あの窓を開けたら


  ―14―



  私は外に出ていますねと言って田中が退出した後、ツキトはほぼ間髪入れずに携帯電話のボタンを押した。今まで堪えに堪えていたものがどっと噴出してきたような勢いだ。志井との新しい住処へ電話する機会など今まで一度たりともなかったが、ツキトは自分でも驚く程にその番号をはっきりと記憶していた。ずっと家にいるんだし覚えても意味ないよ―…以前そう言って笑った事があったが、志井が「もし外ではぐれてしまった時の為に」と、しつこく暗記させたのだ。その時は子どもを相手にするみたいに何なのだと、ツキトも志井の過剰な心配に引き気味だった。
  それが今、こんな風に役立つなんて。
  ツキトはボタンを押し終えた後、頭の中にしっかり刻み込まれていた番号がディスプレイに並ぶのを胸の痛む想いで見つめた。
「………」
  プップーッと電波の途切れるような音が何度かして一瞬どきりとさせられたものの、耳に当てたそこからはやがて相手方に伝わったのだろう、長いコール音が聞こえてきた。
  一回、二回、三回……。
  受話器が取られる気配はない。
  家にいないのだろうか、だとしたら何処に行っているのだろう? この時間は大抵自分と夕食の用意をしたり取り込んだ洗濯物をたたんだり…そんな事をしているはずなのに。
  ツキトはつい先日まで存在していた日常を思い浮かべながら、じっとそのコール音を聞いた。
  四回、五回、六回……。
  志井はまだ出ない。ツキトは急に不安な気持ちがした。思えば志井から離れてどれくらい経っているのか。実際にはまだ一週間と経っていないのだが一ヶ月…否、もう一年くらいは会っていないような気がした。兄は志井のところへ連絡を入れ、それで志井も一度はこちらへ来たというのだから、完全な音信不通となっていたわけではない。だが結果的に自分自身では何の連絡もできずに今日まで至っているのだから、、今ようやくこうして電話を掛けられたところでまず何から切り出せば良いのかと、今更ながら怖気づいた気持ちになった。
  七回、八回、九回……。
  確か十回目のコールで留守番電話に切り替わるはずだ。いよいよツキトは混乱し始めた。志井は留守らしい。だとしたらメッセージを残しておくべきか、そうだとしても何と言えば良い? 一言、単純に今この胸にある気持ちだけ言い置いておけば良いのだろうか。
  会いたいのだ、と。
  けれど、ちょうど十回目のコールを聞こうという、まさにその時だった。
『はい…?』
「!」
  がちゃりと電話の取れる音、そしてひどくしゃがれた聞き慣れない声がツキトの耳に飛び込んできた。一体誰だろう、志井ではない。
『あー……ゴホゴホッ! あ、あー……、失礼。どちらさん…?』
「あ、あの…」
『ここの家主なら……ごふっ。ひっ…く。あぁー…申し訳ない。今は…ちょっと取り込み中でしてね…』
「………」
『何かお急ぎの用でしたら…。私が…言付かって、折り返し……』
「相馬さん…?」
  明らかに泥酔しているが、よくよく聞いてみるとその声は志井の友人である相馬に酷似していた。ツキトはこれ以上はくっつけられないというくらいに携帯を耳に押し当て、相手の声を更によく聞こうと耳を澄ませた。
『………え?』
  すると相手は相手で、ツキトが咄嗟に発したその声を聞き取ったのだろう、ぴたりと荒くついていた息を止めた。
『ごほっ…! あー…』
  そして一旦苦しそうに咳き込んだ後、その人物は今までで一番低い声で訊ねてきた。
『ツキト君、か……?』
  ガラガラとしただみ声は変わらないが、先刻までの酔った雰囲気は消えている。
「はい」
『………』
「相馬さん、ですよね?」
『ああ…。あ、いや…あ、そうだ。……って、え、ええっ!? 本当にっ。き、君っ。ツキト君!? ツキト君なんだなっ!?』
「は、はい!」
  相手のボー然としたような様子から一転、突然発せられた素っ頓狂なそれにツキトも驚いて声を上げた。すると受話器ががたんと下に落ちる音が聞こえ、次いで相馬の「克己ィッ!!」と絶叫する声がツキトの所にまでビーンと届いた。またその直後、恐らくは相馬のものだろう、ゴホゴホゴホッという、まるで血でも吐いているのではないかというくらいの壮絶な咳が派手に響き渡ってきた。
「そ、相馬さんっ…?」
  それがあまりにも苦しそうなものだったのでツキトも焦った風に相馬の事を呼んだが、既に受話器は彼の手を離れているようだ。どこか遠くの方からしきりに志井の名を呼ぶ相馬の声が聞こえて、ツキトの胸はいよいよ早鐘を打ち始めた。志井はいたのだ。ちゃんといた。もう自分のすぐ傍に立っている気すらした。ツキトは既にぐっしょりと掻いてしまっている手の平の汗をタオルケットでぐいと拭った。そうして改めて、握っていた携帯を持ち直し耳に当てた。
『ご、ごめんなツキト君っ! 今、あのバカ来るから!』
「あ…はい…っ」
  落とした受話器を再び拾ったのだろう、相馬が先ほどよりは幾らか落ち着いたような声になってツキトに再び話しかけてきた。合間合間の咳はどうにも止む事がないのだが、ツキトが聞く前に相馬は「大丈夫大丈夫」と勝手に返事をした。
『悪いね、聞き苦しい声で…。いやぁ…ツキト君…。いやあ、あのな、その…。ま、まあいい。あのな、昨晩はあのバカに一晩中説教かましていたら、すっかり声が枯れちまったんだ。はは、男前な声が台無しだぜ。おまけに…ちょっと飲み過ぎちまってな。いやぁ、久々吐いた吐いた。タダ酒っても、悪い酒は駄目だな。毒以外の何物でもない』
「あの…大丈夫ですか?」
『ああ、大丈夫大丈夫。むしろ大丈夫じゃないのはあのバカで…って、うおっと!』
「あ……?」
  話しているうちに元に戻りつつあった相馬の声がそこで急に途切れた。
「相馬さん?」
  そうして意表をつかれたツキトがどうしたのかと相馬に問いかけようとした時、だ。
  やっとその声が聞けた。
『ツキト』
「……!」
『ツキトか?』
「あ……」
  やっぱりもう一年は会っていなかったのじゃないか、まずそう思った。懐かしくて、でも聞き間違いようのない声で、ツキトは思わずぶるりと震えた。
「……………」
  そして途端、頭の中が真っ白になった。何を言って良いのか分からない。何から話せば良いか分からない。完全に固まってしまった。
『ツキト』
  そんなツキトに志井は三度目、確認するように名前を呼んだ。ツキトはそれにはすぐ頷いたが、姿の見えない相手にそれで分かるわけはないと、一人で赤面した後何とか「うん」と応えた。
「志井さん…」
『ツキト…』
  ツキトの声に志井もようやく確信を得られたのだろう。どこかほっとしたような雰囲気が伝わってきて、ツキトはそれだけでもう泣きたくなった。志井の声を聞けたというただそれだけで胸がいっぱいになり、うまく舌が回らない。駄目だ駄目だと思うのだが、そう考えると今度は余計に焦ってしまってますます声が出てこなかった。
『今、何処にいる?』
  そうこうしているうちに志井が先に訊ねてきた。
  ツキトははっとして我に返った。
「え…それは…家…」
  今いる場所の事は言えなかった。ホテルにいるなどと言ったら当然の事ながら何故そんな所にいるのかと訊かれるだろうし、そうしたら――。
  そうしたら、自分は昨晩の事を志井にどう伝えれば良いのだろう?
「………」
  と、いうよりも、あんな事絶対に言えない。
  ツキトはそうはっきりと思ってしまい、直後発作的な吐き気に見舞われた。自分はあの裏切り行為を志井にずっと隠しておく気なのか…その事を自覚し愕然としたのだ。裏切りという言葉がひどく重く胸の内に錘となって落ちてくるのを感じた。
  どんな状況だったにしろ、自分が兄に感じ兄を受け入れた事実は消えない。もうずっと消えない。それなのにこうして何食わぬ顔で志井と会話し、一体何を言うつもりなのか。好きだと告げる? 会いたいと告げる? ……そんな事は許されない。電話を掛ける前とてそれは大それた望みだと思っていたはずだ。
『ツキト』
「あ……」
  けれどツキトが処理しきれないそんな想いを抱え躊躇していると、志井が先に口を開いた。それはひどくくぐもった声だったのだが。
『どっちが嘘ついてるんだ?』
「え?」
  言われた事の意味が分からずツキトが聞き返すと、電話口の横で相馬が志井を責めるような声を出しているのが耳に入った。けれど志井はそんな友人に「煩い」と、まるで辺りを飛び交う蝿のようなぞんざいな扱いをし、再びツキトに向き直った。
『いや、何でもない。そりゃ家にいるよな。……兄貴とホテルにいるなんて聞いたから、ついな』
「な………」
  何故それをという言葉は最後まで発せられなかった。
  志井はいやに淡々としていた。状況が分かっているのかいないのか、とにかく静かで穏やかな、それは怖いくらいに落ち着いた声だった。
『昨夜、お前の頭おかしい姉貴から電話がきたんだ。あぁ…悪いな、お前の姉貴なのにこんな言い方。けど、笑えるくらいに取り乱してて、俺のせいでお前を兄貴に寝盗られたとか言いやがって…。はっ、一体何なんだ? お前と兄貴はデキてるだとか…どんな嫌がらせだよ…』
「………」
  あまりの事にツキトは声が出せなかったが、志井の方はこの性質の悪過ぎる「冗談」に対し、ツキトが単純に絶句したと思ったらしい。ツキトの沈黙にも特に怪しんだ様子は見られなかった。
  ……ちなみに志井がこの「事実」を陽子の冗談と決め付け、二人の関係をまるで疑わなかったのも無理はないと言える。陽子という人間の発言をそのまま鵜呑みにするには、彼女はあまりに異常な人物であったし、そうでなくとも一年以上離れていた仲の悪い(と志井はツキトから聞かされていた)実の兄と弟がいきなり「そういう関係」になるなどと想像するには、志井はあまりにツキトと太樹の事を知らな過ぎた。
  ツキトの動揺など知る由もなく、志井は変わらぬ静かな様子で先を続けた。
『しかしあの女、この間はお前をちゃんと美大に行かせて、絵の勉強も応援してやるつもりだって言ってたが…大丈夫か?』
「………」
『ちゃんと認めてもらえたんだろ? 昨日のあれは、単なる俺への嫌がらせなんだよな?』
「………」
『それに。ちゃんと飯は食ってるのか?』
「え……」
  突然全く別の事を訊かれてツキトは思い切り面食らった。
『ちゃんと寝てるのか。まあ…うちよりはいいのかもしれないな…。東京より落ち着くかもしれない。あの姉貴はともかく…俺の言った通り、家族だってちゃんと心配していただろう。お前、家族は自分なんか探すわけないって言ってたが、ちゃんと探してたじゃないか。兄貴がお前のことを本当に可愛いと思ってるってのは、俺も会ってみてよく分かった。俺が想像していた通りだったよ。……まあ、さすがにあの偉そうな態度にはちょっとむかついたけどな…はは』
「………」
『だから…お前が元通りになって…ちゃんと絵を描いてくれるなら、俺は……』
「え」
『……いいんだ。お前のしたいようにすれば』
「志井さ…」
『こらああっ! 克己ぃっ!!』
  ツキトの言いかけた声を掻き消して、傍の相馬がこれでもかという程の大声を張り上げた。バタバタッと何か物が落ちる音がして、それからニ、三言い争う声も聞こえた。電話が切れてしまうのではないかというほどの雑音も入り、ツキトがどうしようと思いながらただ携帯を握りしめていると、やがて相馬の怒ったような声が聞こえてきた。
『ツキト君! 今のは全部嘘だ、大嘘だぁっ! こいつは君に会いたくって会いたくって、今にも死にそうなんだ! 陸に上がった河童だよ! ぐあっ!』
『てめえっ、余計な事言うんじゃねえよ!!』
「!!」
  志井の殺気立った怒鳴り声にツキトは目を見開いたまま硬直した。激した志井の声など聞いた事がない。いつでもクールで、取り乱したところなど一切見せない人だ。そこが頼りになって「カッコイイ」と憧れるところで、一方で凄く不安にもなる部分だった。志井が何を考えているのかよく分からない、志井に迷惑だと思われているのではないか…そういった想いは、いつだってツキトが「静かな」志井から感じてしまう事だったから。
「志井さん…っ」
  だからこそ、今の志井の声にツキトもようやくまともな声を出せた。必死になって受話器に向かって口を開く。たった一言言えばいい。会いたいと言いたい。色々な事が絡まりあって依然頭の中はごちゃまぜだけれど、まずは志井に会わなければ何も始まらないような気がした。
「志井さん、俺…っ」
『ツキト。すまない、こいつの言った事なんか気にするな』
「志井さん、俺も会いたいんだ!」
『………え』
「志井さんに会いたいよっ。駄目…? 駄目かな…?」
『だ……駄目なわけは、ないが……』
  必死のツキトの言葉に志井は面食らったように言い淀んだ。明らかに困惑したその声色にツキトはまたしても怯みそうになったが、それでも口を開いた。
「あんな風に勝手に家、出てきちゃって…ごめん。連絡も出来なくて…。でも…でも、俺はずっと会いたかったよ!」
『………』
「そ、それに、ずっと謝りたかった…。あの夜の時、志井さんに…迷惑…」
『何言ってるんだ』
  これにはすぐに返答がきた。未だ途惑っているような色は消えないが、志井はツキトの必死な様子を感じ取ったようで、横で更に何事か喚いている相馬の事は今は完全に無視していた。
『お前は何も悪くないだろ…。俺だ…俺こそ、あんな酷い事、お前に言うつもりは…』
「え……」
『ずっと後悔してた。それに…翌朝もお前に何も言わないで家出ちまって…』 
「志井さん…」
  志井の言葉にツキトは一気に胸が熱くなった。同じだった。同じだった! 志井もあの晩の事を自分と同じように後悔していたのだ。そう言ってくれた。お互いにあれはまずかったと分かっていて、ずっと謝りたいと思っていて……。
「志井さん、俺、帰るよ! すぐ…すぐ帰るから…だから!」
『駄目だ』
  けれど嬉しくて笑顔になりかけたツキトに志井は間髪入れずそう言った。
「……え」
  ツキトは何が駄目なのかがすぐに分からず、けれど嫌な予感がさっと胸を過ぎって、立ち上がりかけた身体をその場で止めて表情を強張らせた。
『もしお前が今こっちに戻ってきたら……俺は多分……』
「志井さん…?」
『ツキト。家族はお前の夢を応援してくれるんだろ? 大学、行くんだろ? 行きたいんだよな?』
「………」
『だったら行けよ。俺といても……お前は先に進めないだろ』
「ちょっと…ちょっと待って、俺は…」
『だあかあらあっ! そういうのは、とりあえずいっぺん会ってからっ! お互いによくよく話し合ってから決めればいいだろうがあっ! 電話なんぞで済ますなっ。お前っ! 克己! まさかこれで終わりにする気かあっ!?』
「え……」
  横で叫ぶ相馬の声にツキトはびくんとして思わず手にしていた携帯を取り落とした。

  これで終わり?

  終わりって何だろう。意味がよく分からない。
『そうじゃない…。ただ俺は…ツキトに絵を描いてもらいたいんだ…。俺のせいで止まった時間を元に戻してやりたいんだ…』
『何だかよう分からんが、そういうメンタルなもんは、何もお前だけのせいじゃないだろうっ!? しっかりしろよ、まだ酔っ払ってんのか!?』
『煩い…! お前は、これ以上喋るな…!』
  ベッドに落っこちた携帯からは未だ志井と相馬のそんな遣り取りが流れてきていたが、ツキトにはよく聞き取る事ができなかった。それでもそれらの声に何とか気を振り絞って再び携帯を取り上げる。志井は自分の為を思ってそう言ってくれているのだ。何も嫌いになったとかどうでもいいとか、そんな理由からではない。
  落ち着け。

  《もうあんたの事はどうでもいいみたいよ?》
  《あんたが想っている程には、あの男はあんたに執着がなかったって事ね》
  《むしろ、重かったんじゃないのー?》

「ひ…」
  姉の陽子が発した意地悪な言葉がツキトの脳裏を過ぎった。思わず小さな悲鳴が漏れたが、握った携帯は放さずに済んだ。嘘だ、信じない。姉の嘲笑うような声をすぐ傍に感じながら、それでもツキトはそれを無理矢理振り払うようにして首を振り、必死になって言った。
「志井さん…。でも凄く会いたい…会いたい、から」
『………』
「お願いだから、会って欲しい。絵は…絵は、描くよ、描きたいよ。あ、あの、家に帰ってからそれは本当によく分かったんだ。俺のやりたい事はやっぱりそれだって。…だ、だから、兄さんにもちゃんと話さなくちゃいけないなって思った。俺、今まで逃げてばっかりだったから…っ」
『……ああ。そうだよ。それがいいと俺も思う』
「で、でもね、あの…」
『ツキト』
  ツキトの言いかけた言葉を無理に遮って、志井は僅か自嘲したような声を漏らした。
『よく聞け。俺は今、口ではこう言っているが、もしお前に会ったら……確実にこれと正反対の事を言う』
「え……?」
  受話器向こうから聞こえる志井の乾いた声はどことなく皮肉混じりで、それはツキトが「怖い」と感じてしまう時の志井だった。
  志井は言った。
『こんな状態で今お前に会ったりしたら俺は…絵の事なんざ知るか、そんなもんやめちまえって…。絶対に言う。言ってお前を困らせる』
「………」
『…って。はっ…今こうやって言っちまったら、意味ないよな?』
「………」
『ツキト。今は会えない』
『克己っ!』
『お前が俺に会いたいと言ってくれて嬉しかった。連絡くれてありがとうな』
「……こ、これで」
『ん…』
「これで終わり、なの?」
  咄嗟に訊いた時、ツキトは喉が掠れてうまく声が出たか自信がなかった。そうして、そういえば一度別れたあの時もこうして自分から訊いたのだったと思い出す。自分たちはもう駄目なのかと訊いて、志井は「とっくにな」と応えた。あまりにあっけなくてあっさりしていて、ツキトはすぐにその現実を受け止める事が出来なかったくらいだ。
  そもそも終わりなんて言葉は、それ自体がひどく空々しく軽い音を奏でているから。
『………』
  ツキトの問いに対し志井はなかなか答えようとしなかった。傍で相馬が「バカ野郎! カッコつけてる場合か!」などと怒鳴っていたが、ツキトにはその言葉は殆ど耳に入らなかった。
  ただ電話向こうの志井の沈黙と微かな息遣いだけが全てだった。
  そうしてツキトが次の言葉を見つけられず、ただ力なくその携帯電話を握り締めていた時、だ。
「ボ、ボス! 突然どうされたのですかっ!?」
「……その呼び方はやめろと言っているだろう」
「!」
  不意に部屋の外から田中の驚いたような、それでいてわざとらしい大声が耳に飛び込んできて、ツキトは思わず携帯の電源を消してしまった。自分のその所作に「あっ」と思ったが、それでもどんどん近づいてくるその気配には猛烈に慌てた。ツキトはきょろきょろと辺りを見回し、咄嗟に背後にあった枕の下へとその携帯を隠し入れた。
「田中! 何なんだお前は!」
「まっ…! 待って下さい、いきなりは駄目ですっ!」
「何がだ!? お前まさか……いいから、そこをどけっ!」
「駄目ですっ。お坊ちゃんは今お休み中で…っ。お食事も召し上がっておられないし、誰にもお会いしたくないと仰ってますっ。如何なボスと言えども御伺いを立ててからでないと!」
「お前にそんな事を仕切る権限はないっ。いいからどけ!」
「ボスっ!」
「月人様、失礼します!」
  巨漢の田中を強引に押し退けどかどかと中へ踏み込んできた支倉は珍しく焦った風な様子で、ベッドの上で途惑っているようなツキトの姿を見つけた瞬間、ほっと胸を撫で下ろしていた。田中の不審な様子に、ツキトが部屋にいないのではないかと訝しんだようだ。携帯は隠せたのかと心配する田中の視線にツキトは目だけで「大丈夫」と応え、支倉には「どうしたんですか」と機械的な声を出した。
「……お前は下がっていろ」
  じろりと背後の田中を睨み据えてから、支倉は薄暗くなってきている部屋の中ほど―ツキトがいるベッドのある所にまで歩み寄ると、すぐに片膝をついた。上体を起こしているツキトと視線をあわせる為だったが、支倉の目線が自分より下に来た事で、ツキトはその下から見上げられるような格好に却って窮屈な思いを抱いた。
「具合はどうですか」
「平気です…」
  背後の枕が気になって仕方ない。志井の答えを聞けないままいきなり切ってしまった。そんな最悪な状況で、正直今は支倉とも誰とも、ツキトはまともな会話などできそうにないと思った。たった今起こった出来事が信じられなくて、志井に言われた事がただ悲しくて。本当は今にも声を上げて泣いてしまいそうなのだ。志井の言いたい事は分かるけれど、そしてそれが自分を想っての事だとは何回も何回も言い聞かせているのだけれど、突き放されたような、もう二度とあの部屋へ戻ってはいけないような…そんな気にさせられていた。
「顔色が悪いです」
  そんなツキトに支倉は表情を翳らせると今朝方兄の太樹がやったようにそっと腕を伸ばし額に片手を当ててきた。ツキトが咄嗟にびくりとして身体を逸らすと、支倉ははっとしたようになってそれを引っ込めた。
「申し訳ありません」
  そうしてさり気なくツキトのへそあたりまでが隠れるようにタオルケットをずり上げた。ツキトは未だ何も身に付けていない、全裸の状態だ。今更そうして隠してみても昨夜の情事の後はあからさまに晒されているわけだが、それを目の前にしても当の支倉には田中の時同様、別段驚いた様子は見られなかった。それでもツキトとしては、きっと内心では驚いたり軽蔑したりしているのだろうなと、どうしても悲観的に捉えてしまうのだが。
  けれども支倉はそんなツキトの想いとはまるで別次元の所にいたようだ。おもむろに立ち上がると、「着替えを用意させましょう」と言って憮然とした。
「月人様。もしや今日はずっとこのお姿だったのですか」
「え…」
「……幾ら何でも風邪を引きます。シャワーは浴びられましたか」
「ううん…」
「お食事は」
「まだ…」
  ぼそぼそと答えるツキトに支倉はいよいよ眉をひそめた。そうして隣室に控えているだろう直属の部下へ、今まで見た事もない冷たい視線を投げ掛けた。
「田中は何をしていたのか…後でよく叱っておきます」
「たっ…! 田中さんは何も悪くないっ。そんな事言わないで下さい!」
  慌ててツキトが声を上げると、支倉はすっと表情を和らげ再びツキトの傍に屈みこんだ。興奮したようなツキトの手を取って優しくその甲を撫でてきたが、それでもツキトは落ち着かなかった。
「本当ですっ。田中さん、何度も声掛けてくれてっ! それを僕が無視してたんです! 何も悪くありませんよ!」
「いえ、田中の責任です。月人様には何が何でもお食事を取って頂くようにと、社長からもよくよく言い付かっていたはずですから」
「そ、そんなのっ! どうしてそうやって田中さんを責めるんですか!? 姉さんも! みんな! 田中さんは何も悪くないのに、こ、こんな俺の為に必死になってくれてる田中さんをっ。支倉さんもみんな…みんなひどいよ!」
「月人様」
「さ、様なんて止めて下さい! 前から嫌だった、そんな呼び方!」
  ばっと手を振り解くとツキトは訳も分からず声を荒げた。コントロールが利かないとは頭の片隅で思ったが、何が何やら分からず、気づけばただ目の前の支倉に当たっていた。
「偉いのは兄さんだけでしょう!? 兄さんにだけへり下ってればいいじゃないか! 僕は関係ないんですから! 僕はあの会社とは何も関係ないし! 絶対っ、絶対将来だって、家の、兄さんの手伝いなんかしないんだ! 僕なんか何の取り柄もないし、何も出来ない駄目なヤツだって、兄さんは前から知ってたはずなのに! そ、それなのにこんな…! だ、だからだから、志井さんだってあんな風に…っ!」
「………」
「ぼ、僕の僕のせいで…」
  ツキトは自分で自分が何を言っているのかさっぱり分からなかった。「ただ意味不明に単語を羅列しているだけ」だ。そんな自分に思い切り狼狽しているのだが、それでも何故か一旦口を切ったら止まらなかった。兄にもこんな風にぺらぺらと喋れたら良いと思うのだが、これが兄の前ではからきし駄目だから呆れる。貝のように口を噤んでただじっと怯えてしまう。結局、口では「自分は関係ないのだから」と言いつつ、支倉が下手に出てくれているのを良い事に我がままを言って困らせている。
  まるで駄々っ子だ。
「ふ……」
  そこまでの結論に至るとツキトは微かに口元を緩め、少しだけ笑おうとして失敗した。
「……っ」
  その代わり何故かぽろぽろと涙が零れてきてしまい、ツキトは慌ててそれを擦ろうとしたが、それは支倉に止められた。
「あっ…」
「月人さん」
  そうして支倉はそう呼ぶと、すっとベッドの端に腰掛け、そのままぎゅっとツキトの身体を抱きしめてきた。
「支倉さ…」
「泣かないで下さい」
  支倉は片方の手は後頭部へ、もう片方はツキトの細い背中へやって、慰めるように優しく何度も撫でてきた。その所作に驚いてツキトは咄嗟に逆らって離れようとしたが、意外にも力の強い支倉の拘束からは逃れる事ができなかった。
「何も出来ないなんて、そんな事はありません」
  支倉はそう囁いた後、ゆっくりとツキトの泣き濡れた目元に唇を押し当てた。
「あっ…」
  ツキトが驚いて声を上げぱちぱちと瞬きをすると、支倉もそれでふと我に返ったようになって慌てて立ち上がった。
「あっ…、こ、これは…その…!」
「支倉さ…」
「きっ、着替えを持って来させます!」
  支倉はいやに高い声でそう言うと、慌てたようにベッドから飛び退り、それから「申し訳ありません」と早口で謝った。そしてそれを黙って見送るツキトに背を向けたまま、後は事務的に「食事を取って頂いた後はこことは別の場所へ移動してもらいますから」と告げた。
「別の場所って…何処へ…?」
「こちらでは部長がいつ来られるかも分かりませんから。新しく部屋を借りさせましたので、そちらへ」
「え……」
「………社長も今日は早くお帰りになられるそうですので」
  支倉は何故かふっと迷ったようにそれを言い伝えてから、ちらと背後にいるツキトへ目を向けた。ツキトが自分をじっと見据えているのに気づくとまた頭を下げて「すみません」と謝ったが、彼はそれ以外にも何かを言いたそうにしていた。
「あの…」
「月人様」
  それでもツキトは支倉にそれが何かとは問えなかった。相手からそれを制するような毅然とした声が発せられたからだ。
「社長に仰って頂いて構いませんので」
「………」
  先ほどのキスの事だとはすぐに分かった。ツキトは困ったように口元をへの字に曲げてから強引に笑い、首をゆるく横に振った。
「……言いません。僕の方こそごめんなさい、いきなり取り乱して」
「………」
「泣き喚く子どもをあやす為にした事でしょう? 僕が情けないだけです。すみません」
「……本当に申し訳ございません」
  支倉はツキトの返答に深く嘆息すると黙って部屋を出て行った。入れ替わり、そんな上司の背を不思議そうに見送る田中が着替えを持って入ってきたが、ツキトは彼女が現れるとすぐに枕の下の携帯を差し出した。
「ごめん…。移動の時は田中さんが持っててくれる?」
「はい」
「いきなり切っちゃったよ」
「お話の途中でしたか」
「……うん」
  そうは応えたものの、志井にとってはあの時点で切っても別段困った事はないのかもしれない。そう考えてツキトは胸が潰れる思いだった。もしまた掛けたところできっと志井の答えは同じだ。志井は来てくれないし、自分が会いに行く事すら今は駄目だと拒絶している。今が駄目なら、一体いつなら良いのだろう。自分が美術大学への挑戦を許してもらえた時か、はたまた美大へ合格した時か。
  それとも画家として大成した時とでも言うつもりなのだろうか。
「そしたらもうずっと……」
「え?」
「……ううん」
  田中に聞き返されてツキトは首を振った。ふと右手を見下ろし、試しにぎゅっと握ってみたが、いつもよりも力が入らない気がした。
  どこまでも弱気で駄目な自分。
  ツキトは先刻の泣き出したい気持ちを思い出して、ぐっと唇を噛んだ。



To be continued…




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