葉を交わしたくない、誰とも会いたくないというのは変わらなかったので、ツキトは「やっと出てきてくれた」と喜ぶ彼女たちを避けるようにして庭へ出て、もう誰も使っておらず荒れ果てているだけの温室へと入り込んだ。以前は大きな熱帯植物や色鮮やかな花々が実に綺麗に咲き誇っていたが、植木の剪定以外その他の管理も一人で請け負わされている典子には古い温室にまで手が回らないらしい。中はもう取り残された枯れ枝や土が盛られたままの植木鉢から生える雑草以外、庭園道具や車の備品を入れる雑多な物置と化していた。
  しかし昔からここは温室というよりは元よりツキトのアトリエなのだ。
「作業台もそのままなんだな……」
  砂と埃で多少汚れてはいるものの、まだまだ使える。
  室内の一番奥にある窓の前には、以前無理を言って置いてもらった長方形の木のテーブルがある。自室で集中できない時などにはここで絵を描いたり、学校の宿題をする事もあった。温室というよりは外から中が見えない「プレハブ」といった感じで、扉は入口の一つのみ。自室と同じように内側から鍵を掛ける事も出来る。両脇を陳列棚と植物の鉢植えに占められていて通路も細いが、それが却って都合の良い障害物になっているから一番奥の作業場は殆ど死角になった。その机のすぐ前には背の低い大きな窓もあるし天井も高いから、閉鎖的な空間に見えつつも息が詰まる事もない。
  つまりそこは自室以外の、ツキトにとっての「逃げ場」なのだ。
「凄くたくさん買ってきてくれたな…」
  ざらりと手のひらで机上の砂埃を一旦払うと、ツキトは同じく土まみれになっている四角い椅子は横へ除けて、用意してもらった物をその台の上にズラリと並べた。
  昔はよく遊んだものだ。この紙粘土で。
「鉛筆が駄目でも粘土ならいいだろ」
  自分に言い聞かせるようにしてツキトはそのうちの一つを手に取った。子どもの頃から絵は勿論好きだったが、同じくらいよくやったのがこの粘土遊びだ。取り立てて手先が器用というわけでもなかったが、工作や彫刻なども好きだった。粘土も然り、公園では砂遊びもよくした。近所の子らに仲間外れにされた時などは一人で黙々と砂をいじっていると嫌な事も全部忘れられた。
「この感触も久しぶり……」
  袋を破いてそのつるりとした材質に触れ、ツキトは目を細めた。姉の陽子はいつもさんざっぱらツキトを構い倒してからかうくせに、まるでドラキュラに十字架とでもいうように、粘土まみれになるツキトには「手が臭い」と言って近づかなかった。紙粘土はそれほど匂いもきつくないよと言ってみても、陽子は「あんたにそういうのは似合わない。やめなさい」と、時には太樹よりも嫌な顔をしてツキトが粘土いじりをする事には反対したものだ。
「ふ……」
  昔のそんな事を思い出しながら、ツキトは手にした紙粘土をテーブル上に敷いたゴム板の上にどんと大きく叩きつけた。ぐっぐと手のひらに力をこめてその四角い塊をゆっくりとほぐしていく。
  右手は動く。
  もっともただ力をこめて土を押し潰しているだけだから、動くも何もないのだが。
「……っ」
  二度、三度と、リズミカルに息を吐く呼吸にあわせるようにして、ツキトは何度も粘土を台の上で押し潰しては広げ、また裏返しにしてはよく練った。
  作りたい物はもう決まっている。
  というよりも、粘土といったらいつも大体「あれ」だ。それが無意識のうちにいつの間にか決められた自分のテーマになっているとは、ツキト自身気づいてはいなかった。





  気だるい会議を終えてデスクに腰を落ち着けた太樹に真っ先に「社長」と声を掛けてきたのは秘書の支倉だ。
「どうした」
「田中から連絡が入りました。月人様がまたお食事を全く召し上がろうとしないと」
「……放っておけ」
「ですが……」
  言いかけて、しかし支倉は口を閉じた。朝からどうにも様子がおかしいという事は長く傍にいた分だけよく分かる。また、こういう時に余計な口出しは無用だという事も。
「それより、この間タイの修復チームから連絡が入ってただろ。あれの報告書まだ出来てないのか? もう百年くらい待たされている気がする」
「申し訳ございません。夕刻までには提出するよう、再度申し付けておきます」
  やはりだ。太樹が「百年くらい…」という口癖を発する時はかなり頭にきている証拠。心の中だけで冷や汗をかいた支倉は、これ以上とばっちりを受けては堪らないと一礼して社長室を退出しようとした。
  ……が、ふと思い出して足を止める。
「……申し訳ありません。もう一つご報告がありました」
「何だ」
「月人様ですが……温室で粘土遊びをされているそうです」
「………」
「社長…。その、差し出がましいようですが、もし何でしたらもっと気の利くものを用意するよう田中の方に―」
「いい」
「は……」
  おもむろに立ち上がると背を向け、大窓から見える景色へ目を向けた太樹に支倉は眉を寄せた。
  太樹はそんな支倉に言うでもなく呟いた。
「あいつがやりたくてやってる事だ。好きにやらせておけばいい」


『太樹お兄ちゃん! 見て、これ!』


  いつも嬉々として作った物を見せる弟のそれに、太樹は正直一度も感動した事がなかった。子どもの作る物などいつも適当で粗雑で、作った本人にしか分からない。それより太樹は、幾ら家の近くとはいえ、いつも遅くまで一人こんな公園で砂遊びをしている弟そのものが気がかりだった。
「もう遅い。いつまで遊んでるつもりだ?」
「お兄ちゃんを待ってたんだよ。今日は車で帰ってこないって言ってたから。学校から電車でお父さんの所、行ったんだよね」
「ああ……」
  太樹は学生服の詰襟に窮屈そうに指を掛けながら素っ気無く答えた。それから辺りに目をやり、自然表情が険しくなる。薄暗くなった人気のない児童公園の砂場に座りこんでいるのは月人唯一人。こんな物騒な世の中で小学校にあがったばかりのガキを迎えにも来ない新しい家政婦は首だと、心の中で舌打ちする。
  そんな太樹の気持ちなどまるで気づく風もなく、月人は嬉々としながら「あとちょっとで出来上がるから待って」と砂の塊をぽんぽんと手で整えていた。
  太樹は立ち尽くした格好のまま、そんな弟を見下ろした。十以上も離れているから仕方がないが、本当に小さな弟だ。同じ親から生まれた兄弟なのに「ちっとも似ていない」とは周囲もよく囁くところだった。
「月人。今度からは家で待ってろ。こんな時間まで一人で遊ぶな」
「……一人じゃなきゃいいの?」
「ん……」
「だってみんな……僕とは遊んでくれないから…」
  山のようになっている砂を両手で叩きながら、月人は気まずそうにそう口篭った。お前の家はヤクザなんだろうと心ない子どもの言葉が知らず知らず月人を孤立させた事は知っている。それでもあまりべそべすると自分に叱られると分かっているらしい、これで必死に耐えているようだから少々健気ではあると思った。
「何作ってるんだ」
  仕方なくしゃがみこんで月人が熱心に作っているものを見やってやる。訳が分からない。子どもの作るものだから当たり前だけれど、こいつには美的センスはないらしいとは太樹のすぐ思うところだった。
「お城だよ!」
  そんな冷めた批評を心の中で唱えられているとも知らず、月人は得意満面の様子でそう言った。
「これ、凄く高くて大きいの。この間、家にあった写真で見たやつ。先の尖ったところがここに三つあるでしょう? あと、このじぐざぐのね、壁のところが難しかったけど、でも、ここがカッコイイのが好き!」
「……家にあったやつ? ああ、今度うちが修復作業に携わるあれか…」
「うん! 壊れたの、直してあげるんだよね?」
  月人は元気良くそう言い、それから途端しゅんとなったように目を伏せた。
「お父さんの会社……悪くないよね。だって、あんなお城を直せるんだもん。あんな大きいのを直せちゃうんだ。凄いよね…?」
「当たり前だろ」
  月人の言いたい事が分かって太樹はすっと目を細めた。
  地上げのような事ばかりするたちの悪い建設会社だと地元の眼は冷ややかだったが、最近は系列会社の一つに新しい部署を設け、国内外の寺社や遺跡、月人が写真で見たという城の修繕作業などを積極的に請け負わせていた。ただ新しく生み出すだけではなく、昔からの良い物は保存し守っていく活動にも関わって名を売っていくべきだと、父に最初の提案をしたのは太樹だ。太樹とて、どちらかといえば最新鋭の建造物を開発しド派手にうち建てていく事の方が好きだが、「そればかり」な父や、自分達のやり方にやたら固執する一族の人間には正直辟易していた。
  幸いそういった新しい「慈善」事業に参画する事に一番腰の引けていた父が息子贔屓故か案外あっさり乗ってきたこと、また太樹の考えを支持する者が一族内外からも少なくなかった事から、その話は面白いように進んだ。……もっとも、利益という点では呆れる程の赤字スタートで、今は寂しい数字が並ぶばかりだ。結果はこれから、焦っても仕方がないとは思うが、太樹は最近の周囲が向ける冷ややかな視線には多少らしくもなくイラついていた。親の七光りが学生の分際で好き勝手言いやがってという陰口が全くないというわけでは、勿論なかったから。
  それにしてもあの話を月人が見知っていたとは。
「僕、お城も塔も大きなビルも、みんな好きだよ」
  砂を叩きながらお喋りを続ける月人を太樹はじっと見つめた。
「それを作るお仕事、凄いよね。お兄ちゃんが会社に入ったら、もっと大きくて凄いのを作るんだよね。それで、こんなお城もいっぱいもっと長生きできるようにするんでしょ」
「……ああ」
  当たり前だろと、太樹は掠れた声で答えた。
  屈託なく笑う弟の笑顔に何だかほっと力が抜けた。月人が生まれたばかりの頃はあの両親はいい年をして今頃三人目かよと毒づく気持ちが多かったし、そうしてまで産んだ子どもを放置するその神経が信じられなかったが、所詮は自分に関係ないと見て見ぬフリをしていた。実際この弟は自分や下の妹よりも頭が足りないようで、ただ笑っているだけで気も利かないし動作ものろい。使えないと思った。
  けれど。
「お兄ちゃん、見て! ここにね、窓を作ったよ。窓がいっぱいあったら、開けたら風もいっぱい入ってくるし! 嬉しいよね!」
「窓……?」
  そんなものどこにあるんだ、というのが真っ先に思った感想だ。
  それでも太樹はくるくるとよく笑う弟の笑顔をじっと見つめたまま、ああこれがこいつの才能なのかもしれないなとふと思った。
「なあ月人」
  だから太樹はそんな月人の頭をさらりと撫でてから言った。
「まだもうちょっと先の話だけどな。俺が上へ行ったら、お前に世界一高くてカッコイイ《城》を作ってやる。そしたら、お前はそこに住めよ」
「お城に?」
「ああ。窓もいっぱい作ってやるよ。いいだろう、見晴らしいいぞ」
「うん」
  にっこりと笑う月人に太樹もようやく心からの笑みを浮かべた。あの家にいると息が詰まる、笑える事なんか何もないと思っていたけれど、たった一つだけあったのだ。
「……ならお前は俺の傍にいろよ。俺の夢を手伝え」
「うん!」


  あんなものは、約束でも何でもない。


「くだらない、な……」
  ふっと昔の事を過ぎらせた太樹は、支倉がいなくなった誰もいない部屋の中で一人自嘲するように口の端を上げた。





「資料持ってくれば良かった……」
  我ながら酷いと思いながら、ツキトは己の作品に苦笑した。
  まだまだ完成までには程遠いが、「城」はこれまでに何度も作った代物だ。傍に置いた紙粘土の袋を次々と破りながら、ツキトはどんどん大きな塊になっていくそれを面白いように眺めた。
  本当にどれくらいぶりだろうか、こんな感覚。
「楽しい……」
  思わず呟いてから、ツキトは額に浮かんだ汗を汚れた手の代わりに腕でぐいと拭った。
  こんな風に無心になれたのも、真っ白な気持ちで何かを作ろうと、作りたいと思えたのも久しぶりだ。本当はただ単に気晴らしがしたかっただけだ。余計な事を考えたくなかったから、何かすれば忘れられるだろうという、ただそんな気持ちだけだった。
  けれど一旦始めたらこんなにも打ち込める。何かを作り出す事がこんなに楽しいという事を、ツキトは本当に長いこと忘れていたのだ。
「そういえば兄さんも……仕事している時は何かつまんない事でイライラしても全部忘れられるって言ってたな……」
  思えばこれだけが唯一自分たち兄弟の共通点かもしれないとツキトは思った。お互いに夢があってやりたい事があって、それをしている時は全部忘れられる。姉の陽子は多趣味で何でも好きだと言っているが、何もかも投げ捨てて夢中になれるかといえばそんなものはなく、太樹やツキトの事は「おたく」と言ってバカにしていた。
「うん、でも…。やっぱり、楽しいや」
  兄の事を思っていても、今はあの自室で篭っていたような焦燥や怒りは湧いてこない。
  ひどく穏やかな気持ちだった。
「ん…」
  けれど、その時だ。
  ツキトがふっと一息つき、粘土から意識を離した時にその音はした。
  コツン、と。
  小石のようなものが遠慮がちにツキトの目の前にある窓を叩いた気がした。
「……?」
  気のせいだろうかと思って一瞬は首をかしげたものの、そのすぐ後に今度ははっきりと、もう一度コツンと…小石ではない、何かが窓に当たった。
「え」
  ぎくりとして思わず窓に手を掛けた時、ふっと現れた黒い影にツキトはぎょっとしてその手を止めた。
「………月人君」
「……っ!」
  その声は確かにツキトを呼んだ。それを知覚したツキトは反射的にガラリと大きな音を立てて窓を開けてしまったが、直後焦ったように振り返っても田中が中に入ってくる様子はなかった。
  ほっと胸を撫で下ろし、ツキトは改めて声のした窓の方へ顔を寄せた。
「月人君」
「……上月さん?」
  そこにはあの時の探偵―上月―が身体を屈めるような姿勢で立っていて、驚き口を開こうとするツキトには「しっ」と自らの口に人差し指を当てた。
「何……」
「静かに…。向こうに見張りの人がいるだろ」
  聞き取れるかどうかくらいの小声で言い、上月はその後ようやっと少しだけ笑ってみせた。
  そして彼はツキトの後方にある温室の入口、自分の左右にももう一度警戒したような視線を配ってから言った。
「ここから出たい? もし君が望むなら…外へ出してあげる」



To be continued…




9へ戻る11へ
(※「戻る」リンクはツキトシリーズのページへ飛びます。)