あの窓を開けたら
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―17― 妹の陽子から「最近、月人の帰りが遅い」と聞かされても、その時の太樹は別段その事を大きなものと捉えてはいなかった。 「高校入ったばかりで浮かれてるんだろ。放っておけ」 「もう。兄さんは月人にだけは甘いんだから」 仕事から帰ってきたばかりの太樹に対し自分は既に寛いでいた陽子だが、だからこそこの事を一刻も早く兄に伝えたくて堪らなかったのだろう。自室に入ろうとする兄を階段の所で留めたままの状態で、陽子は未だ帰らぬ弟の部屋を顧みながらため息交じりに毒づいた。 「ねえ、兄さんからちゃんと言った方がいいわよ。帰りだっていつも遅いんだから」 「まだ帰ってないのか」 「このところずっとそうよ。気づいてなかったの?」 「忙しかったからな…」 らしくないわねえと陽子は不満たらたらの顔をした後、偉そうに腕を組んだ。そうしてそこからでは見る事のできない玄関口へと視線をやりながら続ける。 「確か部活には入れないで予備校行かせるんじゃなかった? でもあの子、私たちに断りもなく勝手に美術部に入っちゃったし、最近お小遣いで絵の具だの何だのをやたらと買いこんだりしてるのよ。嫌になるわよ、服だっていつも汚してるし。時々油だけじゃなくて粘土臭いし、あの子」 「……趣味くらい好きにやらせてやれ」 勉強しないのはまずいなと思いながらも、太樹は陽子の前ではとりあえず月人に対する寛容な態度を崩さなかった。帰りが遅い事も心配と言えば心配だけれど、何かそうならざるを得ない理由があるのかもしれないし、この我侭で自己中心的な妹の言い分よりは直接月人に話を聞けば済む話だろうと、太樹はまるで取り合わなかった。 月人は扱い難いこの妹と違い、将来は自分の片腕となって共にグループを支えていく大事な存在…。 両親は月人を「不出来な子ども」と昔からあまり期待していないようだったが、太樹は月人を他の家族のように「使えない」などとは決して思っていなかった。多少要領が悪いのは認めるが、その分几帳面な性格でやる事はいちいち丁寧だし、何より真面目で誠実である。理解力がないわけでもない、入学を果たした高校のレベルも決して低くはない(残念な事に高いとも言えないが)。月人は自分の良い支えになるだろうと、太樹は可愛い弟の成長が楽しみでならなかった。 ここ最近はつい仕事にかまけてその月人の様子を窺う事も怠っていたが。 「帰ったら話すから、俺の部屋へ寄越せよ」 「あーあ。月人がいないと、この家って本当つまらないのよね。遊ぶものがなくて…」 「陽子」 責めるような声を出した太樹に、しかし陽子はすかさず片手を振った。 「分かってる、分かってるわよ。最終的にはあの子は兄さんのものだけど、でもたまにはアタシが遊んだっていいでしょ。ああ…なのに、ね。何なのよもう。それに何かにハマるならもう少し実のあるものにして欲しかったわ。黙って絵を描いている男なんて、陰氣でオタクでイヤな感じ。私の理想とする月人とは違うわけよ。分かる、太樹オ兄サマ?」 「知るか」 いつもの事とはいえ陽子の言い様にウンザリとして太樹はさっと背を向けた。追いかけてこられないように部屋に入るとすぐにドアを閉めて鍵を掛ける。そうして太樹はネクタイを緩めながら何気なくデスクの上に置かれている写真盾をじっと見やった。 「………」 花が彫られたガラスのそれに収まっているのは写真ではない。去年の太樹の誕生日プレゼントにと月人が贈ってくれた自筆の水彩画だ。庭の温室に咲いている花を描いたのだというそれは、お世辞にも「良い」ものには思えなかった。対象物に対する観察眼はそれなりに優れていると思うが、色合いは地味だし、そもそもセンスが感じられない。温室にならまだそれなりに見栄えのする花が他にもたくさん咲いていたはずなのに、その中で「これ」を選ぶのか…と。そんな月人に陽子などはあからさまに「アンタには才能のサの字もない」と斬り捨てていたものだ。 そう、絵を描くのが好きだという事は認める。友人の少ない月人は小学生の頃から一人で黙々とスケッチブックに筆を走らせているようなおとなしい子どもで、その積み重ねの成果か、技量に関しては教師や周囲の大人たちからもそれなりの賞賛を受け、幾つか賞を取った事もあった。その度太樹も月人の努力を誉めてはいたが、両親や陽子が「そんなものを貰ったところで…」と冷めた視線を送っているのを糾弾しようとは思わなかった。心の中では自分も彼らと同じ風に考えていたからだ。 こんなものに時間を掛けていて何になる、と。 それに所詮、月人にとって芸術などというものは彼の将来とは何の関係もない。月人は大学を出れば自分の傍で家の仕事に従事するのだから。出来れば絵の大会で入賞するとかではなく、学年で10番以内の成績を取るとか弁論大会の代表になるとか、そういう方面で目立って欲しい。それは太樹の率直な願いだった。 それでも「月人にだけは甘い」太樹である。心ではそう思っていても、実際それを口に出して月人に煩い思いをさせた事はなかった。自分がいちいち言わずとも、成長し将来への自覚を強くしていけば月人は自ずとその為の努力を始めるに違いない、そう思っていたから。 それなのに。 「絵を描いてる時が一番楽しい」 太樹の動揺に気づく事なく、月人は無邪気な笑顔と共にきっぱりとそう言った。高校生にしては遅過ぎる帰宅を陽子にぐちぐち言われシュンとしていたのも束の間、大好きな兄に呼ばれていると知るとその自室まですっ飛んで行き、月人は満面の笑みを浮かべると忙しなく話し始めたのだ。 「兄さん、聞いてよ。今ね、部活で出された課題に《朝と昼と夜のデッサン》っていうのがあってそれをやってるんだけどさ。各自がここだって決めた場所で全く同じ風景を時間を変えて描くんだけど、それが本当にびっくりするんだよ。同じ場所なのに全然違うんだ。色は当然としても、何かね、そこを通る音っていうのかな…あ、勿論通る人も違うしね! これ、そんなの当たり前だろって先輩には笑われちゃったんだけど、でも僕バカだから何だか凄い事発見したって感じがしたんだよ。それだけで。何枚描いてても飽きないの。それで、ちょっと気づいたら時間が凄く経ってたんだけどさ…へへ」 「……それでも連絡くらいは入れろ」 「あ、うん。そうだよね。ごめん。陽子姉さんからも叱られた。今度からちゃんとそうするね。でもさ、それで…」 「月人」 まだまだ話したいという風にまくしたてようとする月人を太樹は無理に制した。こんなにお喋りな月人を見たのは初めてで、それには密かに驚き目を見張っていたのだが、今はそんな弟にきちんと言わねばならぬ事がある。太樹は努めて冷静な風を装い、そこへ座れというように目だけで月人に命令した。すぐそれに反応した月人が素直に言う事をきくと、太樹はベッドに腰掛けた弟を自分は窓際に位置するデスクの椅子に腰を下ろした格好でじっと見つめやった。 「好きな事をやるのも結構だが、勉強はちゃんとしてるのか」 「……ううん。あんまりしてない」 途端ばつの悪い顔をした月人は、それでも正直に首を振った。 太樹はすぐさま顔をしかめた。 「どういうつもりだ。今からきちんと勉強しておかないと、受験なんてあっという間に来てしまうんだぞ。お前にはきちんと俺たちと同じように―」 「僕、無理だよ」 「……何が無理だ」 いやにはっきり言う弟に太樹は一瞬言葉が遅れた。確かに月人は中学生の頃から既に「自分は頭が良くないから、兄さんや姉さんと同じような進路は歩めない」という悩みを口にしていた。……が、その度太樹が励まして「何とか頑張る」という方向へ持っていっていたのだ。 これまではそれが出来ていた。 「あのさ、分かったんだ。自分が一生を通じてやりたいものが」 それなのに、この時の月人は尚も確信に満ちた目をしてそう言った。 「将来自分が就く職業の事とかはまだよく分からないけど。でも、僕は絵を描くのが楽しい。一番楽しいんだ。だから勉強も頑張るけど…兄さん、いいでしょ? もっと絵の勉強を頑張っても。去年は高校受験であんまり描けなかったし…」 「絵は勉強じゃないだろう」 「え…ううん、絵だって…」 「趣味が本業を侵すようなら認められない」 「本業?」 「お前が本当にやらなくちゃいけない事だ。分かるだろ」 「………」 いやな間があった。 太樹が当然のように言ったその台詞を月人はそのまま受け入れていない。それは太樹だけでなく、二人にとって当たり前の答えなのに。 「月人?」 何故返事をしないという風に、太樹は思い余って再び自分の方から声を出した。月人の顔をじっと見やる。月人は何かを考えこむように俯いて太樹の方を見ていなかったが、太樹はひたすら静かに月人の事を見つめやった。 「………うん。分かってる」 すると間もなくして月人はそう言った。ようやっと視線も太樹の方へやってくる。笑顔はなかったが、力なく頷きもした。 「分かってるよ…。英語も数学も…頑張るから」 「……分かっているなら、いい」 わざと厳しい口調でそう返したが、太樹は月人の言葉に心密かにほっと胸を撫で下ろした。やはり月人は自分の言う事ならば何でもきく。多少の間違いを犯しても、その都度軌道修正してやれば素直なこの弟はすぐ自分の懐へ戻ってくるのだ。絵の事は多少は気掛かりではあるが、受験が終わったばかりできっと少し気が抜けてしまっているのだ。 それが、その想いが裏切られ、月人がますます絵にのめりこみ、やがて「家の仕事を手伝う気はない」、「絵描きになりたい」と言った時。 太樹の中で初めて弟・月人に対する想いに激しい変化が生じた。今までとて世間一般の兄としては異常ともいえる愛情を注いでいた太樹だが、それでもそれは紛れもなく純粋なものだった。 それが不意に黒く歪んだものに一変してしまったかのような危い状態。 月人を失うかもしれない、自分を見なくなるかもしれないという危機感を抱いた時に、それは太樹の内から本当に突然湧いてきた。 その感情を噴出させる前に、月人は太樹の前から姿を消したのだけれど。 早急に食パンを口に詰め込んだせいか、ツキトは間もなくしてそれらを全て吐き出してしまった。 「……っ」 洗面所で口を漱ぎ人心地ついたのも束の間、背後では不快極まりない表情の太樹が立っていて、それを鏡越しに見やったツキトはすぐさま全身を震わせた。 ツキトが嘔吐した事に罪はない。もともとここ数日まともなものを胃に入れていなかったところへ強引な早食いをしたのだ、身体が拒絶反応を示すのは目に見えていた。加えてツキトの精神状態はお世辞にも普通と呼べるものではなく、非があるとすれば無理な食事を強要した太樹こそが責められるべきだった。 けれどその場に立ち尽くす二人の間に勝敗をつけるのならば、優位な立場にいるのは太樹であり、あからさま怯えて小さくなっているのは弟の月人だった。いつでも勝者は太樹の方と決まっていた。 「ごめん…。急に気持ち悪くなって」 必死に懇願し、答えを待っている途中で嘔吐とは…。やむなく席を立った無様な自分を嘆く間もなく、ツキトは太樹に向かって謝った。 「………」 太樹は何も言わない。ただじっとツキトを見つめるだけだ。 「……でももう大丈夫」 仕方がないのでツキトは一人で会話を進めた。唇の端についていた水滴を鉛のように重くなっている腕を挙げて、その手の甲でぐいと拭う。そうしてさり気なく兄からの視線を外しながら、ツキトは我ながらしつこいなと自嘲しながら先刻の話題を持ち出した。 「もう大丈夫だから…家に帰っても、いいよね」 「………」 「一昨日作りかけてた物があるんだ。それも気になるし…。兄さんが何と言おうと僕のやる事はもう決まっていて、それはやらなくちゃいけない事なんだから、やるなって言われてもそれは無理なんだ。幾ら兄さんが言っても駄目なんだよ。言う事きけない。分かるよね」 未だ喉の奥に遺物が詰まっているような感覚があり、正直話すのは億劫だった。けれどもツキトはだからこそ息を継ぐ間も惜しむようにして一気にそこまで話し、それからようやっと太樹に視線を向けた。兄はまだ不機嫌な顔をしていた。そして何を言う気配もなく、ただこちらを見やっているだけだった。 「……っ。何で」 するとツキトの中で途端ぴりっと電流が走ったような、痺れにも似た痛みが走った。 同時に怒りが沸いた。 「何で何も言わないの。そんな怖い顔ばっかりして…そうやって…無視しても意味ないよ。無駄だよ。無駄なんだよ。もう決めてるんだから僕は帰るよ。帰る。帰るから」 「………月人」 「何…何だよ、その哀れむみたいな…目…目は、さ…! 兄さんもやっぱり僕がおかしいって思ってるの? 病気だって? 変だって、狂ってるって? そうなんだ? そう…っ」 瞬間的にカッとして興奮したせいだろうか、最後まで言い切れずにゲホゲホと咳き込み、ツキトは前のめりに倒れそうになった。それでも頭の中で目まぐるしく動き回る「早く帰らなければ」「描かなければ」という強迫観念でツキトは何とか足を踏ん張りその場に持ち堪えると、逆にその勢いのまま太樹の横を通り過ぎようとした。勿論、玄関口へと向かう為だ。一人でも帰れる、帰らなければ。 そう思っていたから。 「月人」 けれどそれをすんなり許す太樹ではなかった。 「は…離せっ!」 ぐいと手首を捕まれてツキトは咄嗟に反抗の言葉を口にしたが、太樹はびくともしなかった。驚きその手を振り払おうとするツキトをものともせず、問答無用でその痩身を抱き上げると、そのまま無言で歩き出した。直行したのは勿論ツキトが望む玄関口ではない。外ではない。 そこはベッドのある寝室だった。 「い、嫌だ、帰る…! 嫌だ!」 「月人」 「嫌だもう! こんな所は嫌だ嫌だ嫌だあっ!」 「寝ろ!!」 「ひっ………」 突然大声を出されツキトは反射的に悲鳴をあげた。ひくっと喉が鳴り、身体が縮こまる。太樹からの拘束がなくなっても、ツキトは放り出されたベッドの上でそのまま動けなくなった。 「……ぁ…」 声も出ない。兄の威嚇に完全に負けていた。 「………寝ていろ」 しかし太樹自身も自らが発した大声には僅か動揺したようだった。すぐにはっとなり、肩から力を抜くと、びくついているツキトを見下ろしながらもう一度「寝ろ」と絞り出すような声で繰り返した。 そして言った。 「医者を呼ぶ」 「え……」 「電話してくるからそこにいろ。寝ていろ。……いいな」 「………」 全く意味を成さないものでもそれなりに暴れて肩で息をしていたツキトは、しかしその時になって初めて兄の方も自分と同様憔悴している事に気がついた。同じように肩を荒く上下させ、寝ていろと言ったその顔こそ随分と眠っていないような、そんな疲れた様子に見えた。 「医者……」 その兄が「医者を呼ぶ」と言った事でツキトは不意に悪い夢から覚めたような気持ちになった。はっとし何度か瞬きすると、瞬間、自分を置きざりに部屋を出て行こうとする兄の後ろ姿が目に入った。 「待…」 それを認めた途端、ツキトは慌てて声を張り上げた。 「待って兄さん!」 「………」 それが酷く鬼気迫るものだったからだろうか、太樹の足は部屋の入口付近でぴたりと止まった。 「待っ…」 ツキトはごくりと喉を鳴らすと一度言葉を詰まらせた後、急いで続けた。 「大丈夫! 僕は大丈夫だから! 医者なんかいらないっ!」 自分のヒステリックな声にズキンと頭に痛みが走ったが、ツキトは運ばれたベッドの上にあったタオルケットをぎゅっと掴むと、とにかく「医者はやめてくれ」とバカみたいに反復した。 「本当に大丈夫なんだ…。急に詰め込んだから胃が驚いただけだよ…。医者は、そんなの…それだけはやめて。お願いだから…」 医者など呼んだら見られる。 この惨状を。身体を。 「ちゃんと食べるし…すぐに、良くなるから」 「………」 「兄さん…」 「分かった」 太樹が短くそう応えた。 やっと聞けたその声にツキトが弾かれるようにして顔を上げると、太樹は再びさっと近づくとすぐ傍に腰を下ろした。そうして未だ怯えた様子のツキトにもう一度「分かった」と繰り返すと、太樹はどこか単調な声色で言った。 「医者は呼ばない。消化の良い物から少しずつ食べるようにしよう。何か適当に買ってくる」 「兄さんが…?」 「俺以外誰がいる」 「………」 言って太樹はそっとツキトの頬を撫でたが、すぐに離れると再び「寝ろ」と命令した。 ツキトがその接触に反応する間もなかった。 「月人」 そして太樹は部屋を出て行く際、ツキトに背中を向けたままで告げた。それこそ口答えなど許さないという厳然たる物言いで。 「具合が良くなるまではここにいろ。家の事は口にするな」 「え…」 「絵に関してもだ。俺は認めない」 「兄さ…」 その台詞でツキトの目の前は真っ暗になった。 これほど頼んでも駄目なのか…。頼み方が足りないのか、自分の存在そのものが否定されているから、何を願っても無駄なのか。 「月人」 けれどそんな放心状態のツキトに太樹はすぐ後の言葉を付け足した。 「陽子の奴も相当苛立っているし、今はまだあんな所へお前を帰せない。治るものも治らないだろう。後の事は全部体調が戻ってからだ。それまで余計な事は考えるな」 「……え」 「ここにいろ」 「じゃあ……じゃあ、良くなったら?」 「………」 「良くなったら、絵を描いてもいい?」 「………」 ツキトの問いに太樹は何も答えなかった。そのせいでツキトの問いに対する回答は「良い方」にも「悪い方」にも幾らでも解釈する事ができた。 「…うん。良くなるよ。絶対」 だからツキトはそれを良い方に捉えた。 「早く良くなる…」 そうする事でしか己を守れないからと、無意識のうちに判断していたからかもしれない。 それでもとにかく、ツキトはほっと小さく息を吐き、太樹に向け今度は壊れていない「普通」の笑みを向ける事が出来た。もともとツキトの中ではどれほど駄目だ、諦めろと言われても、まだどこかではこの兄ならばいつか自分を許してくれるのではないか、最後には助けてくれるのではないかという、信じる気持ちが残っていたから。 だから笑えた。 「ああ…。早く良くなれ」 しかし一方で、それは兄の太樹にしても同じ事が言えた。 この愚かな弟がいつか「絵を描き続ける」などという己の過ちに気づき、自分につき従う日が来るのではないかという…そういった希望をいつまでも捨て切れずにいたのだ。そういう意味で、太樹もまたツキトの事を信じていた。 二人は徹底的に擦れ違っていた。互いが決して分かり合う事のできない別の線上から、「そっちがこちら側へ来い」と要求し合っているのだから。 それから三日間、ツキトは太樹に絵の事は一度も頼まなかった。 そもそも常に多忙である太樹は、共に休んだあの日以外は帰りも遅く、やはりとても疲れた顔をしていたので、ツキトもそんな「我侭」を言える雰囲気ではない事は分かっていた。またその意思もなかった。それは兄を心配する気持ちが半分、あれ以来身体を求めてこない兄を怒らせたくない気持ちが半分だったかもしれない。 そう、それに。 具合さえ良くなれば良いのだ。落ち着けば兄も家へ帰してくれる。 太樹が仕事へ出かけた翌日は田中に勧められてお粥や果物を少しだが口にする事ができた。傷んだ身体はまだまだ気だるかったが、それでも三日目には三食きちんと摂れた事が嬉しく、遅い帰宅を果たした太樹に「もう大分いい」とアピールする事も出来た。お目付け役の田中が「まだ熱も下がらないし、こんなのは健康な人の食事量ではない」と報告するものだから、「完全回復」とは認めてもらえなかったが。 それでもツキトは表向き一時壊れかけた感情を随分と落ち着かせていた。 元気になって帰宅したら描いてもいいのだ…。そう頑なに信じる事によって。 「不思議なんだけどね。一旦描こうって強く決めたら、あれだけ動かない、駄目だって思っていた手が何だかむずむずして凄くどうしようもなく描きたい描きたいって訴えてるみたいになってるんだよ。何だか良くなってる感じがする。俺、たぶん家に帰っていつものスケッチブックを手にしたら、すぐに描けちゃうんじゃないかな」 「そうですか、それは良かったですね。でも、今はそれよりも食べる口がお留守になってますよ。はい、どうぞ」 「うん」 田中が差し出したりんごをツキトは素直に受け取った。 この日もいつもと同じ。太樹が仕事に行っている間、ツキトは田中に見守られながら「絶対安静」だ。この時はちょうど昼を過ぎたあたりだった。 「この後、薬を飲んで熱を計りましょう。また少し眠った方がいいですよ」 りんごの皮と包丁を片しながら田中が言った。 「睡眠は一番の良薬です」 「うん。でも、あんまり眠くないんだけどな。ここにいてもテレビ見るか田中さんと話すか食べるかだし。夜眠れなくなるのきついよ。本があったらいいんだけど」 「そうですね、後で何か良さそうなものを買ってきますよ。でも熱があったら読書も駄目ですからね」 「ないよ、もう。何か田中さん、看護師さんみたい」 「それもいいですね。才能あるかもしれません」 お坊ちゃんのお世話をするの楽しいですからと田中は茶化した風もなく割と真面目な顔で答え、それから「ああ、でも」と思い直したように首を振った。 「やっぱり私には無理でしょう。私の場合、お坊ちゃん限定ですから。他の人にはこれほど尽くすのは無理だと思います」 「そんな…。ううん、田中さんは自分より人の心配をする性質だよ」 「なら尚の事看護職は無理でしょうね」 意味ありげな様子でそう笑い、それから田中は「そういえば」と思い出したように付け足した。 「それとは別に、他人の様子が気になる私はですね、最近の社長の顔色がとても気になるのです」 「え」 「最近、ちょっとずつ元気になられてるようですね。この間までそれは酷いご様子でしたが」 「………」 「不思議ですよね。お坊ちゃんが元気になっていくのと併せるようにして、社長も元気になられているようで。会社でも明るいようですよ」 「本当…?」 「ええ」 「……良かった」 田中の言葉にツキトはほっとして笑い、それから言うのを躊躇うような素振りをしてから遠慮がちに呟いた。 「ちゃんと食べようと思ったのは勿論早く良くなりたいからだけど…。あのさ、兄さんと約束するちょっと前に今更気づいたんだ。兄さん、俺なんかよりずっと顔色良くないし、何だか凄く疲れてて…。当たり前だよね、本当なら俺なんかに関わってる暇ないのに。仕事だって大変なのにさ。……なのに俺が勝手な事ばっかり言って」 「絵を描きたいという事が勝手なんですか」 田中のどこか不満気な様子にツキトは笑ってかぶりを振った。 「そうじゃないけど。でも、兄さんの事を何も考えてなかったのは事実だから」 「……社長の事をですか」 「うん……」 言葉はそれほど交わしていないが、ここ数日だけでツキトは太樹の自分への気遣いにさすがに気づき始めていた。厳しいし一方的ではあるけれど、それでも一昔前の兄の面影を重ねるには十分だった。今日は何を食べた、熱はあるか、薬は飲んだのか…。そんな決まりきった台詞だけれど、その節々に痛いくらいの愛情を感じた。太樹は自分を想ってくれている、それがツキトにもよく分かった。家の恥だから、だからお前を探していたのだと兄は言ったけれど、それはきっと違うと今なら思えた。 だからといって兄が無理矢理してきた「あの事」は、未だ消化しきれず胸の内で燻っていたけれど。 体内に仄かな熱を残しながら。 「お坊ちゃん」 「ん」 その時、そんな事をぼんやり考えているツキトに田中が言った。 「折角お坊ちゃんが落ち着いているようなのにこんな事言うのはあれなんですが…。あの人の事はもういいのですか」 「………」 「携帯も私に預けたままですよね。確かに…この部屋に置いたままというのは私も反対なのですが。社長がいつ見つけるとも限りませんし」 「……うん」 「連絡しなくて良いのですか。すみません、私からは何も言う気はなかったのですが」 「ううん、いいんだ。ただ……志井さんとは、もう……」 もう会えないからと言おうとして、けれどツキトは途中で口を閉じてしまった。 一度は認め諦めた事だが、それを声に出す勇気はまだなかった。兄と寝てしまい、絵の為にその他の全ては捨てると決めた今、志井の事は考えてもいけない、それに志井とて「そうしろ」と言っていたからと。 強引にそう思い飲み込もうとはしているのだけれど。 「それと、私が預かっている間にも割と頻繁にあの探偵さんから電話が掛かってきていて。彼も心配なんだと思いますよ、お坊ちゃんの事が」 「あ…上月さんには…ちゃんと報告する。ちゃんと…しっかり決めた事できたら」 「動きがなくても電話してって言われてるんだから電話してあげたらどうです?」 田中はツキトから上月の身の上を聞かされてからというもの、何かと「上月贔屓」だった。ツキトの行動はツキト自身が決めて欲しい、自分は口を出さないからと言いつつも、彼女は結局口を出している。しかしそれも「夢の断念」、「ツキトに過去の自分を見ている」という点において、上月に共感しているせいかもしれなかった。 それから暫くして、田中はツキトの夜のお供…本を探しに行くと言ってマンションを出て行った。 いつもは大抵ツキトの欲しがりそうな物を予測し事前に買い揃えてから部屋へやってくる田中だったが、自分が読書をしないせいか本には考えが及ばなかったらしい。 すぐに帰ってくるからという田中をツキトも何の抵抗もなく見送った。 この事にお互い何の疑問も抱かなかった。 ツキトに自ら部屋を抜け出し無断で家へ帰ろうなどという気はなかったし、絵の事も太樹の許しを得てからと決めていた。田中は田中でツキトにずっとついていろ、目を離すなと言われていても、車で10分もしない書店へ行って帰ってくるのに30分も掛からない。大分落ち着いてきているツキトが再び「家出」をするなど考えられないし、鍵を掛けてさえ行けば太樹と支倉以外この場所を知りようもないここへ誰かが来る心配などないと、どこかで思ってしまっていたから。 けれどその隙をつくかのように、間もなくして突然来訪者を告げるインターホンが鳴った。 「え?」 それが鳴る音は太樹が帰宅する度に聞いた事はあったが、今はなにしろ日中である。兄が帰ってくるわけもなし、田中が鳴らすはずはないとツキトは驚いて横たわっていた身体を起こした。ここは志井と暮らしていたマンションに似ていて、完全オートロック方式で、中の住人が鍵を開けるかしなければそもそも階上へ来る事も出来ない。来訪者とも、それが知己の者でなければインターホン越しに話すだけで事足りる。 「誰だろ…」 兄と田中以外の人間と話していなかったからというのもある。支倉かもしれないという想いもあり、ツキトは割と抵抗なくリビングに出てきて外の者と話せる通話ボタンを押そうとした。 けれど、そうしようとした瞬間、玄関口のドアが二度三度と叩かれた。 「えっ」 完全に意表を突かれてツキトは驚き、ドキリとして音のした方へがばりと身体を向けた。来訪者は下にいるのではない、もうこのドアのすぐ前に来ているのだ。このマンションの住人か、それならば一体何の用なのだろう。 未だパジャマ姿の己の格好を一瞬気にし、ツキトはどうしようと逡巡した。 「ツキト」 「!」 けれどその時だ、ドアの向こうでその声が聞こえた。 「ツキト」 「………な」 幻聴だろうかと一瞬耳を疑ったが、再度聞こえて本物だとすぐ分かった。衝撃でそれこそその場に立ち尽くしたツキトだが、ドアの向こうのその人物は押し殺したような、それでもよく通る声でツキトの名前を呼び続けた。 「ツキト、ツキト、俺だ……。そこにいるんだろう。……開けろ」 |
To be continued… |
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