あの窓を開けたら
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―15― 新しく借りさせた部屋とやらには支倉も一緒に来るのだろうと思っていたが、彼は田中に行き先の書いたメモと車のキーだけを渡し足早に去って行った。 「忙しいなら電話だけで良かったのに」 ただの感想なのか、それとも彼女らしからぬ愚痴だったのか。田中はツキトに言うでもなくぼそりと呟き、「行きましょうか」とツキトの家から持って来たボストンバッグを肩に掛けた。ここに長居するだろうと今朝方荷造りしたばかりの、それはツキトの着替えを入れたカバンだ。彼女が上月からの携帯電話を発見したのも恐らくはその時だろうが、ようやっとシャワーを浴びて着替えを済ませたばかりのツキトは、そんな田中の独り言に気を向ける余裕も、自分の荷物は自分が持つという当然の行為にも気づく事ができなかった。 「大丈夫ですか」 顔色の悪いツキトに田中はドアの前でもう一度だけ振り返ってそう訊いた。 「下のレストランでお食事を取ってから移動したっていいんですよ」 「いいよ。そっちに着いてから食べる」 食べる、という単語を発する事それ自体が今のツキトにとっては拷問だった。 それでも心配の相を深くする田中をこれ以上苦しめたくなくて、ツキトは何とかそう応えてこの会話を終わらせた。 「隠れ家の割にはここからそう遠くないみたいです」 導かれた先で指し示された車は昨日このホテルへ来た時に乗ってきたものとは違った。大柄な田中にはどことなく似つかわしくないその軽自動車は、しかし彼女本人の物だという。ツキトの護衛で小林家に来るようになってからはずっと会社の駐車場で遊ばせていたらしいが、彼女はツキトをホテルから新しい部屋へ連れて行くよう命じられた際、支倉に自分の車での移動を懇願したのだと言った。 「昨日の外車は社長のだったんですかね。運転していて冷や汗が止まりませんでしたよ」 ツキトを助手席へ座らせ荷物をトランクに詰め込んでから、田中は茶化すようにそう言って笑った。きゅっと締めるシートベルトはどこか窮屈そうだ。 それを何ともなしに眺めながらツキトは訊いた。 「普段、田中さんって車で会社に来てたんだ」 「ええ。車の方が何かと気楽ですからね。電車は人が多いので疲れてしまって」 「え?」 「何ですか?」 エンジンを掛け、車は地下駐車場からゆっくり地上へ向かって走り出す。それでも田中はツキトが少し驚いたような顔を見せた事に気づき、すかさずそう訊ねてきた。元がアマチュアレスリングの選手である。相手のそういった些細な表情や変化には目敏いのかもしれなかった。 「あ…ごめん。田中さんがそういうの意外だなって思って」 「そうですか」 「あんまり人見知りとかしそうにないし。人が大勢いて疲れるっていうのも…」 「違和感ですか」 「うん」 正直に頷くと田中は前方を見据えながら薄く笑った。 「よく言われます」 道路は然程混雑していない。信号にさえ捕まらなければすいすいと面白いように流れる車窓からの景色をツキトはぼうと眺め続けた。実際には何処をどう走っているのか、地元のはずなのにちっとも分からなかったのだが。 「でもまあ、どっちも本当の私です」 その時、田中が再び口を開いた。 「人見知りしない私もする私も。両方の面が備わってます。あと私、人から良く見られる時は《人懐こくてひょうきん》な奴、悪く見られる時は《無神経で変》な奴って言われるんですけど。でも、これって実は全く同じ事を言ってるんですよ。言い方によって全く別の感じに受け取れちゃいますけどね」 「え」 「要は、自分自身がどっちの部分をより強く認めるかって事です」 「……えっと、ごめん。これって何の話?」 「別に、意味なんかありません。ただのお喋りです」 どことなく警戒したようなツキトの口調に田中は素っ気無くそう応えた。車は未だ一度しか右折していない。あとはただ真っ直ぐ走っているだけだ。 「アマレス時代にも言われましたよ。女のくせに鼻息荒く相手に掴み掛かって押し倒して奇声発して。恥ずかしくないのかって。お前、そんなに目立ちたいのかって。別に目立ちたくてやってたわけじゃないんですけど。でも、試合に勝って観客から拍手喝さいを受けるのは気持ち良かったです。嬉しくて嬉しくて、自分が載ってるスポーツ紙とかもめちゃくちゃ買い漁りました」 「それは目立ちたがり屋とは違うよ」 ツキトは眉をひそめてすぐにそう言った。それは努力を積み重ねた上に勝ち取った勝利を誇りに思うが故の行動であり、大衆の視線を浴びる事それ自体に愉悦を感じているわけではないと思ったのだ。 「昔はあの人もお坊ちゃんのように言ってくれてました」 田中が言った。 「それに私の事も良い風に捉えてくれていた。人懐こくてひょうきんだって。それがいつからか、目立ちたがり屋で無神経で変な奴になっちゃったんです」 「あの人…?」 「あ、これって、他人にとってはウザ過ぎる事この上ないコイバナなんですけど」 ツキトが反応を返す前に田中は早口でそう言うとあはははと実に軽い笑声を立てた。 車はここで初めて大通りを左折した。街の中心地である駅ビル方面からは徐々に遠ざかり始めている。ツキトはその事実には気づかなかった。ハンドルを軽く握った状態で話を続ける田中をただじっと見つめやっていたからだ。 「すみません唐突に。いえね、さっき人見知りって言うのからふっと思い出しちゃったんです。私、口自体は結構ガンガン出すんで、周りからは人見知りしないとか強いとか言われるんですけどね。自分ではあんまりそういう風に思ってなかったんです。で、その自分と他人との捉え方のギャップが結構なストレスになっていた時期もあったんですよ。そしたら、その昔好きだった人がですね、言ってくれたんです。『お前は一見そうやって強がってるけど、本当は女の子らしい奥ゆかしさも持っているし、繊細で弱いところもいっぱいあるだろう』って。もうですねえ…その時はですね、何と言いますか。ああほら、うちの女子社員なんかはみんな社長やボスのことキャーキャー騒ぐでしょう? そりゃ、あれだけの美形ですからね、それは当然なんですけど。でもね、あの時は誰よりも、私にとってその人が世界で一番の男前に見えたんです。王子様に見えました」 「………」 「あっ。やっぱりこんな話、つまらないですよね?」 「そ、そんな事ないよっ」 慌てて声を出し首を振ったツキトに田中はどことなく照れくさそうに笑った。眼鏡の奥の細い目がひどく穏やかだ。 けれど一方で寂しそうでもあった。 「私、アマレス好きだったんで一生懸命練習しましたよ。食事制限だってキツいトレーニングだって平気でした。怪我にはしょっちゅう泣かされましたけどね。でも、支えてくれる人がいたし、応援してくれるファンだって大勢じゃないけど、でもいてくれました。だからどんどんのめりこんでいって、どんどんそればっかりになっていたら……気づいたら、その人、凄く怒ってたんです」 「……どうして」 ツキトの問いに田中はまた小さく笑った。 「どうしてでしょうね。……いえ、たぶん私が悪いんですけどね」 「………」 「でも、その人が応援してくれると思っていたからこそ頑張れたのに、その人が一番アマレスをする私を憎んでしまったら…どうにも膝じゃない部分がぽっきりいきましてね。それで止めたんです。怪我で引退したってのは、つまり言い訳です」 「言い訳……」 「そりゃ金メダルはさすがに無理ですけど。怪我してたってね、続けられない怪我じゃなかったんです、本当は。私は。私は、ただ動かしたくなかっただけです。身体をね」 「身体を」 「ええ」 その時、不意に車がキッという軽いブレーキ音と共にぴたりと止まった。ツキトが意表をつかれて慌てて視線を前へやると、目の前には煌々と明るい光を放つコンビニエンスストアがあった。ガラス向こうの雑誌コーナーでは何人かが立ち読みをしているのが見える。 「何せ今日借りたばかりの部屋だそうで、行っても何もないそうなんですよ」 田中はエンジンを切るとそう言ってドアを開いた。先ほどまでしていた会話などまるで全て忘れてしまったかのようだ。いつもの飄々とした様子で田中はツキトに告げた。 「何か食べる物を買ってきます。本当は途中でスーパーでも見つけたらそこに入ろうと思ってたんですけど見当たらなくて。もうすぐ着いてしまうんで、ここで何か買ってきます」 「う、うん…」 「何がいいですか? おにぎり? サンドウィッチ? それともお粥とかにします?」 「………」 ツキトの頭の中では依然田中のしてくれた話がぐるぐると巡っていて、その質問には何も答える事ができなかった。何とか考えようとしても、「私が悪い」と言った田中の台詞や、凄く怒ったというその相手のイメージ、膝じゃない部分がぽっきりいったと話した時の田中の横顔ばかりがちらちらと脳裏を掠めるのだ。 同時に、膝の上の右手がツキンと痛む。 「――…ちゃん。お坊ちゃん」 「はっ…!」 「…大丈夫ですか?」 「……ご、ごめん!」 きっと何度も呼ばれていたのだろう。びくとしてツキトが視線を向けると、田中の困り果てたような顔がこちらを覗きこんでいるのが見えた。 「一緒に行きます?」 「え…」 「商品とか見れば何か欲しいものが出てくるかも」 「……ううん」 「………」 「ごめん…。適当でいいから」 「……分かりました」 田中の嘆息交じりの声にツキトは慌ててもう一度「ごめん」と言った。謝るくらいならば最初からこんな態度は取らなければ良いのだ……頭の片隅でそんな自分を叱咤するもう一人の自分もいたが、それでもこの時は身動きの取れない方の自分が勝ってしまった。 「それじゃあ、行ってきます。……ああ、これ」 「え…」 「もし何でしたら」 「………」 田中がツキトに渡したものは上月の携帯電話だ。支倉が共についてくると思ったからこそツキトもそれを田中に託したのだが、2人きりでいる今、これをツキトが持っていても何ら支障はないはずだった。 再び手元に戻ってきたそれをツキトは息を呑む思いで見つめた。掛ける気はしない。「掛けたくない」のとは違う。ただ恐ろしかった。 「………」 田中が店内へ消えてから、ツキトは適当に携帯のボタンを押してみながら、各機能の説明をしてくる便利なその機器をただただ無感動に眺めた。田中の話がどこかでまだ尾を引いている。思えば彼女はこの携帯電話を預かる時もホテルから車を出す時も、ツキトに志井との会話内容を訊いてこようとはしなかった。志井の元へ帰るのかとも、新しい部屋とやらではなくこのまま駅に直行するかとも、そういった具体的な誘いも何も掛けてはこなかった。そう、田中はツキトに「お坊ちゃんが決めて下さい」と言った。自分はそれに従うからと。 田中は待っているのか。だからあんな話をしてくれたのだろうか。 「………」 そう思いつつ、けれどツキトはもう一度志井の元へ電話を掛ける勇気がどうしても持てずにいた。いきなり切ってごめん、びっくりしたよね―…。そんな言葉から入ればいい、そうしてもう一度、しつこいと思われてもやはり会いたいと言えばいい。一度目は駄目でも二度目は許してくれるかもしれない。…そんな往生際の悪い事をちらと想像しながらも、それでも動けない。ツキトは自嘲したようにふっと唇の端を上げた。 「あ……?」 その時、手元の携帯から突然無機的な電子音が一度だけ鳴り、ディスプレイに《着信履歴詳細》、《センターアクセス日時》という表示と共に1つの電話番号が表れた。どうやら電源を消している間に同じ番号から何度か電話が掛かってきていたようだ。はっとして他の着信履歴を遡ってみたがそのナンバーは表示された過去には掛かってきておらず、瞬時浮かんだ一部見覚えのある数字から、ツキトはそれが上月のプライベート携帯のナンバーだと確信した。 「掛けてくれてたんだ…」 きっと心配して様子窺いに電話をしてくれたのだろう。ツキトは恐る恐るその番号にあわせて《発信》という文字のあるボタンを押した。 『月人君っ?』 電話は思いのほかすぐに相手に繋がった。 「あ、はい。上月さん…?」 『そうだよ。今、大丈夫? 何度か電話しちゃったんだけど、迷惑じゃなかった?』 「だ、大丈夫です、全然…。それより、電話に気づかなくて…」 『そんな事いいんだよ。気にしないで』 優しくこちらを気遣うような声にぎゅっと胸が締め付けられるような想いがして、ツキトは固く目を瞑った。 『今、部屋から掛けてるの?』 上月の質問にツキトは見えない相手に首を振った。 「いえ…あの今…何処か違う所へ…」 『え?』 訳が分からないというような上月の声にツキトも思わず苦笑した。しかし状況が飲み込みきれていないのは自分も同じなのだ。うまく説明できる自信はなかった。 「あの、電話貸してくれてありがとうございました」 何を話して良いか分からず、ツキトはとりあえず礼を述べた。そもそも上月が手を貸してくれなかったら志井へ連絡を取る事は不可能だったのだから。あの時は慌てていたし、まともに感謝する事などできなかった。 だから。 「今日、志井さんと連絡取れました。掛けてみた時、はじめは何だか凄く緊張しちゃったけど…。でも、志井さん怒ってなかったし、ちゃんと心配してくれてたし、だから…っ」 何を言っているのだろうとも思ったが、ツキトは一気にそこまでまくしたてると沈黙した。未だ気持ちは全く整理しきれていなかったが、恐らくは誰かに聞いてもらいたかったのだと気がついた。志井から「会えない」と言われた事ではなく、自分を気遣い「絵を描け」と言ってくれたその事だけ、ツキトは誰かに知ってもらいたかったのだ。 『そう。良かったね』 上月はそんなツキトに素直に喜び、『それで』と続けた。 『あの人の所へ行く事にしたの。あの人、迎えに来てくれるって?』 「………」 『月人君?』 「……兄さんと、話をしなくちゃいけないから」 喉がカラカラに乾いていると感じたが、ツキトは何とかそう答えた。 「志井さんもそうした方がいいって。だから残りました。絵……描かないといけないから」 『月人君?』 「絶対描かないといけないから」 『………ちょっと待って。それって―』 言いかけた上月には構わず、ツキトは自分で自分が言った言葉に初めてハッとしたようになり、「そうだ」と思った。 はじめに志井にそう言ったのは自分だ。絵を続けたいから兄とはきちんと話さなければいけない、と。そしたら志井もそうしろと言った。そうするのがいいと。だから今は会えないと言われた。 だから描く。 兄に話して兄に認めてもらって、自分は絵を描かなければならないのだ。そうしなければ志井に会えない。兄にも中途半端な奴と蔑まれてそれで終わり。田中や上月や支倉や、心配してくれているたくさんの人にも迷惑を掛ける。大体、右手は動かないのじゃない。自分が「動かさない」だけだ。自分は病気なんかではない。 だから、描かなければ。 「そうだ…俺、描かないと…」 何度も言いきかせていた事なのに何故今更そんな当たり前の事に気づいた風になってしまうのか。そんな自分自身が可笑しくてツキトはふっと微笑んだ。 『月人君、大丈夫? 何だか……ねえ、今何処にいるんだい?』 すると電話の向こうから上月の不安そうな、どこか切羽詰ったような声が聞こえてきた。ツキトはそんな上月の声色を不思議な面持ちで受けとめ、すぐに応えた。 「分からないです」 『分からないって…。じゃあ、室内? 屋外?』 「外です。今コンビニの前で…。これから新しい部屋へ行くって」 『そんな、どうして急に…。えっと、今一人なんだよね? どこか逃げられないの? 誰か、周りに人とか…』 「逃げるつもりないです。兄さんに話をしないといけないから」 『………』 「あの、また電話します」 さくさくと言葉を進めるツキトにいよいよ上月も強い不審を抱いたようだ。どことなく強い口調で止めてきた。 『ちょっと待って。本当に大丈夫? 何なら僕、今からそっちへ行くよ』 「そんな…本当に大丈夫です」 『………』 「……大丈夫です」 上月の親切が先ほどの支倉と被って、ツキトはくしゃりと顔を歪めた。自分の情けなさをより強く実感してしまったからだが、それを理解したとしても、過去の自分はもう取り消せない。結局はこれから太樹にしっかりと自分の道筋を説明し許しを貰い、先へ進むしかないのだ。 そうしたらこの上月にもいつかまともな礼が言える。 『……分かった。絶対だよ? 何かあったら、いや、なくても、絶対…』 上月はツキトが決意を抱きつつどこか心を乱しているのを敏感に悟ったようで、それ以上無理に問い詰める事はしなかった。ただ何かあったら絶対に連絡するようにという事だけは、何度も言い含めるように告げてきた。 ツキトはそんな上月の言葉には素直に頷き、それから出し抜けいやにはっきりとした声で訊いた。 「上月さんは何で絵をやめちゃったんですか」 『え?』 「あ……いえ、何でもないです。ごめんなさい」 話を掴みきれずに途惑ったままの上月の声。ツキトはそれを耳に入れた瞬間、すぐに自分が出した問いかけを取り消して、もう一度「ごめんなさい」と謝った。 「ふ……」 その後、電話を切ったツキトは一つ息をつき、急にしんとなった車内で再度目を瞑った。 昨夜から頭がおかしくなりそうな事が連続していて、どこか正常な感覚が麻痺している。 けれど答えはたった一つの事に尽きるのだ…。 ツキトはぎゅっと唇を噛み締めて、再度その決意を心の中で唱えてみた。 描かなければ。 それが描きたいといった本来の欲求からはどこかずれている事にツキトは気づいていなかった。 太樹が新しく借りさせた部屋は、部屋というよりは四角い箱を連想させた。 「でも良かった。テレビがありますよお坊ちゃん」 何もない殺風景な所をイメージしていましたから―、田中はどこかほっとしたようにそう言い、荷物を置いた後はバスルームや隣の寝室などをバタバタとチェックし始めた。 その三十階建てマンションはそれほど新しくもなかったが完全オートロックシステムの鉄に覆われた「城塞」で、否応なく志井と暮らしていた場所を思い出させた。 間取りは約二十畳ほどのリビング・ダイニング・キッチンに洋室のついた2LDKで、玄関を入って横手に浴室とトイレ、小さな納戸があった。リビングからはバルコニーへ通じる窓があり、外からは遠くに高速道路を臨める。ただし騒音はそれほど感じない。 「きっとボスがお坊ちゃんの為に運ばせたんですね」 リビングに立ち尽くしたままのツキトの元へ田中が戻ってきて言った。設置されているテレビやDVD、ソファの事を指しているとはすぐに分かった。 「冷蔵庫もありますね。至れり尽くせりです」 「………」 田中の言い様は無理に明るくしているようで、ツキトはすぐ頷く事ができなかった。だから深く立ち入るなど失礼だと承知していたのに、ツキトはテーブルの上に買った物を並べている田中に思い切って声をかけた。 「ねえ田中さん…。その…怒っちゃった人とはそれからどうしたの?」 「え? ああ…別にどうもしませんよ。それっきりです。ちょうど強化合宿の前に手痛い喧嘩になりましてね。それ以来連絡してませんし、向こうからもナシのつぶてなんで」 「引退した時に連絡しようとは思わなかったの」 「うーん、思いませんよ。夢に破れたからって安易に男に走る女じゃいけません。これからの女性は。ええ」 おどけたような田中のその言いっぷりは、ツキトに彼女が連絡しなかった本当の理由をはぐらかしたと確信するのには十分なわざとらしさだった。 それでも田中は変わらぬ表情のまま淡々と続けた。 「それに言ったでしょう。アマレスだけが私の夢じゃありません。他にもやりたい事があるんです。世界で一番高い幸せの住処を作るんです」 「あ…」 そういえば以前田中はツキトにそんな事を言っていた。その話を聞かされた時、ツキトは田中の確固とした口調に尊敬の念を覚えると共に、どこか懐かしい想いを抱いたものだ。 その懐かしさの源が何であったのかは詳しく思い出す事ができなかったが。 「あのさ、よく考え…いや、よく考えなくても…」 ツキトはそんな田中にもう一体何度目か、再び申し訳ない気持ちを表出させて俯いた。 「田中さん、いつになったら会社の仕事に戻らせてもらえるんだろう。こんなさ…こんなの、その田中さんがやりたいっていう仕事とは違うじゃない。全然関係ないよ。田中さんは俺のボディガードじゃないんだから」 「ボディガードですよ」 「本業は違うでしょ。もう建設屋さんなんだから」 「お坊ちゃん。変な事気にしますね」 田中が真面目な顔でそんな風に返すので、ツキトは思わず苦笑いをした。 「変じゃないよ。当たり前のことじゃないか…。兄さん、変わった。昔は公私混同とか絶対しない人だったよ。…それに…前、知り合いの人に聞いたんだ。地元の人の意見とか無視して強引にマンション建てようとしたり…自然破壊みたいな事にも加担してるって」 「お坊ちゃん」 「田中さんが兄さんの事尊敬してるって言ってくれた時、嬉しかった。俺だって兄さんの事尊敬してるし…。でも…今の兄さんの事は…」 「尊敬してないんですか」 田中のどこか厳しい口調にツキトは力なく首を振った。 「分からない…。自分の気持ちも、兄さんの気持ちも。は…兄さんの考えてる事なんて……分かるわけないや」 「どうしてですか」 「どうしてもだよ。とにかくさ…田中さんが早く普通の仕事に戻れるように、兄さんに言っておくから。本当…。こんな事、早くやめなくちゃ、ね…」 「………」 「俺だってやらなくちゃいけない事があるんだから…」 上月の時と同じだった。 最初こそ普通に話していても、ツキトは言葉を紡ぐごとに追い詰められた気持ちになるのか、どこか病的に態度がおかしくなっていた。それが兄の太樹が絡むからかは、ツキト自身よく理解していなかったが、傍で見ている田中の方としては気が気ではなく、眉間に寄った皺が元に戻らなかった。呟くように決意を口にするツキトに、田中はただじっと堪えるような視線を向け続けた。 そして本来お喋りであるはずの田中はその後何も話そうとはしなかった。ツキトも特に声を出す力がなくなっていて、ソファで2人何となくテレビをつけたまま無為な時を送った。目の前に置かれた食べ物には、結局ツキトは一口も触れる事ができなかった。 兄の太樹がやってきたのは、それから数時間も後の事だ。 「明日は休んでいい」 短くそう告げた太樹の低い声はかろうじて耳の奥に入ってきたが、田中がそれに対してどう応えたのかは、いつの間にかソファで横になって眠っていたツキトにはよく分からなかった。 「寝るならベッドで寝ろ」 リビングにやってきた太樹の不機嫌そうな声にもツキトはすぐに反応できなかった。ただ身体がだるい。食事もまともに取っていない、めまぐるしく変わる環境の変化についていけないとすればそれも仕方のない事だが、ツキトはそんな自分を責める事は止めなかった。 きっと兄もこんな自分の事を情けない惰弱な奴だと、そう思っているだろうから。 「社長にお話があるとかで、先ほどまで待っておられたのですが」 田中のフォローする言葉が聞こえたが、恐らくは太樹に帰るよう目だけで命じられたのだろう。彼女はすぐに沈黙すると、そのまま素直にドアの外へと消えていった。そのなくなった気配に寂しく心細いものを感じながら、それでもツキトは必死に目を開けようとして出来ずにいた。田中の言う通り、自分は兄と話さなければならない。きちんと言う事を言って、そして絵を描かなければならないのだ。 そうしないと志井に会えない。 それなのに目が開かない。 「兄さん…」 口元だけで呼んでそれから起き上がろうとしたが、まだうまくいかなかった。けれど太樹の方はツキトのそれに反応したようで、すぐに傍にやってきた。ツキトが横たわるソファが軽く揺れる。重みが加わるのが分かり、兄が傍に腰掛けた事を感じた。 「ずっと寝てばかりだったのに…眠いわけないのにな…」 起きなければ。そう思いつつ、それでもツキトは往生際悪く未だ目を瞑っていた。 瞼が重い。身体が気だるい。そうして、ここへきてツキトはようやく「おかしい」と眉をひそめた。眠いから、だるいから、自分は起き上がれないのだろうか。 違う、ただ単に兄を前に怯えて逃げているだけではないのか? 「あ…?」 その時、すっと鼻先を掠めた匂いにツキトは思わず声を出した。 「またお前は何も食べていないのか。……死ぬ気か」 「違う…」 無意識にそう返しつつ、死という言葉には戦慄した。それを間近に感じた事ならある。あの狂人に抱かれてナイフを突きつけられた時だ。あの時の恐怖は今も胸に刻みこまれている。あれに比べれば今の状況は死なんてものとは無縁だ。傍には親切な人がたくさんいる。兄もいる。 志井はいないけれど。 「俺の傍にいるくらいなら死んだ方がマシか」 それでも兄はまたそう言った。違う、こんな状況はそんなものとは違う。そう言いたいのに、今は昨夜のような薬を飲まされたわけでもないのに、ただ瞼を開けない。そうこうしているうちに顔の上に暗い影が覆ってくるのを感じ、ツキトは近づいてきたその気配に唇を奪われた。 「ん…っ」 強く押し潰されるような乱暴なそれにツキトはびくんと痙攣するように背中を浮かせかけたが、上から押さえつけるようにして圧し掛かったその身体に身動きが取れなかった。そうこうしているうちに更に乱暴に唇を舐られて舌を差し込まれて、ツキトはその呼吸のできない状況に初めて反射的に目を見開いた。 「ふ…んんっ」 咄嗟に掴んだ肩先は兄のものに違いなかった。けれどアルコールを身に纏ったそのどこか虚ろな視線にぎくりとする。瞬時に恐怖を感じて、ツキトは今までが嘘のようにじたばたと身体を抗わせた。 「や…んっ…兄さ…!」 「………」 兄は何も言おうとしない。一度唇を離したものの、すぐに別の場所へとキスの雨を降らせ始める。頬へ耳朶へそして首筋へとそれは移り、その与えられる熱にツキトはゾクゾクと身体を震わせた。 昨夜この兄と繋がった事が鮮明に脳裏を過ぎっていく。 そしてそれを裏切りだと感じてひどい罪悪感に囚われた志井との電話も。 「嫌…っ。嫌だ!」 初めてまともに大声が出たと思った。それは思いのほか効果があり、兄の動きはぴたりと止まった。身体自体離れてはいかないが、それでも上着を脱がそうと中へ差し入れ掛けていたその手は止まり、じっとした視線が真っ直ぐ振り下ろされてくる。 「兄さ…」 その眼差しにはやはり射竦められたようになりながら、ツキトはそれでも唇を戦慄かせた。 「や、やだよ…こんなの……」 「………」 「どうしてこんな……酔ってるでしょう…?」 「………」 「お、お酒の匂い、するし…」 太樹が酔うほどに酒を飲むのは非常に珍しい事だった。勿論仕事上の付き合いでそれなりには嗜むのだろうが、普段から酒で乱れるところなど見せる人ではない。ましてや悪酔いするところなどツキトは今まで一度として見た事はないのだ。 「こんな俺は卑怯か」 「え…」 太樹のくぐもった声にツキトは尚声を震わせた。恐怖で身体が石のようだ。 「こんな理由でもないとお前を抱けない。……呆れるか」 「な…に、言って……」 「だがもう、そんな事はどうでもいい。――抱かせろ、月人」 「や……兄さ…っ」 やはり太樹はどこかおかしかった。酒のせいだとは思えなかった。酒を飲む前からこうだったのではないか……そう思わせるような異常さだった。 「んっ…あっ…」 乱暴に取り払われた上着から晒された胸を荒く愛撫され唇を寄せられる。胸に吸い付くようなキスをされてツキトは声を上げた。何をしているのか、これでは昨日と同じじゃないか…そう思っているのに身動きが取れなかった。 「やっ。あ、あぁッ」 兄に内股を撫でられて、それだけでツキトの中心はすぐに熱を帯びた。昨晩の薬など関係なかったのだという事はその時初めて知った。 自分は兄で感じるし、兄も自分で感じるのだ。 「ふっ…」 考えると可笑しかった。可笑しくて悲しくて、ツキトは嫌だと首を振りながらもどんどん熱くなる身体を制御する事ができなかった。 性急に下も取り払われ裸にされる。ソファの上でツキトは太樹を再び自らの中へと受け入れた。 「あっ、あっ、んあぁッ」 ぎしりと動くソファに身体がそのまま埋まってしまうのではないかと思ったが、その度兄に身体を支えられ意識ごと表の世界へ呼び戻された。一気に貫かれツキトはただ声を上げた。片足だけを高く掲げさせられ、無理な体勢で兄の性器が何度も己の中を出たり入ったりしていく。淫猥な音が響くほど激しく突きまくられて上半身が自然ソファからずり落ちそうになった。それでも兄はそんなツキトを解放せず、自分の元に強引に引き寄せては尚深い挿入を試みた。 「あッ、あ、あぁッ」 「…っ…月、人…」 「あっあ、兄さっ…嫌っ、嫌ぁ…ッ」 「月人…月…」 「あっあっ…どうしっ、んっ…や、あぁッ」 「月人…!」 「兄さんっ…あぁ、あん、はぁッ」 必死に呼んで、ツキトはじわりと滲む涙を瞬きする事で機械的に落とした。刹那、視界に嫌なものが映った。熱を帯びているのは自分の中にいる兄のものだけではない。 そそり勃ち、興奮しているのは己の性器も同じだった。 「あぁ…」 その現実を目の当たりにし、ツキトは悲しみに満ちた目でそれを眺めた後は縋るように兄の太樹を見つめた。 「………僕は、ただ」 いつまでも逃げている自分のせいなのか、こんな事になってしまうのは。 「ただ……」 「………」 太樹の方は何も発しようとはしなかった。ただ昨晩と同じようにツキトを見つめる視線だけはある。虚ろなそれだが、そこに宿る光は正常と見えなくもなかった。 「ただ……」 話がしたいんだ。 自分を見つめる兄を見つめ返しながら、ツキトは声にならない声で唇だけを微かに動かした。 |
To be continued… |
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