あの窓を開けたら


  ―12―



  ツキトが半日をかけて形にした粘土の城は、その日のうちに完成を見る事は叶わなかった。
「あと3秒でここを出ないとその玩具、典子に壊させるわよ」
  顔は笑っていたがそれが本気だという事は長年の付き合いでツキトにもよく分かった。
「そんなもの弄繰り回して。あんた、今幾つよ」
  姉は心底バカにした様子でハンッと哂った。
「その様子じゃ汗も凄く掻いてるでしょ。まったく…今すぐお風呂に入ってきなさい。その後、私と一緒に夕食をとるの」
「でもあと城壁と、この塔の右側面だけで…」
  手の中の粘土を握り締めながらツキトは精一杯そう抵抗の意を示してみたが、そんなもので姉が心を動かすわけもなかった。姉の背後に、恐らくは無理やり持たされたのであろう、金槌を手に今にも泣きそうな顔の典子の姿がちらりと見えた。
「………」
  ツキトは諦めてゴム板の上に粘土を置いた。そして、まずは着替えを取りに行くフリをして上月の携帯電話を部屋の何処かへ隠しに行かなければと、それだけを思った。
「やっぱり家族なら食事くらいは一緒に取らないとね」
  …―そうして姉の言う通りツキトが汗を流して食事の席についたのは、それから小一時間程経ってからだった。
「あんたも飲みなさい」
「え…でも僕は、ワインは…」
「付き合いなさい。一口くらいならいいでしょ」
「………」
  有無を言わせぬその迫力。傍にあったグラスには既に赤い液体が注がれていた。
  ツキトはそっとため息をつき、半ば自棄気味にそれをぐいと煽った。
「いいわよねえ、こうやって向かい合わせに取る食事って」
  そんな陽子の方はツキトを待っている間に既に大分グラスを空けていたのか、いやにご機嫌な様子ですうっと目を細め、自分の目の前に座るツキトをじっと眺めやった。 
  これまでの、少なくともツキトが知る一年前までの陽子は、「家族なら食事くらいは一緒に」などと言う人間ではなかった。確かに昔から弟のツキトにだけは支倉が言うところの「逆セクハラ」紛いの事を仕掛けやたらとしつこく絡んできたが、基本的には家にいない事の方が多く、家族との接触も極力避けるようなところがあった。父には物をねだるだけ、母は都合が悪くなった時にだけ利用する味方、そして兄の太樹は「金を生み出す事にかけては一緒にいて便利」だが、それ以外はただ「玩具(=月人)を独り占めする嫌な奴」であった。

『でもね、あの人が本気で怒ると何だか凄く面倒だから。私はあんたがいなくても、とことん駄目になるって事もないし。だから大人になって譲ってあげてるの』

  以前、陽子はツキトにこっそりそう言った事があった。ツキトが何の事だと首をかしげても姉はそれ以上の説明をしてはくれなかったが、ともかくただ一つはっきりしているのは、陽子がこの世で一番愛している者は陽子自身であり、家族は勿論、ツキトでさえもそれ以下だという事だった。
  しかしながら「自分に劣る」存在でも、陽子にとってツキトという弟が絶好の遊び道具である事は間違いがない。ツキトが自宅に戻ってきてから彼女がこうして熱心に自分の貴重な時間を割くのも、全てはその玩具でどうにかして楽しく遊びたいと思っているからなのだ。
「ねえツキト」
  もっとも、当然の事ながらツキトにはそんな姉の悪巧みは分からない。猫撫で声の姉に嫌な予感は覚えながらも、ツキトは呼ばれるまま素直に顔を上げた。
「さっきから全然食べてないわね。元気ないし」
  言われてツキトは再度テーブルの上のものに目を落としたが、なるほど確かに先刻からナイフとフォークを持ったまま、ツキトの手は全く動いていなかった。肉汁のよく染みこんだ熱々のビーフシチューは、本来ならとても食欲をそそるもののはずだ。けれど今のツキトにとってそれは見ているだけで気分が悪くなるものに過ぎなかった。
「別に…何でも…」
「―って、あんたが言い淀む時は決まって何か隠し事がある」
「な、ないよ! 別に!」
  探るような目を向けてそう言う姉に、ツキトは思い切り狼狽して声を荒げた。
「ふふふ…」 
  一方の陽子にしてみれば、ツキトのこんな態度は単に己の嗜虐心を煽るだけだ。この愚かな弟はどうにもそのあたりの事がよく分かっていないらしいと、心の中だけでほくそ笑む。
  一年という空白期間が気分を昂ぶらせているという事も勿論あるだろう。しかし陽子は一度は諦め斬り捨てた物が再び自分の元へ舞い戻ってきた時、これはもう自分のモノになるべくして返ってきたのだと確信した。残念ながら自分のその玩具はどこの誰とも知らない者にいじられ壊された後だったが、それはそれで他に楽しむ方法は幾らでもあるものだ。
「そう? 本当に何も隠し事はないのね? まあ、あったらあったで私は別に構わないけどね。それを暴くのもまた楽しいものなンだから」
「ないよ! ないって言ってるじゃないか!」
「はいはい…」
  ムキになるツキトに適当に応えながら、陽子はちらと、入口近くで木偶の坊のように立っている田中へ目をやった。
  ツキトはこれにも気づかなかった。
「分かったわよ。じゃあ無理に訊く事もやめるわ。私は兄さんと違ってあんたのプライバシーを尊重するからね」
「………」
「それはいいから、ほら早く、ちょっとくらいは何か食べなさいよ? 典子に聞いたけど、起きてから何も食べてないって言うじゃない」
「食欲がなくて、さ…」
  ぼそりと呟いたツキトに陽子はすっと唇の端を上げた。
「やっぱり太樹兄さんがいないと駄目なのかしらねえ?」
「え…?」
  はっきりと棘のあるその言い様に、ようやくツキトも眉をひそめた。表情を翳らせ視線を向けると、目の前にはいよいよ可笑しくて仕方がないという姉の酷薄な顔があった。
「我らが偉大なお兄様は今日もお帰りが遅いそうよ。色々とお忙しい身ですからね、不出来な弟の面倒ばっかり見てられないってわけよ」
「べ、別に…っ。頼んでないよ、そんなこと」
  ツキトがむっとしてフォークをテーブルに置くと、陽子はふふんと鼻を鳴らした。
「強がっちゃって。何なら私が太樹兄さんの代わりにあんたにプリンを食べさせてあげてもいいのよ?」
「!」
「大好きな兄様に見ていてもらえないと食事も満足に取れないだなんて、困ったワガママ王子もいたもんだわね。でもま、そういうところがまた可愛くて私も好きなんだけど」
「姉さんっ」
「月人」
  ツキトが何かを言いかけるより前に、陽子はぴしゃりと制しニヤリと笑った。
「ねえ。あんたの後ろから今にも私に飛び掛かってきそうなヒグマを何処かへやってくれない?」
「え…?」
  姉の視線に流されるようにして振り返ったツキトの後ろには、既にツキトよりも頭にきているような不快な表情を湛えた田中がいた。陽子はその巨体を忌々しそうに見やった後、自分の横にいる典子に言った。
「ねえ典子。お兄様は私と月人との姉弟水入らずの楽しい会話まで邪魔しようと思って、あれを寄越したわけじゃないわよね?」
「えっ!? は、はいっ。それは勿論っ」
「それに兄様は、月人が外へ行く自由は認めなかったけれど、この家の中でならこの子の思うようにやらせてもいいって言ってなかった?」
「お、仰ってました!」
  うんうんと頷く典子に気を良くして陽子はますます意気を上げて言った。
「なら月人が私と2人きりで話したいって言えば、あれもよそへ行っていてくれるはずよね」
「はいっ」
「それはできません!」
  典子の声を掻き消すように田中は言ったが、陽子は構わず再びツキトへ視線を戻した。
「月人。私、あんたと真剣に今後の話がしたいのよね。他人には聞かれたくない、家族の話よ。もし嫌だって言うなら…仕方ないわ。昨夜のこと、この2人にも聞かせるしかないわね」
「え…?」
「兄様がお帰りになった時、貴方も下のリビングへ来ていたわよねえ? 2人で仲良さそうに話していたけど―」
「ね、姉さん…!?」
  あからさまに動揺したツキトに陽子は嘲笑った。そしてもう一度言った。
「そこのヒグマ。退出させて」



  陽子が兄・太樹の様子がおかしいと気づいたのは、月人が高校へあがってから間もなくのことだ。昔から口数が少なく他人からも「冷たい」という印象を抱かせる人であったが、弟の月人にだけは甘く、普段は頑なな表情もツキトの前でだけは自然緩やかになる事は、陽子も嫌になるくらい知っていた。
  それが月人が高校へ上がり、これまで趣味の範囲を超えなかった絵画を朝昼晩と、まるで何かに取り憑かれたかのように打ち込み始めるのを認めると、太樹の態度にも異変が生じた。月人に過剰とも取れる束縛を見せ、友人関係にも干渉した。陽子でさえ行き過ぎだと思うような冷酷で容赦ない言葉を投げつけ、傷つき怯える月人を更に追い詰め夢まで奪った。月人にだけ見せていたあの穏やかな笑顔など見る影もない。…それが肉親の情を超えた愛情が呼んだものだとは陽子にもすぐに分かったが、かといって兄がその一線を越えようとしているかといえば、どうにもその気配は見られなかった。無論、己の感情を隠すのは誰よりうまい人であったから、陽子にも勘付けないところでそういった葛藤もしていたのかもしれないが。
  何にしろ、太樹のその「間違った扱い」により、陽子の「あれば便利、暇潰しには最適な玩具」であった可愛い弟は、ある日突然、誰にも何も言わずに家を出て行ってしまい、そのまま帰って来なかった。だからこれには陽子も太樹に対し、さすがに恨めしい気持ちがした。確かに面倒臭い月人の子ども時代一切の面倒はあの兄が見ていた。だからこそ、あれの所有権は兄のものだろうと諦めてもいた。けれど、あんな風に手放すくらいなら自分にくれれば良かったのだ…。そう思わずにはいられなかった。



「昨晩、あんたたちキスしてたでしょ」
  一階奥にある自室のソファにツキトを座らせ、陽子は自らお茶をいれながら単刀直入にその話題を切り出した。
「な…何…」
「とぼけても無駄よ。ちゃあんと見たんですからね。ベロまで入れちゃって、イヤらしいったらないわよねえ?」
  口を開いたまま真っ赤になって動けなくなっているツキトに笑いを噛み締めながら、陽子は紅茶の入ったカップを目の前のテーブルに置いた。ただしツキトがそれを取る気配はない。
「飲みなさい。食事だって結局取らなかったんだから」
  だから無理やり言って半分まで飲ませた。飲ませた後、陽子は先を続けた。
「昔のあんたなら、あんなのされた日にはびっくりしちゃって昏倒しちゃって、そのまま立ち直れなくなってたかもしれないわよね。でも東京で修行した分、ある程度の耐性はあったんじゃないの? だって、あれが初めてってわけじゃないでしょう。東京の恋人と、キスもそれ以上のことも、何度もやってたわけでしょう」
「………」
「まあ、相手が実のお兄様なんてアブノーマルも良いとこだけど、どうせうちって普通の家じゃないんだから、そんなの気にしなくていいわよ。大体、男と付き合ってたあんたがそんなの気にする必要ない」
「………」
「……あら。ねえ、月人。私の話、聞いてる?」
「………」
「月人ったら」
「あっ…」
  おもむろに隣に座りぎゅっと頬をつねってきた陽子に、ツキトはようやく我に返ったような声を出した。陽子はその鈍い反応がやたらと嬉しくて、そのままツキトを抱き寄せるようにして引き寄せ、長い指先をその喉元へツツッと移した。
「ちょっ…」
「ねえ月人。何なら私ともしてみる? 私なら兄さんよりもっとあんたの事、気持ちよくさせてあげる」
「な、何言ってんだよ…!」
  陽子の発言にぎょっとしたようになったツキトは、そのまま身体を仰け反らして逃げようとした。
「あっ…?」
「……ふふふ」
  けれどツキトは動けなかった。陽子はニヤリと笑った後、いつの間に手にしたのか小さな透明の瓶をツキトの前へひけらかすように掲げて見せた。
「夕食のワインも、今の紅茶も。あんまりちょっとしか飲まないから効きが悪いったらないわ。これ、即効性なのよ?」
「姉さ…な、に…?」
「大丈夫。良い薬だから」
  おどけたようにウインクして見せた陽子は、蒼白になっているツキトの胸を片手でとんと軽く押した。するとツキトの身体は、それこそ陽子の従順な軽人形のようにそのままどさりとソファの上に倒れた。
「………ッ!」
「身体に力が入らないって感じるのは最初だけよ。直に元に戻るから…一応、縛っておくわね」
  陽子は平然としてそう言い放った後、これまたいつ用意したのか、細く長いロープを使ってツキトの両腕を頭の上でぎゅっと一括りにした。そうして驚きのせいか、或いはこれも薬のせいなのか…唖然としてただ唇を力なく上下させているツキトに微笑みかけ、陽子はその無抵抗な弟のシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していった。
「私はね、無理矢理はあんまり好きじゃないのよ。して下さいって言う子には喜んで縛りもしてあげるし、時には手錠なんかも使うけどね。でもまさか、よりにもよって実の弟にその一番やりたくない手を使っちゃうなんて。本当は嫌なのよ?」
「な、ら…。取って…取っ…」
「だあめ。だって、昨晩兄さんだってこれと同じような事してたじゃない」
「え…」
  薬のせいで意識がぼやけてきているのだろうか、ツキトは虚ろな目をしたままほんの微かに眉をひそめた。
  そんなツキトの姿に陽子はまた哂った。
「だってそうでしょ? あの人のバカ力で押さえつけられたらこうやって縛られているのと同じだし? それで無理矢理キスしてたわけだから。この状況とどこが違うの? どこも違っていないでしょう?」
「そん…な…の…」
「それとも、あれは合意の上でしたキスだった?」
「な…に…」
「暗かったしちょっと遠目だったからね。私もよくは見えなかったけど、ちゅーってしてるの、結構長かったみたいだし。あんたが逆らっているって風には、最後の方しか見えなかったから」
「………」
  何も言わないツキトに、陽子はその隙をつくようにしていよいよはらりとそのシャツの胸元を開いた。白く綺麗な肌が露になる。全く男にしておくのは惜しい。桃色の胸の飾りも上品なへそ元も、陽子が抱く穢れない乙女のイメージそのものだ。
「これを好きにした他人がいると思うと…それは兄さんよりむかつくのよね」
「え……」
「もう我慢できないのよ。イライラするの。ねえ月人、私に試させてよ。もしこのまま私があんたを好きにしても、あんたは勃たないのかしら」
「姉さ…」
「あんたって男にしか反応しないわけでしょ? ……あぁ、でもどうなのかしら。男としか経験ないから実際のところは分からないじゃない。でも突くより突かれちゃう方が好きなのは間違いないわけよねぇ…ふふっ」
「……っ」
「それと。…ねえ、あんた知ってた? 兄さんもね、ずっとあんたをそういう眼で見てたのよ」
「え……」
  姉のふと思い出したような言い方にツキトは微かな反応を返した。
「チューまでしてまだ分からないの? それとも無意識に気づこうとするのを止めてたのかしら? でも駄目よ、そんなの。いい? あの人も他の男共と同じ。あんたをこうして裸に剥いてね、あんたのお尻に自分のモノを突っ込んでやりたい、あんたとセックスしたいって…そう思ってたんだから」
「や…や、めっ…!」
「事実よ。あんたは知ってたはず。前は気づかなくとも…少なくとも今は、ここへ帰ってきた今は、本当は感じ取っていたはずよ。そして、あんたも満更じゃあなかった」
「……!」
  ツキトはぎゅっと目を瞑った。恐らくは耳を塞ぎたいのに出来ない、それがもどかしくてせめて視界だけでもと閉じたのだろう。陽子はそんなツキトの表情だけでゾクゾクと背中に震えが走り、気づくと乾いていた唇を何度も舌で舐め回していた。
「どうなの月人? ぼんやりしていても私の言っている事は分かるはずだし、段々気持ちも良くなってるでしょう? そういう薬なのよ、これ。ねえ、答えてよ。兄さんに突っ込まれたい? ううん、それより…私たち以外の他人に…どこの馬の骨とも知れない男共にあんたのこの可愛い身体を舐めさせて、お尻の穴にアレを挿れられて。どんな気分だったの? 気持ち良かった? 後ろだけでイケたりしたわけ? あんあん喘いで、自分から挿れてっておねだりしたの?」
「……っ」 
「泣いたって離さない。答えるまで訊くのやめないからね」
  ひどく冷えた声で陽子はびしゃりと言い、生理現象でざわざわと半身に鳥肌を立てているツキトを無視し、伸びた爪先で小さな乳首をピンと弾いた。
「いっ…」
「こっちもちゃんと硬くなるのか試してみたいわよね」
  陽子は、本当はもう大分前からずっとずっとむしゃくしゃしていた。特に昨晩は酷かった。
  兄とツキトがいずれは「ああ」なるだろうとは予測していたが、一年前、兄は自分からこの弟を手放したくせに、当然のように連れ帰った後はヒグマを飼って独り占めだ。無論、先ほど呟いた通り一番腹が立つのは「志井」だったり「村島」だったり、ツキトに「突っ込んだ」愚か者たちには違いないのだが。
  けれどその怒りを男たちにぶつける前に、陽子はまず確かめたかった。本当はツキトが帰ってきたその日に、すぐにでも手を出したかったのだ。一体この玩具がどういう反応を示しながら他の男たちに抱かれたのか、知りたかった。
「おとなしくして…ねえ月人? 私のご機嫌を取って、私を味方にしておけば、あんたにも後々有利になることは多いのよ?」
「ひっ…ぅ、痛…!」
  ツキトの乳首をぎりと摘み捻り潰しながら陽子は言った。それにツキトは苦痛に歪んだ顔を見せたが、勿論、陽子はそんな事気にならない。既にもう片方の手はツキトのズボンの前を寛がせていた。
「兄さんが何を考えているかは分からないけど。月人? 本当はあの道楽をやめたくはないんでしょ? あんなボロ温室で粘土遊びなんかに興じて何になるっていうのよ。大学、行けばいいわよ、お金なら私が出してあげるし。そうそう、私ね、あんたのあの恋人にもこのプランの事は話してあげたのよ? 志井って言ったっけ」
「え…」
  志井という名前に反応したのだろう。ツキトが目を開いてこちらを見た。
  それが嬉しくて陽子はますますぎらついた眼で自分の下で力なくもがく憐れな弟を眺めやった。
「そうよ、あんたの元恋人。ふふ、月人ったら面食いよね、私に似たのかしら? でも…ハッ、顔だけじゃねえ。あの男、覇気ってものが全くないんだもの。残念ながら私の趣味じゃなかったわね」
「志井さ…志井さん、何て…? あっ…」
  言葉を零す最中にも陽子に胸を弄られ、ツキトは耐え切れず嬌声を上げた。薬の効果で身体が過剰に反応を示し始めたのかもしれない。陽子はにんまりと笑った。
「私がね、可愛い弟にはちゃんと家から希望の大学へ通わせてあげたいって言ったら、自分もそれに賛成だって。あっさり身を引いてくれたわよ。一年も付き合ったんだからもっと食い下がるかとも思ったんだけど。もうあんたの事はどうでもいいみたいよ? あんたが想っている程には、あの男はあんたに執着がなかったって事ね」
「……う、嘘」
「むしろ、重かったんじゃないのー? 家出少年なんかいつまでも面倒見てたら、後々あの人だって困った事になったかもしれないし? あんた、聞くところによると働きもしないで全部あの人の世話になって食べさせてもらってたらしいじゃない。幾ら何でもそれってイタ過ぎ。そりゃあ、兄様も呆れて怒るってもんよ」
「……ぁ…」
「ふふ…」
  傷つき絶望しているのに、自分の手淫に反応して僅かな声を漏らすツキト。
  何て最高なんだろう。陽子は既に理性と言う名の厄介な鎖は思い切り引きちぎって頭の片隅に放り出してしまっていた。
「ねえ月人。でも安心していいのよ。だって私がいるじゃない」
  さんざ弄って赤く腫れ上がってしまったツキトの胸の飾りに、陽子はちゅうっと吸い付くようなキスをした。そしてそれを左右両方に施してその周辺までをも丹念に舐め上げた後、陽子は艶やかな声で言った。
「たとえ恋人に捨てられて兄さんに愛想尽かされても、あんたの夢は私が応援してあげる。アートの世界に才能なんて必要ないわ。要はコネ。私の力であんたの名前なんかどうとでも売ってあげるから」
「もう、や…。い、やだ…!」
「……何が嫌なのよ」
  優しく語り掛けてやった事を拒絶され、陽子の表情から笑みがすっと消えた。
目じりに涙を滲ませ、何とか抵抗しようと身体を捩る弟に冷めた目を落としながら、陽子は絹ごしからツキトの性器を思い切り強く握り締めた。
「いッ、ああぁッ…!」
  快感というよりは痛みに声を上げたツキトに、陽子は一瞬部屋の外が気になって振り返った…が、大丈夫、聞こえてはいないだろうと再び意識を中へ戻す。
「……全然勃たないわね」
  事務的な声で陽子は呟いた。尚もツキトの性器を今度はやんわりと揉み扱くようにして触ってみたが、結果は同じ。反応は全く得られなかった。ただツキトは額からどっと汗を噴き出し、未だ往生際悪く首をしきりに振っている。
「何で勃たないのよこの子は。やっぱり男じゃないと駄目なのかしら? ねえ、そうなの? 月人、志井って恋人にはいつもどうやってやってもらってたのよ。フェラとかちゃんとしてもらってた?」
「くっ…う、うぅ…」
「だからあ、そんな泣かないの。いい年してみっともないわよ? ねえねえ、どうやってやってもらってたのよう。逆にあんたが一方的にご奉仕するだけだったとか?」
「嫌だ…も…嫌…」
「そうね。パンツの上からだけじゃ物足りないわよね。私的には、さんざん弄られて絹ごしに盛り上がっちゃう図ってのが好きなんだけど。まあしょうがないか、今脱がしてあげるから―」
  けれど陽子はその言葉を最後まで発する事はできなかった。
「お嬢様!」
  典子の叫び声が聞こえてはっとしたのと同時、いきなり鍵の掛かったドアが蹴破られたと思うや否や、陽子はそこから突進してきた相手に激しく頬を殴打された。
「きゃあっ」
  平手だったものの、そこに手加減などというものは微塵もなかった。思い余ってもんどりうった陽子はそのままその場に倒れ伏し、あまりの痛みに気絶しそうになった。典子が蒼白になって駆け寄ったが、その姿もすぐには認識できなかった程だ。
「………このクソ女」
  低く押し殺したようなそれはとても毎日聞いている身内の声とは思えない。陽子はぼうっとする意識の中でそう思った。
  扉を破って突然陽子の部屋に押し入ってきた太樹は、後から駆け寄ってきた田中にすかさず「月人を運べ」と命令した。田中の返答は聞こえなかったが、その指令はすぐに実行されたようだ。どすどすという重たい足音は一度ソファの方にまで行くとすぐにまた部屋の外へと消えて行った。同時に、今さっきまでいたツキトの気配もなくなった。
「……本気で……殴ったわね」
  ようやっとくらくらする頭を抑えながら陽子は上体を起こしたが、さすがにこちらを見下ろす兄の顔は見られなかった。ちょっとした悪戯心じゃないと軽く笑い飛ばせる状況でない事はすぐに分かった。あんたの昨日の行動で少し焦ったのだとも、やはり言える空気ではなかった。
「私の顔に…何てことするのよ…」
「陽子。決めろ」
  毒づく暇も与えようとはせず、太樹が言った。
「自分から出ていくか、俺がお前を放り出すか」
「何言ってるのよ。私をこの家から追い出す気? 大体…あの子は兄さんだけのものじゃないのよ。月人は私の弟でもあるんだから…っ」
「あれは俺が育てた。俺の弟だ」
「弟に欲情する兄なんてロクなもんじゃないわよ!」
「弟を玩具にするお前よりマシだ」
「……お話にならない」
  陽子はかぶりを振った後、鼻で哂った。けれど後が続かない。頬が痛い、目元が痛い、頭が痛い。どうにかしてやりたいと思うのだが、何にしろこの痛みは酷過ぎる。
「兄さん…」
  皮が剥けてしまうのではないかという程に強く唇を噛み締めた後、陽子はぎりと歯軋りした。
「あの子は…もう誰かのものになっちゃってるじゃないの。おまけにそれ以外にもお手つきされてんのよ。もう汚れてる。だったら……だったら、もう1番も2番もないんだから、私にだって触らせてよ…! いつも兄さんに譲ってきたじゃない! 私は!」
「……月人は暫く別の所へ置く。その間に決めろ」
  陽子の挑発には乗ろうとせず、太樹は今やすっかり表情を消してそう言った。
  そうして未だ座りこんだまま頬に手を当てている妹は振り返らず、一言だけ付け足す。
「汚れているのは俺たちだけだ」
「………」
  この時になって、陽子は初めて己の先走った行動を後悔した。目当てのものがひどく遠い場所へ隠されようとしている、その事を悟ったからだった。





  車内で太樹は一言も発しなかった。
  暗くて辺りの状況など分からない。もっともツキトも外の景色を見やっている余裕などなかったから、車が数十分程走った後その目的地に停まるまで、自分がどこへやられているのかも分かってはいなかった。ただ狭い車内で極力兄から距離を取り、窓の方に頭をもたげかけて目を瞑った。
  車を運転しているのは田中で、支倉を通し太樹に「すぐ戻ってきて欲しい」と連絡したのも田中だった。彼女は陽子がツキトに良からぬ事をするのではないかという不安に苛まれながらも、単身で彼女の部屋へ押し入る事を躊躇った。ツキトや典子の前では何という事もないという態度を崩さなかったが、実は田中も昨日陽子とさんざん険悪な事になっていた出来事を心の中でずっと重く引きずっていて、あらゆる行動に対し迷いが生じていた。だからツキトの「話をするだけだから大丈夫」との言葉にも、そのまま受け入れ引き下がってしまったのだ。…もっともその事に関して田中には責任がない。田中を傷つけ動揺を呼び、そういう風に誘導したのは今日の事を仕組んだ陽子であったから。
  それでも、太樹に指示された場所へ向かいながら田中は己の判断の甘さを激しく後悔していた。何の為に自分が雇われたのか、まさにこんな事態が起きる事を太樹や支倉は予測していたからではないか。太樹が陽子の部屋へ押し入り自分もその中へ入り込んだ時、田中は両手を縛られ、ソファの上で力なく横たわっていた裸のツキトを見て、一気に血の気が引いた。本当は気絶せんばかりに驚愕していた。幾ら陽子が非常識な人間で、巷でも色々な男を誘惑しているといっても、まさか実の弟にまでその触手を伸ばすとは、幾ら支倉にそれらしい事を説明されていても容易に信じる事はできなかったのだ。
「……着きました」
  夜遅くにも関わらず煌々と明るいライトに照らされているその大きなエントランスには、既に支倉から連絡を受けていたのだろう、支配人らしき男やその他数名のホテルマン達が待ち構えるようにしてずらりと一列に並んでいた。そこは地元でも有名なグランドホテルで、小林グループが施工にも携わった事があるという、謂わば小林家御用達の宿泊所だった。恐らくはツキトも会社のパーティなどで何度か来た事がある場所だ。
「田中」
  弱りきってぐったりとしているツキトを半ば抱えるようにして腕に抱きこみながら、太樹はすぐ傍に立った田中を一瞥した。
「お前はこれからまた屋敷に戻って支倉と交代しろ。あいつにはまだ社の方で仕事が残っているからな。お前はそのまま陽子を張って、翌朝あいつが出社するのを見届けてからまたここへ来るんだ。当分はここと…もう一つ別の場所を用意する、そこで月人を見ろ」
「あ、あの…私は…」
  もうクビではないのだろうか、咄嗟にそう思ったが太樹はそれきりもう何も言わなかった。
「………」
  黙って去って行く2人を田中はその姿が消えるまでただ茫然と見送った。
  蒼白なツキトの横顔が脳裏に焼きついて離れなかった。





  ツキトは薬のせいで全身を苛んでくる熱い昂ぶりと、それに反するように冷え冷えとしていく心とに翻弄されながら殆ど口をきく事もできなかった。
  姉から身体を舐められたり性器に悪戯されたりという事は家出をする前にも実は既に何度かあって、その事自体にはツキトもまるで免疫がないというわけではなかった。
  けれど今日の「あれ」は、今までのおふざけとは明らかにその毛色が違った。
  それくらいは如何なツキトにも分かり過ぎるくらいに分かってしまった。姉は弟である自分を明らかに性の対象として、しかもお遊びの道具として扱おうとしたのだ。こんな、自分の身体を制御することもままならないような薬まで飲ませて。
「う……」
「どこか痛むのか」
  ホテル最上階の、恐らくはここで一番の客室だろう。広過ぎる豪奢な部屋のキングサイズのベッドにツキトを寝かし、太樹が声を掛けてきた。
「………」
  けれどツキトはそれにも応えず、むしろそうして兄が自分の髪に触れてこようと伸ばしてきた手すら乱暴に振り切って背を向けた。
  恐ろしかったのだ。
「はぁっ…う…」
  ドロドロとした暗い感情が身体中を駆け巡り、赤いはずの血液すら真っ黒になっていくような感覚。その間にも陽子によってもたらされた不可解な催淫薬で身体はどんどん熱くなった。陽子が言っていたように自分は「勃ち」すらしないのに、それでもどくどくと心臓の鼓動は早くなり、顔も自然赤くなった。
  苦しい、苦しい。そして悲しい。
「志井さん…」
  だから思わずその名前を呼んでいた。
  姉の言っていた事など信じられない。志井が自分から離れようとするなどあるわけがない。きっと姉は嘘をついているのだ、そう思ったが、けれど一方でそう確信しきれない自分がいる事もツキトは自身でよく分かっていた。あんな風にお荷物で、別れた最後の夜には「あんな事」になってしまって。
  朝起きたら志井の姿は何処にもなくて。
  きっと呆れられた、怒っているんだろうとずっと気になっていたのだから。
「……月人」
「も…嫌だ…!」
  背後から兄が再度声を掛けてきてまた触れてこようとするのを、ツキトはほぼ反射的に払いのけてより一層身体を丸め、縮こまった。姉だけではない、今はこの兄の太樹もツキトには怖い存在だった。兄はあの状況を助けてくれた人だ。その事はとても嬉しくて、安心で、本当ならばすぐにでも抱きついてその広い懐に隠れてしまいたい、そういう気持ちも確かにあるのに。
  今も昔も、ツキトは太樹を素晴らしい兄として本当に尊敬しているから。
「ぼ、僕は僕は僕は……」
  けれどツキトは唇を戦慄かせながら、陽子が淫猥な笑みと共に言った言葉をどうしても掻き消せなかった。

  兄さんも他の男共と同じ。あんたとセックスしたいと――。
  そしてあんたも満更じゃあ――。

「違う…違う違う…!」
  姉の声を掻き消すようにしてツキトは目を瞑ったまま悲鳴のような声を漏らした。それだけは違う、それこそツキトはここではっきり気がついた。
  確かに自分は兄のことは大好きで、己の言動すら無意識に左右されてしまうくらいの影響を受けている。
  けれど自分は兄の太樹と「あんな事」がしたいわけではない。勿論、姉に対してもそうだ。愛情が即セックスと結びつくものだというのなら、自分の兄に対するこれは愛情ではない。血の繋がった兄弟としての、親愛の情があるだけだ。
「あんなの…あんなの、おかしい…」
  太樹から背を向けたままツキトは言った。
「嘘だ、嘘だよ…。ね…兄さん…姉さんの言っていたことなんて、だって、だって僕は違う…! 僕は僕は、志井さんのことが…」
「月人」
  けれどうわ言のように再度志井の言葉を紡ごうとしていたツキトを太樹が止めた。
「はっ…!」
「……それ以上喋るな」
  無理矢理腕を取られ身体を起こされた先に、その怒りの双眸はあった。
「兄さ…」
「黙れ」
「んっ…」
  逆らえない。怒っている太樹にツキトはいつだって逆らえない。
「ん…んぅッ……」
  引き寄せられそのまま迫ってきた兄の顔を直視する間もなく、ツキトはたった一度唇を吸われただけでぐらりと身体のバランスが失われるのを感じた。何とか抗おう、嫌だと示したいのに力強いその腕に阻まれ、そしてその後何度も繰り返される啄ばむようなキスに翻弄されて、ツキトは息をする事も許されず、ただされるがままだった。
「……ぁ…」
「月人」
  呼ばれながら、先ほど折角隠した肌を今度はまた兄の前で晒された。
「やぁッ…」
  兄にそこを触れられる。自分の意思とはまるで別物のような忌まわしい声が唇から漏れるのをツキトは聞いた。



To be continued…




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