あの窓を開けたら


  ―9―



  ツキトらの母は普段から「外で働く夫を陰で支える貞淑な妻」という役柄を見事に演じきっていたが、実際家の中の事は通いの家政婦に一任していた。掃除も洗濯もそして料理も、彼女曰く「嫌いではない」という事だったが、少なくともツキトは母が自分や兄の太樹の為に何か甲斐甲斐しく世話を焼いたりといったところを見た事がなかった。娘の陽子にだけは過剰な教育を受けさせたり物を買い与えたりという事を惜しまずやっていたが、それでもやはり彼女には親としての何かが欠落していたのか、唯一可愛がっていたはずのその陽子にさえ、「何を考えているか分からない人」などと言われていた。
  そんなわけで小林家にとって家政婦という存在は絶対必要不可欠だったわけだが、3年以上問題なく続いた人間は典子が初めてであった。下は20代から上は70代まで、これまで実に様々な経験を積んだ者たちが小林家の門をくぐってきたが、殆どの者が「激怒」するか「号泣」するかしていなくなった。理由としては陽子による意味のない嫌がらせが大体6〜7割を占めたが、その他にもツキトの両親らによる過度な我がままや叱責に耐えきれなくなったとか、長兄・太樹への叶わぬ恋煩いで病気になったとかいうものまで、とにかく色々あった。そしてその度、人見知りのツキトは折角慣れた優しい人―ツキトにしてみればどの人達も皆申し分なかった―がいなくなった失望を抱え、また新しくやって来た顔に途惑いを覚えなければならなかった。
「あのねえ、月人」
  ただ、そんな事が一体どれほど繰り返されたのか。ある時、姉の陽子が落ち込むツキトに向かってふっと口を開いた。
「あんたはまた私が理不尽な虐めをして大好きなお手伝いさんを辞めさせちゃったって思ってるのかもしれないけど。責任はいつだって向こうにあるんだからね。下僕の分際であんたと必要以上に仲良くして調子に乗るから、私の怒りを買うんじゃない」
「え…? な、何それ…。僕と仲良くするから…?」
  思いもよらない発言にツキトが唖然とした顔をすると、当の陽子は何という事もない様子でニヤリと酷薄な笑みを浮かべた。
「そうよ。あんたを好きに弄っていいのは私だけなんだから。今回の奴なんか、ホント猛烈にむかついたわ。……まあ? あんたにも自覚がなさ過ぎるのが問題だけどね。でも、これで分かったでしょ。今後あんな余所者とへらへら接するのはやめなさいよ。私をイライラさせないで」
「………」
  それこそ理不尽極まりない、それは傲慢な要求であった。
  ――が、それ以降ツキトは通いの家政婦と必要以上の会話を交わすのはやめた。…もっともそれで陽子による「家政婦虐め」が完全になくなったかと言えば勿論そんな事はなかったし、先にも挙げた「その他の理由」などのせいもあり、小林家の専属家政婦はその後も実にころころと交代したのだが…。





「月人様。もしお夜食を召し上がりたくなりましたら、冷凍庫にグラタンが入っていますから。あとは、もし甘い物の方が宜しければ台所の戸棚にカステラが入ってます」
「あ、ありがとう。でも大丈夫…」
  帰り際まで自分の心配をする典子にツキトは思わず苦笑した。
  夜も大分更けてきたせいだろうか、家の中は思いのほかしんとしている。夕食の後片付けを終え、いつもより少し遅い引き上げとなった典子を玄関先まで見送りながら、ツキトはちらとだけ背後に通じる大広間へと目を向けた。
  今があまりに静かに感じるのは、先刻までが嵐のようだったからだと言えなくもない。
  今日の午後、唐突に自宅へ帰ってきた陽子は、一旦は支倉に促され社の方へ戻ったものの、ツキトが夕食を取る頃にはまたもうちゃっかり帰還していて、姉弟水入らずの食卓に嬉々としてついていた。そうして彼女はツキトをからかうような話題は一切持ち出さず、ただひたすらに楽しく優しくそして穏やかに、実に当たり障りない近所の噂話などを面白可笑しく話して聞かせたのだ。それでツキトも、そんな姉の態度に不審なものを抱きつつも、また午後の一件で胸の奥に何か酷い靄を残しつつも、その時ばかりは肩の力を抜いて笑い、いつもより多く食事を取る事ができたのだった。
  だから、そこまでは良かったのだ。そこまでは。
「……まだ怒ってるのかな、陽子姉さん」
  典子を見送る為に出て来たはずなのに、ついちらちらと背後を気にしてしまいながらツキトはくぐもった声を出した。
「そうですね…。全く、田中さんの言い方が悪いからですよ!」
  落ち込んだようなツキトに典子も一瞬はしゅんとなった顔を見せたが、すぐに怒り心頭の様子でぐっと拳を握り締めた。
「陽子様だって月人様とは本当に久しぶりなんですから、ちょっとは独占したいお気持ちになったりしても仕方がないと思うんです。それなのに、あんな風にその発言のいちいちに目くじら立てたりしたら、陽子様だってご気分を悪くされるに決まっています!」
「…でも田中さんも真面目な人だから。それが仕事だと思ってるんだから仕方ないよ」
「いいえっ! それによって結局月人様が一番お困りになってらっしゃるんですから、明日また改めて私の方からもよくよく言っておきます! あんまり事態をこんがらがせるのやめて下さいって!」
「そ、そんな…」
  ツキトが記憶する1年前の典子はいつでも大人しくて気弱なイメージがあり、実際陽子を相手にしている時などはその頃の印象そのままなのだが、どうにも彼女はこと相手が田中となると人格が豹変するらしい。やたらと強気な調子で更に固く拳を握る彼女に、ツキトは困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「………」
  もう一度背後の、奥にあるであろう陽子の部屋へと目をやる。彼女が不貞腐れ、それを宥めに行った田中はまだそこから戻って来ない。
  広大な敷地面積を誇るツキトの自宅はどの部屋も十二分なスペースが確保されているが、陽子が使用している一階の自室はその中で最も広い。玄関を上がって真っ直ぐ奥へ行った先のそこは風通しの良い庭園と隣接しているせいか日当たりも良く、冬は暖かく夏は涼しい。以前は客間として利用されていたが、いつの間にやら陽子専用の自室に改造され、逆に2階と3階は遊ばせるだけの部屋が増えた。
  だからツキトの見張り役である田中が居候できる部屋なども問題なくたくさんあるというわけなのだが…。
  陽子がへそを曲げた原因というのが、つまりそれである。
  田中が待機用の部屋をツキトの隣にしたと知った彼女は、先刻までの笑顔をあっという間に吹き飛ばして猛烈な勢いで怒り出した。ただでさえ四六時中月人の隣にいられて鬱陶しいのに、寝る場所まで隣の部屋とはどういう事か、図々しいにも程がある。大体お前みたいな肉布団は車庫や廊下で寝っ転がっていたとて支障はないでしょうよ、と。そのあまりの言い様に茫然とするツキトや典子に構わず、陽子は驚く程の早口でその後も何だかだとまくしたてた。しかも最後には、「なら月人は私の部屋で寝かす」などと無茶苦茶な事を言い出しツキトを思い切り羽交い絞めにしてきたものだから、何を言われてもじっと静かにしていた田中も遂に声を荒げて激しい言い争いを始め、最終的には陽子も余程頭にきたのか、そのまま自室に引きこもってしまった。
「月人様」
  落ち込んだようなツキトに典子が窺い見るような顔で声を掛けた。
「でも、大丈夫ですよ。明日にはまたいつもの陽子様に戻られていますから」
「……そうかな」
「そうですよ! だっていつも大体そんな感じでらっしゃいますよ?」
「本当に?」
  言われてツキトはようやっと肩の力を抜いた。
  確かに姉には従来から少々ヒステリーの気があったが、だからといってこれ程までに酷かっただろうかとかなり不安になっていたのだ。だから典子がこれを「いつもの事」と言ってくれた事は、おかしな話だが心なしかほっとした気持ちがした。
「でも…田中さんにも悪かったよ。あんな酷い事言われて…」
「それこそ大丈夫ですよ! あの人、全然感じてないですよー! 月人様が気になさる必要なんて全くありませんっ」
  あくまでも明るく元気良くそう言う典子に、ツキトも無理に笑って見せた。
  田中が家に呼ばれた事も姉が多少神経質になっている事も、元はと言えば全部自分が悪いのだ。全ては何かにつけて家族に迷惑を掛けている自分の責任。しかし、かといってそれを引きずってばかりでは、今度はこの典子をまた心配させてしまう。
  だからツキトは何とか頷いて、それから典子に「ありがとう」と頭を下げた。
「わっ…や、やめて下さい月人様! そんな、お顔を上げて下さい!」
「あの…それじゃ典子さんも俺の事、月人様とか言うのやめてくれますか…?」
「え! そ、それは……」
「前はそんな風に呼んでなかったのに」
「はい…でも…。……いいえ、なら、なるべく頑張ってみますね!」
「なるべくって…」
  そんな事簡単だろうにと思いながらも、しかし更にしつこく言うのも憚られてツキトは口を閉ざした。典子が困っているようだったし、もう大分遅くなっているという事もあわせてこれ以上引きとめるのは悪いと思ったのだ。
  本当は頭の片隅でふっと思ってしまった事もあった。今なら姉も部屋にいるし、田中もいない。典子にこっそり頼めないだろうか? 電話をかけるのが無理でも、たとえば志井宛の手紙を出しに行ってもらうとか。それにもしそれを拒まれたとしても、今なら典子が出て行った後に自分もすぐ自宅を出て、公衆電話でも何でも探しに行けば良い。
「それでは月人様、また明日」
「うん……」
  けれどツキトは挨拶をして出て行く典子をただそのまま見送った。自分が外へ出る事もしなかった。今更また黙って家を出て行く気はなかったし、仮に外へ出たとしてもすぐに帰ってくるつもりではいたが、たったそれだけの事でも、バレれば恐らく典子や田中に迷惑がかかるだろうと思ったのだ。
  結局は兄を説得するしかないのだ。
「……今日は帰ってくるって言ってたけど」
  もう一度傍の時計を見やった後、ツキトははっと小さくため息をついた。
  どんなに遅くなろうと兄を待つ事は容易だけれど、問題は面と向かってから後だ。果たして自分は思っている事をきちんと兄に伝える事が出来るだろうか。支倉は「よく話し合って」などと言っていたが、高校にあがってから兄にまともな自己主張など出来た試しがない。そんな情けない状況で、一体どんな話し合いが出来るというのだろう。
「はあ…」
  もう一度深く息を吐いて、ツキトは所在なく何もない足元をぼんやりと見つめた。
  そして。

  『彼は……太樹社長によく似ていると』

「似てなんかいないよ…」
  もう一度陽子のいる部屋を振り返ってツキトはぽつりと呟いた。陽子が何故志井を見てそんな事を言ったのか、けれどツキトは食事の時にも彼女にそれを訊ねる事はできなかった。逆に姉が自分に対し東京での事を一切訊こうとはせず、また志井の話もしないでいてくれた事に心のどこかで安堵していた。それをおかしいと、いつもの姉らしくないと思いつつも、ツキトは確かに安心していたのだ。
  何だか触れられるのが怖かった。
「でも似てない……。どこが似てるんだよ……」
  何度も口に出して言ってみて、ツキトは更にかぶりを振った。志井に会いたい。とにかく会って確かめたい、自分のこの気持ちを。
  今はただそれだけだった。





  結局、兄の太樹が帰宅したのは午前も1時を過ぎた頃だった。
「まだ起きていたのか」
  車の音を聞きつけ急いで階下へ下りてきたツキトに、太樹は少しだけ驚いた顔を見せた。後から下りて来た田中にもちらと視線をやって、「寝ろ」と一言言いおいてリビングへ向かう。
  ツキトはその言葉が田中だけでなく自分にも向けられたものだと分かっていたが、階段の途中で止まっていた彼女にだけ下がるように目配せして、自らは兄の後を追った。
「どうしたんだ」
  案の上、太樹は疲れたような様子ながら自分の後についてきたツキトに責めるような口調を発した。上着を脱ぎ捨てネクタイを緩めるそんな兄の後ろ姿をツキトは黙って見やっていたが、ベッドの中であれほど考えていた第一声がなかなか口をついて出てこないので、自分自身でも途惑ってしまった。
「眠れないのか」
  ソファに腰をおろしながら太樹が言った。完全にネクタイを外し、それも上着と同じくソファの背もたれに無造作に掛ける。ツキトは尚もそんな兄の様子をリビングの入口で佇んだまま、ただ見つめやった。
  何か言わなければと思っているのに。
  何故か声が出ないのだ。
「月人」
  先に太樹が嘆息しつつ声を出した。
「一体何なんだ。言いたい事があるなら早く言え。俺は今日機嫌が悪い」
「……っ」
「ん?」
「……時、なんて―」
「聞こえない」
「兄さんがっ…! き、機嫌良い時なんて、あるの…」
「…………ハッ」
  ツキトの思わず発したその台詞に太樹は最初らしくもなくぽかんとしたようだった。
  が、すぐに皮肉な笑みを浮かべると「そうだな」と口元だけで呟いた。
「お前から見ればそうなのかもな。言うじゃないか……そうか」
「あ、あの!」
  幸い兄はツキトのその無意識の抗議に別段気分を害したようではなかった。それに心からほっとしつつも、ツキトはようやくそれで口を開く気になり、急いで言葉を切った。
「疲れてるとは思うけど…。話したい事があって……」
「どうしても今夜じゃなきゃ駄目か」
「え……」
  すかさず言ってきた太樹にツキトは驚いて動かしかけていた身体をぴたりと止めた。
  太樹は言った。
「どうしても今じゃなきゃ駄目かと訊いてるんだ。機嫌が悪いと言ったのは本当だ。疲れているのもな。出来ればお前の憂鬱になる話なんざ聞きたくない」
「……憂鬱?」
「ああ」
「そ……そうかもしれないけど」

  どうして兄はこんな物言いしかしないのだろう。
  幾ら自分が迷惑な弟だからってあんまりだ……。

  いつもなら心の中ですらそんな不平は封じ込めてしまうツキトだが、何故かこの時は兄のそんな「いつもの台詞」にもむっとして胸がざわざわと騒がしくなってしまって仕方がなかった。
  ぐっと俯きつつもツキトは吐き出すように言った。
「い、今じゃなきゃ……今夜じゃなきゃ、嫌だ」
「………」
「話したいから…待ってたんだし」
  酷く我がままを言っている。大体何だ、この言い方は?
  放った瞬間そう思って後悔したが、それでもツキトは止められなかった。なかなか返って来ない声にドキドキと心臓の音が高鳴るのを感じ、悪い汗まで噴き出してくる。それでもこのまま部屋に引き下がりたくない気持ちだけは本当だった。
  ツキトはただ兄の返答を待った。
「分かった」
  するとどれくらい経ってからか、素っ気無いながらもそう答えが返ってきた。
「え……」
「聞いてやるから話してみろ」
「う、うん……」
「どうでもいいが、いつまでそこに突っ立っているつもりだ? ちゃんとこっちに来て言え」
「……っ」
  咄嗟に一昨日された事が脳裏に浮かんでツキトは知らず知らずに赤面したが、それを認めても太樹の方は何も言わなかった。ただ冷めた目をちらと寄越すと、代わりというように自分が立ち上がり、そこから隣接しているキッチンへと向かった。一呼吸つける意味合いもあったのだろう、太樹はそこで典子がいつも常備していく魔法瓶に入ったコーヒーを傍のカップにゆっくりと注いだ。
「お前も飲むか」
「い、いらない」
「なら、さっさと座れ」
  促すようにカップを持った片手を掲げ、太樹は再びツキトにそう命令した。それでツキトもようやく流されるようにそれに従い、兄が今さっきまでいた場所にすとんと腰を下ろした。胸の鼓動は早いままだった。それに何故だか異常に喉の奥がひりひりした。
「それで?」
「……志井さんと会ったって本当?」
「ああ」
  恐らくは支倉から事前に報告を受けていたのだろう、ツキトの問いにも太樹は予想していたような顔で頷いた。
  それでツキトもすぐに先を続ける事が出来た。
「何、話したの?」
「支倉から聞いたんだろう。あいつが説明した以上の会話はない」
「僕もっ!」
  焦りながらツキトは声を荒げた。
「会いたいんだ…! 僕も志井さんに会いたい…っ。もう具合悪くないし、支倉さんが言うには、志井さん、僕が落ち着いたら会いたいって言ってたって…! 兄さんは会わせないなんて言ったみたいだけど、僕は会いたいから……だから!」
「ふ……」
「なっ…何が可笑しいの!?」
  突然鼻で笑った兄にツキトはぎょっとしつつもすかさず反応してキッとした視線を向けた。けれども太樹はツキトのそんな怒った顔など気にした風もなく、依然として唇に笑みを浮かべたまま言った。
「お前もしつこいな」
  カップの中のコーヒーを一気に煽ると、太樹はようやくツキトのいる場所へ戻ってきた。そうしてそのまま隣に座り、さっとその身体ごとツキトの方を向いて真っ直ぐな視線を向けてくる。
  その迫力にツキトは思わず押されてしまった。
「口を開けば電話を掛けたい、会いたい、か。他に言う事はないのか?」
「だ、だって……」
「どこがいい」
「え?」
「あの男だ。あの男のどこがそんなに気に入ったんだ」
「そ、それは……」
  一向に目を逸らそうとしない太樹に、ツキトの方が困ってあちこち視線を泳がせた。いつでもそうなのだ。兄に見据えられると萎縮して怯えてまともな事が言えなくなる。今の兄は別段怒った風でもないのに、むしろ笑みすら浮かべているのに、いつもよりも余程怖いしどうしようもなく胸が高鳴るとツキトは感じた。
「そんなの…気づいたら好きになってたんだよ…。好きになったら、志井さんの全部が…好きだって思ったんだよ…」
「…………」
  何も言わない太樹にツキトは何故だか妙に焦った気持ちになり、更に早口でまくしたてた。
「それに前にも言ったじゃないか。志井さん、優しくて良い人だって! 支倉さんは本当にそうなのか、なんて失礼な事言ってたけど…っ! でもそうなんだ…! 兄さんがどう言おうと、姉さんや支倉さんがどう思おうと、志井さんは凄く…僕にとって大切な人だよ! 兄さんと違って僕の絵を好きだって言ってくれた、だから…! に……兄さんとなんか、全然似てない!」
「……何だって?」
「あっ…」
  兄を待っている間、それは言わないでおこうと思っていた事をものの見事にツキトは口走っていた。慌てて口を閉ざしたが、しかし勿論兄はそれを許してはくれなかった。
「それはどういう意味だ。俺と似てないから好きになったとでも言う気か? 俺と違ってお前を甘やかして…お前の好いようにさせたから、だからその男が好きになったのか?」
「ち、違うよ。そうじゃなくて…」
  しどろもどろになったツキトに太樹はここで初めて不快な表情を見せた。それをもろに見てしまったツキトはまたズキンと胸を痛めた。
「そうじゃなくて……。で、でも、会いたいから…」
「何が『でも』だ」
  ウンザリしたように太樹は言い捨て、それからようやく視線を逸らした。ほっとしてツキトがそんな兄の顔を見上げると、太樹は本当に疲れているのだろう、整えていたはずの髪もすっかりおろしてそれを掻き混ぜ、どこか遠くを見るような目で深いため息をついていた。
「結局お前の話したい事ってのはあの男に会いたい、それだけなんだな」
「え……」
「それ以外にはないんだな。もう俺に言いたい事はないんだな」
「………な、何?」
  兄はもしかして待っているのだろうか、ツキトは一瞬そう思った。
  支倉は今ならツキトがその気にさえなれば太樹も絵の事を賛成してくれるのではないか、美大への進学も考えてくれるのではないか、そう言っていた。思えばあの上月もそんな事を言っていた。家へ帰ってお兄さんに頼んで美術大学へ行くのも手ではないのか…と。こんな赤の他人である自分に対しあんな風に親身になって。
  でも、今更。
「……言う事がそれで終わりならもう寝ろ」
  言い淀んでいるツキトに兄は冷たく言った。どこか失望したような声色。その態度にツキトはまた自分が酷く傷つくのを感じた。
  兄に軽蔑されたと思った。
「兄さん……」
「絶対に会わせないとは言ったがな。もう俺もどうでもよくなってきたな、お前の事は。……考えておいてやるから、とにかく今日はもう寝ろ」
「え……」
  兄の言葉に愕然として、ツキトはまさしく絶句した。しかも、言われた事の意味は正確に理解したはずなのに何故かちっとも喜べない。仮に心底疲れていたとして、しつこい弟に多少面倒な気持ちを抱いたとしても、あれほど頑なだった兄がこうもあっさり「考えておく」などと言うとはツキトもまるで予想していなかった。志井に会える、会えるかもしれない…心の一方ではしきりに己にそう話しかける声が聞こえているのに、それでもツキトの心は穏やかではなかった。
  咄嗟に思ったのだ。


  今度こそ本当に見放される。


「兄さん……」
  そう思ったらツキトは自分でも驚く程か細い声を出してしまった。それでも太樹がちっともこちらを向いてくれず、依然としてウンザリしたようにソファに身体をもたげかけて目を瞑っている姿には途端泣いてしまいたくなった。
「どうした」
  その場で動けずに兄を凝視しているツキトに太樹が目を瞑ったまま言った。
「寝ろと言っただろ。……さっさと行け」
「………」
「それとも、あの男がいなけりゃ眠れないのか?」
  嘲笑うように太樹は言ったが、ツキトはやはり何の返答も出来なかった。悪夢にうなされた夜は志井がいなければ眠れないのは本当だ。幸いにしてこの家に帰ってきてからそうした夢は見ていないが、眠りが浅いのは間違いなかった。
  だから兄に馬鹿にされても仕方がない。志井がいなければ何も出来ない、情けないのは本当だから。
「………」
  けれど今悲しいのは、苦しいのは本当にそれだけなのだろうかと思ってしまう。
  ただ兄の目がこちらを見ないから。先刻まではあれほど注がれて窮屈だった兄の視線がないから、これほど居た堪れないのではないか。
「兄さんは……本当に僕の事が嫌いなんだね……」
  思わずそんな言葉を漏らしてしまい、ツキトは言った後すぐにそれを悔やんだがもう遅かった。
  やっと目を開いた太樹の顔が怒っているのはよくよく見ずとも明らかだった。そしてその怒りが「当たり前だろう」と罵倒されるか、それとも「馬鹿を言うな」と言ってくれるものなのか、ツキトはその事が酷く気になった。
「本当にそう思っているのか」
  太樹が言った。
  それはツキトが願う後者の台詞だった。
「月人」
  そっと兄の手が頬に当てられてツキトは驚いて顔をあげた。瞬間、自分が知らぬ間に泣いてしまっていた事に気づく。ツキトは慌ててその手を振り払おうとしたが、しかし兄は離してはくれなかった。
「月人」
  それどころかもう一度強く呼ぶと、太樹は上体を起こして再度ツキトを真正面で捉えると、触れていたツキトの頬をさらに撫でるようにして両手で包み込んできた。
「た、太樹兄さ…?」
「どうして泣く」
「そ…だって……」
  どう答えて良いか分からなかった。それでも太樹に触れられているところがどんどん熱くなって、ツキトはまた無意識のうちにそれを取り払おうとした。
  太樹はそれを許してはくれなかったが。
「あ……」
  ゆっくりと迫ってきた兄の顔がすぐ間近に来ても、ツキトは自分が何をされようとしているのかが分からなかった。だからその瞬間まで、目を見開いたまま兄のその所作をツキトは黙って見つめ続けてしまった。
「……っ」
  不意に重ねられた唇にどくんと心臓が飛び上がったが、同時にそのまましんと静まり返ってそのまま死んでしまうのではないかという感覚に囚われた。
  兄の口付けは最初こそただ触れてきただけだったが、一度離された後すぐにまた今度は深く重ねられ、上唇を食むようにも吸われ、また押し潰された。
  ツキトの存在自体を確かめるように、それは何度も繰り返された。
「んっ、んぅ…。や、兄さ…っ」
「煩い…」
  抵抗を示そうとしても、唇を離した一瞬の隙にひどく冷静な声がただそう嗜めてくる。
「ふ…っ」
  その後も息が苦しくなってはっと唇を開いた瞬間、それを待っていたかのように舌が差し込まれた。それにも驚いてツキトはびくんと身体を跳ねさせたが、しっかりと抱きとめてくる兄の腕のせいでそれ以上の身動きは取れなかった。
  永遠に続くかのようなそのキスにツキトはもう何も考えられなかった。
  何故とも、どうして、とも。
  暫くしてやっと解放された後も、何も問い返す事ができなかった。





  怖い夢を見た翌日の現実にはきっと良い事が待っている……そういうものだろうと、いつだったか志井は当然のような顔で言った。
「志井さんって意外に楽観主義者なんだね。そんな風に考えるなんて」
「そうかもな」
  ツキトの指摘をすぐに認めて志井は軽く笑った。それからベッドの中で顔半分だけ覗かせているツキトの髪の毛を愛しげに何度も何度も掻き混ぜる。
「でも、そう思えれば悪い夢もそこまで悪くないだろ? 夢は夢なんだし……俺もついてる」
「うん……」
「お前のことずっと見ているから、安心して眠ればいい。な、だから…もう泣くなよ?」

  あんまり泣き過ぎてお前の目が溶けたら、それこそ大変だよ。

  冗談なのか本気なのか分からない顔で志井はそう言い、今度はツキトの目元にちゅっと軽いキスを落とした。ツキトはそれを焦った風に受け入れながら、そうだな、こんなに何かというと泣いてしまうのは本当に駄目だなと心から思った。東京に出てくるまでは泣くなんて事は滅多になかった。姉に罵倒されても両親に愛想を尽かされても、そして兄に冷たい目を向けられても。ツキトはここまで涙脆くはなかったし、むしろそういった感情はいつの頃からか麻痺してしまっていたのか、枯れ井戸のようにいつでもその瞳は乾いていた。
  それが志井とよりを戻してからはやたらと「それ」が出るようになった。志井に触れられキスされるだけで泣く事もあったから本当に困りものだったが、どこか糸の切れたその感情の波は、もしかすると絵が描けなくなった事とも関係しているのだろうかとツキトは考えていた。
  沈黙を続ける右手に代わって別のところが悲鳴をあげているのか。
「志井さん、ごめんね…」
「ん……馬鹿。何でそこで謝るんだよ?」
「……うん」
  志井の優しい声と額を撫でる感触に、それでもツキトはもう一度「でもごめん」と謝った。こんなに優しいのに、こんなに愛してくれているのに、自分はまだどこかで恐れている。
  本当はあの悪夢も、一番怖いのはあの狂人が出てくる時ではないのだ。それを志井に話せていない。無論、自分を苦しめている元凶は己の身体と心に徹底的な傷を残していったあの男に因るところも大きいだろうが。
  それでも。
「ごめん、志井さん…」
  それでもツキトは、一番悲しくてどうしようもなくうなされてしまう悪夢はそれとは別のものだと知っていた。
  けれどそれを志井には言えない、何故なら――。


  一番の悪夢は過去に突然自分を蔑み、「もう終わりだ」と言った……志井が出てくる時だから。



To be continued…




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