あの窓を開けたら


  ―13―



  姉の影響があまりに強かったせいか、ツキトは幼い頃から女性そのものを苦手とし、畏れてもいた。ツキト自身はその事を自覚していなかったが、本来ならその肉体に確実なる快楽のみを与えてくれるはずの催淫剤が姉の前では全く用を成さなかったのだから、ツキトが心身共に女性に反応しない性質である事は間違いがなさそうだった。
「……ぁ…ッ」
  ただ、この時のツキトは女性だけでなく、他の誰に対してもそうでありたいと願った。
「あ、熱ッ…」
  心は既に凍りついてしまっているのに、何故身体は火照るように熱いのか。腹の底からせり上がる熱に翻弄され、ツキトは足でベッドシーツ掻き、清潔なそれにくしゃりとした皺を作った。
「熱い…っ。嫌だ!」
  けれどもがいているのはその足だけ。姉にされたように両手を拘束されているわけでもない。確かに左手は手首を掴まれ跡がつく程の痛みを与えられていたが、もう片方の右手は自由なのだ。だから本当に嫌ならばそれを屈指しこの状況を打破しようと動けばいい。
  けれどツキトはできなかった。
「兄…っ。ひ、ん…!」」
  兄の太樹に内腿から股間にかけてを優しく愛撫され、ツキトの全身は震えた。こめかみにキスされ、それを嫌がるように首を振れば、戒めのように髪に頬に、そして唇にもそのキスが降り落ちる。そうしてそれを受け入れてしまうと、ツキトはもう駄目だった。
「ん…んぅっ」
  まるで自分からねだっているかのように、ツキトは横から顔を寄せてくる太樹からの口づけに応じ、喉の奥で声にならない声を漏らした。
「月人」
  その間も太樹の手が止まる事はない。
  一度起こされ上着を脱がされたところまではツキトもはっきりした記憶を持っていたが、再びベッドに押し倒され下着を剥ぎ取られた時には、もうまともに目を開けている事もできなかった。兄の前に全て晒しているというその事実に、ツキトはただ混乱していた。
「ひ…ぅ…」
  頭の中で激しい耳鳴りがする。
「痛い…」
  耐え切れず眉をひそめると、すかさず太樹が「どこが痛い」と訊いてきた。吐息のような小さなそれが耳元で囁かれた事で、ツキトは再びぶるりと震え、首を竦ませた。
「兄さ…」
「………」
  そろりと目を開くと、兄はいつもと変わらない表情をしていた。ツキトはそれだけで泣きたい気持ちになった。自分は何も身に付けていない、全裸の状態で兄に触られ悶えているのに、この兄の方は未だシャツの襟すら乱れていない。僅かに前髪が下りているだけ。
「痛いのか」
  そんなツキトに太樹がもう一度訊いた。やんわりと包み込むように性器に触れ、それでツキトが余計に荒い息を吐いてもその所作を止めない。じわじわとせり上がっていくツキトのものを更に煽るように、太樹は静かに徐々にそれを激しく扱き始めた。
「んっ…あぁっ…」
  あまりの快感にツキトは声を上げた。信じられなかった。こうして肌を晒して誰かに触れられる、その事自体が酷く久しぶりで恐怖なのに、兄のひたすらに優しい愛撫に溺れて感じている。身体は確実に感じていたのだ。
「嘘…嘘だ…」
  首をゆるく横に振ったが、それでも身体の熱は止まらない。熱くて熱くて火傷しそうだ。兄に触れられている下半身だけではない、最初に見られた胸も、何度も唇を押し当てられた首筋も、兄に掴まれたままの片方の手首も、全部が火に当てられたように燃えていた。
「熱いよ…嫌なんだ…っ」
  自分は兄に感じている。
「嫌だ…こんなの、嫌っ。あ、あぁッ」
  そのくせ、拒絶の言葉の後にはもう喘いでいる。めちゃくちゃだった。自分はこんなに汚かったのか、卑しかったのか、最低だったのか……。様々な嘲りや罵りが耳に木霊し、ツキトの目からはボロボロと涙が零れた。
「泣くな…」
  太樹が言った。
「お前が悪いんじゃない」
  それは本当に、いつ以来なのかというほどの優しい声色だった。
「兄さ…」
「ああ」
  それに誘われるようにしてツキトがそっと瞳を向けると、その視線はもう傍にあった。それに安心してツキトが暫くそれを見つめていると、やがてその双眸は再び近づいてきて、共に下りてきた唇でツキトの口は塞がれた。
「ん…」
「月人」
  口づけをされると分かったその瞬間にもツキトは逆らわなかった。身体がそうしろと言って全ての動きを停止させたかのようだ。体内で激しく踊り狂っている血液も太樹に解放される事を願えとひたすらに命令しているように感じた。
「ん、はぁッ…」
  もう二度と、誰にも、志井にさえ感じる事はないと思っていたのに。
「やぁッ…ぁッ」
  もうすぐ、もうすぐ頂点までいく。
  太樹の手淫によって最高潮にまで上り詰めていたツキトの性器は、既にじわじわと先走りの汁を出し始めていた。兄の長くしなやかな指先が、掌が。いつもはペンを握ったり書類をめくったり…そんなところしか見ていなかったのに。今はこんな自分の小さなペニスを慰める為だけに存在しているのかと思うと、ツキトはもう何も考えられなかった。考えたくなかった。
  そしてもう目を開けていられない、そう思って再び目を閉じたのと最後の絶頂を迎えたのとは、ほぼ同時だった。
「……ッ」 
  歯を食いしばり、かろうじて絶叫する事だけは食い止めた。けれども抑え付けていた欲望が一気に放出した事で、思考も一緒に爆発した。篭もっていた熱は下がるどころかより一層燃え上がり、自責の念とごちゃ混ぜになってツキトを一気に乱れさせた。
「うあ…ああぁっ」
  みっともないだとか何だとか、そんな事はもう考えられなかった。ツキトは声を張り上げて泣いた。
「うああ、う、う、ううーっ…」
  情けなくて、それなのに未だに身体はもっともっとと刺激に飢えていて。
  いつも涙だけは零れても、どこかで「泣いてはいけない、志井が苦しむから」と我慢していた。だから声はいつでも冷静だったし、ぐっと喉の奥で嗚咽を堪える事とてツキトには簡単にできた。今までは。きちんと、頑張って出来ていたのだ。
「う、う、うううっ!」
  それなのに今は泣き続ける事を止められない。止まらないのだ。自分自身を制御する事ができなかった。
「月人」
「嫌だ、嫌っ! うああっ、うっ…。う、もう…もう触らないで兄さんっ」
「月人」
「僕はおかしい、おかしいんだっ。熱い、身体が…っ。痛い…」
「お前のせいじゃない」
  暴れるツキトを今度は上から覆いかぶさるようにして抑え、太樹が言った。ツキトはそんな兄の顔をまともに見られなかったが、脳に直接響いてくるようなその言葉だけは間違いなく聞く事ができた。
「いいか、これはお前のせいじゃない。お前の意思じゃない。全部薬のせいだ。ただの生理現象だ。だから……もう泣くな」
「嫌、嫌…!」
「分かってる」
「や…!」
「月人」
  慰めのようなキスが落ちてきて、ツキトは反射的に目を見開いた。ぶわりとまた溜まっていた涙が頬を伝って落ちた。そうこうしている間に、一度熱を放ったはずのものがまた勢いを増し始めた。
「やあぁッ」
  ツキトはそれでまた泣いた。自分を見据える太樹の腕に縋り、掠れた声で必死に問うた。それは無意識の問いだった。
「どうし…兄さんっ。熱…熱いッ。どうして…?」
「………」
「どうして、どうして…僕は、僕は感じないっ。感じちゃ、いけないのに…!」
「……あの男が好きか」
「…っ」
  ひくっ、とツキトは喉を鳴らした。パニックになりかけていたのに、兄が志井の事を持ち出した事は瞬時に分かったのだ。
「志井さ……? 僕は、う…志井さんが、好き…」
  だからそう応えた。それが真実だと思ったからだ。志井に求められた時はいつも凄く恥ずかしかったのに、嬉しくて気持ちが良くて自分は何て浅ましくいやらしい奴なんだと思いながら、それでも自分も求めずにはいられなかった。あんな風に認めてもらえた事は初めてだったし、「好きだ」、「愛している」と誰かに熱烈に囁かれた事も一度もなかった。
「志井さん…」
「……呼ぶな」
  けれどその名を再度口の端に乗せたその時、それは冷徹に掻き消された。
「あ…?」
「忘れろ。……もう忘れろ」
「兄さ…? あ、あぁ…あっ…あああッ!」
  もう随分と使っていなかったそこに指を突き立てられてツキトは絶叫した。同時に、ただでさえ既に興奮し蠢いていた性器も再び激しい反応を見せた。
「ア、アアッ」
  腿を伝って落ちた精液で僅かしっとりと濡れそぼったその場所に、兄は執拗に指を入れ、中をまさぐってきた。
「あぁッ、いや、兄さんっ、嫌ぁっ…」
  どうしてこんな事を無理矢理されているのに身体はこんなに感じているのか、悦んでいるのか、それがツキトには何より辛かった。
「やぁっ…そこ、そこ、やあぁ…」
「泣くな…泣くな泣くな月人…」
「兄さ…やだ…もうや…お願…指、抜いて…」
「受け入れろ。あんな男は忘れて…俺を受け入れろ、月人」
「嫌……志井さ…志井さんっ!」
「月人!!」
「や…やああぁッ」
  嫌なのに。
「あぁ、あ、ひぁッ!」
  中を弄られていく毎にツキトの思考は徐々に快楽だけを求め始めた。無意識に拒絶の言葉を吐いても、気づけばツキトは太樹を自ら誘い入れるように両足を左右に大きく開き、腰を振っていた。自我を失い堕ちていく事にももう気づいてはいなかった。だから兄がいつ自分に肌を晒したのかも知らなかった。
「ヤッ…ァ、アアア――ツ!!!」
  やがて太樹自身がツキトの中へとその楔を打ち込んだ時も、ツキトはただ叫んだだけだった。
「……っ…」
  一瞬呻くような声を漏らす兄の様子が何となく分かったような気がしたが、ツキトは既に壊れていた。両足を胸につくほど折り曲げられ兄に尻を晒す格好になっていても、もう気にならない。平気だった。細い腰を掴まれ、兄の方へ引き寄せられている。強引な挿入を受けやがてゆっくりと揺さぶられ始めた時も、ツキトはそれに呼応するように嬌声を上げ鳴くだけだった。
「あっあっあっ…」
  激しく腰を打ち付けられて何度も奥を突かれたが、そうされて声を上げている最中にもツキトの中にはもう嫌悪がなかった。肌を打ちつけあう音と中の粘膜に絡まりながら皮膚が擦られる淫猥な音。そして姉の、お前は突かれる方が好きなのだろう、兄に突っ込まれたいかと嘲る声もどこからか聞いたような気がしたが、それすら最早どうでもいいと思えた。
「月人…っ」
  途中で太樹が呼んだ。ツキトはそれにもすぐに反応できた。
「…っ樹…ん、兄さ…」
  声を出している最中にも動かれて言葉は乱れたが、それでも足を開いたその先に兄の姿はある。自分を貫き、少しだけ余裕をなくしている端整な顔。ツキトは声をあげながらその姿を必死に見つめやった。
「兄さっ…あっあっ…兄さんっ…」
「月人…」
  太樹もそんなツキトから目を離さなかった。互いの視線が絡まり合いながら、身体も一つに繋がっている。太樹の質量あるそれが激しくツキトの中を犯し抽挿を繰り返す。ツキトの小さな身体はその度力なく揺れ、性器は触れられずとも既に十分勃ちあがっていた。
「はぁッん、あ、あぁッあん…っ!」
「月人…っ」
「兄さっ…僕っ、ん! あっあんッ、アッ…あぁッ…!」
「月人…!」
「アアァ――ッ!!」
  そうして兄が自分の中で達したと知った時、ツキトはここでようやく自らも弾けて意識が飛んだ。真っ白になって、真っ黒になって、どろどろの沼の淵へ落ちて行くと思った。ぎゅっと強く抱きしめられ、深く唇を吸われたのは分かったが、それにまともな反応を返す事はもう不可能だった。
  ただもう堕ちた、と。
  思って、最後に、ツキトはそう願う事はもう許されないと知っているのに呟いた。
  ―――会いたい、と。





「何が美大だ。ふざけるな」
  さんざん迷って何日も掛けてようやく言えたというのに、兄は露骨に不快な表情を湛え、吐き捨てるようにそう言った。
「くだらん冗談はやめろ」
「……冗談じゃ」
  それはツキトが高校最後の夏休みを間近に控えた頃のこと。
  次々と新しい事業を興しそれに自らも深く携わっていた太樹はひどく多忙で、この時から自宅へ帰ってきても書斎に篭もり仕事をする事が多くなっていた。ツキトもそんな兄を邪魔したくはなかったから、普段は極力声を掛けないよう気を遣い、同じ屋根の下に暮らしていても何日も口をきかない事などザラだった。
  それでもその時ばかりはツキトもどうしても話さなければならなかった。自分の将来のこと、間近にやってくる夏の為に。兄の書斎をノックし、デスクに向かったままこちらを見ようともしない兄の背中にツキトはドアの前で尚も声を上げた。
「冗談なんかじゃないよ…! 行きたいんだ。僕、もっとちゃんと絵の勉強、したくて!」
「何の為に」
  兄はまだこちらを振り返らない。ツキトにはそれが堪らなかったが、一方であの厳しい眼で睨み据えられるよりはマシかという気持ちもあった。
  ぐっと俯きつつ後を続けた。
「僕…絵描きになりたいんだ。……ずっと、一生…絵を描いていたいから」
「………」
「しょ、将来の保証とか何もないの、分かってる。兄さんが言うように、僕は才能があるわけでもないし。で、でも、止めたくないんだ! もっとちゃんと…ちゃんと、勉強したいし…もっとたくさん、描きたいんだ!」
「何が勉強だ。あんなものは勉強とは言わない。ただの遊びだ」
「ち、違うよっ。僕はっ」
「月人」
「……っ」
  どうして呼ばれただけで動けなくなるのか。ツキトはそんな自分が恨めしかったが、兄のたったその一声で口を閉ざし、その場で硬直した。
「月人」
  そして兄がくるりと椅子を回して自分の方を向いた時には完全に竦んだ。
「……っ」
  目を合わせるのが怖い。いつからだろうか、昔は何でも相談したし、もっと甘えられた。兄は自分には優しく、いつも温かく見守ってくれていたから。…それがいつからかこんな風に対面するだけで冷や汗が出るくらいに怖いと感じるようになった。
「月人」
  そんなツキトに太樹はもう一度呼んだ。顔を上げろという合図だという事はすぐに分かった。観念してツキトはゆっくりと視線を上げた。
「珍しく自分から予備校へ行くと言ったと思えば…。お絵描き教室とはな。最近じゃ何でもありだ、本当にくだらん学校が増えた。大体、あんなものは人に習ってどうにかなるもんじゃないだろう。それに才能のないお前が行って何になる」
「そ、そんな事ないっ。美大受験の為にはああいう所に行って、その大学にあった対策取らないと駄目なんだ! その為の技術も磨かないと…! デッサンとか…僕、やり方とか今まで本当自己流だし、予備校とかで先生にちゃんと教わらないと…合格なんて出来ないから…!」
「必要ないと言っているだろうが。お前を美大なんぞに行かせる気はない」
「兄さん、僕…!」
「何だ」
「……っ」
  じろりと睨まれてまた一瞬は怯んだものの、ツキトはごくりと唾を飲み込むと言った。
「ぼ、僕は…僕は、兄さんが言う大学には、行きたくないんだ…」
「………」
「経済とか、全然興味ない…。僕にうちの会社の…兄さんの手伝いなんかできない…」
「……行きたくないんじゃなくて、行けないの間違いじゃないのか」
「え……」
  茫然とした目を向けるツキトに太樹は容赦なかった。
「要するにお前は逃げているだけだろう。まともな大学に入れるだけの頭がない、努力する根性もない。だからお前はお気楽なラクガキ遊びに没頭して誤魔化しているだけだ。自分の情けなさをな」
「そ、そんな…そんなの、違う…!」
「保証がないと自分で言っていたな。そうだ、あんな邪道なものに未来なんかない。俺はああいう曖昧なものが大嫌いだ。ましてやあんなもん、全てにおいて人並以下のお前が入って行ってどうにかなる世界じゃないだろう。普通の大学へ行け。努力でまだ何とかなる道を選べよ。どうしてそれくらいの事が分からない?」
「………」
「そうしてちゃんと俺の期待に応えられたら、大学卒業後は俺の下で鍛えてやる。お前を一人前にもしてやれる。お前は俺を手伝えばいい」
「………」
「分かったか、月人」
「………」
「月人」

  そんな会話を、あの後一体何度繰り返した事だろう。

「描きたい…描きたい描きたい描きたい…」
  無理矢理机に座らされ受験勉強を強制された時も、落ちてきた成績に眉をひそめられ叱られた時も、こっそり早朝のスケッチに出掛けたのを見咎められて描いたばかりの絵を破かれた時も。
「僕はただ…描きたいだけだ…」
  ツキトはいつも泣きそうになりながら、ただ黙って耐えていた。
  今思えば、もっとしっかりと立ち向かうべきだった。まともな反抗も出来ず、中途半端に直談判を繰り返し、最後には耐え切れずに家出した。一体いつからあんな風に狂ってしまったのだろう、兄との関係をうやむやにしたまま、自分はただ単に逃げ出したのだ。
「バカだ…バカだ、俺……」
  薄れゆく意識の中でツキトは走馬灯のように映っては消え去る過去の映像に囚われ、息を吐いた。
  こうして罰せられたのはその罪のせいなのだろうかと思った。





  意識が戻った時、ツキトは一瞬自分が何処にいるのかがよく分からなかった。
「……ぁ」
  ほとんど無意識に唇が開き声が漏れたが、身体は鉛のように重かった。それでも隣から聞こえてくる声に誘われるようにして何とか首だけ動かすと、その広い背中がしっかり見えた。兄の太樹。誰かと電話をしている。仕事の話をしているようだが、ツキトには何の話題だかさっぱり分からなかった。
「………」
  それでもツキトはただじっと兄のその後ろ姿を見詰め続けた。今何時なのだろう、兄はスーツの上着はまだ脱いだままだったが昨日とは違うシャツを着て、今すぐにでも働きに行ける格好をしていた。それにたとえ後ろ姿だけでも声の張りだけで分かる。兄に乱れた様子はさっぱりなかった。
  あの時の荒い吐息も切な気に自分を呼んだ声とも違う、別人。
「つ…」
  瞬時に昨夜の事が脳裏に浮かび、ツキトはそれを掻き消すように肩肘をベッドシーツにつき、そこに力を込めた。途端、目覚めた時に感じた鈍痛をまた腰の方に感じたが、努めてそれには気づかないようにした。はらりと下がったタオルケットの下から己のまだ何も身につけていない姿も目に飛び込んできたが、ツキトはただ起き上がる事だけに専念した。
「月人」
「……っ」
  ゼエゼエと息を切らしながらようやく上体を起こしたところで、電話を終えた太樹が部屋に入ってきた。ネクタイまで締めている。もう朝なのだ。思った瞬間、太樹がさっと引いた薄いカーテンの向こうから眩い光がサアッと広い部屋に差し込んできた。
「あ…」
  暗闇に慣れていたツキトは思わず目を細め、額に片手をかざした。隣接している大広間よりはスペースも仕切られている寝室だったが、キングサイズのベッド全面に光が当てられる程の大窓があったから、カーテンを開けられただけで部屋一体は途端全面が明るくなった。
  だからツキトは自分の裸もよく見えた。身体のあちこちに鬱血の跡がある。思わず下がっていたタオルケットをぎゅっと胸にまでかきこんだが、それがまるで女のやる事のように思えて、ツキトは自分でやった事のくせに一人勝手に落ち込んだ。
  太樹は暫しそんなツキトの様子を眺めた後、素っ気無く言った。
「俺は出掛ける。後で田中がやってくると思うが、入れたくなければ外に置いておけばいい。だが食事は取れよ。田中でもルームサービスでも何でも使って好きな物を持ってこさせろ」
「………」
  何を普通の顔をしてこんな事を言っているのだろう、そう思った。
  ツキトは自分の傍に立ったままただ無機的にそんな事を言う兄が昨夜自分を組み敷いた兄とは別人なのではないか、もしかしてあれは夢だったのかと無理矢理に思い込もうとした。身体には確実に行為の跡が刻まれているわけで、ここでこうして二人で朝を迎えているのだから夢のわけはないのだが、あれが本当に嘘だったらどれほど良いだろうと思った事は本当だ。
  兄を相手にあんなに乱れた自分。最後には自ら足を開き腰を振って悦んで兄を受け入れたのだ。
  淫乱、だ。
「……――人。月人、聞いているのか」
「あ…」
  ふと兄の顔が間近にあり、ツキトははっと我に返って目を瞬かせた。いつの間にか意識が他所へ飛んでいたらしい。不審な顔をして額に手を当ててくる兄にツキトはただぼうとした眼差しを向けただけだった。
「少し熱があるな」
  ツキトの額を何度か撫でて太樹が言った。
「寝てろ。身体は拭いておいたが、もしシャワーを浴びたければ短めにしておけ。すぐに出ろよ」
「……兄さん」
「何だ」
「僕…いつまでここに…」
  訊ねたい事はそれではなかった。本当はもっと大切な、もっと一番重要な事を訊かなければならなかった。でも出来なかった。
「僕は…」
「俺がいいと言うまでだ」
「………」
  兄の手はまだツキトに触れていた。額からそれは髪へと移り、また何度か行き来する。ツキトはそれを他人事のように眺めていた。言われた事の意味も何だかよく分からない、嘘もののような気がして仕方がなかった。
「月人」
「あっ…」
  それでも太樹は唇を寄せるとそのままツキトの唇にキスをし、それでも未だ虚ろなツキトに眉をひそめた。
「もう二度と放す気はない。俺の傍にいろ。……いいな」
「兄さん…」
「お前は俺のものだ」
「兄さ…っ」
  瞬間、もう一度唇をあわせられ、ツキトはされるまま太樹からの口づけを受けた。直後頬と首筋をもう一度さらりと撫でられたが、ツキトはそのまま黙って出て行く太樹に何も言えなかった。
  そして一人きりになった後、ツキトはまた声を殺して泣いた。





  それからツキトは意識だけ常に表に浮かび上がらせたまま、ベッドの中でただじっとしていた。滑稽だった。これではただ息をしているだけで、それ以外では死んでいるのと変わりない、そう思った。
  午後を過ぎたあたりになって隣室の、寝室が見えない死角の方向から田中が何度か遠慮がちに声を掛けてきたが、ツキトはしゃがれた声で一言「何でもない」としか言えず、食事は、欲しい物はと問いかけてくるそれにも「何でもない」としか応えられなかった。同じ事だけを繰り返す、それは壊れたロボットのようだった。
「お坊ちゃん」
  けれど夕刻を過ぎたあたりで、遂に田中がツキトのいる寝室へと足を踏み入れてきた。食事を取らない事は勿論、ツキトがあまりにまともな返答を寄越さないものだから我慢できなくなったのだろう。ぼんやりと目を向けた先、ひどく憔悴したような田中の青白い顔が見えて、ツキトの胸はきりりと痛んだ。
「ご…めん」
  だから謝った。のろのろと上体を起こすと田中はそんなツキトを見て一瞬ぴたりと足を止めたが、己の感情を表に出す事はなかった。未だシャツ一枚身に付けていないツキトを見て何も思わないはずはない。彼女は特別敏い人間ではなかったが、人並には気も回ったし勘も働いた。それでも田中はベッドの傍にまで来てその大きな身体を屈めると、手にしていた水の入ったペットボトルを黙って渡した。
「………」
  反射的にそれを受け取ったツキトだが、どうしてかその先は動かない。ただひんやりと冷たいそれが掌から全身に染み渡るような、その感覚は心地良いと思った。
「せめて水くらい飲んで下さいよ」
  やがて田中はそう言った。それでもツキトが動かないと見ると、彼女はご丁寧にも閉まっていた蓋まで開けてやり、早く飲めと言外に迫った。
  それでツキトも促されるままにその透明な器を口へ運んだ。
「……っ」
  じわりじわりと喉元から食道を通り腹の底へ染み込んでいくそれは、乾ききった砂が貪欲にそれを吸い取るような感覚をツキトに与えた。そうして一度摂取すると後はまたもっともっとと、ツキトはごくごくとボトルの中の水を飲み干した。
「不思議だね…」
  唇を離した後、ツキトは苦く笑った。
「別に…欲しいとも思っていなかったのに、こうやって飲むと美味しい。身体って正直だ。ううん……欲張りっていうのかな」
「欲とか関係ありません」
  田中は冷めたようにそう言った後、暫くはじっとツキトのペットボトルを握る手元だけを見つめていた。ツキトも今更田中に裸の自分を隠したり取り繕ったりするのが面倒だったので黙っていた。昨晩兄と二人でこんな所にいて、自分はこんなにやつれた状態で一糸も纏わぬ姿。その身体にあちこち行為の跡が見られれば、田中でなくとも何があったのかなど一目瞭然だ。ただ、そんな事はもうどうでも良かった。田中に知られようが何だろうが、ツキトにはどうでも良い事だったのだ。
「……ちょっと失礼します」
  やがて田中は何を思ったのか突然立ち上がり、隣の部屋へ消えて行った。何ともなしにその後ろ姿を見ていたツキトは、しかしすぐに戻ってきた田中に眉をひそめた。田中に特に変わったところはないが、その表情は珍しく何か迷っているような、苦しそうなものだった。てっきりこの水同様、無理矢理食事でも運んでくるのかと思っていたのだが、その様子もない。
「……お坊ちゃん」
  その田中は暫し逡巡した後、やがてつかつかと歩み寄るとペットボトルを取り上げ、代わりに自分の上着のポケットに忍ばせていたものをツキトの手にぎゅっと握らせた。
「え…」
「お坊ちゃんのですよね」
「………」
  それはツキトが姉との食事前に自室に急いで隠した物。
  上月から渡された携帯電話だった。
「これ…」
「すみません。勝手にお部屋に入りました」
  田中はきっぱりと白状してから首を振った。
「もうクビですね。分かってます。でもいいんです。私がこうしたいんだからいいんです」
「田中さ…」
「はっきり言って部長のことは嫌いです。社長は社長としては本当に尊敬していますが…でも、お坊ちゃんをこんなに苦しめるのなら、私は社長の事も嫌いになります」
  神経質そうな田中の目元がこの時はひどく弱々しげに見えた。それは繊細で優しい女性そのもので、ツキトはそんな田中の瞳をじっと見やった。
「お坊ちゃん」
  その田中がツキトに握らせた携帯電話に自らも手を置きながら言った。
「お坊ちゃんが東京の志井という方と連絡を取りたいなんて事は、私だって何度もお坊ちゃん自身から聞かされていたんだから知っていますよ。でも私は社長命令とかボスから言われていたからとか関係なく、その事には本心から反対でした。だってお坊ちゃんはまだ未成年ですからね。誰とお付き合いするにしても、まずは家にいてきちんと勉強した方が良いに決まっていると思ったんです」
「……上月さんもそう言ってた」
  ツキトがようやくまともな返答を寄越すと田中はすっと目を細めた。
「お坊ちゃんにこれをくれた探偵の方ですね」
「温室でのこと…気づいてた?」
「はい」
  田中は短く応えてから、「すみません」と謝った。
「だから私は、本当はあの時点でもうとっくにクビなんですよ。でもいいんです、私もあの人と同じ気持ちです。それにあの家にい続ける事がお坊ちゃんの幸せなのかどうか、社長の仰られた通りにしている事が本当に最善なのか…私にはもう分かりません。ただ…」
  一旦言葉を切ってから田中はすうと息を吸い込み、続けた。
「ただ、たった数日ご一緒しただけですが私は…お坊ちゃんの辛そうなお顔を見るのはもう我慢ならないのです。自分が辛抱するのはいいですが、お坊ちゃんの辛抱を見ているのは耐えられない」
「……田中さん」
「だからお坊ちゃん。お坊ちゃんがご自分で決めて下さい。私はそれに従いますから」
「………」
  ツキトは田中の声を聞きながら手の中の携帯電話を見つめ、やがてそれをぎゅっと握り締めた。もう会う資格なんて、それを望む資格なんてないのは分かっていた。分かっていたけれど、ツキトの頭の中にはただ「声が聞きたい」、それだけしかなかった。
「俺、これで……志井さんのところに、掛け、る…」
  本当に情けない、それは消え入りそうな声だった。
  けれどツキトは言った後は真っ直ぐに田中の顔を見据えた。どんなに浅ましくてもみっともなくとも、彼女はこんなにも自分を想ってくれている。その人に今のこの気持ちを、願いを口に出さずに誤魔化す事は絶対に出来ないと思ったのだ。



To be continued…




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