あの窓を開けたら


  ―11―



「上月さん…どうしてここに?」
「驚かせてごめんね。でもどうしても気になって」
  互いに周囲を気にしながらの小声だった。そしてツキトは手にした粘土をぎゅっと握り締めたまま目の前の上月を凝視し青褪めた。彼の口元には僅か殴られたような痣があり、目元にも大きな絆創膏が貼られていたのだ。
「こ、上月さん、その顔…」
「え? ああ…何でもないよ」
  少しだけ傷口に触れるような所作を示したものの、上月は平気だという風に笑って見せた。しかしツキトにはとてもそうは思えない。住居不法侵入を果たしているからという事とは全く別に、今の上月はひどく憔悴しているように見える。明らかに誰かに暴行を受けたのだ。自然早くなる心臓の音を意識しながら、ツキトは「まさか」と口元だけで呟いた。
「上月さん…もしかして兄さんが…」
「違うよ、君は余計な事を考えなくていい。全部僕が決めて、僕が勝手に動いている事だから」
  きっぱりと言い放ち、上月はまた辺りへ警戒したような目を向けた。
  それから再び急いたように言う。
「それより、月人君こそ大丈夫かい? 心配だったんだ…。外に出してもらえないなんて、そんなの幾ら何でもやり過ぎじゃないか。僕も最初は、月人君はあの人といるより家に戻った方が絵の勉強も出来るだろうし、良い事だと思ったよ。勿論、今だってその思いは変わらないけど…。でも、見張りまでつけるなんて、こんなのは間違ってる」
「あ…」
  でもそれは全部自分が悪いのだからと言おうとして、けれどツキトは口を噤んだ。太樹を責めるような上月の口調は辛かったけれど、彼にしてみれば兄からはきっと理不尽な扱いも受けたのだろうから、そんな彼を前に兄を弁護する事は憚られた。
  それに何より、上月は「心配だった」と言ってくれたのだ。こんな自分に。
「上月さん…どうしてそんなに…?」
「え?」
  だから思わずその疑問が口をついた。
「だって、僕とはあの時会ったのが初めてだし…。仕事でやってただけでしょう? それなのに…」
「……言っただろ。僕は絵をやめたけど、君には描いて欲しいと思ったんだ」
  視線は常に他所を向きながら、しかし上月ははっきりとそう言った。横を向いた彼の額の傷は、ツキトの立つ位置からはよく見えた。
「くだらない理由だよ。君は何も気にしなくていい。僕が勝手に君を自分の身代わりにしているだけなんだ。…ほら、同じ《月》がつく同士だろう? それで…はっ、君の事を調べているうちに、どんどん勝手に親近感を持ったってわけさ」
「上月さん…」
「それより、さっきも言っただろう? 外に出たい? もし君がそうしたいなら手伝うよ。……あの人の所へ帰りたい?」
「え……」
  上月のその台詞にツキトはどくんと胸を鳴らした。それを誤魔化すように咄嗟に背後を振り返る。大丈夫、田中はまだこちらに気づいていないと思った。
「彼には何も言わないで急に消えたみたいに来ちゃっただろ。……お兄さんも強引だよな、だからもし月人君が彼の所に一旦戻るっていうなら手伝うし―」
「こ、上月さん…!」
  けれどツキトは上月の言葉を最後まで聞かず、不意に一歩後退した。
  その様子に上月は一瞬ひどく驚いた目をした。ツキト自身はその事に気づかなかったが。
「ぼ、僕は、……行けないです」
  ツキトはそう答えた。
  まるで葛藤がなかったと言えば勿論そんな事はなかったが、その選択は割とすぐに口をついた。それはツキト自身すら驚く程の決断の早さだった。
  あれほど志井に会いたいと思っていたのに。否、そう思っている事は今も間違いない。連絡を取りたいと思っている、話したいと思っている事は事実だ。それは決して揺らいでいるとは思わないのだけれど、それでもツキトは上月の誘惑には首を振った。
  むしろその誘いを何故かとても怖いもののようにすら感じて。
「ごめんなさい…。でも、行けない…。僕が今家を出たら迷惑が掛かる人がいるし…。それに、それに僕は、兄さ…っ」
「え?」
  言いかけて途切れた言葉を上月が問い返した。ツキトはそれに無意識に頷いてから、ごくりと唾を飲み込んだ。
  そう、もう勝手に逃げ出してはいけないというのは自分の中の絶対なのだ。
「兄さんときちんと話して…。自分の事きちんと決めて…ちゃんと分かってもらってからでないと。……ここを出る事はできないです」
「……そう」
  月人君がそれでいいなら、と上月は口元で呟いた。それからようやくほっとしたような笑顔を向ける。
「余計なお節介だったね。でも安心した。無理やり閉じ込められてるんじゃないかって気が気でなかったから。はは、会社からは謹慎命令出てるんだけど、気づいたら来ちゃってたんだ。こういうところは探偵の素質があるのかな、フットワークが良くなくちゃ勤まらない仕事だから」
「す、すみません…」
「だから気にしないでって。それじゃ、行くね。元気そうなところ見られて良かった。……絵。描いてね」
「あ…っ」
  けれど上月がそうして身体を屈め、去って行こうとするのをツキトは慌てて止めた。
「で、でも上月さん、志井さんには…!」
「え?」
「ごめんなさい、俺…っ。い、いや、僕は、志井さんには連絡を…。志井さんに、急にいなくなってごめんなさいって、それだけは伝えたくて…!」
「………」
「こんなこと頼んだら…また上月さんに迷惑掛かるの分かってるんですけど…」
「そんな事いいよ」
  上月は再び体勢をツキトの方に向けるとふっと笑んで見せた。そしてポケットから黒い小型の携帯電話を取り出すとツキトに向けて差し出した。
「あの…?」
「僕の携帯だよ。仕事用のだけど、別に社から支給された物ってわけでもないし。GPSとかもついてないから、上司には落として失くしたとでも言っておくさ。それで彼に電話するといい」
「そ、そんなっ、でも!」
「それ、ずっと持ってていいから。それに、もし何かあったら僕の方に連絡してくれてもいいし」
  そうして上月は素早くメモを取り出すと自分の「プライベード携帯」のナンバーを書いてそれも強引にツキトに渡した。
「着信は勿論全部無視していいけど、この番号だけは僕からの連絡だからそのつもりで。音は消して、部屋に隠しておくといい。もう行かなくちゃ…」
「上月さん…っ」

「お坊ちゃん。どうかしましたか?」

「!!」
  しかしその時、ツキトの声が聞こえたのだろうか、扉の方から田中の問いかける声が聞こえてきた。ツキトが飛び上がらん程に驚いて振り返ると、尚もドアはとんとんと叩かれて「お坊ちゃん」と呼ぶ田中の声が響いてきた。
「な、何でもないよっ」
  ツキトは慌てて上月からの携帯とメモをポケットに仕舞いこみ、一生懸命息を整えた。しかし同時にさっと目をやった窓には、もう上月の姿は見えなくなっていた。
「………」
「お坊ちゃん。開けますよ?」
  田中が尚も声を掛けてくる。しかしそのドアが不躾に開けられる事はなかった。彼女はあくまでもツキトの事を優先し、そして遠慮しているようだった。
「……何でも、ないから」
  そんな田中に聞こえるのか分からないような声で返答しながら、ツキトは未だポケットに手を当てた状態でじっとその場に立ち尽くした。まだ胸がドキドキする。上月が突然現れた事にも、彼の誘いをすぐに断った自分にも…。
  携帯を借り受け、志井への連絡手段を得た事も。
「………」
  全てに興奮している。ぐらぐらと全身が煮えたぎり、よくも立っていられるものだとツキトは頭の片隅で感心した。
  そして思った。
「志井さん…」
  何故、自分はすぐ上月に「家を出たい」と言えなかったのだろう。田中や典子が怒られるから、そんな事は方便だ。兄にきちんと話したいから、それは勿論本心だけれど、急に引き離されてしまった志井に会いたいというこの気持ちよりも、それは優先すべき事なのだろうかとも思う。
  すぐに行くと言えなかった、それは志井への裏切りではないのか? 咄嗟にそんな考えが頭を過ぎり、その己の責め苦にツキトはぶるりと身体を震わせた。
  もし、さっき窓の外に立っていたのが上月ではなく、志井だったなら。
  志井が「ツキト、迎えに来た。ここを出て一緒に帰ろう?」と言っていたら。
「俺は……今と同じように答えるのか…?」
  自問自答するように呟いて、ツキトはそんな事を問いかけた自分に眩暈を感じた。そんなわけはないと思いながらも怖かった。一瞬でもそう思ってしまう自分自身が何より恐ろしく、信じられなかった。
  手の中の紙粘土がカサカサに乾き、その欠片が足元に落ちた。けれどツキトはその事にも一切気づかず、ただもう誰の姿もない窓の外をぼんやりと見つめ続けた。





  相馬は志井の新しい住処であるマンションへは今まで一度も足を運んだ事がなかったが、先日夕食を共にしてからどうにも気に掛かる事があり再び連絡すると、気難しい友人は意外にも「来たければ勝手に来い」と、今までひた隠しにしていた住所をあっさり教えてきた。友人と言ってもお互いドライな性格のせいか、普段から頻繁に連絡を取り合うという事もない。だから相馬が、志井がツキトという少年と「本気の」恋愛関係にあると知ったのもつい最近のことだったし、そもそも初めてこの話を聞いた時も二人は既に一度別れた後だったから、当時は「またか」と思っただけだった。志井が所謂「付き合う」相手をころころ変えるのは学生時代からの常であったし、相手が同性でしかも未成年だったという点には相馬もさすがに多少引いた思いがしたが、この男の性格から言えばそれも大して驚く事ではない、男でも女でも飽きるのが早いのは同じだなと思ったのだ。
  ところがまた暫く疎遠になっているうちに再び連絡をしたら、志井が「前の家は売った」という話と共に「ツキトと一緒に暮らしている」と言ったものだから、相馬も「おや」と目を見開いた。志井が一度別れた人間とよりを戻すなど今まで聞いた事がなかったし、「どんな子なんだ」という質問に対して「お前なんかに話すのは勿体無い」などという台詞が返ってきたものだから、俄然興味が湧いた。相馬のこのお決まりの問いかけに対して志井が返す台詞はいつだって「結構美人」とか「煩くない」とか、そんなもので占められていたから。
「新しい彼女さ。今度、俺にも会わせろよ」
「お前が見ても仕方ないだろ。……それにどうせ、もうすぐ終わる」
  それがいつもの遣り取りだった。そして志井はそんな時、いつも他人事のようにつまらなそうな顔で遠くの方を見やっていた。
  何にも興味を抱けない男。誰も愛せない男。
  それがツキトという少年の事はあんなもったいぶった言い方をしたくせに、こちらの「一緒に飯を食おう」という誘いにもすぐ乗ってきたし、実際に面と向かった時も「誰にも見せたくない」という様子を示している一方で「ところ構わず自慢したい」という顔も見せるものだから、相馬としては笑いを堪えるのに必死だった。
  ああ、これは本物だなと思った。
「だから絶対マンションには呼ばないだろうと思ってたんだが…。一回お披露目したから、もう解禁なのかねえ?」
  自分の貯蓄では一生住めないだろう高層マンションを半ば呆れた風に見上げながら、相馬は独りごち、肩を竦めた。駅前通りの華やかなショッピングモールに、傍には長閑な緑園広場。車で数十分も行けば心地良い風が吹く海岸線が臨めるなど、そこは誰もが憧れる立地条件に思えた。志井自身はそういった住環境には興味がないはずだから、恐らくは全て「あの子」の為の引越しなのだろうとは、相馬にも分かり過ぎるほどに分かった。だからまた一杯やりつつ、そこのあたりの事も是非からかってやらなければと、相馬は丸いアーケードを潜って半ばほくそ笑みながらその建物内に入りこんだ。
  ピカピカに磨かれた床が広がる清潔感あるフロアは、入った正面に管理人が常駐しているだろう受付窓口があり、その右手にはガラス扉一枚隔てた先、エレベーターが二基見えた。ただしそこから先はオートロック方式で、ルームナンバーと住人が持つ鍵、または各部屋毎に指定された暗証番号を押さなければ奥へ進む事は出来ない。
  相馬はそのエレベーターにはすぐ近づかず、そっと感嘆の息を漏らしてからぐるりと周囲を見渡した。ここはまるでホテルのロビーだ。来客用のソファとテーブル、自販機の傍には上品な観葉植物までが整然と並べられている。更にその奥の大窓からは、これまたよく手入れの行き届いた緑の芝生、バーベキューなどが楽しめそうな白い長方形の木のテーブルが目に入った。
  まさに「幸せの住処」だ。
  相馬が自らの研究上、どうしても敵対視してしまうツキトの兄の会社は、「貴方に幸せの住処をつくります」をキャッチフレーズにこうした建物をどんどん造っている。けれどあの社長が他人に幸せを提供できるような「幸せ者」だとは、相馬には思えない。友人の志井を幸せにしてくれている弟を少しは見習って欲しいものだと、相馬はちらと皮肉混じりの笑みを浮かべた。彼の弟君は既に自ら幸せの住処を手に入れている。やはり人を幸せにするにはまず自分が「そう」でなくては。そう思うのだ。
「ん…」
  ひとしきり視線を巡らせた後、相馬はある一点で動きを止めて首をかしげた。先ほどからその存在自体には気づいていたが、あまりに動きがないのが妙に気になった。
  管理人受付のすぐ横には部屋番ごとに仕切られた銀の郵便受けがあるのだが、先ほどからそれの前で一人の男性がどこか逡巡した様子を見せていた。背後からで顔はよく見えないが、赤茶けた髪を短く綺麗にまとめたスラリと背の高い若者だ。また、中にギターでも入れているのか、肩には大きめの楽器ケースを担いでいた。
「あ…」
  相馬の視線を感じ取ったのだろうか、ふと振り返ったその青年は一瞬罰の悪いような顔をしてさっと視線を逸らした。ここの住人でないだろう事はそれだけで分かった。しかし別段害があるような雰囲気ではなく、むしろ人好きのする顔をしていたので、相馬も取り立てて警戒はしなかった。
  その雰囲気が伝わったのだろう、青年は相馬に歩み寄ると、「管理人さんがいなくて」と口を開いた。
「何か御用ですか?」
  俺もここの住人じゃないんだがと思いつつ「まあいいか」としらばっくれて訊ねると、相手は手にしていた一通の封書を途惑った風に見せながら、「これを…」と呟いた。
「は?」
「これ…ここに住んでいる人に届けたいんです」
「はあ…。そこにポストがありますが?」
  それ以前に、ここまで来たのならインターホンを押して相手を呼び出せばいい。ははあ、さては想い人へのラブレターかなとは一瞬思ったが、そう思った途端、相馬はその封書に書かれている「宛名」に驚いてぎょっと目を見張った。
「克己に?」
「え…知ってるんですか?」
  相馬の態度に青年も驚いたように目を見開いたが、それからすぐ焦ったようになって手紙は後ろへ隠してしまった。何故だろうとはすぐに思ったが努めて顔には出さないようにして、相馬はにっと白い歯を見せ笑った。
「あいつとは古い友人なんですよ。俺もちょうど遊びに来たところでね。今、上に本人もいると思うんで、良かったら一緒に行きますか?」
「あ、いえ、それはまずいんで…」
「えぇ?」
  相馬のぽかんとした顔に青年はますます焦った顔をして俯き、早口でまくしたてた。
「いや、俺も会おうとは思ってないんで…手紙だけ渡しておいてもらえますか? 俺、今度渋谷でライブやる事になったんですけど、それ、もしかしたら音楽会社の人も見に来てくれるかもしれないんです。結構名前も売れてきてて。…で、絶対無理だとは思うけど、一応今回の手紙にはチケットも入れておいたんで…2枚」
「はあ…。あの、だから本人に直接渡せば?」
  無理やり押し付けられた手紙を胸のところで押さえたまま、相馬は当然の質問を浴びせた。大体、先ほどは咄嗟に手紙を隠そうとしたのに、自分が預かっても良いのだろうかという思いもあった。
「いいんです」
  しかし青年は頑なに首を振ると言った。
「いいんです、会えなくても。志井さんに宜しく伝えて下さい。……あの。一緒に暮らしている、子にも…」
「ツキト君?」
「……っ! 知ってるんですか!?」
「し、知ってるけど?」
  がばりと顔を上げた青年に半ば身体を仰け反らしつつも答えると、青年はそんな相馬にはっとしたようになり、再び俯いた。
「元気ですか…? あいつ…ちゃんと…」
「え? まあ元気だったと思うよ。克己の我がままに付き合わされて…、うーん、多少の苦労はしてると思うけど」
  どこまで言ってもOKなのかが分からず相馬も段々と口元が鈍ったが、青年の方はツキトが元気だというそれだけで満足したのか、どことなくほっとしたような顔を見せた。
  そうしてあまり長居も出来ないのか、それとも「ここに」長くは居られないと思ったのか、青年はくるりと踵を返すと相馬にはもう一度ぺこりと礼をした。
  そして名乗った。
「俺、刈谷貴広(たかひろ)って言います。手紙、宜しくお願いします」





  玄関の鍵を開けるや否やすぐにまた一人さっさとリビングへ戻って行った志井の顔は、古い付き合いの相馬でなくとも「何が起きたんだ」と絶句する程にやつれていた。
「おい…お前……」
  けれど彼はその事を親友である相馬に問い質させる暇も与えず、仕事でもしていたのだろうか、付けっ放しのパソコンに向かうと、後はもうちらとも視線を寄越さなかった。
  しかし相馬が先刻預かったばかりの手紙を「刈谷」という名と共に差し出すと、志井は思いのほかすぐに反応を返した。
「そこにゴミ箱があるだろ」
「………あん?」
「捨てといてくれ」
「………」
  開けるどころか封書を見ようともしない志井に相馬は呆れたが、何を言ってやろうかと考えているうちに「そいつは」と口を開いたものだから出鼻を挫かれた。しかしどうやら、志井は相馬とは会話をする気があるらしい。それが分かって少しだけ安堵した。
「そいつはツキトのストーカーだ。俺が会わせないから手紙だけしつこく送ってくる」
「何ィ…? とてもそういう風には見えなかったが…というか、この手紙はお前宛てだろうが」
「俺の許可を取って会おうとしてる」
  志井の素っ気無い返答に相馬はいよいよ眉をひそめた。
「律儀なストーカーもいたもんだ。『お兄さんの許可はちゃんと取ります』って? 感心じゃないか」
「………」
「じょ、冗談だぞ、冗談…。はは…」
「………」
「は、は…」
「………」
「………あー。それで、ツキト君は何処だ?」
  気まずい空気に耐えられなくなり、相馬は所在なさ気に立ったまま部屋中をぐるりと見回した。広いと言っても目当ての人間がここにいないという事くらいは分かる。恐らくは隣室にもいないだろう。どことなくしんとしたそこには、志井以外の生き物の気配が感じられなかった。
「買い物にでも行ってるのか? 俺はてっきりお前の事だから、そういうのも全部一緒にするのかと思ってたよ。だって少しでも一緒にいる為に前の仕事も辞めたんだろ」
「いない」
「ああ。だから何処行ったんだよ。お前みたいな仏頂面とこんな所で二人ってのもなぁ。ツキト君がいると思えばこそ、遊びに来たってわけだ。あの子に訊きたい事もあったし…」
「いない」
「……だから。何処へ行ったのかと―」
  言いかけて相馬はぴたりと口を噤んだ。おかしい。熱心にパソコンに向かっているはずの志井の指先が、実は先ほどからちっとも動いていない事に今さら気がついたのだ。
「おい……克己?」
「………」
「ツキト君…どうかしたのか?」
「帰った」
  志井の淡々とした声色に相馬は一瞬何を言われたのかも分からなかった。呆けたようにその場に立ち尽くし、未だ動きのない友人の背中をじっと見つめる。
  事態が飲み込めたのは、どれくらい経ってからだろうか。相馬ははっとすると焦ったように口を継いだ。
「帰ったって…お前、もしかして…。実家へって事か? おま…まさか、本当にそれってこの間の俺の言葉のせいで、か? ツキト君、家が心配で里帰りしちまったのか!?」
  これはしまったとたちまち蒼白になった相馬だったが、しかしそれならば当然のように来て良いはずの鉄拳や蹴りがやってこない。学生時代、一時期やたらと血の気の多かった志井は、たとえ相手が相馬であろうと気に食わないと思えばすぐに拳を出してきたし、それこそ誰も寄せ付けない危険な空気を纏っていた。それでも変わらず友情を止めなかった自分はどれほど寛大だろうと何度思ったか知れないが、実は今回のように自分の「余計な一言」のせいで志井が被害を受ける事も「多々」あるにはあった。……その為、全面的に「心の広い相馬善太郎」のお陰で保たれてきた友情というわけでもないのは、相馬自身にもよく分かっている。
  だから途惑いながらも一歩歩み寄り、相馬はその親友に再度声を掛けた。
「おい克己。きっちり話せよ。本当に俺のせいでツキト君、兄さんの事心配して帰っちまったのか? ……けど、ちゃんと帰ってはくるんだろう? いつ帰ってくるって―」
「案外あっけないもんだな」
「え?」
「黙って帰ったんだ、あいつ」
「………」
  志井ははっと嘆息してからようやっと振り返った。精悍としたその顔つきは、しかしやはり明らかに疲れたような眼をしていた。恐らくここ数日眠っていないのではないか、相馬にはそう感じられた。
「俺も相当バカだ、イカれてる。どっか片隅の方では自分のそういう狂ってるところも分かってたんだけどな。……なのに連絡貰ったその日に兄貴の会社まで押しかけてあいつ返してくれって…本当バカだろ…」
「お、おい…?」
「ツキトは俺のものじゃない。そんな事は言われるまでもなく、とうに分かってる」
「こら…」
「兄貴に言われた。俺とはもう二度と会わせる気はない、弟が世話になった分は幾らでも俺が望む分だけ出すからってよ。……ははっ。本当笑える」
「だから順序立てて話せって!!」
  一人で呟いているだけのような志井に相馬もいよいよ焦れたようになり、思わず声を荒げてしまった。こんな風に自棄になっている志井の顔を見るのは初めてだった。
「……落ち着けよ。黙って帰ったって、どういう事だよ。ツキト君がそんな事するわけないだろうが? 仮に俺の話のせいで兄貴の事が心配になったとしても…あの子は突然そんな事するような子か? いっぺんしか会った事ない俺でも分かるぞ、そんなこと。普通に考えて、兄貴に無理やり連れ戻されたとか、そんなんじゃないのか?」
「だとしてもあいつが何も言ってこないのは俺を避けてる証拠だろ」
「だから…」
「無理やり連れ戻されたとしても電話くらいしようと思えば出来るだろう。それとも何かよ、あの兄貴は弟を捕まえて監禁でもしてんのか? はっ…まあ、してもおかしくないような凶悪な面してたけどな」
「そりゃ…お前、それはさすがにないだろ…。可愛い弟を奪った相手だから、凶悪面にもなったんだろうよ…」
「ああ、そうだよ。だから、あいつから連絡がないのはおかしいって言ってるんだ」
  志井のどこか嘲たような笑みに相馬はむっとして眉を吊り上げた。
「け、けど、それこそ不自然だろうが! お前、ついこの間まであんな仲良くて、いきなり避けられるってどういう了見だよ? えぇ? それとも突然そんな真似されるような、嫌われる事でもしでかしちまったのか?」
「………」
「……おい。まさかビンゴかよ…」
  何も応えない志井に相馬は唖然とした。
  確かに志井はその恵まれた容姿や数々の才能のお陰で今まで女に不自由した事はないが、付き合って間もなく「フラれる」という事は結構あった。志井が女性を切り捨てるのではなく、女性の方が志井に愛想を尽かすのだ。彼女らとてバカではない、幾ら顔が良くて財産がある一見申し分ない男であっても、肝心要の「性格」が悪ければ、そのうち一緒にいるのが辛いと感じるようになってもそれは何ら不思議な事ではない。
  しかしそれはあくまでも「誰も愛せない」志井が彼女らに対して不誠実だったからこそ起きた現象であり、あれほど溺愛していたツキトに対してはそんな心配はないと相馬は思っていた。ましてや、友人である自分に見せているような暴力的な面とて極力隠して接していたであろうし。
「それとも…愛しすぎて《重い》とでも思われちまったか?」
  口にしつつも、本当はそんな事微塵も思っていない。志井から反応を引き出そうとして言った言葉だったが、予想に反してそれは見事に空振ってしまい、相馬は肩を落とした。
  それで仕方なく先刻からの考えを再度口にする。
「しかしどっちにしろ腑に落ちないぞ。おい、本気でよく考えろ。仮にお前がツキト君に致命的な事言ったりやったりしたとしてだぞ? やっぱりあの子はお前に何も言わずに去るような事はしないよ。本当はお前だってそれは分かってるんだろ? だから闇雲に兄貴の会社にまで押しかけて行ったんだろうが? 何で帰ってきちまったんだよ、家、探して迎えに行けよ。ツキト君、きっと待ってるぜ」
「………兄貴だけじゃなく、帰り際あいつの姉貴にも会ったんだ」
「あん?」
  未だ自嘲するような笑みを口元に張り付かせていた志井は言った。
「自分らもツキトがいなくなって相当反省したんだと。だから、あいつのやりたいように、美大も行きたいってなら行かせてやってもいいと思ってるとさ。……あいつは行きたいに決まってる。ちゃんと勉強した方がいい。あいつには凄い才能があるんだ」
「………」
「俺から離れれば…あいつは、きっとまた描ける」
「……?」
  ツキトが絵の才能があるという話は相馬も初めて電話で話した時に志井から聞いて知っていたが、最近「描けなくなってしまった」という事に関しては深く訊いた事はなかった。志井が話したがっていないというのは何となく分かったし、そういう類の話は無理に問い質す事でもないだろう、兎角芸術家とはデリケートなものだからと思っていたから。
  が、相馬が今日志井の元を訪れたのは、実はその事と少しばかり関係があった。目的のツキトがいなければその話も出来ないわけだが。
「……なあ。どっちにしろ、ツキト君には会えよ。絶対」
  だから相馬はとりあえず今日の来訪の目的は消し去り、言い含めるような表情で志井を見やった。
「ツキト君、絶対お前の事好きだぜ。なあ…お前だってそうだろうが。迎えに行けよ、絶対待ってる」
「……俺は」
  志井が口を開いた。
「ずっと想像してた事がある。もしツキトがある日突然、家に帰りたいと言ったら、俺はどういう態度を取るんだろうってな」
  相馬にちらりと視線を向け、志井は口の端を上げた。
「たぶん俺はそれがあいつの為に良い事だ、必要な事だと思ってもあいつを離さない。今までだってそのエゴで縛りつけてたんだ。だから本当は…あいつが黙っていなくなった事は、俺にもあいつにも良い事だったんだろ」
「おい…何言ってるんだよ?」
  相馬の半ば責めるような問いかけを志井は無視した。もう誰も見えていない、否、そもそもこのマンションへ越してきてから、ツキトを再び取り戻してから、志井の眼に映るものはツキトしかなかったのだ。
  その異常なまでの情愛を押し殺し押し殺し……その上で、ツキトから消えられた。
「もし俺が会いに行ってあいつが……ツキトが家に残る、家族を取ると言ったら」
  志井はぎゅっと固く拳を握り締めて俯いた。
「俺はあいつを壊すんじゃないか……そんな気がするな」
  最後はまるで他人事のよう言い振りだった。虚ろな視線はやはり何を見るでもなくただ己の拳にだけ注がれていて、それが傍の友人に向けられる事はなさそうだった。
「克己……バカかよお前は」
  相馬はそんな志井の黒い感情に心密かに嘗てない恐れを抱きながら、それでもその言葉には納得がいかなくて小さく舌を打った。ツキトが「一緒に帰りたい、志井さんと帰る」と言う方向へは何故持っていけないのか、何故その確信を得られないのかと、そう問い詰めたかった。
「………」
  けれどらしくもなく、相馬はその思いを口にする事は出来なかった。だから自らも何となく視線を彷徨わせ、キッチンとリビングを挟むカウンターにあった電話へと目をやった。それが鳴る気配はない。確かにツキトから連絡が一切ないという、その事は酷く気に掛かった。



  折しもその頃、ツキトは上月からの誘いを断り、再び温室での作業を開始していた。田中がいる今はまだそれには触れられない…。ポケットの中の携帯を意識しながらも、ツキトはただひたすら土を練り、額から汗を落とした。



To be continued…




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