あの窓を開けたら


  ―16―



  最初はただの気紛れだった。

《……そんな大した事言ってないと思うけど》
《いえっ。あ、ありがとうございますっ。本当に!》

  絵を誉められた事が余程嬉しかったのか、初対面の志井に対しても興奮したように頬を上気させていたツキト。嬉しそうに笑うその顔は可愛いと言えなくもなかったが、その時は本当に目に入った絵が「イイ」と思ったから声を掛けただけで、志井に他意はなかった。なにしろ相手は子どもだったし男だったし、その人懐こそうな感じは普段だったらむしろ鼻についてもおかしくない、本来ならば志井の最も苦手とするものだったのだから。
  それなのに何故名刺など渡してしまったのか。
「あんなものに……」
  職場に戻ってすぐ、志井は己の突飛なその行為をじわじわと後悔し始めた。相手はこちらの事など何も知らない、自分とて向こうを知らない。それなのに、そんな相手に今までひた隠しにしてきた心の内を思い切り晒け出してしまったような…そんな気がしたのだ。
  もっとも、それを「しまった」と思うのならばこれきり会わなければ済む問題で、志井にはその選択肢を掴む権利もその時点ではまだ十分に残されていた。名刺を渡したとはいえ、控え目なツキトの性格ならたった一度の感想を口にしただけの志井へ自分からわざわざ連絡を取る事などなかっただろう。志井が動きさえしなければ2人を結ぶ糸はそこでぷっつり途絶えていたはずなのだ。
  けれど志井はそうしなかった。

《よう》
《あ! 志井さん!》
《……何だ名前覚えたのか。そういえば俺はお前の―》
《お、俺、ツキトって言います。小林ツキト…》
《ツキト…変な名前だな…》

  誰に何を言われたわけでもない。けれど志井は再びツキトに会う為、「約束通り」あの公園へと足を運んだ。そして、その時にはもう当然のようにツキトにもう一度「あの時描いていた絵を見せて欲しい」と頼んでいた。

《学生の頃は芸術鑑賞会なんてもので無理矢理あちこちの美術館へ行かされたけどな。全く興味なかったよ。確かに、写真みたいにリアルで凄いなと感心するもんもあったけど、それなら写真を見ればいい話だろうとも思ったし。かと言って抽象画は訳が分からないから、見ていて余計にイラついたしな》
《イラついたんですか》

  同じベンチに並んで座り、ツキトは志井の顔を覗きこむようにして実に楽しそうに大人しく話を聞いていた。このところあまり人とまともな会話をしていなかったから嬉しいのだと言っていたが、自分の好きなものを貶している相手に何故こんな顔が出来るのかと、志井はツキトの柔和な態度が不思議で仕方なかった。
  それでも「気になる女」というわけでもなし、変に気を遣うのもバカバカしいと、志井はその後も思った事をそのままツキトに喋り続けた。それ自体が大層珍しい事なのだと―これまで誰かと無駄話をしたいと思った事はないし、実際にしてこなかった事を―志井は自分で気づく暇もなかった。

《偉そうな奴は嫌いなんだよ》

  自分の事は棚に上げて志井はぺらぺらと口を動かした。

《所詮芸術作品なんて、俺には作ったやつの自己満足にしか思えなかったからな》
《そうかあ…》
《ツキトは? やっぱり同じ絵描きだとああいうのにも理解あるのか?》

  志井の多少厭味めいた言い方にツキトは苦笑しかぶりを振った。
  風に揺れる少し癖の入った黒髪が綺麗だと思ったのはその時だ。

《俺にだって好き嫌いはありますよ》

  ツキトは言った。

《よく分からないなって思うものも。でも、見るのは何でも好きです。たとえば写実画にだって、肉眼や写真より優れたところはたくさんあります。普段だったら気づかなかったものが却ってよく見えたりして》
《何だそれ》
《自分の目に映っているものが他の人にも同じように見えるとは限らないでしょ? というか、きっと全然違うんですよね…。でもこれは俺の場合なんですけど、絵を見ていると、それを描いた人の世界ってこんな風に見えてるのかって、写真や言葉よりも強く感じられるし、その人の気持ちが直に伝わってくるっていうか…何かうまく言えないんですけど…っ》
《ふうん》

  照れ臭そうにそんな事を話すツキトを志井は気のない返事をしながら見やっていたが、実際心内でも(恥ずかしい事を真顔で言う奴だな)と思っていた。言いたい事は分からないでもなかったが、きっとそういう「個人の感受性」が絡む問題は、自分には永遠に無縁だろうし、表面的には理解できても根本から納得するのは不可能だろうと思ったのだ。
  それでもツキトはそんな志井の想いには気づかず続けた。

《自分が描くのも、そのせいもあるかも。俺、あんまり言葉うまくないし…自分の思ってる事、人に伝えるの苦手なんです。……そのくせ俺、我がままだから。本当は凄く知ってもらいたいんですよ。自分の好きな事とか…面白いって感じたもの。色んな人に伝えたい。だから、描く事自体が楽しいのは勿論だけど…見てもらえるのが、嬉しいから》
《………》
《だから志井さんが声掛けてくれて凄く嬉しかった。俺の絵、いいって言ってくれて》

  それがツキトの見た・感じた世界を自分も無意識のうちに共感したからだ…とは、当時の志井には思う事ができなかった。そんな小難しい話は分からない。見て直感的に「いいな」と感じたからそれをそのまま口にしただけで、その絵の中に眠る描き手であるツキトの想いや願いなぞを量る余裕はなかった。そんな事、気づきもしなかった。
  それなのにツキトは志井の言葉を《そう》だと解釈して、志井を無条件で受け入れている。
  ひどく危うげだった。

《お前…ツキト》

  手元のスケッチブックに描かれている公園の風景をさらりと撫でてみながら、志井は努めて何気ない口調で言った。

《今まで誉めてもらえた事ないからって、そういうのやめた方がいいぞ。何かとことんまで利用されそうだ。お前、自分の絵を誉めてくれた奴になら無条件で懐くだろ》
《ええ…? そ、そんな事ないですよっ。大体、俺の絵を誉めてくれる人なんかそんないないんだから!》
《そんな事ないだろ。お前、才能あるよ》
《え?》
《まあ…何度も言うようだが俺は素人だから。そんな奴がこんな事言っても、説得力はゼロだけどな》

  それでも、少なくともツキトには気概があると志井は思った。
  自分には誰かに何かを見せたいとか伝えたいとか、そんな欲求はどこにもない。そもそもその伝えたい《何か》とかいうもの自体がないのだから、本当につまらない人間だと…我ながらつくずく思う。
  それに比べればツキトは自分より年下なのにイキイキしていて、「一生懸命」が似合っていて、とても素直だ。そういう人種は、基本的には自分と相容れない部類の奴だと思うけれども、少なくともツキトに関してだけは見ていてちっとも不快にはならないのだ。頑張っている姿が厭味ではないと感じた。

《素人とかそんなの関係ないです》

  ツキトのその声に志井がはっとなって我に返ると、すぐ傍には実に真剣な眼差しがあった。

《俺…本当に嬉しかったから。思いきって東京出てきて良かった…》

  志井の手にあるスケッチブックを見つめながらツキトは呟くようにそう言った。
  志井がツキトから「家族に絵の事を反対されて家を出てきた」と聞かされたのはそれからすぐの事だ。頼る知り合いもおらず昼に夜にバイト三昧で、住み込みで何とか潜り込めた三畳一間のその場所でも、あるのはボロボロの布団と家から持ってきた着替えのみ。紙や絵の具を買う為に食事は二の次だし、本当は思う存分創作できる部屋を借りたいのだが身元を保証してくれる人間がいないので思うようにいかないのだと聞かされた。
  今時「苦労自慢」でもあるまいし、そんな生活に身を投げる十代が本当にいたのか。
  そしてツキトのそういった事情を聞けば聞く程、志井はいつの間にか当初考えていた「知らぬフリ」を自分がしようともしていない事に気がついた。ふと時間が空けばツキトの事ばかり考えていたし、早く会いたいと思っていた。
  ツキトを愛しいと思うようになるのに然程の時間は掛からなかった。心底助けてやりたいと願った。自分は特にしたい事もないし、ただ流されるまま生きるだけ。ならば夢のあるツキトを助ける、それが自分の夢になっても良いのではないかと。
  初めての恋に夢中だった頃は、志井はその自分の考えにただ有頂天になるだけだった。
  そんな初々しい感情がいつから捻じ曲がり、ツキトを苦しめるようになったのか。しかもそれが原因で一度は別れを決意したくせに、どうしても離れられずまたよりを戻して。

  そして今また―――、自分は何も出来ずただ立ち止まっているだけだ。





  ツキトの姉である陽子から志井に二度目の電話が掛かってきたのは、ツキトから連絡を受けた翌日の早朝だ。
「……またあんたか」
『どういう事? どうして昨日のうちにこっちに来なかったの?』
  ガンガンと激しくなる頭痛を抱えながら、志井は「何故この女の声はこうも耳障りなのか」と思った。気だるい様子で顔を俯けながら、志井は何とか傍の椅子に腰を下ろし電話があるカウンターに肘をついた。受話器を掴む手にも思うように力が入らない。まだ昨晩の酒が抜けないのだ。
  とにかく酷い状況だった。
『ホテルの場所だって教えてあげたでしょう。どうして来なかったの』
  それでも陽子は容赦がない。志井の惨状になど構う風もなく、ピリピリとした様子でキツイ口調を発してきた。
『昨日のうちだったらまだ連れ戻せたかもしれないのに…! 相手の動きが思ったよりも早いのよ。もうあのホテルは払っちゃったらしいわ。ねえ、聞いてるの? ツキト、連れて行かれたのよ。完全に隠されたっ。一体どうしてくれるわけ?』
「………」
「克己…誰だ?」
  凶悪な顔つきになっている志井に声を掛けてきたのは同じく二日酔いの相馬だ。志井はさんざんもう帰れと言ったのだが、相馬は「バカなお前の最期を見届けるまでは出て行かない」と訳の分からない事を喚き、結局朝まで管を巻いていた。
「なあって」
  その相馬は額に手を当てたまま押し黙っている志井を不審に思ったらしく、よろよろとした足取りながらすぐ傍にまで近づいてもう一度「誰だよ」と訊いた。志井は答えるのも面倒で何も返答しなかったのだが。
『本当にどうしようもない男ね』
  そんな志井の声を待っていたのは陽子も同じだったようだ。何も発しない弟の想い人に彼女はこれでもかという程刺々しい声で言った。
『貴方、私の言う事全く信じていないでしょう』
「……どうやったら信じられるっていうんだ?」

  気色の悪い事言いやがって……。

  その台詞が喉まで出かかったものの、仮にも相手はツキトの姉だ。ぐっと堪えて一度大きく息を吐き出し、志井は努めて冷静な調子で言い返した。
「大体おかしいだろう…。あんたはツキトから俺を離したいんじゃないのか。あんたがツキトをちゃんとバックアップして美大に行かせてやるって話はどうなった? それを…ホテルだ何だ…おまけに兄貴と…? どう考えたってまともな思考じゃない…」
  ツキトが突然消え、まもなくツキトの実兄の秘書だと名乗る男から連絡があった時、志井はなりふり構わず兄・太樹の会社へと足を運んだ。家を調べている時間すら勿体無いからと、あの時は本当に何も考えてはいなかった。
  その時に太樹以外で対面したのがこの電話の主、ツキトの姉である陽子だ。

《貴方が志井さんね。はじめまして。私、月人の姉の陽子です》

  忙しいからと殆ど門前払いの体で太樹から追い出された志井は、帰る道すがらこの陽子にそう言って声を掛けられた。初めて顔をあわせた時、志井は彼女の美しい笑みの奥に何か毒々しいものを感じて直感的に「嫌な感じだ」と思った。ただ、一年間も未成年であるツキトを自分の懐に隠していたという自責の念、加えてそんな後ろめたさから太樹に何も言い返せなかった自分に落ち込んでいたせいで、志井は陽子に対してもとことんまで弱気だった。しかも追い討ちを掛けるように「弟への態度を後悔している。今後はあの子の希望通りにさせてやりたい」と言われた事で、志井は陽子の言葉をまんま鵜呑みにしてしまったのだ。
  だからあっさりと身を引いた。
  そうする事こそがツキトにとって一番良い事だと信じて。
『貴方からは引き離したいわ、勿論』
  あの時とはまるで別の声色で陽子は志井に言い放った。
『でもね、私、今は貴方よりも兄の方に腹を立てているから。要は現時点でどちらに手を貸した方が後の自分に有利になるかよ』
「言っている意味が分からない」
「克己」
「……?」
  陽子の戯言を聞くのにウンザリし、もう切ろうと思った矢先。
  ふと相馬が「貸せ」と言わんばかりの顔で片手を差し出してきた。志井は胡散臭そうな目でそんな親友を見上げたが、当人が頑とした様子で手を引っ込めようとしなかったし、自分もこれ以上陽子の声を聞いていたくなかったので素直に受話器を渡した。
「おい、アンタ!」
  すると開口一番、相馬は受話器に向かって威勢良く声を張り上げた。
「あ? 俺か? 俺の事なんざぁ、そんな事はどうでもいい! それよりも今聞いた限りじゃ、理由はどうあれアンタはツキト君とこいつが会っても別に構わないって言うんだな? そうだろう?」
「おい…お前何を…」
「どうなんだ!?」
  志井の声をわざと聞かないように相馬はくるりと背を向けると、問答無用で喋り続けた。
「ああ…ああ。そうか、分かった。それじゃあ、ツキト君の居場所が分かったら連絡してくれ。ああ、携帯にしてくれ。今からそっちへ行くんでね。あ、実家の住所教えてくれ。場所が分からん」 
「おい、善太郎!」
  叫んだ拍子ズキリと頭が痛んだが、それでもいきなり勝手な事をしようとしている相馬に志井は焦って腰を浮かした。
「ああ…ああ、分かった。あ? それは…字はどう書く?」
  けれども相馬は止まらない。電話口の向こうから発せられる声に何度も頷きながら、彼はツキトの実家の住所を必死にメモしていた。
「……あのな。聞け。確かにあの女はどこかおかしいと俺も思う」
  電話を終えた後、相馬は唖然としている志井にしわがれた声でそう言った。
「お前が不快になるのも無理はない。俺だってあんなバカな話、信じちゃいないさ。けどな、ツキト君が本当にあの家にいるとは言い切れないだろう。それを確かめるんだ」
「そんな必要はない。あいつは家にいると言った」
「それが本当だと何故言える?」
「何でツキトが俺にそんな嘘言う必要があるんだ!?」
  それこそ陽子の言っていた「おぞましい事」を肯定する事になるではないか。
  確かに対面したツキトの兄・太樹は巨大なグループを取り仕切っている人物なだけあり、傲岸不遜で腹の立つ男だった。第一印象は最悪だ。けれど自分はあの男の実弟であるツキトの「恋人」という立場で、忌み嫌われるのも当然といえば当然なのだ。そう思ったからこそ、志井は太樹の傲慢な態度にも何とか怒りを鎮められたし、また納得もしていた。個人的に「むかつく」という感情に目を瞑りさえすれば、あの太樹という兄貴は自分よりは余程「まとも」な人間だろうと。
  自分自身があまりに「異常」だと自覚していたからこその、それは相手への緩い評価だったかもしれないが。

『実はね、あの2人…兄の太樹と月人はデキてるの。いわゆるそういう関係よ。ねえ、仮にも恋人を名乗っていた貴方が、そんな男の所へあの子を置いておいていいわけ?』

  昨晩、自分同様明らかに泥酔している陽子からの電話に、志井はまともな返答をする事ができなかった。何を突然電話してきてバカな事を言っているのか。怒りよりも呆れの感情が先立った。そしてそれはそのまま打ち捨て顧みる事もしなかった。少なくとも表面的には。
  思いもかけずその後ようやくの連絡をくれたツキトには、開口一番「何処にいる?」などと訊いてしまったが。
  それでも、そんな事が事実のわけがない。
  バカバカしい。
「……なあ。もう1回だけでいい。会いに行け」
  その時、相馬のやや疲れたような声が志井の耳に響いた。思えばこの親友は相当なお節介である。性分だと本人は言っていたが、そんな事をしても己には何の得にもなりはしないのに。
「お前の為に言ってるんじゃない。ツキト君の為に言ってる」
  すると志井の意を読み取ったのだろうか、相馬はバカにしたような笑みを見せて言った。
「お前があの子にフラれるんなら、俺も煩くは言わない。けど逆は嫌だ、我慢できん。お前みたいなアホに囚われたまま苦しむあの子を見たくない。職業柄、俺はいつでも可愛い方の味方なんでね」
「職業柄って何だよ。関係ないだろ」
「この非常時にくだらないところでツッコミ入れんな!」
  唾を飛ばして叫ぶ相馬に志井は鼻で哂って視線を逸らし、その後自嘲するように唇の端を上げた。
「……お前は俺に振られてこいってのか」
「捻くれ者め。……まあ、別れるならな。そういう形がいいだろう」
  だが俺が言いたいのは――…相馬は一度溜めてからふっとため息をついて答えた。
「一番いいのは、お前らがまたここに戻ってくる事だと思ってるよ」
「何で」
「ばあか。両方がそれを望んでいるからさ。答えは至ってシンプルだ。お前らは両想いだろう?」
「………」
「まさか違うとは言わないだろう!? そうなんだよっ! 仮にお前らが違うと言ったとしてもな、真実はそうなんだ!」

  なのに別々ってのは、別々にならざるを得ない人たちに失礼だと思わんのか?
 
「まったく……」
  相馬は大袈裟に嘆息し、血管の浮き出た細腕を伸ばして先刻メモしたばかりの紙きれを志井に向かって差し出した。
「………」
  志井はその白い紙に並ぶ崩れた文字を黙ってじっと眺めやった。





  それよりも時を少し遡った明け方前。
「んっ、あっ、あぁッ…」
  ひっきりなしに甘い声が漏れる部屋の中、それが自分のものであるとはツキトももうはっきりとは分かっていなかった。
「あっ、あんっ…」
  腰を打ち付けられる度どうしても声が出てしまう。そうしないと既に太樹の精で満たされた己の体内が破裂しそうで、それが不安で仕方なかった。両足を大きく開かされた状態で、その間に兄のモノを咥え込む自分。ただ嬌声をあげ、奥を突かれる度にその衝撃を甘んじて受け、身体を上下に揺らしている。
「ひ…ぁッ…」
  内壁を強く擦り付けられる度目を瞑りながらも、ツキトはそんな惨めな己を途切れ途切れにでも眺めやった。
「…ッ…や、あ、あぁッ」
  夜遅く帰ってきた太樹にソファで一度抱かれ、その後も寝室のベッドへ運ばれてから二度、三度と立て続けに中へ精を吐き出された。同じようにツキトの方もその度イッて体力を消耗し既に限界は超えていたが、終わりなど永遠に来ないのではないかという錯覚に囚われて、ツキトはほぼ諦めに近い境地で上から覆い被さる兄を従順に受け入れていた。
「ひ…あ、あぁ…ッ!」
  ただ、救いがあったとすればその執着を感じさせるセックスには太樹からの愛撫があった。それが過去のあの狂人とは決定的に違う部分で、身体の快楽を呼ぶ原因の一つだった。また、中へは強引に入ってくるくせに、ツキトがそれに苦しんで涙を零すと決まって優しく慰めるようなキスがどこかへ落ちてくるのだ。相手が死というものを突きつけながら無理矢理してくる性交渉とは明らかに種類が違った。
  それに、何より声が。
「月人…」
  それは幼い頃自分をずっと守って慈しんでくれた人間のものだ。
「太…兄さ…」
  殆ど声が掠れてその名を完全に呼ぶ事は不可能だったが、それでも相手にはツキトのそれが届くようで、その度絶え間なかった律動はぴたりと止んだ。そうして相手の反応を確かめるようにじっとした後、やがて再び揺さぶってくるのだ。
「あっ」
  それに反応してツキトがまた声をあげると、徐々にそのリズムは速度を上げる。
「あ、あっ。兄さ…兄さんっ…」
「月人…!」
「もう…も…だ…あぁッ、ああぁッ!」
  自分が発するのとほぼ同時に兄の太樹が再び射精したと感じ、ツキトはぐったりとして顔を横へ背けた。ハアハアと荒く息を吐きながら、このまま気絶してしまえば良いと思った。けれども意識はなくならず、ずるりと抜け出てくる兄の性器の感触まで記憶し、ツキトはその後どろりと溢れ出た性液が股とその間のシーツを汚すのを見た。
「………」
  ずっと無理な体勢を強いられていた両足をベッドにだらんと伸ばし、ツキトはそのまま黙って近づいてくる太樹の顔を見やった。兄も既に一糸も纏わぬ姿で裸のツキトを見つめている。そのまま下りてくる口づけはもう一体何度目のものだったか分からない。それでもぼうとしたままそれを受け取ってしまうと、唾液の絡むようなそれが何度も繰り返しやってきて、ツキトは折角整えかけていた息をその口づけでまた乱す事になった。
「ん…っ」
  上唇だけを食むように吸ってくるのは兄の癖なのだろうかと何となく思いながら、ツキトは少しだけひりひりするそれに泣き出しそうな程胸を痛めた。そんな事に気づいてもどうしようもないのに、ただ今起きている事しか考えられない自分がいる。兄とこうして絡みあう前までに決意していた色々な事が全部どこかへ飛んで行ってしまうような、既に消されてしまったような、そんな酷い虚無感に襲われて、ツキトの心は最早崩壊寸前だった。
「眠りたい……」
  何となくそう言った。すると「寝ろ」という短い返事が聞こえてきた。ああ寝ていいのかと思ってツキトはとろんと目を閉じたが、その後も何度も唇へキスが降ってくるものだから、眠っていいと言ったのに酷いと、頭の中で何度も何度も繰り返し唱えた。唱えて、そうしているうちに今度こそツキトの意識は遠くへ飛んだ。
「…描か…いと…」
  けれどその深い眠りの淵の所で、早く早く描かなければ、それが自分の使命なのだからとしきりに急かすもう一人の自分と。
「……っ」
  ああもう志井には会えないのだろうな、こんな事にまでなってしまってはもう駄目だ、会えない、と。――そう思う自分がいる事もツキトには分かっていた。





「月人、起きろ。飯食うぞ」
  それからどれくらい眠ったのだろうか。
「………」
  太樹の声でぼんやりと目を覚ますと、いつの間に新しいものに替えられたのか、新品のシーツが敷き詰められたベッドの上でツキトはうつ伏せ状で寝ていた。覚えがないままに田中が用意してくれていたパジャマも着ている。それを確認しながら首だけ声のする方へ向けてみたが、その位置から兄の姿は見えなかった。
「朝…」
  昨日ここへ来たばかりなのに窓には真新しいカーテンもある。その隙間から朝の光が細く差し込んできていて、ツキトは新しい一日の始まりを知った。
「うっ…」
  こみ上げてくる吐き気を何とか堪えて身体を起こすと、振り返ったツキトの視界の先にはちょうど姿を現した太樹がいた。兄も既に着替えを済ませている。ただしそれはいつものスーツ姿ではなく、実年齢より若く見えるラフな普段着だった。
「顔、洗ってこい。パン焼いておいてやるから」
「パン…?」
「それが嫌なら他にも何でもある。大抵買っておいたから、好きな物を食べればいい」
「………」
「それも嫌なら外へ食いに行く。どうしたいか選べ」
「………」
  どれも嫌だと言える雰囲気ではなかった。ツキトは諦めて立ち上がり、兄を素通りすると素直に洗面所へ向かった。
「すご…」
  そして、そこの鏡に映った自分の顔にツキトは思わず引きつった笑いを浮かべた。
  見事にいつもの顔と違う。泣き腫らした目元に一晩で一気にやつれたような萎んだ目、血の気のない顔色。むき出しになった首筋には兄につけられた跡が生々しく残っている。
  酷い姿だった。
「はは…」
  何も可笑しい事などないのにどうしようもなく笑いがこみ上げてきて、ツキトは小さく笑った。昨晩、上月や田中が感じ取ったそれは壊れかけたツキトを如実に表すものだったが、リビングにいる太樹にそれが分かるはずもない。ツキトの痙攣のような笑みを見た者は誰もいなかった。
「何を飲む」
  そんなツキトが顔を洗いリビングへ戻ると、キッチンテーブルの上には既に太樹が用意した飲み物が何種類もあった。自分はコーヒーを淹れたようだが、ツキトにそれをやる気はないらしい。椅子に座ったツキトの目の前にはオレンジジュースや野菜ジュース、牛乳、それに水やウーロン茶などのペットボトルが所狭しと並べられた。そのうちの幾つかは昨晩田中が買ってくれた物だろう。
「じゃあこれ…」
  遠慮がちに手にしたミネラルウオーターに太樹は露骨に嫌な顔をして見せたが、ツキトはそれにわざと知らないフリをした。如何せん何か食べようとしたり考えたりするだけで吐き気がするのだから、水以外のものなど受けつけない。
「ほら」
「………」
  けれど次に出された物にツキトは思わず閉口した。先ほど太樹が言っていた「パン」だ。
「………」
  ふわふわの厚切り食パンはこんがりときつね色に焼かれていて、見た目にもとても綺麗だった。兄は黙ったままこれまた買ったばかりのバターを出し、同じく新品のバターナイフでそれを切り取って焼きたてのパンの上に乗せた。
  余熱でじゅわりと溶けていくバターが食パンの表面に広がっていく。
  ツキトはそれをじっと眺めやった。志井もこうしてバターを塗ってくれたなと思いながら。
「月人」
  何の動きも見せないツキトに太樹が責めるように呼んだ。早く食べろと言いたいらしい。ツキトはそんな兄にちらとした視線を向け、震える手で何とかパンを手に取った。本来ならば美味しそうな匂いのそれだが、鼻先に感じただけで胸がむかつく…。食べた瞬間出してしまうのではないか、しかしそうしたら兄に睨まれ叱責されるのではないか……焦りと恐怖を内面に埋め尽くしながら、それでもその感情を表には出す事なく、ツキトはゆっくりと口を開けてそのパンの端を少しだけかじって見せた。
  ほんの欠片だ。幸い嘔吐感が襲ってくる事はなかった。
「全部食べ終わるまで席を立つなよ」
  一口かじるのを見届けてから太樹はそう言った。そうして自らも目の前の椅子に腰をおろし、何事もないかのようにコーヒーを口にする。
「………」
  ツキトはそんな兄をまたちらとだけ見てから、再びパンをかじった。今度は先ほどより大きな欠片を口に入れた。一瞬喉が詰まったが慌てて水を流し込み、事なきを得た。
「……ふ」
  その拍子、また笑いがこみ上げてきてツキトは口元を歪めた。
「何が可笑しい」
  太樹が憮然としているのにも構わずツキトは首を横に振り、「ふふ」とまた笑った。
「月人」
「何でもない」
  そしてすかさずまた答え、今度は今までで一番大きくパンを口に入れた。
「これくらい食べられる」
  自分に言い聞かせるようにそう言い、それからツキトは唐突に「兄さん」と太樹を呼んだ。
「何だ」
「ここ、高かった?」
「何の話だ」
「お金」
「………」
  突然訳の分からない話題を振っきたツキトに太樹は不審に思ったのかすぐには何も答えなかった。ツキトはそんな兄の態度を珍しいと思いながら、未だ薄気味の悪い笑みを頬に張り付かせたまま続けた。
「すぐに解約したら勿体無い?」
「だから何の話だ」
「家に帰る」
「……駄目だ」
  ツキトの発言に太樹は一瞬の間の後、すぐにきっぱりと言った。
「まだ駄目だ」
「どうして」
「どうしてもだ。言っただろう、お前がどうするかは俺が決める。家に帰る日も何もかも、全部だ。お前が決める事じゃない」
「……人生も」
「………」
「僕の人生も―」
「そうだ」
  言いかけたツキトを制するようにして太樹は答えた。そのあまりにきっぱりとした物言いにやはり多少はたじろぎながら、それでも心の一部が麻痺していたツキトは何とか先を続ける事が出来た。
  ただ単に疑問に思った事を口の端に乗せただけなのだが。
「それは陽子姉さんとどこが違うの」
「何…」
「僕のことを玩具みたいに扱う陽子姉さんとどこが違うの」
「月人」
「僕は、描くから」
「………」
「家に帰って絵を描くんだ。もう決めた」
「……誰が許した」
「………」
  真っ直ぐこちらを見やる太樹をツキトも怯まず見返した。やはり心は麻痺しているのだ。こんな風に兄を見つめられるのだから。
  それでも太樹の凛とした厳しい表情は揺らぐ事がなかった。
「月人。そんな事、誰が許した。言ってみろ。親父やお袋に話しても無駄だ。ましてや陽子なんかに―」
「じゃあ…兄さんが許して」
「何…?」
「家に帰るよ。志井さんにももう会わない。だから絵を描かせて。描かせて、下さい」
「………」
  割とすぐに出て来たその言葉にはツキトよりも太樹の方が驚いたようだった。
  初めて口づけをした晩だ。「話があると」と言ってきたツキトが願ってきた事は「志井と連絡を取らせて欲しい」という一言のみだった。その時は自分自身まだ心を決めかねていたが、太樹はもしあの時ツキトが「絵を描かせて欲しい」と言ったなら自分はそれを許すのではないかと思っていた。未だあんな物に価値があるとは思っていないし、ツキトにそんな才能があるとも考えてはいない。けれども、ツキトがそうする事を選び志井という男と別れるというのなら、許してやっても良いと…太樹は心のどこかではそう思っていたのだ。
  それが今になってこんな風に頼んでくるとは。
  それもとても「まとも」には見えない精神状態で。
「僕は描かなくちゃいけないんだ」
  ツキトはそんな事を考えている太樹に構わず淡々として続けた。
「それをしないと駄目だから。そうしないと、病気じゃないって証明できない。右手は動くって証明できない。僕はおかしくないって……自分で自分が信じられない」
「……月人」
「お願いします…。お願いだから…兄さん…お願い……」
「………」
  がっくりと頭を垂れて許しを請うツキトに太樹はすぐの返答を寄越さなかった。
「お願い…」
  ツキトはじっと待った。そして、ああそういえばあの家で作りかけた粘土の城があったのだと思い出した。まだ途中で…きっと土もカラカラになってしまっただろうが…きちんと完成させなければ、と。
「昔もよく作ったな…砂の城…」
  未だ何とも答えない太樹にツキトはぽつりと呟いた。
  同時、兄の帰りをひたすらに待って、夕刻の公園で作っていた砂の城のことを思い出し…あれは相当に良い出来だったなと、ツキトは不意に蘇ってきた過去の映像にすうっと目を細めた。



To be continued…




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